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天才少女と凡人な俺。  作者: さかな
第二部 一学期 晴レノチ雨
19/134

7 中偏 (夏蓮)

私は貴方を見つけた。とても冷たい瞳をしていて、何もかもを受け付けない、全てを否定し全てに絶望した貴方を。





 夕日が沈み暗くなった世界、私は独り学校の前で佇んでいた。今の自分の顔を鏡で見たくないと思ってしまうくらい醜い表情で。


心のどこかで響いている声を消しながら、私はまた独りぼっちになる。


妹が泣きながら走っていく姿を見てから、どれくらいの時間が経ったのだろう。そんな単純で直ぐにでも明確になる感覚を、今の私は失っていた。


考える事を止めてしまいたい、このまま何も考えずに『あの人』の人形になれば、きっと私は救われる。


自分で描いた夢も希望も、兄さんが残してくれた言葉も、全て投げ出して一之瀬財閥の歯車になれば私は菊冬きふゆを傷付けなかった。


後悔、こんな自分勝手な私が抱いてはいけない思い。それでもこれは私の事で、大切な菊冬には関わって欲しくなかった。


こんな私に関われば、これからの菊冬の人生にすら影響をあたえる。それだけ一之瀬財閥の力は強大なものなの。だけど


「生まれてこなければ良かった……ね」


妹の言葉が私を苦しめる。違う、あの子に私が言わせてしまったんだわ。私を本当に無垢な心のまま愛してくれていたのに、私はそれを無下にした。


頭の中で思考が巡りどうしようもない感情に苛まれて、何も考えたくない私は重くなった足を踏み出し、家路を急いだ。






 家に着き、リビングのソファーで横になる。久し振りに感じる孤独な時間。兄さんが死んでからずっと感じてきたこの感覚を懐かしいと感じるのはきっと小枝樹くんのおかげ。


こんな私を受け入れてくれた、こんな私の我侭に付き合ってくれた。


なのに私は酷い事しか言えなくて、さっきまで小枝樹くんの声が聞こえていた電話を、私は握り締めていた。


明りもつけず、暗くて広い部屋。携帯のライトも数十秒で消えて、私は何の音も聞こえない部屋で天井を見つめている。


感情的になった小枝樹くんの声が耳から離れなくて、小枝樹くんが言っていた事が頭の中を巡り続けていて。どうして私は、こんなにも小枝樹くんを頼ってしまうのだろう。


何故、小枝樹くんに否定されるとこんなにも胸が苦しいのだろう。


鏡を見なくても今の自分の表情が無表情なのが分かる。感情と一致しない表情が、私の心の冷たさを露にしている。


「……シャワーでも浴びよ」


そう呟き、その場で衣類を脱ぎ始めた。制服のブレザーをソファーに脱ぎ捨て、首を締め付けるワインレッドのネクタイを外し、スカートのジッパーを下ろし部屋の床に置き去りにする。


シャワールームの扉を開け、ワイシャツのボタンを外しそれを投げ捨てる。下着姿になった私はブラのホックを外し胸にかかる邪魔な布を取り除いた。


下半身に残った布を脱ぎ捨て間接照明だけを点け、冷たくて寒いシャワールームへ入る。


銀色のノブを回し、お湯が勢いよく流れ出た。その物理的な温かさに私の身体は触れて、過去の事を思い出す。


頭から被るシャワーの音を聞きながら……。







 一年前。


私は自分の願いを叶える為にこの高校へと進学した。一之瀬財閥の跡取りになる私が選んだ普通の高校。


勿論、お父様には反対された。それでも兄さんの思いを遂げる為に、期限付きで入学を許可してもらった。今まで通っていた学校は、所謂お嬢様学校。女子中だった私は思春期になって初めての共学。


男子生徒が私を見てくる。それと同時に聞こえてくる


『あの子が一之瀬財閥の子だって』


『一之瀬って天才少女の一之瀬?テレビで見たことあるよ』


私の噂話。どこに行っても『天才』というものが私に付き纏ってくる。私は一之瀬財閥に生まれた天才少女。自分でも理解して、他者からの評価を下げないように私は生きてきた。


それでも、私の知らない人しかいない所でも、ここまで話されてしまうと嫌になる。そんな時


「ねー拓真、早く行こうよー」


「行きたいなら一人で行け、俺は一人になりたいんだ」


とても冷たい瞳をした人。今日見てきた他の人とは違って、何もかもを拒絶した瞳。同類を探して、自分の居場所を確保して、くだらない人間関係を維持する。そんな凡人とは違う人。


私はそんな人を見つめる事しか出来なかった。他の人間なんかどうでもよくなっていた、本当にこの世界に私とその人しか居ないような気がしていた。


あの人なら私を分かってくれる……。何もかもを失ってしまった瞳をしているあの人なら……。


今の私はそんな淡い期待を抱いている。だけど、私が思っていた事は現実にはならなかった。


 ある日を境にあの日とは変わっていった。そんな彼の名前は小枝樹さえき拓真たくま


何かが変わってしまった小枝樹くん。入学式の時の小枝樹くんはとても冷たい瞳をしていて、全てに絶望した表情を浮かべていたのに、最近の小枝樹くんは他人とのコミュニケーションを取り、とても笑うようになった。


私も私で友人を作り、何も不自由ない高校生活を送っていた。私があの時に見た小枝樹くんは幻だったのかもしれない……。


そして少しずつ小枝樹くんへの興味は無くなっていった。


普通の男子高校生、その辺にいる何の変哲も無い凡人。彼の事を気になっていた私、彼ならどうにかしてくれるのではないかと浅はかに思ってしまっていた私。


そんな事を考える毎日は息苦しくて、何の為にこの学校に入学したか分からなくなっていた。気分を変える為に帰り道を変えよう。


どうでもいい思考を掻き消す為に私はいつも使わない学校裏の道を選んだ。そこはとても静かで、誰もいない、風の音がよく聞こえて、夕日が綺麗に輝いていた。


愚かで真っ黒な私の心を浄化していくみたいで、少し悲しくなった。


車も通れないような少し細くなった路地裏、変哲も無い普通の路地裏が、今の私にはとても広く感じた。自分の心が、自分の器が小さいと思い溜息が出る。


一つ溜息を吐き、私は誰もいないであろう校舎へ振り向いた。だけど、そこには


B棟の三階から、何が見えるわけでもない景色を夕日の光で目を細めながら見ている男子生徒がいた。


その生徒の瞳はとても悲しげで、何もかもを諦めた人の瞳だった。無心で見ているの、それとも何かを考えているのか、その表情から察するのは難しかった。


そんな男子生徒を見て私は呟く


「……小枝樹くん」


きっと彼の視界に私は入っていないだろう。だけど、変わってしまったと思っていた貴方は何も変わってなくて、あの日と同じような私と同じ表情をしている。


やはり、私には小枝樹拓真が必要だわ。きっとあの人なら、こんな冷酷で我侭で惨めな私を理解してくれる。


この時の私は本当に、淡い期待をしていたのだ……。







 ザーッザーッザーッザーッザーッザーッ


鳴り響くシャワーの音。


過去の情景が私の心を苦しめて、自分の愚かしさを再認識して、それでも自分の思いを成し遂げたい願いが消えなくて、弱さも強さも無い惨めな私を今は鏡越しに見ていた。


心の中と頭の中でざわつく思考。その思考は流れれば流れるほど、ただの音へと変わっていく。


そんな不愉快な音と頭の上から流れてくるシャワーの音は調和をとれず、ただただ不協和音に成り下がっていった。


そんな雑音の中、私は自分の惨めな姿を鏡で見る。湿気で曇ってしまった鏡を手で拭き、醜い自分の姿を見た。


美しいと言われ続けた白い肌、綺麗だと言われ続けた顔。だけど、今の私の顔は


涙でグシャグシャになっていた……。


本当に酷い顔。鏡の中の自分を見て、少し笑みが零れた。


そんな微笑んだ自分の姿を見て、私は銀色のノブを回しシャワーを止める。


ポタポタと落ちる雫の音がシャワールームに響き渡る。湿気の空気で身体は火照っていて、全ての思考が停止してしまったようだった。


フラフラとしたバランスの取れない身体を力で動かし、私はシャワールームから出た。そして目の前にあるタオルで身体を拭き、バスローブで身を包み、リビングへと戻った。






 暗い部屋、明りを点ける事すら面倒くさいと思っている。


バスローブのままソファーで横になり、私はまた何も無い天井を眺めている。額に右腕を置き、何も考えたくないと思っている私は結局、自分の意思とは関係なく小枝樹くんの事を考えていた。


この少しの間で私と小枝樹くんは何度かぶつかった。感情的になる小枝樹くんを初めて見た時は動揺を隠せず、私も感情的になって小枝樹くんを傷付けてしまった。


それでも小枝樹くんは私に笑ってくれて、『もう独りぼっちじゃない』って言ってくれて、その言葉に救われた私がいて……。


菊冬の件はきっと何か裏がある。それは何となく分かっている。それでも小枝樹くんは菊冬を庇った、私ではなくて菊冬を庇った。


今抱いているこの感情がなんなのかは分からない。それでも、私を選んでくれなかった事が苦しかった。


我侭な私。お嬢様だねと言われればそれを否定する事は出来ない。それだけ、私は温室育ちで、箱入り娘なのだ。


一般の人が簡単に住む事すら出来ないマンションに一人で暮らす私。今の私はお父様の援助が無ければ何も出来ない人間。それでも兄さんの思いを確かめたい。


今の自分の本当の意思を確かめたい。それが私の我侭で、他人を巻き込んでも成し遂げたい願い。


きっと私は小枝樹くんに期待しているんじゃない、小枝樹くんをただ利用しているだけ。なのに、何でこんなに苦しいの……。


私はソファーから立ち上がり、大きな窓辺へ近づく。そこから見える景色はとても綺麗なもので、ロマンティックな男性ならここで告白とかをするかもしれない。


窓に手を当て、私はそんな景色を一人で見つめる。


明りの点いた町並みは賑やかで、私の心とは真逆な表情を見せている。そんな景色が少しぼんやり見づらくなった。


それは私の瞳から流れる涙のせいで、頬を伝わる温かな雫が私の心を表していた。


何も考えられなくなった私は、小さく泣きながら呟く。


「小枝樹くん……」


助けを求めたい気持ちと、他人を利用しようとする気持ちが混ざり合い、思考が混沌と化していくのがわかった……。








 次の日の放課後。


私はB棟三階右端の教室にいる。習慣になっている行動、でもそれだけじゃない。私は小枝樹くんとちゃんと話をしなければならない。


どんな風に接していいか分からなくて、今朝は冷たい態度をとってしまった。だからここで二人で話せるこの場所で、私は小枝樹拓真を待つ。


だけど


待っても待っても誰も来ない。小枝樹くんはおろか神沢くんも牧下さんも来ない。一人で過ごす静かな時間。


ここ最近、こんな事は無かった。誰かしらこの教室に来て楽しく話たり、各々の時間を過ごしていた。なのに


「……どうして誰も来ないの」


この日の私は諦めて、帰宅する事を選んだ。


だけど、その次の日も、次の日も誰も来ない。もう誰もこの場所には来なくて、少し前まで当たり前だった楽しい空間も、もう戻らない。


私は嫌な未来しか想像出来なくなってしまうくらい、心に闇を抱えていた。


一人でいるこの空間が耐えられなくなって、私は教室を後にした。


その次の日、私はとうとうB棟三階右端の教室に行かなかった。誰も来ないあの教室には私は行きたくない。


いや、違う。小枝樹くんが来ないあの教室に行きたくないだけだ。


どんなに遅くなっても小枝樹くんは来てくれた。絶対に私をずっと独りにはしないでくれた。なのに……。


帰るために昇降口に着いた私は、下駄箱から自分の靴を取り出して、上履きと履きかえる。辺りから聞こえてくる凡人達の戯言を聞かないようにしながら。


「一之瀬さん……?」


そんな私に話しかけてくる一人の女子生徒がいた。その子は


白林しらばやし雪菜ゆきな。小枝樹くんの幼馴染でとても可憐な女の子。


身長は女子の平均くらいで、私よりも小さい。明るく染められた髪の毛はいやらしくなく、とても健康的な女の子を象徴しているようだ。


誰とでも気さくに話せる無邪気な子。それが私が思っている白林さんの印象。


「どうしたの白林さん」


「んーなんだろう。何となく一緒に帰りたいなって思ったから声かけた」


呆れるくらい無害な彼女に私は少し動揺した。本当にその場の勢いだけで話しかけてきた白林さん。警戒した私が馬鹿馬鹿しく思えた。


「一之瀬さんと一緒に放課後過ごしたこと無いからさ。というか、あの場所には行かなくていいの?拓真、待ってるんじゃないの?」


その言葉に私は反応した。


「彼は、小枝樹くんはきっと来ていないわ。だから今日は私も行かない事にしたの」


「そっかー。なら今日は女同士、放課後を楽しもうではないかっ!!」


そう言い白林さんは私の手を握り走り出した。


「ちょ、白林さん!?」


「一之瀬さんは、もっと色々な普通の人たちの世界を見た方がいいよっ!!」


笑っている白林さん。私はそんな彼女に何も言えなくて、この今の気持ちが晴らせるならなんだってよかった。






 今私はファストフード店に白林さんといる。


色々な場所に連れて行かれた。ゲームセンターに雑貨屋、服屋にランジェリーショップまで……。そして一息つくために寄ったファストフード店。


私は珈琲を片手に疲れた表情を見せていた。


「いやー、一之瀬さんがあんなに大胆な下着を着けるとは思わなかったよ」


「だ、だからあれは、たまたま目に入って手に取っていただけで、普段からあんな露出の高い下着なんか着けていないわっ!」


そうランジェリーショップでの出来事。






 「ねぇねぇ一之瀬さん。この店見てもいいかな?」


「えぇ、大丈━━」


そんな安易に返事をした私が見た店には、ブラジャーとパンティーが並ぶランジェリーショップだった。


華やかで色々な下着が並んでいる。私は白林さんに手を引っ張られその店に入る事になってしまった。


私はいつも下着はネット注文だから、こういうちゃんとしたお店に入るのは初めてだ。思っていたよりも普通にお客さんがいる。


周りを見渡すと友人同士で来ている人達が笑いながら下着を選んでいた。


そそくさと店内に入ってしまう白林さんの後を、私は追いかけた。そして、目に映った華やかな下着。


ネットの画面でしか見たことのない色鮮やかな下着が並んでいた。マネキンに飾られている流行の下着や、棚に並んでいる物を眺めていた。


緊張は解け、今の私にある感情は驚きだった。小さく映るパソコンの画面よりも手にとって感触までも分かってしまう現実、触れることによって欲しいと思ってしまう人間の思考。


私の下着に対する意識が変わった瞬間だった。


「ねぇねぇ一之瀬さん。こういうのはどうかな?」


白林さんが持ってきた純白の下着、清純なイメージを醸し出す白に、少し派手目のフリルが着いたそれは、女の子らしい可愛さと大人の艶美な雰囲気を兼ね揃えた品物だった。


私が普段つけている下着とは感じが、ゴホンッ、何となく自分の感覚から少しずれた下着だったせいか私は


「もう少し大胆な色でも良いと思うわ」


上から目線で言う私は、こういうお店に来た事がない事実を隠す為、冷静に白林さんの質問に答えた。


「そっか。やっぱり一之瀬さんの意見は違うね。流石だよっ!」


意図せず発言で、私は白林さんの期待に応えられた。そして何が流石なのか疑問に思っていた。私なんかよりも白林さんの方が詳しいのに、流石と褒められてしまった。


というか、白林さんは私がこういう店に来た事がない事実を知らないわけで、今に発言が玄人に見えたのは仕方がない事だ。


本当に玄人に見えたとしたのならば、小枝樹くんが言っていたように白林さんは少し頭が弱い子なのかもしれない。


だけど、私はそんな無邪気な白林さんを見ていて、癒されてしまっていた。こんなにも無欲な人がいたのだと、穢れを知らない少女は無自覚に私を癒していた。


他の品物を取りに行ってしまった白林さん。私は独りで取り残されてしまっているのに寂しくは無かった。


何も気遣いをしない、こんな雰囲気が私は好き。


一之瀬家に生まれて十六年、私は誰から見られても完璧な存在でなければいけなかった。だけど、そんな私に普通の友人同様に接してくれる白林さん。


それがとても嬉しくて、私は無意識に微笑んでいた。そんな時


「やっぱり一之瀬さんは大胆だね」


戻ってきた白林さんの声が聞こえた。だけどその言葉は、私が想像していたよりも遥か上を行っているもので


「大胆って、私はなにもしてないわよ━━」


その言葉を口にした瞬間に、私は自分の手に違和感を感じた。何かを持っているような感覚、何か布地のような紐のような物に触れている感覚だった。


そんな感覚の真実を知りたくて、私は自分の手を見た。そこには


紫色にキラキラと輝いている殆ど紐状の布。これでどうやって陰部を隠せば良いのか分からないような代物に私の手は震えていた。


「ち、違うの白林さん……。こ、これはたまたま手に持っていただけで……」


「やっぱり美少女は大胆な下着をつけるんだね」


あまりにも純粋すぎる白林さんの言葉に私は何も言えなくなってしまっていた。笑顔を見せている白林さんはとても可憐な少女で、私が持っている下着みたいに穢れてはいなかった。


いや、この下着を着けている人や好んで買っている人を批判して「穢れ」といった言葉を使ったのではなく、あまりにも純粋な白林さんを見て比喩として使っただけです。


他意はありません。


「というか一之瀬さん、この下着って本当に隠せるの?」


「だ、だから私はこんな下着穿いてませんっ!!!」







 この様な事柄を経て、今のファストフード店に落ち着いています。


私は珈琲を片手に、白林さんはジュースを片手に和やかな雰囲気で話している。こんな風に外で同い年の女の子と過ごすのは楓くらいで、白林さんは二人目。


楓と違って少しフワフワした感じの白林さんと過ごす時間は新鮮で、今の時間だけ悩みなんか全て忘れてしまっていた。


「それで白林さん、何で私を誘ってくれたのかしら」


そんな辛い事を忘れさせてくれる白林さんに、私は真意を問いたくなった。私の考えている事が間違っていないのならば、白林さんは表情や態度を繕うのが上手な人。


嘘をつくのが上手いと言ったら悪く聞こえてしまうかもしれない。だけど、これでも私は天才と言われ続けている存在。他人の素顔を見抜く事も容易い事。


なのに小枝樹くんの事だけは分からない。彼はまだまだ私に言っていない真実を隠している。


「ふぅ。私の事は雪菜でいいよ。私も夏蓮ちゃんって呼ぶから」


「なら聞きなおすわ雪菜さん。どうして今日、私を誘ったの」


「初めから私は夏蓮ちゃんを嫌ってなんかいなかった。だけど、拓真が夏蓮ちゃんを嫌ってたから、私も嫌いになった」


誰かを癒すことの出来る素敵な笑顔は失われ、何の感覚も無い人形のような表情で話しだす雪菜さん。


「あんなに夏蓮ちゃんを嫌っていたのに、今の拓真は夏蓮ちゃんと一緒に笑ってる。それどころか、あたしに言い訳するのに『一之瀬は何も悪くない』とかそんな風に言ってた」


小枝樹くんが言ったであろう言葉は曖昧で、それでも雪菜さんの言葉は真実味がある話し方で、全てが嘘には聞こえなかった。


「だからね、きっと拓真に知られたら怒られるかもしれないけど、あたしは夏蓮ちゃんに拓真の真実の一つを話そうと思ったの」


「小枝樹くんの真実……?」


「うん。きっとまだ夏蓮ちゃんの知らない拓真の真実。でも、これを聞いたら夏蓮ちゃんはきっと後悔するよ」


笑っている口元、笑っていない瞳。今の雪菜さんの表情は矛盾していて、私を試すような言葉を並べた。


賑わう店内。雑音の多い空間。店内で流れる音楽、楽しくお喋りをしている客、紙や椅子が擦れる音。そんな楽しい空間で私と雪菜さんは真剣で、今の空間は私と雪菜さんしか居ないように感じた。


「後悔って、私はそんな愚かな思考を抱くと思っているの」


「うん。思ってるよ。だって、夏蓮ちゃんだって人間だから。後悔をしない人間なんかいないよ。後悔するから人は強くなれるし、それ以上に苦しむんだよ」


私は天才少女、一之瀬夏蓮。天才だと言われ続けて持て囃され続けた私が今、目の前にいる何ら変哲もない少女に哲学的な思考を植え付けられようとしている。


「それでも私は後悔なんてもうしないわ。あんな苦しい思いはもうしたくないもの……」


「そんなに辛そうな顔されると言いづらいな……。だけどね、きっとその後悔はまだまだ後戻りできる後悔だから」


雪菜さんは、私が兄さんの件で後悔しているのを知っているような口振りだった。もう戻らない私の後悔とは違い、まだ戻れるものだと雪菜さんは前置きをした。そして


「今から言うのは嘘なんかじゃないからね。もしも信じられないならアンちゃん、如月先生に聞いてもらっても構わないよ。如月先生も拓真の過去を知ってる人だから」


強い瞳で言う雪菜さん。その瞳がこれから話す事が真実なのだと伝えてくれている。


小枝樹くんの過去。私が知っているのは、親に『いらない子』と言われた事だけ。その以外にもなにかを隠しているような素振を小枝樹くんは見せた事があった。


私はそんな小枝樹くんの言動を知っていても、過去の情景までは辿り着かなかった。


「じゃあ言うよ。拓真はね━━」


店内の雑音で私達の声は掻き消された。雪菜さんが言った事はきっと、今この店内にいる沢山の人達の中で私しか聞こえてなくて、そんな雪菜さんの言葉に


「う、嘘でしょ……?雪菜さん、冗談にしては本当に笑えないわよ」


「さっきも言ったけど嘘じゃない。これが真実」


「……なら。私はまた小枝樹くんを傷付けて……」


私は雪菜さんが言ったように後悔をしていた。時間が戻るのなら戻って欲しいとも思った。兄さんが死んでしまった時のように。


だけど雪菜さんが言ったいたように後戻り出来る後悔で、私は小枝樹くんに言ってしまった酷い言葉を頭の中で巡らせる事しか出来ないでいた。







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