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天才少女と凡人な俺。  作者: さかな
第三部 夏休み 求メラレル選択
38/134

13 後編 (拓真)

 

 

 

 

 

 もう後悔はしたくなかった。誰にも悲しんで欲しくなかった。それが自分のワガママだとは分かっている。それでも、一之瀬のあんな顔は見ていたくないと思ったんだ。


「おい拓真っ! 何をしに行くっ!」


「そんなの一之瀬の隣に居る為に決まってるじゃないですか」


自分の感情も自分の意思も、今の俺にはもう止められない。それが今の最善の行動だと思っているから。だから俺は一之瀬の隣に行く。


「ふざけるのもいい加減にしろっ!! こっちへ来いっ!!」


一之瀬の場所まで歩みを始めた俺の体を止める春桜さん。力一杯俺の腕を引っ張る春桜さんの気持ちに、俺は逆らうことが出来なかった。



 ホテルの中庭。春桜さんに連れられ、俺は今誰も居ない中庭に来ている。


会場の華やかさと同等に綺麗な夜空の煌き。美しく切り揃えられた木々達に、自分達の生き様を精一杯露わにしている花々。


俺はそんな綺麗な場所とは正反対の気持ちで埋め尽くさせそうになっている。


「離して下さいよ、春桜さん」


自分の手を離すよう要求する俺の言葉を無視し、春桜さんは歩き続けた。そんな春桜さんの態度に、今の俺は感情を止める事が出来なくて。


「……離せって言ってんだよっ!!」


掴まれている腕を、俺は無理矢理振りほどいた。その瞬間、春桜さんが俺の方へと体の向きを変える。そして


バチンッ


何かを叩く大きな音と共に、俺の頬を刺すような痛みが襲う。自分の頬を手で押さえ、俺は今の現状を把握しようと必死に頭を動かした。


「これで少しは冷静になれたか」


今の俺を睨みながら春桜さんは言う。そんな春桜さんがこそが俺の頬を叩いた張本人だ。そんな春桜さんは俺に語り始める。


「どうして拓真がそんな風になったかは知らん。それでも、夏蓮が今の貴様を必要としていない事だけは分かる。だが━━」


俺は春桜さんのビンタで少しは冷静になれていた。そんな状況で聞かされる春桜さんの言葉が、今の俺の心には深く突き刺さる。


それでも俺は今の自分の意思を肯定する為に最善を尽くすことになった。


「あの瞬間に夏蓮の所に行ってどうするっ!? あの場所には父様……、一之瀬 樹もいるのだぞ!? 他の奴等の目を誤魔化せたとしても、父様の目は誤魔化せない……」


「そんなのやってみなきゃ分からないじゃないですか」


春桜さんを睨みながら言う俺に、春桜さんも負けじと睨み返してくる。


「そんなもの、やらなくても分かっている事だ。貴様に父様を騙せるほどの技量はない」


睨み言う春桜さんの言葉に怒りをおぼえた。身体がプルプルと震えて、自然と拳を強く握ってしまっている。でも、それでも、俺は一之瀬の隣に行かなきゃいけないんだ。


「なら、一之瀬 樹を欺ければ良いんですね。そうすれば俺は一之瀬の隣にいても良いんですね」


外はとても静かなのに、会場からはとても賑やかな音が聞こえてくる。その音を聞いて俺は思った。


きっと会場ではダンスが始まっている。あのひらけた空間はこの為のものだった。そう考えれば納得できる。この機会に乗じて、一之瀬 樹を欺く。


「会場に戻りましょう春桜さん」


「おい待て、話はまだ終わってはいないぞ!!」


「春桜さんの疑問も、春桜さんの疑念も、会場に戻れば俺が全てなくしてあげますよ」


俺は苦笑を浮かべながら春桜さんに言う。そんな俺の表情を見たからなのか、はたまた俺に呆れてしまったのか、春桜さんは黙って俺と一緒に会場へと戻っていった。





 会場の中はとても盛り上がっていた。下品な声を上げるでもなく、酒を浴びるように飲んでいるわけでもない。あくまでも上品に楽しんでいる著名人達がそこにはいた。


ひらけた空間でダンスを踊っている人達を見て楽しんでいる。全てが華やかで、今から俺がしようとしている事が、本当に成功するのか疑問に思ってしまっていた。


そんなネガティブ思考でいる最中、俺と春桜さんに近づいてくる一人の金髪少女。


「もう、いったいどこに行っていたのですか春桜姉様。あ、拓真の事は何も心配して無いから大丈夫だよ」


……何も大丈夫じゃねぇだろっ!! どうして一之瀬家の女はこうも俺を軽視するんですかねっ!? つか菊冬まで俺をぞんざいに扱うなんて……。つか、今までの俺のシリアスを返せっ!!


それでも少し気持ちが楽になった気がする。


「おい菊冬。その持ってる飲み物もらうぞ」


「え、あ、うん。春桜姉様に頼まれて持ってきたやつだからいいけど」


俺は菊冬が持っている飲み物を一気に飲み干した。


その飲み物の味は、フルーティーな味わいで飲みやすくさっぱりしているものだった。俺はこんな美味い飲み物を人生で一度も飲んだことがない。


「これ美味いな。春桜さんのも貰いますね」


喉が渇いていたせいか、俺は菊冬が持っていた春桜さんの分の飲み物まで一気に飲み干した。


確かに美味いのだが、どうしてか二杯目を飲み干したら身体が熱くなるのを感じた。まぁ、今からやろうとしている事に緊張しているのだろう。


俺はその飲み物を流し込み、一之瀬の場所へと向った。


「あの馬鹿は……。自分が何を飲んだか分かっているのか……」


一瞬、呆れた表情を浮かべる春桜さんが見えたような気がした。




 俺が春桜さんと菊冬と居た場所の正反対の所に一之瀬はいる。そして今の一之瀬の隣でエスコートしているのが間違いなく一之瀬 樹であろう。


粗相が無いように気をつけなきゃいけない……。何て今の俺が思うわけもない。


俺は歩きながらそう考えていた。そして一之瀬の所まで行き


「小枝樹くん!?」


俺が言葉を発するよりも先に一之瀬が俺の名前を呼んだ。このタイミングで来るとは思っていなかったらしく、一之瀬は驚いた表情を浮かべていた。


そして何よりも、一之瀬の周りいた著名人達が一斉に俺の事を見て、敵意を感じていた。


「ごめんな一之瀬。話し相手がいなくて来ちゃったよ」


「話し相手がいないって、今の今まで菊冬と姉さんと話していたじゃない」


こんな時まで俺の事を見ていてくれていたのか……。


その言葉はとても嬉しく、今の俺に勇気をくれた。絶対に一之瀬が楽しいと思える誕生日にしてみせる。だが、その思いもある人物によって壊せかける。


「君が夏蓮の呼んだボーイフレンドの小枝樹くんかい?」


一之瀬の横でエスコートをしていた男が俺に話しかけてきた。そう、この男が一之瀬 樹だ。


成人した子供がいるとは思えないほど見た目は若い。白のスーツを着こなし、とても愛想の良い人間だと感じた。短髪をオールバックにセットした髪型、思っていたよりも声は高く、何度も言うが本当に成人した子供がいるとは思えない。


だが、見た目は優しい感じに見えるが腹の中は黒ずんでいて自分のことしか考えていない最低な人間なのだと俺は思い出す。


それでも俺は、一之瀬に迷惑をかけてはいけない、春桜さんに言った証明をする為にこの男に負けじと自分の汚い力を使う。


「始めまして小枝樹 拓真と申します。この度は夏蓮さんのご好意に甘え、この様な素晴らしい会にお招きされた事を光栄に思っております」


俺は一例をし、一之瀬 樹への挨拶を済ませる。


「やはり君が小枝樹くんだったか。夏蓮が選んだ高校には疑問を抱いていたが、君のような礼節を重んじる学生がいるとは思わなかった。夏蓮のボーイフレンドとして相応しい振る舞いだ」


褒められているのか見下されているの、一之瀬 樹の表情はこの場にそぐわないものの為に、俺には真意が分からなかった。


それでも、俺が作戦に変更はない。


「このような機会で一之瀬家当主の樹様にお会い出来るのは恐悦至極に御座います。僕のような凡夫がこの場に居合わせる事すら他の方々に迷惑をかけている事でしょう」


そう言い、俺は周りにいる人達にへと視線を向ける。さっきまで俺の事を睨んでいたり、敵意を剥き出しにしていたり、興味がなかったりしていた人達は、今の俺の姿を見て目を逸らしていた。


一之瀬の言った敬遠。ここにいる奴等にはこれで十分だろう。だが、一之瀬 樹はきっとまだ俺を疑っている。


「なので、僕が樹様に申し上げるのはとても不愉快に感じてしまうかもしれませんが、どうか少しの間、僕に夏蓮お嬢様をお貸ししてくれませんか」


俺は一之瀬 樹の瞳を見ながら言った。少しでも逸らせば俺の真意にこの人は気がつく。そんな俺と視線が合っている一之瀬 樹の表情は何一つ変わらなかった。


だが、周りにいた人達はざわつき、小声で俺の事を罵倒している。それがどのような効果があるのかは俺のには分からない。きっと離れた所で見ている春桜さんは冷や汗ものだろう。


そして、一之瀬 樹が口を開いた。


「すまないね小枝樹くん。今は親交の深い人達の所へ挨拶をしている。この状況下で夏蓮を連れて行かれては私も困ってしまう」


俺の言葉を否定し今の自分の状況、そしてこれからしなくてはならない事項まで言ってきた。普通なら一之瀬を連れて行きたいあまりに暴挙に出てしまう人間もいるだろう。でも、俺にとってこの状況は想定内だ。そして、絶対に一之瀬 樹が反論できない言葉を俺は持っている。


「確かに今の状況下で夏蓮さんをお誘いになるのは無礼だと分かっております。ですが、せっかくダンスの為の音楽が流れているのです。招待されたのにこのまま夏蓮さんをエスコートもせず、ダンスも踊らず帰ってしまったら僕はこの会場にいる皆様の笑い者になってしまいます」


俺は言葉と言葉の間に一瞬の間をあけた。そして


「その意味が、樹様でしたらお分かり頂けるかと」


俺が言い終わった刹那。一之瀬 樹の表情が俺を睨みようの顔になった。


きっと一之瀬 樹は俺の真意を理解している。そう、何もしないでこの会が終わったら、俺を呼んだ一之瀬 夏蓮ですら笑い者になる。そしてこの会に出席した人達は陰ながら言うだろう。


『一之瀬家の次期当主はこんなものか』


だからこそ、一之瀬 樹は俺の頼みを断れない。親交の深い人達への挨拶を遅らせても、体裁を守りたい。


一之瀬財閥という大きな存在だ。小さな事でも失敗は許されない。ましてや自分の娘の誕生日パーティーだ。こんな祝い事の席で醜態は見せたくないだろう。さぁどう出る、一之瀬 樹。


「小枝樹くん、君はとても面白い子だ。現状をすぐさま把握し、自分が出来る最大限の力を発揮できる。とても頭のよい優れている人間だ。だがね、小枝樹くんは何か勘違いをしているようだ」


俺を見ながら一之瀬 樹は微笑んだ。そして


「パーティーは、まだ始まったばかりだよ。ダンスを踊る機会も、夏蓮をエスコートする時間もまだまだ沢山ある。ここまで言えば、私が何を言いたいのか君になら分かるよね」


確かに一之瀬 樹が言っている事は間違ってはいない。一之瀬がこの会に登場してから一時間も経っていない。俺が一之瀬をエスコートする時間なんていくらでもある。


どうして俺はこのタイミングで仕掛けた。もっと効率の良いやり方なんかいくらでもあったのに……。


『何をそんなに焦っているんだ』


春桜さんの言葉が脳裏をかすめた。


俺は焦ってるのか……? でも、何で焦ってる……? 何に焦ってる……? 


俺の頭の中では、今の自分の状況も考えも全く分からなくなっていて、それでも一之瀬 樹から目を背けられない。今目を背けたら、俺だけじゃなく一之瀬にもきっと迷惑がかかる。


でもなんだこの違和感。身体が熱くなってきているというか、気持ちがフワフワとしてきているというか……。もう、よくわかねぇや……。


「拓真、もうそのくらいにしておけ」


俺の腕を掴み、制止してきたのは春桜さんだった。そんな春桜さんの方を向いた瞬間に少し身体がふらついた。


「それに、さっき貴様が飲んだのは━━」


ヤバイ、なんか立ってられない……。


バタンッ





「……ん、うぅ」


ここはどこだ。


確か俺は一之瀬の誕生日会に来ていて、一之瀬が全然笑ってなくて、期待されて、一之瀬 樹に喧嘩売って……。だめだ、頭がグラグラする。


朦朧としている意識の中、俺は今自分がどんな場所に居るのかを把握しようと辺りを見渡した。


明りが点いていないせいか、はっきりと見えないが、ホテルのような場所に俺はいる。自分が今まで寝ていたベッドはフカフカで少し高級感のある質感だった。


その感覚を体で感じた俺は、辺りにあるものが俺の知っているホテルとは違うものだと認識する。


俺が泊まった事のあるホテルはいたって普通で、この部屋にあるような壷みたない物とか、頭上にあるシャンデリアのような物は無かった。


フワフワとした意識で俺は思ったのは、これがスイートルームか。


もしかしたら俺は夢を見ているのかもしれない。一之瀬の誕生日パーティーなんか本当はなくて、俺は雪菜と喧嘩もしてなくて、目が覚めればまだ二年の春が始まる前に戻る。


いや、レイを裏切ったあの日よりも前に戻るんだ……。


「目が覚めた? 小枝樹くん」


暗闇の中で俺に声をかけてくる女。俺はその人物を認識できないでいて、誰が俺に話しかけているのか分からなかった。


でも、今のこれは夢であって、現実じゃない。現実って言うのはこんなにもフワフワしていないからだ。


「大丈夫?」


俺に話しかけてきている女が俺へと近づき、俺ははっきりとその女の顔を見ることが出来た。


「……一之瀬?」


「そうよ。ここは会場のホテルの一室だから、安心して休んでね」


どうして夢の中に一之瀬が現れるんだ? 会場ってなんだ? やっぱり一之瀬の誕生日パーティーに来ていたのは夢じゃないのか……?


優しく微笑む一之瀬 夏蓮。俺が見ている少女はとても美しかった。夢なのか現実なのか分からない。でも、俺は一之瀬に伝えなきゃいけない事があるんだ。


「ごめんな一之瀬。結局俺、一之瀬の期待に応えること出来なかったよ。一之瀬が会場に入ってから、全然笑ってないって気がついてたのに、俺は一之瀬を助けられなかった……」


今の俺は夢の話をしている。いや、現実の話をしている。もう、そんなのどっちだって良い……。


「春桜さんに怒られたよ。つーか、春桜さんにビンタもされた。それでも俺はあの時、一之瀬の隣に居たかった……。俺だったら一之瀬 樹をどうにか出来ると思った」


あれ……? なんだろう、一筋だけ涙が流れた。


「俺はただ、純粋に一之瀬の誕生日を祝いたかった……。一之瀬が楽しいって思える誕生日にしたかった……。誰かを利用することしか考えてないあんな奴等と、一之瀬を一緒にいさせたくなかったっ……!!!」


自分で言って分かった。あれは現実だったんだ……。


そうだ、俺は一之瀬 樹と言い合って負けた。それで春桜さんが俺を止めに来てくれて、そこから記憶がない。


「ありがとう小枝樹くん。そして、本当にごめんなさい……」


俯く一之瀬。


「私は本当に貴方に期待したわ。貴方なら父様をどうにか出来ると本気で思ったから……。でも、これじゃただの他力本願なのよね……。自分でどうにも出来ないから、小枝樹くんを利用した……。それでも、小枝樹くんは私を考えてくれて、私の表情まで見てくれていて、私の気持ちを一番に思ってくれていた……」


俺は一之瀬を見つめながら話を聞き続ける。


「私はそれだけで十分よ」


瞳に涙を沢山溜めながら一之瀬は言った。いつもみたいな不器用な笑顔で……。


「違う……。違うんだよ一之瀬。俺はもっと出来た、きっと一之瀬 樹は俺の本質に気がついてる……。でも怖かったんだ、俺の本質が一之瀬にバレるのが怖いんだよ……。ずっと隠してきてる。一之瀬が思っているような人間じゃ、俺はない」


俺は一之瀬の頬に触れ、強く見つめ言った。


「なら、ちゃんと教えて……? 私はどんな貴方も受け入れるわ。それが例え、私が傷ついてしまう真実でも……。だって、私も小枝樹くんに言えない事くらいあるのよ……?」


一之瀬が俺に言えない事……?


「だから、私には教えて……? 私は小枝樹くんを知りたいの」


一之瀬の顔が俺に近づいてくる。フワフワとした感覚があり、美人の一之瀬の顔が近づいてきたら俺は、どうにも出来ない。一之瀬に、自分の事を全部言おう……。


「一之瀬……、俺は━━」


ドクンッ


一瞬、心臓が跳ね上がった。その鼓動を感じ、俺は我に返ることが出来た。


俺は今、何を言おうとしていた……? 俺の真実を一之瀬に言えば全部がなくなってしまうのに……。


「悪い一之瀬」


冷静になれた俺はベッドから立ち上がり


「今日はもう帰るわ」


そう言い残し、俺は部屋から出て行った。





 乱れたスーツ、グシャグシャになった髪の毛。今の俺はあまりにも情けなくて、とても醜かった。


ホテルに一之瀬の置いてきたのも、俺の真実を話せなかったのも全部俺の弱さだ。最初から分かってたんだ、俺が一之瀬の期待に応えることなんか出来ないって……。


結局また、一之瀬の独りぼっちにしてしまった……。俺のせいで、誰かが傷ついていく。


今の俺だろうが、昔の俺だろうが、誰かを傷付けるのには変わりないのかもしれない……。それでも俺は、誰も傷つかない未来を求める。たとえ、自分がどんなに傷ついても……。


綺麗に輝いていた星も月も雲に隠れてしまい、今の俺を照らすのは人工的な明りだけだった。


「その様な扱いをしてはスーツが可愛そうですよ」


俺に話しかけてくる男。俺はその男の事知っていて、その顔を見るだけで少しの怒りを感じる。


紳士的なスーツ、いや執事って言ったほうが分かりやすい。そんな服を身に纏っている白髪の男。その男は俺を見ながら微笑んだ。


「お久し振りです小枝樹様。菊冬お嬢様の時はとても助かりました」


男は綺麗にお辞儀をし、前にあった事への感謝を俺に伝える。だが、そんな男を見ていて俺の気分は悪くなる一方だった。


「えっと、後藤とか言ってたよな。それで、何しに来たんだよ」


「これはこれは、私の名前を覚えてもらえていたなんて、とても感激です」


執事の後藤はが睨んでいるのにも関わらず、笑顔のまま再び感謝の言葉を並べた。そんな後藤の姿を見ていると本当に苛々してきた。


「んな事はどうでもいい。何しに来たのかって俺は聞いてんだ」


「これは失敬。ですがその前に、一つだけ聞きたい事があります。そのスーツはどこで手に入れた物で御座いましょうか?」


俺が着ているスーツ……? いったいそれに何があるって言うんだ。


「これは一之瀬に借りた物だ。汚しちまったからちゃんと綺麗にして返そうと思ってる」


俺はありのままの気持ちを言った。この情報を得ていったいこの紳士執事に何があるって言うんだ……?


「そうですか、夏蓮お嬢様がそのスーツを」


意味深に笑みを浮かべる紳士執事。だがその笑みは一瞬で、そして次の瞬間に言われる後藤の言葉で、俺は何も言えなくなってしまう。


「そのスーツは秋様のスーツですよ」


今俺が着ているスーツが一之瀬 秋のスーツ……? この執事はいったい何を言っているんだ。


「もうお前には騙されない。菊冬の時だってそうだった、俺を安心させといて結局、一之瀬も菊冬も傷ついていた。アンタの嘘くらい分かるっての」


「確かに菊冬お嬢様の件の時、私は嘘をつきました。でもそれに気がつかなかったのは、小枝樹様が過去の自分を受け入れていないからではないのでしょうか」


俺の過去……。一之瀬に言えなかった俺の真実……。


「なのにも関わらず、夏蓮お嬢様がどうして大切な秋様の形見であるスーツを貴方に着させたか分かっておられますか?」


一之瀬が兄貴の形見のスーツを俺に貸した、一之瀬の兄貴は天才で一之瀬が憧れていた存在。でも今はもういなくて、一之瀬はまだ、兄貴の影を追ってる……。


「それは、小枝樹様が秋様に似ているからです」


俺が、一之瀬 秋に似ている……? この執事はいったい何を言っているんだ。だって俺は何も出来ない凡人なんだぞ。なのに俺が一之瀬 秋に似ているなんてありえない。


「冗談を言うのはやめろよ。俺が一之瀬 秋に似ているなんてありえないだろう。どうして一之瀬が俺にこのスーツを貸してくれたのかは分からない。アンタが思っているような事は絶対にない」


「本当にそう言いきれるのでしょうか? 小枝樹様は疑問を抱いていた筈です。どうして一之瀬 夏蓮が自分を求めたのか。天才である彼女なら一人で何だって出来るのに、こんな凡人の自分を求める事に疑問を抱いたはずです」


後藤の言葉を聞いて俺は少しこの執事が怖くなった。だって、俺と一之瀬が契約している事は誰も知らない。いや、雪菜は知っているが、それでも雪菜がこの執事と接点を持つことがまずない。


だとしたらどうしてこの執事は一之瀬が俺を必要とした事実を知っているんだ。何で俺が一之瀬と契約をしていると分かっているんだ。


頭の中で色々と思考をめぐらしながら、俺は何も言い返さずに後藤の言葉を待った。


「貴方は分かっている筈です。自分の隠している真実がどれ程重いものなのかを。でもそれを言う事は出来ない。ならば貴方は選ばなくてはならないのです」


「……選ぶ?」


「そうです、貴方が描いている誰も傷つかない現実なんてあり得ないのです。そして、自分が傷つけば良いという逃げも通用しません。貴方は選ぶのです、誰かだ傷つく未来を」


完全に消えてしまった紳士執事の笑み。それは俺を強く睨む表情に変わっていて、選択を迫られていた。


「俺が、誰かを傷つける……」


心の中で叫んでいる。


俺は誰も傷付けたくない、俺は皆の笑顔を求めている。だけど、俺にはそれを成し得るだけの力がなくて……。自分が本当に何も出来きない人間なんだって分かってる。


でも、それでも俺は皆に笑っていて欲しい。レイの全てを奪ってしまった俺にはそれしか償えないんだ……。


自分が傷ずつくしか、償えないんだ……


「小枝樹様が求めている未来は決して訪れる事はありません。誰かを捨て、誰かを選び、誰かを傷つけなきゃ、誰かを幸せにする事は出来ないのです。だからこそ、貴方は選ばないといけない」


フラフラになっている身体。グラグラしている頭。そんな体と頭を今の全力で動かして俺は答えを出す。


「俺は、誰も選ばない」


後藤を睨みながら俺は言う。これが今の俺が出した答えだ。


雪菜にも佐々路にも言われた。でもその度に俺は分からなかった。


いったい、選ぶってなんなんだよ……!! 俺は何を選べば良いんだ、俺は何も選びたくなんかない!! 誰かを贔屓して、それが何になるっているんだっ!!


損なのは全て無意味だ。個人が何かを選ぶなんて合理的じゃない。他者の気持ちや意見を全て聞いて、それで答えを出すのが絶対だ。


俺の意見なんかどうだって良い……。


「誰も選ばないという選択を小枝樹様はするのですね。それはとても過酷な選択です。それでも小枝樹様はその未来を歩んでいくと言うのですね」


「あぁ。何かを選ぶ権利なんか、俺にはないからな……」


そんな俺の言葉を聞いた後藤は、一瞬笑みを浮かべ俺の前から姿を消した。







 俺は後藤がいなくなってから自分の家へと足を向かせた。


早く帰って自分のベッドで寝たい。こんな風に持っている今の感情はきっと逃げでしかないのだと分かっている。


それでも今は眠りにつきたい……。


疲れている体を動かしやっとの思いで俺は自分の家に辿り着く。


扉を開け玄関で靴を脱ぐ。だがこの時、何かの違和感を俺は感じた。その感覚が俺を自分の部屋ではなくリビングへと向かせた。


フラフラとする体で俺はリビングの扉を開く。そこには父さんと母さん、そしてルリが虚ろな表情を浮かべながら居た。


「お、お兄ちゃん……」


俺の存在に気がついたのか、ルリが俺の方を身ながら言う。


そんなルリの表情は辛そうで、父さんと母さんを見ても同じ表情をしていた。そして俺は知る、今の現状がどうして起こってしまったのかを。


「お兄ちゃん、ユキちゃんが、ユキちゃんが……」





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