10 中編 (拓真)
あと一週間ほどで夏休みに入ろうとしている平日。俺は学校で友人達と他愛のない会話をしていた。
「あと少しで一学期も終わるけど、夏休みに入ったら何して遊ぶ?」
俺の友人で同じクラスの神沢司が切り出した。
神沢司。うちの学年で一番のイケメンだと称されている男子。だが、その見た目は本当にイケメンそのもので、男子の俺から見ても綺麗な顔立ちをしている。細くてサラサラとしか金髪、俺より少し高い身長で線の細い身体はまさに王子さまと言っても過言ではなかった。
そんな神沢は夏休みの話をしていてとても嬉しそうだった。会話の切り出しは普通なのに、どこか無邪気な雰囲気を醸し出し、あたかも初めての夏休みと感じさせられる程の喜びようだった。
「はいはーい! あたしは海に行きたいでーす」
神沢の言葉に返答する女子。
名前は佐々路楓。この春に友達になった女の子。
女子の平均的な体躯をしていて、髪の毛は肩まで伸びている。毛先が外側へと跳ねているのが特徴だ。
初めて佐々路に絡まれたのは春先。その時はまだ佐々路の名前すら俺は覚えていなかった。今思えば本当に最低な奴な俺。というか今、俺が友達と呼んでいる連中の名前なんか覚えていなかった。
そんな俺でも、今一緒に笑いあえる友達が出来た。
神沢に佐々路、崎本に牧下、翔悟に細川。沢山の友達が今の俺を支えてくれていて、楽しい時間を共有できる。
だけど、俺は皆に言っていない事がある。雪菜が一之瀬に言った俺が『孤児』という事実と、俺が佐々路だけに言った、もう一つの真実。
笑顔が溢れているのに、本当に楽しいと思っているのに、俺は今一人でいるような感覚になっている。自分が皆に何も言えないという現実から逃げ出したいと思っている。
夏休み。高校生活の中でも特別な時間。そんな時間を、俺は本心から笑って皆と過ごす事が本当に出来るのだろうか。このまま偽り続けても言いのだろうか。
また友達を、親友を、裏切ることになる……。
「さ、小枝樹くんは、な、何がしたい?」
牧下優姫が俺に話しかける。
「ん? 俺か? まー楽しいなら何でもいいかな」
返事が適当な感じになってしまった。
牧下優姫。コイツもこの春に仲良くなった俺の友達だ。
最初は凄い内気な奴で、俺と一之瀬の所まで友達を探しに来て、最後には牧下と友達になりたいと本気で皆が思ってた。
見た目は高校生には見えないほどの小ささをしている。髪の毛は透き通るような黒色で、遠くから見たら青い感じに見える。体躯はさっきも言ったとおりミニマムだ。だけど、その小ささが天使なわけで。
俺の天使こと牧下優姫である。
そしてもう一人、崎本隆治という本当にこの見た目、この雰囲気をどう説明したらいいか分からないくらい普通の奴だ。
凡人の俺ですら敵視してしまうくらいの凡人さ加減。というか、普通に俺なんかじゃ全く歯が立たない屈強なる凡人戦士だ。
「つーか、遊びに行くにしても金がない。あーバイトでもしようかなー」
屈強なる凡人戦士が言う。
俺はその言葉に対して、
「確かに金はないな。でも海くらいなら行けるだろ」
「でもさー、遊ぶなら色々やりたいじゃん? 海もそうだし、プールも行きたい。それに祭りもあるし。兎に角、俺は色々夏休みを楽しみたいんだよ!」
凡人戦士の崎本の言葉はとても重かった。誰もがその言葉、すなわち『金』の大切さを何も考えていなかったのだ。
だが、そんな問題を瞬時に解決する輩が俺らの周りにはいた。
「隆治に小枝樹。二人は忘れている、あたし達には都合の良いパトロンが居るという事にっ!!」
佐々路は言うと、俺らが今居る、B棟三階右端の教室の中で窓際に立って何も見えないであろう外の風景を見ている一人の天才少女を指差した。
「え、なに!?」
天才少女の一之瀬夏蓮さんは、今の今まで俺らが会話していた内容を全く聞いていなかったみたいで、佐々路の不意な言葉に驚いていた。
「え、なに!? じゃなくて、夏休みに皆で楽しく遊ぶ計画の話しだよ」
佐々路は、驚いて今の状況を把握しきれていない一之瀬に言った。
「夏休み?」
一之瀬は首を横に傾け、未だに話しの内容が分からないと言った表情を浮かべている。そんな一之瀬に佐々路は話を続ける。
「だから、夏休みは夏蓮の別荘で海を堪能しようって話だよ」
佐々路の言葉で皆がざわついた。確かに一之瀬財閥なら別荘くらい腐るほど持っていそうだ。でも待て、いつから夏休みに一之瀬の別荘に行くという話しになったんだ。でも今は佐々路の話しに乗っておこう。
「おい雪菜。夏休み、ちゃんと宿題をするって約束できれば、一之瀬財閥の高級な別荘に行けるぞ。それもプライベートビーチ付だ」
「ちょ、小枝樹くんっ!?」
「了解であります。この白林雪菜、何があっても宿題を終わらせる事を誓うであります」
姿勢良く敬礼をした雪菜を一之瀬が止めていた。俺は佐々路と目を合わし、さらに一之瀬を困らせる事を言う。
「でも、一之瀬が無理って言うんだったら俺は行かなくても大丈夫だけど」
「確かにね。夏蓮が嫌だったら、きっと皆も楽しめないと思うし。あたしも夏蓮が無理だったら大丈夫だよ」
即席コンビにしては良いコンビネーションだ。俺と佐々路はニヤニヤと笑いながら一之瀬の出方を伺った。
「べ、別に無理という訳じゃないけど、話が急すぎるのよ。私だって行きたいけど━━」
「……夏蓮ちゃん。海行かないの……? 別荘行かないの……? あたしちゃんと宿題するよ、大好きな肉まんも我慢するよ……。だから、プライベートビーチ行こうよ……」
これは一之瀬夏蓮にとって痛烈な攻撃だ。雪菜嬢の涙で一之瀬の心は揺らいでいるぞ。
「……もう。わかったわよ……。海の件は手配しておくわ。日程が決まったらちゃんと私に連絡して」
ついに、ついに俺は悪魔大元帥を倒した。こんなにも嬉しいことはない。
俺は静かに心の中で喜んだ。これも全部、佐々路楓という優秀な仲間が居てくれたおかげだ。ありがとう。
「それにしても小枝樹くん。私によくも恥をかかせてくれたわね」
悪魔大元帥は数秒たらずで復活を遂げた。これってもう絶対に倒せないよね。つか、俺はこのあと死刑にでもなるのかな。助けてください佐々路さん。
俺は佐々路楓に助けを求めた。きっと優秀かつ勇敢な佐々路ならこの状況を打破━━
「さてと、あたしはそろそろ帰ろうかな」
裏切りやがった……。完全に俺を見捨てる方向で事を進めてやがる。この女、魔女だ……。
「あら、何を急いで帰ろうとしているのかしら楓」
そりゃそうだ。一之瀬に攻撃を加えていたのは俺だけじゃないからな。佐々路よ、お前も俺と一緒に逝こうではないか。
まぁでも皆もいるし、普通に説教されて終わるだけだよな。これもいつもの事だ。
「ごめんなさい皆さん、これから小枝樹くんと楓の処刑をおこないますので、今日はもう帰ってもらっても構わないかしら」
嘘……だろ……? 皆には見せられない程の鬼畜な説教を、って今完全に処刑って言ったよね!?
「それじゃ僕達は帰ることにするよ。小枝樹くんと佐々路さん、ご愁傷様」
神沢……?
「一之瀬さんをからかうなんてよくないだろ。まぁ小枝樹と楓がいけないから自業自得だけどな」
崎本……?
「拓真、楓ちゃん。二人の勇姿、あたしは絶対に忘れないからね」
雪菜……?
「ご、ごめんなさい」
牧下まで……。だが、まだ神様は俺と佐々路を見捨てては居なかった。
「悪いっ!! 部活で遅れた。つか、何やってんだみんな」
翔悟っ!!! 君は木偶の坊なんかじゃない。本当に俺の大切な親友だっ!!
「はいはい、門倉くんも僕達と一緒に帰ろうね」
神沢ああああああああああああっ!!! 貴様ああああああああああああああっ!!
そんな神沢の言葉を最後に、B棟三階右端の教室の扉は閉められた。そして、
「これであなた達の処刑を遂行できるわ」
胸の前で拳をパキパキと鳴らしながら、一之瀬は「ふふふ」と不気味に笑った。
佐々路を見ると、瞳に涙を溜めながら恐怖のあまり身体を小刻みに震わせていた。そんな佐々路を見て、俺にも少しばかり恐怖が芽生えだした。
「か、夏蓮……、処刑とか冗談だよね……」
「楓、貴女は少しやり過ぎたのよ。そう、本当に少しね」
「ねぇ小枝樹。あたし達、いったいどこで間違えちゃったのかな……?」
涙を一筋零しながら、佐々路は俺に問う。その返答がきっと俺達の最期になる。何となくだが、俺は確信していた。
「佐々路、そんなの決まってんだろ……」
俺は佐々路の恐怖を少しでも緩和させる為に笑った。そして、
「……最初からだ」
「言い残すこと、思い残す事はなくなったみたいね」
俺は目を閉じた。そして、この状況になるまで楽しく皆でお話をしていた事を思い出す。でも、思い出してみたところで俺と佐々路の処刑がなくなる訳ではない。
あー、本当に。一之瀬さんをからかうのはやめよう。
俺の意識はそこで途絶えた。
誰も居なくなったB棟三階右端の教室に、悪魔大元帥に辱められたいたいけな少年と少女がいた。
「……大丈夫か、佐々路」
「……うん。何とか大丈夫みたい」
悪魔大元帥こと、天才少女一之瀬夏蓮の処刑は終わり、ボロボロになった俺と佐々路は魂が抜け落ちたみたいにその場に居続けた。
一之瀬は刑を執行し終わると、そそくさと帰っていった。この教室から出て行く時の、一之瀬の何かに満たされたような笑みを俺はきっと生涯忘れないのだろう。
「俺等、どれくらいここいるんだ」
「わかんないけど、もう外は暗いみたいだよ」
いつの間にか太陽は地平線の彼方へと姿をくらまし、その代わりと言わんばかりに真ん丸な月がこんにちわしていた。
俺はその場から立ち上がり、体中に付いた埃を叩き落とした。そんな俺の様子を見ていた佐々路も立ち上がろうとしている。
「もう、夏蓮も少しは手加減、ってわぁっ!!」
「佐々路っ!!」
ドーンッ
立ち上がろうとした佐々路を俺が支え転倒した。本当に情けない凡人野朗ですよ俺は。どうして女の子一人支える事が出来ないんですかね。
自分でも、もう少しくらい筋肉を付けた方良いんじゃないかと悩んでしまいますよ。
「いてー、大丈夫か佐々路……?」
「……ごめん小枝樹。何か足が上手く動かなくって……。って、さ、小枝樹……///」
「なんだよ。頭打ったから結構痛い、ん、だよ」
頭の痛みから佐々路へと意識を変えてみれば、不思議な事に佐々路さんの顔が目の前にあるじゃないですか。
どうして、こんな状況になったんだ。考えろ、考えるんだ俺っ!! あ、そうか俺が倒れてくる佐々路を支えてそのまま転倒したから、佐々路さんは今俺の体の上に居るわけで、その衝撃で顔が近くにあるという事ですね。
「わ、わ、悪い佐々路っ!! えっと、別にこうなる事を予想して佐々路の転倒を阻止した訳じゃないんだっ!! これはその、じ、事故だ」
「あ、あたしこそご、ごめんねっ///」
佐々路は俺の体の上、性格に言えば俺の膝の上に座ったまま謝罪をした。
………………。
「なぁ、佐々路。早くどいてくれないか……」
「ご、ごめん……。さっきとの夏蓮の処刑と、今の転んだ衝撃で、腰抜かしちゃったみたい……」
腰を抜かす。すなわち、立ち上がれないこと。
って、今の俺はどうすればいいんだああああああああああっ!!!
待て、冷静になれ俺。佐々路が腰を抜かして立てなくても、俺は立てるじゃないか。そうだ、佐々路を支えながらゆっくり立ち上がれば良い。
よし、佐々路の身体を……。ってどこを掴めば良いんだああああああああああっ!!
俺はあれか、思春期かっ!! そうだよ、思春期だよっ!!!
倒れそうな佐々路を支える為に身体に触れるのはしょうがない事と思うが、これは完全に俺が故意的に触れようとしている。
だめだ、俺には出来ない。でも待てよ、佐々路の身体に触れなくても俺がゆっくり動いて脱出すれば良いだけの話じゃないか。よし、そうと決まれば善は急げだ。
「さ、佐々路。取り敢えず、俺がここから抜けるから少し我慢してくれよ」
「わ、わかった」
俺はゆっくりと佐々路の体が乗る足を動かした。
「ちょ、さ、小枝樹……。あ、足が、あ、んっ!!」
「わ、悪い佐々路っ!」
「だ、大丈夫……。でも、出来れば動かないでもらいたいかも……」
気がつけば佐々路は俺に身体を寄せ、しがみつく様に俺の胸に顔を埋めていた。
気まずい沈黙が流れる。俺はいったいどうすればいいんだ。何か話した方が良いような気がする。でも、何を話して良いか全然分からない。
「ねぇ、小枝樹」
頭の中で色々と思考している最中、佐々路の方から話しかけてくれた。
「ど、どうした……?」
「小枝樹は、夏休み楽しみ……?」
「急になんだよ」
俺は佐々路の頭を見ながら言う。というか、今の状況で佐々路の頭を見る以外できない。
「なんか、今日みんなで夏休みの話をしてる時、あたし的に小枝樹が素っ気無く見えたから……」
俺の肩を掴む佐々路の手が少し強くなった。
「あの時、夏休みに皆で海に行く事になっちゃったけど、小枝樹は本当に楽しみにしてるか心配で……。もしかしたら、あたしは余計な事しちゃったのかなって……」
「ちゃんと楽しみにしてるよ。楽しみにしてなきゃ、佐々路に乗ってこんな目にあってないだろ」
佐々路は俺の事を気にかけてくれていたんだ。こんな俺の事を……。
「でも、小枝樹は何だか、辛そうな顔してた……」
「確かに夏休みは楽しみだし、海に行くのも楽しみだ。でも、不安なんだ……」
「……小枝樹?」
俺は今の自分の中にある気持ちを佐々路に吐露する。
「ほら、佐々路は俺の秘密をしってるだろ? でも他のやつ等は何も知らない……。自分の事を言わないで、本当に皆と楽しめるのかなって、俺はそれ不安だ。それに、佐々路に言った事よりたいした事ないけど、まだ佐々路にも言ってない事あるし……」
俺は自分の真実を伝えないまま、皆と夏休みを楽しく過ごせるのか不安に思っている。そんな後ろめたい気持ちが俺を苦しめる。
「あたしに言ってない小枝樹の事ってなに……?」
やっぱり、そこに食いついてくるよな。でも、佐々路なら
「これを聞いて俺を特別扱いすんなよ? 今まで通り普通に接してくれよ?」
「……うん」
「俺はさ、孤児なんだよ」
俺の胸に埋めていた顔を上げた佐々路。そんな佐々路の顔がとても近かった。でも、その顔はとても悲しそうな顔をしていて、それと同時に驚いている表情が混ざっていた。
「俺は、捨てられたんだ。物心がつく前に捨てられて、俺は本当の親の顔すら分からない……。でも、それで良いと思ってたんだ。孤児院の人達は優しいし、他の孤児の連中も楽しい奴等ばっかだったから……」
佐々路は静かに俺の話を聞く。
「そしてこんな俺に転機が訪れた。それは今の親、小枝樹家に引き取られるっていうことだ。孤児院から出て行くのは少し寂しかったけど、それ以上に家族が出来る事に喜びを感じてた。父さんと母さんが俺を引き取った本当の理由を知るまでは……」
「もういいよ小枝樹っ!!もう、無理しないでよ……」
確かに今の俺は少し無理をしているのかもしれないな。でも、
「最後までちゃんと聞いてくれ」
俺の問いかけに佐々路は何も答えなかった。だから俺はそのまま話しを続けることにした。
「佐々路は俺の真実を知ってるだろ……? それが理由で父さんと母さんは俺を引き取ったんだ」
「……そ、そんなの」
「その事を知った時はもう後の祭りで、俺が親友を裏切った後で、俺の存在はなんも意味もなくなったんだ……。でも、今はこんなに楽しいと思えてる。昔みたいに楽しいって思ってる……。だから、だからこそ不安なんだ……」
苦しいと思った。どうして佐々路に俺の苦しみを共有しようと思ったんだ……。佐々路には何も関係ない事なのに……。
「……小枝樹は何も悪くないじゃん。どうしてよ、どうして小枝樹はそんなにも苦しんでるの……。あたしがバカみたいじゃん……」
「……佐々路?」
「もう、一人で苦しまなくていいよ……。あたしが小枝樹の傍に居るから……。あたしが小枝樹の苦しみ全部分かってあげるからっ!!」
俺の顔を見上げながら、瞳に涙を溜め、佐々路は強く言った。
「大切な人達に裏切られて……、全然自分がわかんなくなって……、苦しくて辛くて、全部どうでも良いって思っちゃって……。悲しかった、寂しかった……。きっと全然違う現実を見てきてると思う。でも、あたしには小枝樹の気持ちがわかるよ」
自分の事を魔女と言い、そんな自分を嫌ってしまっている佐々路。なのに、どうして俺に優しくできるんだ……。どうして俺を分かろうとしてくれるんだ……。
俺はどうしたいんだ……。
ガバッ
「……さ、小枝樹!?」
俺は佐々路を抱きしめていた。どうにかなりそうだったんだ。自分がおかしくなってしまうと思ったんだ。
「……ありがとな、佐々路。きっと俺は、こんな風に誰かに優しくして欲しいだけなんだ……。今じゃ何も出来ない、凡人の俺を誰かに認めてもらいたかったんだ……」
佐々路の鼓動が伝わる、佐々路の体温を感じてる。きっと、早くなってる俺の鼓動も佐々路にはバレているだろう。
「佐々路に話してよかったよ。きっとお前ならわかってくれると思ってたんだ」
佐々路の背中に回していた腕を解き、俺は佐々路の顔を見て言う。
「……小枝樹」
俺と佐々路は見つめあった。暗くてちゃんと確認は出来ないが、きっと佐々路の頬は赤く染まっていると思った。だって、俺の顔も熱くなっていたから。
「……佐々路」
ゆっくりと、俺と佐々路の距離が狭まっていく。きっと今の俺は佐々路を求めていて、これ以上何かを思考するのも難しくなっている。
でも、ここで俺が佐々路と触れ合えば、本当に俺は最低な人間になる。もう、凡人でもなんでもない。ただの、欲求に負けた最低男になる。
そこまで考えられるのに、俺の身体は止まる事をしらなかった。
潤んだ佐々路の瞳が、今の俺の男性としての邪な気持ちを駆り立てて、もう止められないのだと俺は認識した。
「学校内で不純異性交遊とは偉くなったものだな、拓真」
俺と佐々路の唇が触れそうになった瞬間。どこかで聞いた魔王の声がB棟三階右端の教室内で響き渡る。
その声に驚き、俺と佐々路は距離をとった。
俺は教室の扉のほうを恐る恐る見た。
「ア、アン子……」
如月杏子。通称アン子。俺の幼馴染みたいな関係で、今は俺の担任を勤める数学教師だ。
「ま、待てアン子……。これは誤解だ、いや誤解じゃないけど……。でも、ここで動けなくなってたのは事実だ。本当なんだっ!!」
「弁解の余地などお前にはない。さあ、どうやって処罰してやろうか」
「さ、佐々路……」
「さてと、あたしはそろそろ帰ろうかな」
この女裏切りやがったなっ!! つか待て、なんだこのデジャヴはっ!!!
俺は床を這い蹲りながら窓際へと逃げた。だが、そんな詰むような場所に逃げたところで何も解決しない事はわかっている。まぁ要するに、今日二回目の処刑ですね。
本当に俺はついてないです。
「や、やめろアン子……。やめてくれ……」
「大丈夫だ拓真。少し意識がなくなるだけだ」
それが大丈夫じゃない証拠になってますけど……。むしろそんな事を生徒にして大丈夫なんですか……?
「さあ、楽に逝け」
俺の意識はそこで途絶えた。落ちるとき、人生で二回も落とされるなんて普通の高校は味わえないと得をした気分になりつつ、もうノーマル凡人高校生活が送れないのだと俺は確信した。
小枝樹拓真が昏倒した後の話。
「おい佐々路」
「は、はい。なんでしょう……?」
如月杏子が逃げるようにB棟三階右端の教室から出て行こうとする佐々路楓を止めた。
ビクビクと身体を震わせながら振り向く佐々路楓。そんな楓を睨みつける杏子。
「お前、拓真に気があるのか」
「え、な、何言ってるんですか/////」
思いもしなかった杏子の言葉に困惑する楓。だが、困惑と羞恥が混ざった楓をよそに杏子は冷静に言う。
「その気がないなら、あまり拓真を苦しめないでやってくれ……」
「なんですか、それ」
杏子の言葉を聞き、楓の表情が変わった。先生、いや担任に見せる顔ではなかった。睨むように杏子を見つめる楓。
その感情が伝わったのか、先ほどまで見えていた月は雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうな雰囲気を出していた。
晴れ渡っていた空が、雨になる。
人の悲しみと苦しみを映し出すように、空は変わっていく。
夏を前にした、ほんの些細な雨。