15 後編 (拓真)
夕方になるこの時間帯は夏の始まりでも時折涼しさを感じさせてくれる。
蝉の鳴き声が少しずつ小さくなり、そしてゆっくりと鈴虫達が歌いだす。そんな風流な音色に耳を傾けながら、俺は一之瀬の家へと向っていた。
電話での一之瀬は少し動揺しているような口調で、何故俺が家に来るのかを何度も問われた。だが、その事実を知ってしまったら俺の計画が全て灰燼へと帰す。それだけは絶対に避けたかった俺は曖昧な事を言って誤魔化した。
でも一之瀬 夏蓮という少女は天才であって、俺みたいな凡人がつく嘘なんかわかってしまうかもしれない。それでもサプライズ的な何かにしたいと思っている俺は誤魔化す選択をした。
まぁ、こんな安物のブレスレットを貰ったところで一之瀬が本当に喜ぶかわからないけどな。
俺は自分の手に持っている紙袋を眺めながらそんな風に思った。
今、自分に何が出来るか。俺が一之瀬にしてやれることなんてとても少ない。そんな少ない選択肢の中で選んだ行動がプレゼントだ。
それで何かが変るというものでもない。ただ俺の独り善がりにになるのかもしれない。それでも、俺は一之瀬に感謝の気持ちをちゃんと伝えたいし、俺が小枝樹家の本当の家族になった事も言いたい。
そして、一之瀬の誕生日の日に伝えられなかった事をちゃんと言う。それが今日の俺に課せられた任務だ。
そうこうしているうちに一之瀬の家の前まで着いた。
本当に何度見てもでかいマンションだ。確か一之瀬の家が40階だったな。つかこのマンションっていくらすんだ? 一之瀬財閥の経済力は一般人には理解出来ないものがある。
そんな事を考えながらマンションに入り、一之瀬に連絡をしてオートロックを解除してもらいエレベーターに乗り込む。
階が高いからなのか、途中から耳抜きをしないといけないのが本当に面倒くさい。でもそれを怠ると耳が痛くてしかたがない。なので俺は毎回、嫌々ながらも耳抜きをしている。
そんなこんなで40階。俺はエレベーターから降り一之瀬宅の扉の前で止まる。そして前来た時の事を思い出した。
確かあの時は勝手に入ってしまい、一之瀬の産まれたままの姿を拝見してしまう事態に陥った。そして俺は一之瀬に言われたんだ。
どうしてインターフォンを押さなかったのかと。
俺は一度した過ちを繰り返さないナイスガイだ。そういう事でポチッな。
俺はインターフォンを押す。そして数秒後。
「はい。どちら様ですか」
「おいおい、下に着いた時に連絡しただろ。小枝樹だよ、小枝樹 拓真だ」
「本当に申しにくいのですが、貴方のような変質者顔の人を私は知りません。という事なのでお引き取りください」
ブツッ
………………。
このクソ女あああああああああっ!!!
怒りを感じた俺はインターフォンを連続で押すという子供じみた仕返しをやり始めた。すると数秒後
ガチャッ
「小枝樹くん。何度も何度も押さなくてもわかるわ。本当に貴方という人は常識がないのね」
扉から俺を睨むように出てきた一之瀬。でもさ、なんで全部俺が悪いみたいな感じの口調で言うかな……。この状況で俺のどこに非があるって言うんだよ……。
もう本当に、この天才少女の考えはよく分かりません……。お手上げです……
「もう、何でもいいから中に入れてください……」
諦めるというのは俺の得意分野。自分でが本当に面倒くさいと思った瞬間に無意識に発動してしまう神がかった業だ。
俺は項垂れながら一之瀬の家の中へと入る羽目になった。
そして一之瀬宅リビング。
何回か来ているからか、俺は一之瀬に何かを言われる前にリビングにある大きなソファーへと座った。
このソファーから見える景色は、だだっ広い部屋の半分とオープンキッチン。それは真っ直ぐに眺めている景色であって、辺りを見渡せば何も置かれていないだだっ広いリビングのもう半分。
窓のほうを眺めれば、高い階だけあってソファーからは空しか見えない。そして俺の目の前にある一人用のソファーに座っている一之瀬 夏蓮。
「それで、どうして急にうちに来ると言い出したの?」
本当にこの天才は用件をストレートに聞いてくる奴だ。もうちょっとクッションを置いて他愛もない会話とかないのかね。
「まぁ、俺にも色々事情があるんですよ」
俺は少し笑みを作り一之瀬に言った。だが、そんな俺の言葉を聞いた一之瀬は誰もがわかってしまう程、俺を睨んでしまっているわけで……。
「そ、そんなに睨むなよ……。あぁもう、俺はただこの間のことで一之瀬にお礼が言いたかっただけだっ!!」
一之瀬の押しに負けてしまった俺は、観念したかのように今日何故来たかを言ってしまった。そして俺は項垂れソファーの背もたれにもたれかかる。そして更に言葉を続けた。
「一昨日の夜、あの神社で一之瀬に背中を押してもらわなかったら、俺はきっと雪菜を見つけられなかった……。つかあの瞬間、俺はもう諦めてた。俺にはもう雪菜を見つけられない、そんな現実が怖くなって全てから逃げ出そうとしてた。でもそんな時、一之瀬が俺の目の前に現れた」
こんな事を言わなくても当事者の一之瀬なら知っている。それでも俺は、もう一度あの日の事をちゃんと思い出したかった。
「俺はもうボロボロだった……。一之瀬の誕生日パーティーでやらかして、挙句の果てには雪菜までいなくなって……。そんな俺に一之瀬は言ってくれたよな?」
あの時の一之瀬の言葉を思い出す。俺の背中を押してくれて、俺の気持ちを救ってくれた言葉を。
「雪菜さんを見つけられるのは貴方しか出来ないのよって……。俺はあの言葉に救われた。そして本当に雪菜を見つけられた。だから、ありがとうって言いたかったんだ」
そう、俺は自分ひとりの力じゃあの状況を打破することが出来なかった。でも、一之瀬がいてくれたから……。
俺は言い終わり一之瀬の方を見た。するとさっきまで眉間に皺を寄せ、怒っている表情を見せていた一之瀬は目見開き、驚いているといわんばかりの表情をしていた。
だが、そんな表情はほんの一瞬で、一之瀬は笑顔になり
「小枝樹くんがそんな風に思ってくれたのなら私も嬉しいわ」
優しい笑顔で俺の事を本当に思ってくれている。そんな風に思えた。でも……。
「……やめろよ」
「え?」
「その笑顔をやめろって言ったんだ」
俺は今日、一之瀬にお礼を言いにここまで来た。でも、一之瀬の無理矢理作った笑顔を見に来た訳じゃない。そんな一之瀬の顔なんか見たくなかった……。
「いったい小枝樹くんは何を言っているの? 今私は貴方が言ったくれたことで素直に喜んでいるよ? なのにどうしてやめろなんて言われなきゃいけないの」
俺が言った言葉が癇に障ったのか、一之瀬の表情はさっきよりも強く俺を睨んでいた。
「誕生日パーティーの時、一之瀬が心から笑っていないことを俺は気がついていた。それはどうでも良いやつらにも笑顔を見せなきゃいけないからだ。それが一之瀬財閥次期当主の一之瀬夏蓮の役割だってわかってる。でも、今一之瀬が俺に見せた笑顔も同じだった……。なぁ、どうしてそんな笑顔になる!? 俺は一之瀬のそんな辛そうな笑顔、見たくない……」
俺は知っている。一之瀬の本当の笑顔は、不器用で馬鹿みたいで、それでも一之瀬の心を表すよな無邪気な笑顔なんだ……。
そして俺は手に持っている紙袋を強く握り締めた。
「どうして貴方にそこまで言われなきゃいけないの。貴方に私の何が分かるって言うの!? 貴方は私の事を知っているような口ぶりで話すけど、私の事なんて全然わかっていないわ」
俺を睨みつけながら言う一之瀬に俺はどこか違和感を感じていた。でも、今言っている事が一之瀬の本心なのだとすれば、完全に俺の勘違いになってしまう。でも、やっぱり今の一之瀬はどこか変なんだ。
「確かに今の俺の言葉は、一之瀬の事を理解しているような口ぶりだったかもしれない。その事で癇に障ったのだとしたら謝る。でも、やっぱり春から見てきた一之瀬の笑顔はもっと単純なものだったって思ってる俺もいる。だから、俺には今の一之瀬が嘘をついてるようにしか見えないんだ」
「わかったような事を言わないでっ!!」
一之瀬の声が部屋中に響き渡る。その声は壁で反響し、こだまするかのように俺の心へと伝わってきた。
「私が本当に笑っていない……? そんな事、私が一番よく分かっているわよっ!! どうやって笑えばいいのよ……、何も邪な思いがないままどう笑えばいいの……?」
瞳に涙を浮かべる一之瀬は俺に何かの答えを聞きたい様子だった。でも、今の俺はその問いにちゃんと答えることが出来なくて……。
「どうしてだよ。一之瀬はちゃんと笑えてたじゃんかっ!! 一学期の時、俺等と一緒にいて無邪気に笑ってたじゃんかよっ!!」
「楽しかったからに決まっているじゃないっ!!!」
大声で叫び、一之瀬は少し息を切らしている。そんな状況でも、一之瀬は言葉を紡ぎ続ける。
「楽しかったのよ……。皆でいるのが楽しかった……。あんなに楽しい事なんか全然なくて、こんな私を友達だと思ってくれる人達が沢山いて、凄く嬉しかった……。でも、私の誕生日パーティーに小枝樹くんを誘って、私が期待したせいで小枝樹くんが倒れて……。その時感じたわ、私が関わる人は不幸になってしまうって……。兄さんだって、私のせいで死んでしまったから……」
今までに見たことのない一之瀬の泣き顔。大粒の涙を沢山零しながら、自分の責め続ける。そんな一之瀬を見て俺は思う。
コイツは今でも独りぼっちなんだ。
どうすれば今の一之瀬を救えるのか俺には分からない……。それがとても歯痒くて辛い……。
そして、俺は一之瀬に何も言い返せないまま、一之瀬は言い続ける。
「もう笑えないわよ……。私は笑う権利も友達を作る権利もない……。皆を騙している私には何かを求める資格なんてない……。それに、私と居たら皆が不幸になる。そんなの嫌……、もう大切な人を失いたくなんてないっ!!!」
一之瀬の言葉が俺の心に突き刺さった。
コイツは大好きな兄さん亡くしていて、家族にだって歯車と思われている。そんな奴が、大切な人を作るのなんて難しい事だって俺はよく知っている。だって一之瀬は
俺とよく似ているから……。
大切な人を失いたくないから、何も関わらない。大好きな人たちに笑っていてほしいから、自分が傷つく。それが正しいなんて俺は思わない、でも俺にはそんな一之瀬を止める資格がない……。俺だって同じような感情に苛まれたから……。
この感情は間違ってはいない。それでも、俺は一之瀬に何か出来ないであろうか……。
「なら笑わなくてもいい。一之瀬が本当に笑いたい時だけ笑えばいい。一学期の時、楽しかったから笑ったって言ってよな? ならきっと一之瀬は笑えるよ。嬉しかったり、楽しかったりした時は何も考えなくていいんだ。自分の感情に素直になって、そして、笑えばいい」
俺に言える事なんかこれくらいだ。誰もが言える当たり前のような曖昧な言葉だけしか、今の俺には言う事が出来ない……。こんな言葉で一之瀬を救えるなんて思ってない。それでも、ないよりかマシだという言葉がある。
無理矢理に笑顔をつくる場面なんて人生には沢山ある。それでも、本当に笑っているかのように嘘の笑顔を俺のまではして欲しくなかった……。
そんな風に言っている俺も苦笑いを浮かべ、一之瀬に言っている時点で矛盾している。だからこそ、それが正しいと思っているわけではないと俺は伝えたい。
「一之瀬が大切な人をなくした事実は聞かされたから知ってる。そして背負いたくまない重荷を背負わされているのも知ってる。でも、それだけなら一之瀬財閥次期当主の一之瀬 夏蓮はいるけど、俺の友達で天才で阿呆な事ばっかりして、凡人の事を労わりもしないで勝手に依頼とか持ってきて、でもそんな凡人に肝心な所を期待してしまう普通の女の子の一之瀬 夏蓮はどこにいるんだ?」
そう、俺の知ってる一之瀬 夏蓮は俺の目の前にいる人物ではない。
「苦しんでもいいんだ。誰かに迷惑をかけてもいいんだ。そんな風に雁字搦めになってもがいていても、きっと救ってくれる人がいる。俺はそう、信じたい」
これは俺の弱さが具現化してしまった言葉だ。自分を守るために、自分の願いを他者に押し付けているだけなんだ……。
俺は一之瀬の言葉を待った。でも、その言葉は俺が思っていた言葉はとはかけ離れているものだった。
「何が苦しんでもいいよ……。何が迷惑をかけてもいいよ……。何が、俺は信じたいよっ!!!」
立ち上がり一之瀬は怒号を上げる。
「私は苦しみたくなんてないのっ!! 迷惑だってかけたくないのっ!! 一之瀬財閥の次期当主とかじゃなくて、大切な人たちに苦しい思いをしてほしくないのよっ!! 私はね……、自分がどんなに惨めになってもいいの……。ただ、一緒に笑ってくれる誰かかが幸せであれば」
頬から涙を流しながら一之瀬は微笑んだ。その笑顔が偽りのものではないと俺は気がつく。だからこそ俺は一之瀬に笑っていてほしい。
「それだけ誰かを想えるなら一之瀬は笑えるよ」
「だから私は━━」
「これ、一之瀬の為に頑張って選んできたんだ」
俺は一之瀬の言葉を遮りながら、手に持っていた紙袋を前に出す。
「一之瀬に喜んでもらえるかはわからないけど、俺なりに頑張って選んできた」
「……なに、これ?」
「ここに来た時俺は言っただろ? 一之瀬にお礼がしたいって。これが俺の気持ちだ」
涙で顔をクシャクシャにしている一之瀬は、俺が持っている物を不思議そうな目で見ている。そして俺は思う。
こんなにも苦しんでいた一之瀬には最高のプレゼントを俺は選んだと。
「言葉だけじゃ悪いと思ってさ、ちゃんと形になるものを選んできたんだ。まぁ、安物だから一之瀬が喜ぶかどうかわからないけどな」
そう言い俺は一之瀬に紙袋を手渡す。
紙袋を手に取った一之瀬は、自分でもっている紙袋を見つめ、そして俺に問う。
「開けてもいいか……?」
「好きにしてください」
俺は微笑み、一之瀬の行動を見守った。そして紙袋に張られているテープを剥がし、一之瀬は袋の中に手を入れる。
ゆっくりと袋の中から取り出されるブレスレット。その銀細工がお目見えになり、俺は一之瀬に言う。
「そのブレスレットってどんな願いも叶うんだってさ。だから選んだ。一之瀬の願いが叶いますようにって」
「……私の、願い?」
「ほら一学期の時に言ってただろ? 一之瀬の才能がないものを見つけるってやつ。あと、俺等と一緒に卒業するってやつだ」
一学期の時、俺が一之瀬の願いを叶えるって約束した。なのにもかかわらず、こんなオカルトじみた物に頼ってしまう俺は、本物のヘタレだ。だけど、それだけ一之瀬の願いを叶えたい俺の想いは真剣で、コイツはこれ以上、悲しまなくていいと本気で思ってしまっている。
一之瀬はブレスレットを見つめたまま何も言わない。だから俺は一之瀬に言い忘れていた事を言おうと思った。
「今回のそのプレゼントはお礼をしたいって思ったから買ったものだけど、もう一つちゃんと意味があるんですよ。ホームズさん」
俺は一学期の時のホームズ一之瀬のネタを引っ張り出し、微笑を浮かべながら言う。
「あの日にちゃんと言えなかったから……。誕生日おめでとう、一之瀬」
確かに俺は一之瀬にお礼が言いたかった。でも今、おめでとうって言って思った。俺は一之瀬の誕生日をちゃんと祝いたかったんだ。
ポタッポタッポタッ
一之瀬の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「おいおい、どうしてそこで泣くんだよっ!? あれ? 俺なんか間違えたっ!? え、いや、確かにそのブレスレットは安物だけど、でも持てよ、いやいや、えっ!?」
「……くすくす。この涙は嬉しかったから流れているのよ。本当に、貴方がどうしてそこまで他人の事を考えられるのか不思議で仕方がないわ。でも、ぐすんっ、ありがとう小枝樹くん」
泣きながら言う一之瀬は俺が知っている笑顔を浮かべていた。その笑顔はお世辞にも綺麗とは言えないもので、天才少女の崩れた顔を見ている俺は素直に思った。
これが本当の一之瀬 夏蓮なんだ。
財閥だとか、跡取りだとか、天才だとか関係ない。一之瀬 夏蓮という普通の女の子。
「それで、一之瀬はそのブレスレットに何をお願いするんだ?」
俺は殆ど分かりきっている質問を一之瀬に投げかける。そして一之瀬は俺がプレゼントしたブレスレットを腕につけながら言う。
「そんなの決まっているじゃない。ずっと、皆といれますように……」
目を閉じながら一之瀬は言った。自分の願いをブレスレットに届けるように。そして俺も思う、一之瀬の願いが叶いますように。
「さてと、俺はそろそろ帰るぞ? おい一之瀬、泣いたせいか顔が天才少女に全く見えない状態になってるからどうにかしたほうがいいぞ」
俺はソファーから立ち上がり、一之瀬を罵倒する。こんなに弱っている天才少女にエンカウントする事なんか珍しいからこそ、俺はここぞとばかりに罵倒する。
「目が赤くなってて目元がパンパンだ。凡人の目の前で大泣きした感想はどうだ? 悔しいか? まぁ、一之瀬の気持ちが少しでも楽になってるなら俺は嬉しいけどな。それじゃ、俺はこのへんでおいとまさせていただきます」
リビングから廊下に続く扉へと俺は手をかける。すると
「小枝樹くんっ!」
急に立ち上がった一之瀬は俺の服の裾を手で掴みながら、
「お願い、もう少し私の傍にいて……」
その言葉を聞いて俺は振り向く、そこには俯いている一之瀬の姿。そんな一之瀬を見て、少しドキドキしてしまっている俺がいた。
「……はぁ。なぁ一之瀬、俺はここの家の主人ではない。という事は帰るか帰らないかの選択は俺に委ねられている。もし、そんな俺に帰らないという選択をさせたいのなら、客人の俺にお茶の一杯くらい出してくれないか?」
俺は一之瀬の顔を見て、悪戯に言ってみた。
「……もう。本当に貴方っていう人は」
そんな俺の言葉に呆れたのか、涙が乾いてしまってカピカピになってしまった顔で俺に微笑みかける一之瀬。そして一之瀬はキッチンへと向かっていった。
翌日。
朝の生暖かい空気。カーテンが閉まっているせいか、部屋の中は蒸していてとても熱い。俺はすかさずエアコンをつける。
そして数秒後、とても涼しい風が俺の部屋の中を優雅に泳ぎまわる。そんな風の政令の加護を受けた俺は、寝起きの固くなってしまった身体を伸ばす。
伸ばし終わった後、俺は息を一つ吐いた。そして、今日という一日を始める為のカーテンを開ける。
シャーッ
カーテンを開けた瞬間に差し込む眩い光。夏の日差しはとても近くに感じて、熱くて面倒くさい。それでも、この日差しがあるからこそ前向きになれる人間もいるのかもしれない。
エアコンの涼しさが半減してしまうのは覚悟のうえ。俺は窓を開ける。
一瞬にしてモワッとした空気が寝起きの俺に襲い掛かる。これが夏の洗礼だと俺は知っているのにもかかわらず、この空気を感じなきゃ起きた実感が湧かない愚か過ぎる俺。
そして俺は空を見上げた。夏の空に相応しい晴天。雲一つない青いこの空はとても輝いて見えた。こんな風に思えたのは何年ぶりだろうか。
寝起きの冴えない頭で色々と思考してみる。
俺は6年前、家族に裏切られた。それは全て俺の幼すぎる考えが引き起こし出来事だった。俺はその時から何もかもを失ってしまったと思っていた。
だが、高校に入学してアン子にある教室の鍵を渡された。
何かが変るとは思っていなかった。それでも興味がその思考を上回ったのか、俺はB棟三階右端の教室へと足を運ばせた。
そして俺は出会った。何もなく、自分のだけの空間に……。それからの俺はその場所に足を運ばせ続けた。
放課後、あの場所で色々と考えているうちに俺の思考は変化を見せた。
何もかもを受け入れなくて、全てを拒絶してしまった俺はあの教室から見える夕方の景色で思えたんだ。
そう、何かが見えるわけでもない。何か特別な景色な訳でもない。俺がB棟三階右端の教室から見た景色は、
ありふれた普通の景色。
何度も見ているうちに思えた。俺はきっとこの世界の一つなんだと。それがどんな意味を持っているのかまでは未だにわからない。それでも、俺だってこの世界に生きていて、ここに存在しているのだと思えた。
だから俺はもう一度、偽りでも笑うことが出来たんだ。
そんな自分だけの空間に異物が紛れ込んだ。そいつの名前は、
一之瀬 夏蓮。
俺が尤も忌み嫌っている天才で、俺の大嫌いな存在。そんな彼女が俺の神域を侵してきた。それから、俺は一之瀬と行動を共にするようになった。
そして少しずつ見えてくる一之瀬 夏蓮という人物。俺が思っていたような天才ではなく、本当にバカで無邪気で、意味不明なことを簡単にしてしまう、普通の女の子だって思った。
でも、一之瀬 夏蓮は紛れもなく天才で、何もかもを天から授けられた人間なんだと思う。
そんな天才が嫌いだったのに、俺はいつの間にか一之瀬のペースに乗せられているのか、一之瀬のことが心配だと思ってしまっていた。
何もかもを上手く成し遂げてしまう天才に、凡人の助力なんて必要なのか。そんな疑問は何度も頭の中をよぎっている。それでも俺は、一之瀬のことが心配で、アイツを一人にしていたくないと思ってしまっている俺も確かにいた。
そして俺は一之瀬とは違う人物の言葉を思い出す。そう、それは
『貴方は選ばなくてはならない』
一之瀬家の執事。後藤という初老の男の言葉だ。
俺は何かを選ばなくてはいけない。そんなの人生を生きていくにあたって絶対に訪れる試練だという事はわかっている。それでもあの男は俺に言った。
『誰も傷つかない未来なんてない』
俺はこの言葉を間違っているって思っている。だってそうだろう、この世界に生きている人間は傷ついていいわけはない。誰もが笑っていられるる世界があってもいいはずだ。
なのに、俺は後藤の言葉を完全に否定できない部分がある。それは
誰かが笑っていられるなら、俺は傷ついても良いって思っているからだ。
そんな思考を浮かべてしまったのなら俺は認めるしかないだろう。誰も傷つかない未来なんてない。そこまでわかっているからこそ俺は言ったんだ。
俺は誰も選ばない。
そう、俺は誰も選ばない。何故、そんな答えを出したのか。誰も傷つかない未来なんてないと分かっているのに、どうして俺は誰も選ばないのか。そんなの簡単だ、
俺が傷つけばいい。
一之瀬は俺のあげたブレスレットに願ってたな。ずっと皆でいられますようにって……。その『皆』に俺も入っているのかな……?
もしそうなら、一之瀬の願いは叶わないのかもしれない。だって俺は━━
「お兄ちゃーんっ!! もう朝ご飯できてるよっ!!」
一階からルリの声が聞こえる。俺はその声に返事をする為、部屋の扉を開けた。
「わかった。すぐいく」
ルリの言葉で完全に目が覚めた俺は、一階へと降りていった。
リビングの扉を開ける。そこには
「もうお兄ちゃん遅いっ!! あたしお腹ペコペコだよっ!」
炊けたご飯のいい香りに味噌汁の匂い。ベーコンを焼いているのか少し油っぽい食欲をそそる香りと卵の少し焦げた匂い。
リビングのテーブルに座っているルリと、新聞を読んでいる父さん。そして、せっせと朝食を運んでいる母さん。
「ほら拓真、早く座りなさい。ご飯は普通によそって大丈夫かしら?」
「もうお兄ちゃん……。あたし達は夏休みだけど、お母さんとお父さんは普通に仕事なんだよ?」
俺は母さんに急かされ、ルリにも急かされながら椅子に座った。
「おい拓真、お前宿題はちゃんとやっているのか? お前はうちの長男なんだ。しっかり勉強してちゃんとした職についてもらわないと困る」
「おいおい父さん。職の件は追々にして、宿題の件はルリに言ったほうがいいぞ。ちなみに俺はもう殆ど終わってる」
「ちょ、お兄ちゃん余計な事言わないでよっ!!」
きっと俺はこんな風景を、日常をずっと夢見てきたんだ。永遠に手に入らないと思っていた大切な空間。
俺が孤児になってしまった時からずっと憧れ続けてきた空間。そんな空間を俺は確かに手に入れていた。でも、そのんな大切な空間を俺が自分で壊してしまった。
温かいくて優しくて、たまに喧嘩とかして怒鳴りあって、それでもちゃんと心は繋がっている。それが家族なんだ。
「もう、拓真の起きるのが遅いから時間ギリギリじゃない」
「だったら先に食ってても良かったんだぞ?」
母さんが忙しく席に着く。そんな母さんの言葉に俺は反論を返すが、
「何言ってんの。これからは皆でご飯を食べるのよ。まぁ、お父さんが決めたことなんだけどね」
俺は新聞紙で隠れて見えない父さんの方へと顔を向けた。なんとなくだが、新聞越しでも伝わってくる。父さんが照れている事が。
俺は6年間、この家には居場所がなかった。それは自分せいだと理解しているし、父さんと母さんを責めるつもりはない。
ただ自分の心の弱さが招いてしまった現実だ。それを知っているからこそ、俺は素直に言える。
「ほらお父さん、新聞なんて読んでないで早く食べましょ」
母さんに言われ、父さんは新聞をたたんだ。
そして俺はもう一度、いややっと小枝樹家の家族になれたんだ。俺はこの瞬間をずっと待っていたんだ。
俺は神に祈りを捧げるように手の平を合わせた。そして
「「いただきます」」
家族が一つになった瞬間だった。
どうも、さかなです。
今回で第三部完結という事になります。
次回からは第四部の夏休み後編をお楽しみ下さい。
それでは、さかなでした。