13 前編 (拓真)
煌びやかな空間。綺麗なドレスに身を包んだ女性、タキシードやスーツを着こなす男性。見た目からして金持ちだと分かってしまうくらい艶やかだ。
大きく豪華なシャンデリアが広い会場を照らし、立食形式になっている会場には多くの著名人が参列している。
そんな俺も高そうなスーツで身と纏い、髪の毛もちゃんとセットし、この会に来ていた。
自分が凡人だと言う事は理解している。こんな俺の今の状況、心境を説明するのであれば、いきなり自然に還されたペットだ。
上を見ても下を見ても右を見ても左を見ても、自分が完全なるアウェーだと簡単に納得できてしまう。
そもそも、今俺が着ているこの会はなんなのか。それは考えれば簡単に答えが出てくるものなのです。俺みたいな凡人がこんな豪華な席に出る事が出来るのはアイツ関係です。
そう、今日俺は天才少女一之瀬夏蓮の17歳の誕生日パーリーに呼ばれています……。
事の始まりは数日前。俺が雪菜と喧嘩をした夜の次の日だった。
家に着いてから俺の発作は止まった。自分の感情や過去の自分との折り合いは全くついていない。
それでも、今の俺には雪菜が求めている事が出来るわけでもなく、自分の中にあるモヤモヤを打ち消す方法が思いつかないでいる。
今の時間は朝の10時。あまり眠ることは出来なかったが、少しの睡眠でも今日の俺は大丈夫だった。
本当は起きていたくない。意識があれば否が応でも昨日の事を考えてしまう。
雪菜があんなにも感情的になって、ずっと肯定してきてくれた俺を否定した。いつの日かこんな日が来るんじゃないかと思っていたが、それが想像という曖昧なものから現実になってしまっただけでこんなにも苦しいとは想像していなかった。
過去の俺を否定して、今の雪菜を否定して……。俺はいったいなにがしたいんだ……。結局、今も昔も変わらない事がある。それは
俺は誰かを傷付ける事しか出来ない……。
他者の幸せを願っているのに、結局は自身の幸せを望んでいる偽善者。
分かっているんだ。どうすれば俺が救われるのか。自分自身で分かってる……。でもそれじゃ償いにはならない。
もっともっと俺は傷ついて、悪者になって、孤独を感じて生きてかなきゃいけない……。
雪菜が俺を否定したことは良い事なんだ。アイツが俺から離れていくことは良い事なんだよ……。雪菜は俺にきっと依存してる。でもそれじゃダメだ。雪菜はもっと外の人間を受け入れるべきなんだ。
誰かの事を考え、自分の罪を償う為に孤独になる。まるで中二だな……。
一年前の俺が今の俺に言った事は理解出来てる。俺が救われるのは、一年前の俺に戻ること……。何もかもを拒絶して、何も受け付けない。孤独が俺を救うんだ……。
でも、ならどうして俺は、一之瀬を受け入れたんだ……。
俺は天才が大嫌いだ。何もかもを持っていて、凡人から全てを奪っていく天才が大嫌いだ……。なのに、一之瀬は違った……。
アイツはいつも誰かの事を最優先に考えていて、自分だって辛い過去を背負っているのに、そんな私情は表に出さなくて……。俺が思っていた天才というものを完全に打ち壊してきた。
自分勝手で、寂しがり屋で、わがままで。それでも一之瀬は俺を必要としてくれた。
こんなクソ人間な俺を……。
「小枝樹拓真が必要……か……」
俺は一之瀬と出会ったときの事を思い出しながら、小さく呟いた。
ブーッブーッ
ネガティブ思考全開の時に、俺の携帯がなった。自分の机に置いてある携帯に手を伸ばし、取る。
そんな震えている携帯の画面を見たら、着信。
一之瀬 夏蓮。
「はい、もしもし」
「随分、他人行儀なでかたね」
「うるせー。一之瀬から電話がくるなんて珍しすぎて、俺だって動揺してんだよ」
一之瀬からの電話。俺は少し救われた気持ちになっていた。
このっまま独りで考えていたら、俺は自分の思考はおろか、この先の未来でさえマイナスな思考で埋め尽くされていたであろう。
でも、、こんなにネガティブな状況じゃなきゃ俺は一之瀬とくだらない話が出来ていたのかもしれない。でも、今の俺にはそんな雑談をする余裕なんかない。
「それで、何か用かよ」
「急に電話をしてしまった事は申し訳ないと思っているわ。でも、小枝樹くんにしかお願い出来ないと思ったから……」
悲しげな声音になる一之瀬。そんな一之瀬に俺は勘弁してもらいたいと思っている。
だって、今の俺の状況は誰かを構うことのできない状況で、そんな俺に真剣な声音で話されても俺はどうすることも出来ない
そんな事を思いながら、俺は一之瀬の言葉を待つ。その言葉が斜め上な発言とも知らずに……。
「お願い小枝樹くん。私のボーイフレンドになってちょうだい」
………………。
「ちょっと、私の話をちゃんと聞いているの?」
はい。ボーイフレンドになれという命令でしたね。ちゃんと聞いていますよ。でもね、僕だってすぐさま状況を理解出来ないときだってありますよ。
だってボーイフレンドでしょ? 男友達という言葉よりも深い意味が込められてるような言葉でしょ?
まぁ確かに、俺には彼女がいませんよ。誰がどう見てもサクランボ少年ですよ。でもね、僕にだって心の準備というものが必要な訳で、普通に思考回路が停止している状況ですよ。
そんな俺が、天才少女さんに言える事は、
「はあああああああああああ!?!?」
間抜けな叫び声だけです。
「ちょ、声が大きいわよ」
「いやいやいやいやいや。声だって大きくなるわっ!! だって、いきなり過ぎるだろっ!? 何で俺がボーイフレンド!? つか、どういう経緯でその思考に辿り着いたんだっ!!」
俺は完全に混乱してしまっている。普通に状況が掴めない。頭の中に流れる言葉は、どうしてだ、だけだった。
確かにこんな状況に陥ったら、訳も分からず自分を攻撃するよ。超音波最強だよっ!!
「ごめんなさい小枝樹くん。私の言葉が足りなかったわね」
混乱してしまっている俺に対し冷静に話し始める一之瀬。
「まぁボーイフレンドになって欲しいと言う事は本当なのだけど、それだけじゃ語弊が生じるわね。近々私の誕生日パーティーが開かれるの、その会に私のボーイフレンドとして小枝樹くんに参加してもらいたいという事なのよ」
一之瀬の誕生日パーティー!?
確かに俺は先走って何かを勘違いしそうになった。だから俺は一之瀬の話をちゃんと聞こうと思った。でも、その話を聞いても俺の頭の中に流れる言葉は、どうしてだ、だけだった。
「待て待て、どうして俺が一之瀬の誕生日パーティーに出席しなきゃならない!? 友達同士で誕生日会を開くのは分かるが、一之瀬の言ってるパーティーは一之瀬財閥主催なんだろ!? そんな所に俺みたいな凡人がいけるわけないだろ」
今俺が一之瀬に言っている事を考えながら、俺はとても正論を言っているのだと自分で感心してしまった。やれば出来るじゃないか俺。
「小枝樹くんが言っているように今回のパーティーはお父様が主催したものよ。だからこそ、お願いしているんじゃない……」
先ほどまでふざけていた一之瀬の声音が変わり、真剣な声へと変わった。つか、ふざけてたのは俺だけか。
「あーもう。一之瀬が俺に本気でお願いしている事は分かった。でもどうしてボーイフレンドなんだ? 普通に友人じゃダメなのか? つか俺は一之瀬の恋人として席に出れば良いのか?」
「こ、恋人なんて誰も言っていないでしょっ///!? 私がお願いしているのはボーイフレンドよっ! 近しい関係性を持った男性の友人という意味よ。どうして貴方はいつもいつも、私の真意を見抜いてくれないの」
この天才、自分が俺にお願いしている立場と忘れて、キレてきやがった。でも、俺は器は海よりも大きい。そんな些細な事で怒るような拓真様ではない。
「分かった分かった。それで、どうして俺が一之瀬の誕生日パーティーに近しい関係性を持った男性の友人として出席しなきゃいけないんだ。というか、して欲しいんだ?」
「それはパーティーに参加すると合意してもらわない限り言う事は出来ないわ」
この……天才少女は……!!
「あーもう、分かったよ参加すれば良いんだろ。で、その理由は?」
久し振りに俺の最強スキルが発動した。そう、俺は最強スキル『諦める』を発動させた。
このスキルの説明は不要と思っている人たちも多いだろう。だが、そんな事知ったこっちゃない。俺は説明したいからさせてもらう。
俺の最強スキル『諦める』は、その名の通り自分の意思とは無関係に諦めてしまうというものである。発動条件は、俺が面倒くさいと思った時にはぼ強制的に発動する。
そしてスキル『諦める』を使用した俺は、とてつもない事件に巻き込まれることが多いのだ。
「まずはお礼を言うわ、ありがとう。そして小枝樹くんには今から言う場所にこれから来てもらいたいの」
ちょっと待て、参加を合意したのに理由をこの天才少女は教えてくれませんよ。これって詐欺ですよね、詐欺ですよね!?
だが、詐欺は立証されるのがとても難しい犯罪だ。この件も結局有耶無耶にされてしまうかもしれない。でも乗りかかった船だ。俺は一之瀬に言われた通り、指定した場所へと向うことにした。
そして俺は今、一之瀬が指定した場所に来ています。
本当にここであっているのかどうか不安になってしまう。だって、ほぼ顔を垂直に上げないと最上階が見えないくらい高い高級マンションの目の前に今の俺はいるんですから。
これがヒルズ族というやつか……。まぁここは六本木じゃないのだが……。
俺は一之瀬から送られたメールを見直した。
メールの内容には指定した場所の住所が書いてあり、現代科学を駆使し携帯電話という名をした情報検索器具を用いて、この場所にたどり着いた。
そして何故俺がもう一度一之瀬のメールを確認したのかというと、あまりにも凡人の俺が入っちゃいけないような雰囲気を醸し出している場所だからである。
あ、そうか。メールを確認するより一之瀬に電話して聞いたほうが早い。
お願いします神様。どうか、凡人で普通というのが取柄の俺が足を踏み入れてはいけないこの場所が目的地じゃないように……。
「もしもし一之瀬。一応、一之瀬が指定した場所の目の前で来たけど、本当にここであってるのか?」
「ちょっと待ってて、今外に小枝樹くんがいるかどうか確認するから」
お願いします、お願いします。一之瀬さんが俺の存在を確認できませんように……。
「そうね。小枝樹くんがいるのが見えるわ。このマンションの最上階が私の家だから、上がってきて頂戴」
ガッデムッ!!!
神に裏切られた俺は、誰かを恨む事も出来ずにしぶしぶマンション最上階を目指すことになった。
マンションの最上階につき、俺は再び戸惑っている。
何故、最上階には扉が一つしかないんだ……。
普通に考えれば、一階であろうが最上階であろうがマンションは何部屋かに分かれていてるはずだ。なのにも関わらずこのマンションの最上階には一つしか扉がない。
おかしいよね、おかしいよね。どれだけプライベートな空間に仕上げてるの!? つかもう最近色々あって忘れてた事があるけど、元来俺はツッコミ役だったああああああっ!!
おっけー。素直に言うよ……。
凡人な俺がこんなに高級なマンションのシステムを完全に理解できるなんて、これっぽっちも誰も思いませんよねえええええええっ!!!
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
思考を巡らせるだけでこんなにも俺の体力を奪ってくるとは……。さすが財閥の娘だ……。
インターフォンを押せば全てが丸く収まる。押した瞬間に俺のモヤモヤした気持ちも、諦めという名の無に還り俺の思考は完全に無かったものになるんだ。
一之瀬がどんなにお嬢様でも、どんなに天才少女だったとしても、俺の凡人心を侵す事は出来な━━
「ちょっと、玄関の前で騒がれるのは迷惑なのだけれども……」
俺の目の前にあった扉が開き、一之瀬夏蓮が顔を出し言う。その時俺は思った。
神様、アンタは本当に何も考えていない存在だよ……。
俺は項垂れながら一之瀬に案内されるまま一之瀬の家の中へと入っていった。
玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩く。そしてリビングへと繋がる扉をくぐる。
「……なんだ、この広さは」
驚愕。まさにこの言葉が相応しいと俺はこの時思った。だって一之瀬はこの家に一人で暮らしているんだ。この広さはおかしすぎる。
見た目計算でこのリビングは大まかに20畳はあるだろう。こんなにもバカ広い空間には、大人が寝転がっても余裕が出来てしまうくらい大きなソファー、洋風な内装にそぐわしいガラスで出来たテーブル。
これに大きなテレビがあれば申し分ない金持ちの家なのに、どこか殺風景でまるで大事に可愛がられているペットの部屋のように感じた。
「そんな所に突っ立っていないでソファーに座りなさい」
どうして命令口調なんだよ。なんだ、俺はこれから拷問でも受けるんですか!?
「私は飲み物を用意してくるから、少し待っててちょうだい」
俺は一之瀬に言われるがままソファーへと腰を下ろした。待ってろと言う一之瀬だったが、オープンキッチンになっている為、普通に一之瀬の姿が目視出来てしまう。
そんな一之瀬様子を見ていて思ったが、本当に手際が良い。いつもやってなきゃ手際なんかよくならないだろう。まぁ、一之瀬は天才だから何でも出来るのかもしれないけど……。
キッチンでお茶を入れている一之瀬の姿は『慣れている』というものではなく『慣れなきゃいけない』と、無理矢理自分を納得させているように見えた。
「お待たせ」
戻ってきた一之瀬がテーブルにお茶を置く。高級そうなティーカップから湯気と共に身に覚えのある香りが俺の鼻を刺激した。
「この紅茶って、もしかして」
「そうよ、前に学校で小枝樹くんが飲んだ物と同じハーブティー」
そう言いながら、一之瀬は俺が座っているソファーとは別の、一人掛け用のソファーに腰を下ろす。
「このハーブティーはね、心を落ち着かせる効果があるのよ」
俺に優しい笑顔を見せ、一之瀬は紅茶を啜る。
どうして心を落ち着かせる為の紅茶を振舞ってくれたのかは分からない。でも本当に、自分の心が落ち着いていくのが分かった。
「それじゃ、心も落ち着いたところで、小枝樹くん脱いでちょうだい」
「脱ぐって、なにを?」
「服に決まっているでしょ」
言うと一之瀬は立ち上がり、大きく景色が一望できる窓のカーテンを閉めた。
カーテンが閉まる事によって部屋の中は昼間なのに薄暗くなる。そんな薄暗い部屋の中、俺は天才少女と二人きり、そんな天才は服を脱ぐようにと命令してきた。
「ちょ、ちょっと待て一之瀬っ!! どうして服を脱がなきゃいけないのでしょうか!?」
「本当に貴方は待てが多いわね。そんなの決まっているでしょ」
ゆっくりと俺に近づいてくる一之瀬。その瞳は潤んでいるように見えて、唇もどこか湿っているように見えてしまう。
どうした、どうした俺っ!! つか今のこの状況はなんなんだ!? 心を落ち着かせるって、まさかこの為!?
頭の中に流れてくるとても他人には言えないような卑猥な映像。
俺だって思春期なんだからしょうがないでしょっ!! こんな状況になったらどんな男だって想像くらいするわっ!! つーか、俺は誰に言い訳してんだよおおおおおっ!!
ソファーに腰掛けている俺の肩に一之瀬の手が触れる。その瞬間、恥ずかしながら少しビクついてしまった。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。すぐに終わる事だから」
すぐに終わるって、それって俺しだいじゃないの!? もしかして、すぐに終わらせる自信でもあるんですか天才さん!!
でもしょうがない。俺はもう一之瀬に身を委ねるしかないんだ……。あぁ、今日で俺の体は穢れをしった大人の体になってしまうのか……。
「ちょっと小枝樹くん。立ってもらわないと採寸が出来ないわ」
そう、俺の身体は今から天才少女に採寸されて……。ん? 採寸?
「おい一之瀬、採寸っていったいなんだ」
「採寸は採寸よ。私の誕生日パーティーに出席してもらうのだから、私が貴方用のスーツを用意するのよ。その為の採寸」
目を閉じていたせいで気がつかなかったが、一之瀬の手にはそれ用のメジャーが持たれていた。そんな一之瀬の姿を見て安堵している俺と、意味不明な妄想に駆られ卑猥な事を想像していた自分を後悔していた。
「なんか、ごめんなさい……」
「どうして謝っているの? 取りあえず早く立ってちょうだい」
俺は一之瀬に言われるがままになった。
「腕を伸ばして」
採寸をする為に服を脱ぎ、俺はやられるがままになっています。
「つか、本当にスーツを用意してもらってもいいのか?」
当たり前な質問だ。一之瀬の誕生日パーティーに出席するとは言ったが、スーツまで用意されると少し申し訳ない気分になる。
「大丈夫よ。それに、その辺の安いスーツなんて着てこられたら私の評判にも繋がるし、一之瀬財閥にも影響が出るかもしれないから」
「さいですか。それで、どうして俺に出て欲しいって頼んだんだ?」
今回の件でもっとも俺が気になっていた事をようやく聞くことが出来た。
「そうね。まだ話していなかったわね」
一之瀬は俺の採寸をしながら淡々と話し始めた。
「私の誕生日パーティーと題せば色々な業界から著名人が集まってくるわ。勿論、一之瀬財閥とコネクションを結ぶ為に自分達の家族も連れて来るでしょうね。ここぞとばかりにお父様に皆が接触を試みるわ」
「それって、一之瀬の誕生日を祝うんじゃなくて自分達の利益の為にやるって事か……?」
「自分達の利益だけを考えているのは出席者達よ。でもそれだけじゃない、お父様が今回の誕生日パーティーに何らかの意図があるとするなら、それは私の婿探しね。もう腕を下ろしてもいいわ」
婿探し……? それって一之瀬と結婚する奴を探すって事だよな……?
「だから小枝樹くんに頼んだのよ……。私がボーイフレンドを連れてくれば、少しだけかも知れないけど敬遠になるわ。それに、被害が出るのは私だけじゃない……」
採寸していた一之瀬の手が止まった。そして
「姉さんにも菊冬にも、迷惑をかける事になる……。私だけなら我慢出来たけれど……」
どうしてか、無性に腹が立った。
「何で一之瀬はいつもいつも自分以外の奴の事ばっか考えてんだよ。自分だって本当は嫌なんだろ? どうしてそんなに自分ばっか犠牲にするんだよ」
「だから……、小枝樹くんに頼ったんじゃない……」
俺の体に触れている一之瀬の手は震えていた。自分の弱さを露見させた言葉が、今の一之瀬の身体の自由を奪っている。そんな一之瀬は、それでも自分の思いを俺に伝える為に精一杯頑張ろうとしていた。
「小枝樹くんが言ってくれたから……。私の願いを叶えてくれるって言ってくれたから……。それに自分ばかり犠牲にしようとするのはお互い様でしょ」
一之瀬の言葉に何も返すことが出来なかった。でも違うんだ……。俺と一之瀬の犠牲は、違うんだよ……。
一之瀬の犠牲は本当に誰かの事を思っていて、他人の幸せを最優先にするものだ。でも、俺の犠牲は言い訳ばかりして、誰かに必要だと思ってもらいたくて、本質は自分の幸せしか考えてない卑しいものだ……。
雪菜の事だってそうだ……。
俺は雪菜の事なんか何も考えてない。自分の心を痛めないための選択をしてきた。もう、レイのように俺で傷つく人間が現れないように……。
「ねぇ小枝樹くん、貴方の身体って……」
ほんの数秒前まで悲しい顔をして、俺に訴えかけていた一之瀬。なのに今俺に話しかけている一之瀬は驚いたような表情を浮かべていて、俺は何が何だか理解出来ないでいた。
「なんだよ」
「ちょっと待ってて」
慌てながら別の部屋へと走っていく一之瀬。何が一之瀬をあんなにも驚かせ、急かしているのかは分からない。
そんな事よりも、今の俺は一之瀬に頼られてしまっている現実の方をどうにかしたいと思っている。
俺は誰かに期待されるのが嫌だ。でも、一之瀬の願いを叶えると約束したのも事実で、俺は自分で仕出かしてしまった事で雁字搦めになっている。後悔はしていない、それでも今の状況の俺が一之瀬の為に何か出来るとも思えないんだ……。
だけど、俺が行かなきゃ一之瀬は全く楽しく無い誕生日を迎えることになる。そんなのは絶対に嫌だ……。
「待たせたわね。小枝樹くん、このスーツ着てもらえるかしら」
一之瀬が持ってきた高級そうなスーツ。何故、一人で暮らしている一之瀬の家に男物のスーツがあるのかは疑問に思ったが、今の俺にはそのスーツを着るという選択肢しかなかった。
「やっぱりぴったりね」
俺はスーツを着て全身鏡の前に立ち自分の姿を確認する。
銀色に近い淡いグレーのスーツ。そのスーツは俺の身体にピッタリとフィットしていて、本当に自分の物かと錯覚してしまうくらいだった。
「とても似合っているわよ、小枝樹くん」
鏡越しに俺を見て言う一之瀬。その表情はさっきまでの悲しい雰囲気を纏った表情でも、驚いている表情でもなく、ただ純粋に喜んでいる顔だった。
「なぁ一之瀬。何でそんなに嬉しそうなんだ?それに━━」
「そんなの、このスーツの持ち主が見つかったからよ」
このスーツの持ち主。その言葉は意味深長で色々な風に捉えることが出来た。
まずは、一之瀬が誰かに送る為に買ったプレゼント用のスーツ。そして次に、もともとこのスーツは誰かの所有物で、持ち主本人が何らかの理由で着れなくなってしまった為保存させれていた物。
「本当に小枝樹くんは無粋ね」
「何がだよ」
「そういう何かを詮索するような表情はよくないわよ。貴方は普通にしてればまぁまぁ見れる男性なんだから」
からかうように笑う一之瀬。自分が考えすぎて頭の中をグチャグチャにしていたのが馬鹿らしく思えた。
「何がまぁまぁだ。神沢ストーカー事件の時に、俺の事を人気ある男子で普通にイケメンと言った事を俺は忘れてないからな」
「何を言っているのかしら。確かにあの時私は小枝樹くんは人気があると言ったわ。でもね、イケメンではなく統計的に格好良い分類に属する男子と言ったはずよ。したがって私は小枝樹くんをイケメンとは言っていないわ。事実を湾曲させるのは良くない事よ」
どんなで記憶力良いんですかこの天才はっ!!
「もう分かったよ……。俺が悪かったです。だから、そんな顔すんなよ」
「あら、似合いもしないスーツを自分が着ているのに嬉しそうに微笑んでいるのがよっぽど屈辱だったの?」
本当に、この天才はたまに嘘が下手になる。
「ちげーよ。嬉しそうに見てくれるのは俺だって嬉しいけど、嬉しそうにしてるだけで、全然笑ってない」
鏡を通して見える一之瀬の表情が俺にはそう感じていた。
「本当に、小枝樹くんは無粋ね……」
俺の言葉を聞いた一之瀬の表情が曇った。また余計な事を俺は言ってしまったのか……。
「この話は、誕生日パーティーが終わったら話すわ。でもこれだけは信じて欲しい」
一瞬間をおき一之瀬は言う。
「本当にそのスーツ、小枝樹くんに似合っているわよ」
あー、もう。そんな嬉しそうな表情されたら俺はもう何も言い返せませんよ。どうして最初からその顔が出来ないのかな。
その一之瀬の表情は、偽りも嘘も何も邪な感情がなく、ただただ純粋に笑っていた。それが俺の主観的で曖昧な感覚なのは分かっている。でも、さっきまでの一之瀬の表情には翳りがかかっていて、鏡に写る俺じゃなくて、俺が着ているスーツを遠い目で見ているように見えたんだ。
「そこまで言うのなら、本番でも私を笑顔にしなさいよ」
「おいおい、それは別途料金がかかるぞ」
いつもの一之瀬だった。俺の知ってる可愛げのない天才少女。どこか曖昧で、不安定で、それでも自分を保とうとしてる天才だ。
「これを言うと小枝樹くんは怒るかも知れないけど、前払いという事にしておいてね」
この天才は本気で別途を俺が取るものだと思っているのか……。末恐ろしい天才だ。
「私の誕生日パーティー期待しているわ」
期待か……。どんなに言われても慣れない。俺は期待されるのが嫌いだ。でも、一之瀬が笑えるなら……。
「はいはい。そんなに俺に期待すんなよ」
今の俺と一之瀬は笑いあえている。互いが互いの傷を何となくだが分かっているからだ。でも一之瀬は知らないんだよな……。
俺の本当の傷を……。