44 中編2 (夏蓮)
三年ぶりのうpです。
待たせてしまったことは大変申し訳ないと思っております。
昔のようにコンスタントにうpできるわけではありませんが。
もう少しで完結なので、そこまではしっかりと書きたいと思ってます。
では、三年ぶりの続きご覧ください。
さかなでした。
姉さんと別れた私は父様のところに向かっていた。
一之瀬家に行くのは久しぶりだ。どのくらいの広さなのかも定かではないくらい広い土地の中に屋敷に着くまで車を走らせる。
緊張はしていない。ただ、ありのままの自分でいられるのかが不安なだけ。本当の自分が今の行動をとらせているのか、それとも六年もの長い間に浸み込んでしまった天才少女の答えなのか。
後藤はなにも言わなかった。兄さんが死んでからずっと私を兄さんの願いを成就させるために働いてきたのに、今の後藤はなにも言わない。
きっと兄さんなら今の私の愚行を止めるだろう。『夏蓮がすることじゃない。それは僕の役目だ』とか何とか言って、私の決意を台無しにする。
なんでだろう。あんなに大好きだった兄さんなのに、しっかりと兄さんのことを考えれば、少なから言動が分かってしまう。きっとそれは小枝樹くんが兄さんに似ているから。
私の不安を全部自分で背負って、私の業を全部自分の業にしてしまう。それが本物の天才の強さなのだ。
なら、その影で守られている凡人の気持ちはどこにいってしまうのだろう。声にならない叫びを散し、微かにとんだ言の葉は宙に舞って霧散する。それはきっと、とてもとても悲しいことだわ。
辛いというわけじゃない。自分の存在を否定されているわけでもない。ただ、守りたい人に守られ続けるのは胸が苦しくなってしまう……。
こんな気持ちを抱いたままどこまで冷静でいられるのかは今の自分にはわからない。だけど、この事柄が今の自分が成すべきことなのだとすれば、私はそこから逃げることはしない。
だってそうでしょう? ずっと逃げ続けてきた私の背中を支えてくれり大切な人がいるのだから。
覚悟はできた。あとはことを起こさなきゃ答えなんかでない。
「夏蓮お嬢様」
「わかっているわ」
後藤の声を聞く前に車が止まっているのはわかっていた。
その停止は一之瀬家に着いたといこと。私が向かった最果て。
一つ息を吸い、私は車から降りた。すると
「夏蓮お嬢様」
車の窓を開け私の背中に声をかける後藤。その声を聞いて私は踵を返す。
「どうしたの?」
純粋に不思議に思ったのだ。この状況下で後藤が私に声をかけてくる意味がわからなかった。
きっと今の私は少し間抜けな表情を後藤に向けているだろう。そんな私は後藤の言葉を待った。
だが、待てど暮らせど後藤が言葉を発することはない。ただ何かを考えているような表情のまま握っている車のハンドルを見つめていた。
「ごめんなさい後藤。なにも言うことがないのなら私はもう行くわね」
私の言葉が聞こえているのか聞こえていないのかさえ、ここまで言葉を発してもわからなかった。私は数秒間後藤の言葉をまったが返答がない。
それが後藤の返答なのだと理解し私は再び踵を返し歩き出す。すると
「お嬢様、私はお嬢様に秋様の意思を継ぎ奉仕できたのでしょうか」
私の足が止まる。
「本当にこれが秋様の求めていた未来なのでしょうか。大人を武器にし小枝樹様にも佐々路様にも、それだけではございません、お嬢様の友人の皆様に秋様の意思だと言い聞かせては大人には到底及ばないような卑しい行為をしてまいりました。それを考えると、私は本当に夏蓮お嬢様に奉仕を――」
「大丈夫よ後藤」
後藤の答えは聞くまでもなかった。
だってそうでしょう。後藤は私の為に、ううん私達の為に今まで懸命に働いてきたのだもの。そんな後藤の気持ちを無下にできるほど、私は天才じゃない。
「貴方の行動はいささかやりすぎていた部分もきっとあるのだと思うわ。でもね、それが今に繋がっているの。きっと、兄さんが死んでしまったときからかかってしまったている私達の呪いのようなものね……。だからと言って貴方のおこないをすべて許すつもりはないわ」
私は再び後藤へと視線を動かした。
「でも私は貴方に感謝しているの。兄さんの想いを守ってくれたこと、大人として厳しく私たち子供に接してくれたこと。そんな貴方がいなければ、今こうして私がここにいることはなかったと思うわ」
私は笑顔を見せるが、この笑顔が自分ではとてもぎこちないものだと思ってしまう。
きっとこんな風に後藤に笑みを見せたことがないからなのかもしれない。それでも私は精一杯の笑顔を作る。
「お嬢様……」
後藤の手が強くハンドルを握る瞬間を私は見逃さなかった。それだけ力が入っているのに後藤の表情は少しだけ辛そうにしているだけ。
でもわかる。大人には我慢しなきゃいけない感情が沢山あるのだと。
「貴方が何を言いたいのか、きっと今の私には全てを理解することはできないわ。でもね後藤、私は私であることを決めたの。後藤が知ってる、決意を決めたあの日の兄さんのように」
今の私の微笑みはとても頼りないものだろう。正直に自分の気持ちを吐露してもいいのなら、本当は怖い。この先にある現実が私はとても怖くてたまらない。
今だって体が震えそうになっている。その震えを止めるだけで精一杯のとても幼い存在なのだと認識している。
それでも後藤のこんな顔みたら頑張らなきゃしけないじゃない。
私を信じて、ううん兄さんを信じてここまでしてくれた人にちゃんと見せたいじゃない。
一之瀬夏蓮はちゃんと大人になったのだと。
恐怖がないは嘘になる。でもあの閉ざされたお嬢様の部屋の中よりかは怖くはない。
兄さんに憧れて天才に憧れて、失ってしまった私を外の世界に連れて行ってくれたもう一人の天才が私に光をくれた。
それだけじゃない。光以外にも沢山の楽しいや悲しいや嬉しいや苦しいも、全部全部くれた。
そんな彼が今の私の恋人。そんな特別な人がいるのに、これ以上従者に悲しい顔をしてもらいたくない。
だから私は前に進む。
「心配しないでと言えば無理な話になるわ。でもね後藤、私を信じて」
私の言葉を聞いた後藤の表情は、驚いているのか何か同じ景色を見ているように思えた。
それが何なのか今の私にはわかる。
誰もが同じような経験をしているわけじゃない。同じようで少しだけ違う経験を私たちはしている。その少しが分かり合えない理由になり、私たちは理解を諦める。
なのにどうしてなのだろう。理解もしていなかったのに分かろうともしていなかったのに、こうして時間を重ね、こうして沢山の人たちに出会い、そして再びこうして前へと歩くための力を得ている。
そう、だから私は分かっているの。今何をすべきなのか、今私が何をしたいのか。
「これが今生の別れじゃないわ。行ってくるわね」
最後に見せた私の笑みは後藤にどんな風に見えたのだろう。
私が自分で思えるのは、とても柔らかな笑みだと思っている。でも後藤にはそう見えていないかもしれない。
でも今はそんなことどうでもいい。私を信じてくれた人の前で私が私でいられているのだから。
「お帰りをお待ちしております。夏蓮お嬢様」
私は背中で後藤の言葉を刻んだ。
静けさに耳が痛くなったと言ったら大げさになってしまうのかもしれない。だがそれほどこの広い屋敷に音がないのが事実なのだ。
私が生きてきた場所はこんなにも静かな場所じゃない。きっと昔は静かだったのかもしれない。あのお嬢様の部屋は……。
でも私が最近いた場所は、この屋敷からは考えもしないくらい狭くて埃っぽかった。なのにもかかわらず、毎日のように笑い声が聞こえていたの。それはもう、耳が痛くなるくらいに。
そんな情景が浮かび、幻聴だとわかる笑い声がきこえる。私を勇気づけてくれているのはわかる。だが、現実で見えている景色はとても殺伐としていて、なぜ私がここに来たのか理由を知っているメイドたちが機械のようにこうべを垂れているだけ。
背筋が凍ってしまうくらいのおぞましい光景。それが今のわたしの視覚を殺しにかかる。
前へと出そうとしている足が竦みそうになる。重たいその足を動かすのにはとも力を使う。煌びやかな装飾の数々に眩暈まで起こしそうになるしまつだ
それもでとめることはできない。これが私の選んだ道だから。
世界的に行われている映画祭で敷かれるような真っ赤で長い絨毯を踏みながら私はお父様の部屋まで行く。
等間隔に置かれる灯用のランプや、それだけで車を買えてしまうんじゃないかと思えるくらいのつまらい絵画や壺。それらを横目に私は目的の場所にたどり着く。
重厚な扉。私にはそれが威厳を保つための禍々しい子供のおもちゃのように見えた。
一つ息を吸った私の手がおもちゃの扉を静かに叩く。数秒間の時間がたち
「入りなさい」
その声が聞こえ私は扉のノブに触れた。瞬間、たくさんの情景が流れ私がちゃんとここに生きているのだと思えた。
「兄さん、小枝樹くん。行ってくるわね」
ノブを強く掴み、おもちゃには似合わない重たい扉を私は開けた。
たった一人で仕事をするのには広すぎる空間。煌びやかな装飾、温かな色をした灯。豪華絢爛とは言い難いが、仕事をするだけなのであれば分不相応と私だけが思うのであろう。
必要性を感じない装飾を瞳にうつしながら、大きな窓から景色を眺めている男を私は視野にとらえる。
「ここに夏蓮から来るのは珍しいな。いや、もしかしたら初めてだったかな。それで私への要件はなんだ」
優しい声音で言う男。だが振り向いた顔を見れば体が石のようになっていく。
成人した子供がいるとは思えないほどの若さを保った顔、声は低くなく透き通っていると言ってもいい。それだけで妖怪のように思えるのに、男の目を見れば恐怖が体を巡り、逆らえない存在なのだと思えてしまう。
「なにをそんなに緊張している。ここに来たということは何か私に異見ががあるのだろう? それを聞かせてくれ夏蓮」
不敵とはこの瞬間に言う言葉なのだろう。今からの私はこの人に思いを告げるのだ。
何度も起こった足の震え、何度も挫けそうになった心、何度も何度も私は自分を呪った。
恐怖は当たり前のようにある。だが、震えていて何が悪いというのだ。自分の正しいを貫くために震えていた人を私は知っているじゃないか。
震えは止まらない。それでも前に進むんだ。
「異見というわけではありません。ただ、必要性のある人員の無意味な放出と不必要な金銭面の出資に対して話しをしにきました」
「ほう、聞こうじゃないか」
そう言うと豪華な革製の椅子に腰を落とす一之瀬樹。
臆することなく、と言いたいところだが初めから私は蛇に睨まれた蛙。恐怖を否定することはない。
「まず初めにお父様がしていることが利益を考えずに私的な気持ちを挟んだ行動だと思いました」
「それは」
「姉さん、いえ春桜の結婚を急かしているということです」
「どういうことだい」
「これが第一の必要性のある人員の無意味な放出に当てはまります」
ここで一之瀬樹の合いの手がとまる。次の言葉を待つかのように冷静な獣の目で私を睨んでいた。
「なぜ私がそのように思うのか、それは一之瀬春桜が天才だからです」
そう。一之瀬春桜は天才なのだ。
なんでもこなすことができる。誰にだってやさしくできる。全てを手にするだけの能力を持っている。でも姉さんはもうそれをしない。それは何故なのか。
姉さんは兄さんを守れなかった。そしてこの私も守ることができなかった。
その記憶が恐怖へ変わり、姉さんは自身を呪い、そして贄にすることでしかなにもできないと思ってしまった。
今回の婚約者を探す話もそうだ。姉さんが天才であり続ければこんな結果にはならなかった。それだけではない。私が次期当主になることだってなかったのかもしれない。
それほど、私が凡人で彼女が天才なのだと理解できてしまうのだ。
私は思考を巡らせたのち、一つ息を吸い再び言葉を紡ぐ。
「どうしてここで私が自分の地位すら脅かすことを言うのか、お父様にだったら分かりますよね」
「わからないと言ったら」
「もしもわからないというのであれば、しっかりと話し合いをする必要性があると私は思っております」
一之瀬樹の表情が変わった。今までは獣のようなするどい瞳を私に向けていたのに、今の会話で少しだけ人の眼に戻ったような気がする。
その意味を察するに、私の言葉を強引には曲げられないのだと理解したのだ。話し合いをし、私の矛盾や安易な考えを突き、論破しようとしている。そんな卑しい瞳をしている。
私の瞳は獣のような人間の瞳をまっすぐと見ることしかできない。だけどこれが、私の選んだ道なんだ。
「夏蓮の気持ちは分かった。ならここから話し合いをしよう」
一之瀬樹は革製の豪華な椅子に腰をかけ、机に膝をつき言う。まるで裁判にかけられている被疑者のようだ。
だけど、私は負けない。
「はい。まずは先ほど私が言った、必要性のある人員の無意味な放出。それは言ったとおりに姉さんのことを言っています」
「ほう」
「それがなぜなのか。それは先ほど申しましたが、姉さんが天才だからです」
「夏蓮。その意見を率直に聞いて思うことが、春桜は天才だから結婚してはいけないというふうに聞こえるぞ」
「そうですね。確かにそういうふうに聞こえてしまっても致し方がないと私も思います。ですが、その考えは間違っています」
「ほう」
「私も妹として姉さんには幸せな結婚をしてもらいたいと思っています。ですが、今の姉さんは結婚に前向きではない。それだけではありません。今、この瞬間に天才を結婚なんていうもので失うことは一之瀬財閥の損失につながると私は思います」
この意見が私は純粋に正しいと思った。
一之瀬財閥はこれからも大きなことをやっていこうと思っている。それはお父様だって同じだ。なら私のような凡人が次期当主になっても先が分からなくなってしまう。
そこで必要なのがトップではない天才の存在だ。それがわからないお父様ではない。
ならどうして姉さんの婚約を早めようとしているのか。ここからは私の推測でしかない。
もう一度、私を傀儡にしようとしているのだ。
「確かに天才を失うのは惜しいことだ。だが、それだけで一之瀬財閥が落とされることはないと思っている」
ゆっくりと一之瀬樹のペースに変わっている。だけど
「本当にそう思われているのですか?」
「なんだい」
「我が一之瀬財閥はお父様が一人で作られたもの。ですが公の場で私を次期当主にすると宣言なさった。それはどういう意味か、周囲の大企業は小娘をどうにかすれば一之瀬財閥を乗っ取れると考えていると思います。だが、その入り口がなかなかつくれない。そんなところに姉さんという存在が現れた。とくに先見の眼がない者達がそれに群がう。まるでハゲワシのよう」
皮肉を交えたのは私が好戦的だと示すため。その程度の威嚇では引かないという意思表示。
「皮肉が効きすぎているようだね。ハゲワシなんてまるで春桜が腐っているみたいじゃないか」
「えぇ、そうでうね」
私の返答に一瞬だが一之瀬樹の表情が変わったように見えた。
「どういう意味だい」
声音が下がる。
「言った意味そのままですわ。もしも私の言っている意味が分からいのであれば、それは姉さんの婚約が早計だということにも本質的に気が付いていないのだと自分で吐露してしまっているものだと私は思ってしまいます」
「夏蓮。君はここに私を子供じみた侮辱をしに来たわけじゃないのだろ?」
「そうですとも。私はここにお父様と対話をしに来たのです」
「ならどうして、そのような物言いをしているのかな」
「そうですね。確かにこの物言いはお父様が無能だと言わんばかりの言い方をしていますね」
ゆっくりだが確実に一之瀬樹の表情が変わっていく。それは純粋な怒りなのだろう。
小枝樹くんと関わってきたからなのだろうか。少しの表情の変化が私にも手に取るようにわかる。ここが一歩攻める場所。
「先ほども述べた天才の無意味な放出。そしてハゲワシ。お父様がやろうとしていることは、才ある物を死臭を好む卑しい獣に与えるということです。確かにそれだけで一之瀬財閥の地位が脅かされることはないのでしょう。ですが、上質な駒を失い膿を受け入れるということには反対せざる負えません」
空気が張り詰める。まるでファンタジー世界の剣や魔法で戦っているよう。一之瀬樹の無言の重圧は鋭い視線とともに恐ろしい武器へと変わっている。
自分で攻め時と思い一歩踏み出したが、戦場を歩いたことのない私では死線を潜り抜けてきた一之瀬樹の足元にも及ばないのだろう。
自分の喉がコクリと生唾を飲み込む音が聞こえた。
「ふぅ。わかったよ夏蓮。君の願いはなんだい」
樹の言葉で自身の体に緊張が走るのがわかる。
全てを見透かされていた……? いや見透かされていたのであれば今までの会話全てが茶番になる。そんな無駄な時間を樹がするわけがない。攻撃的に全てを支配する。それが一之瀬樹。
「夏蓮。君が話したいのは春桜の婚約の話だけではないのだろ。さぁ、君の覚悟をみせてはくれないか」
後の先を取られた。だけどこうなることを少しは分かっていた。ならわたしが出来ることをすべてやればいい。
「そうですね。私が話したいこと全てを話したわけではございません」
「聞かせてもらおう」
「姉さんの婚約の件は少なからず理解だけはしてもらったと解釈します。では次の議題です。今回私が通っている学校へと融資をお父様はしました。その件、この先は私に一任させてもらえないでしょうか」
再び樹の顔が強張る。
「どうしてそう思ったんだい」
「はい。ただ純粋に融資をするのであればそれは単なる慈善活動にすぎません。もしも一之瀬財閥が少なからず金銭を持っている学校に慈善で融資をしてしまえば、瞬く間にほかの学校からも無償での融資の話が持ち上がるでしょう。そんな状況に陥ってしまえばいくら一之瀬財閥だとしても無償で融資をしなくてはいけなくなります」
無言で私の話を聞く樹。
「それはたんなる損害です。利益をもたらさない者へ対しての融資など百害あって一利なし。ですが今回の融資、手のひらを返したかのように無かったことにすれば一之瀬財閥の名前に傷がつく可能性だってある。ですが、私に今回の件を一任してくださるのなら今の二つのマイナスな要因を回避することが可能です」
「どういうことだい」
「まずは私が通っている学校というのがあります。それは融資をするのには十分ではないとしても理由に上がってもおかしくない。ですがこれだけではやはり不十分。そこで私への一任です。もともと身勝手にさいをなげたことにするのです。そして途中から私に件を一任すれば、次期当主を育てるという名目になります。そうなれば他校からの融資の話しはなくなり、無意味に融資をしたことにもならない。一之瀬樹は後継者を育てるために大きな金銭を動かした、という事実だけが残る」
紙一重なのはわかっている。樹がこれで引かないことも、ここで引くのなら企みがあることも。
「確かに夏蓮の言っていることは間違いがない。だが、その事実があったとしても私が関われば改変なんて造作もないことだよ」
樹の言っていることは尤もだ。この人の力を使えば、私が言いだした小さな可能性なんてものは一蹴されてしまうのだろう。それでも今の樹には妥協したい理由がある。
「だけどね夏蓮。私はなにも君の意見を聞かないというわけではないのだよ」
やっぱり。
「君が君なりに君の答えを出した、その対価を教えてはくれないか」
「私の対価……」
「そう。夏蓮が成し遂げるために必要な、私へと支払う対価だ」
私は樹の瞳を強く見た。その姿は、もしかしたら弱者が強者へと向ける弱々しい視線なのかもしれない。
樹の表情が勝利を確信したように、先ほどまでの怒りが抜けていくのがわかる。
「私が支払う対価の話の前に、少し話をしてもよろしいでしょうか」
「あぁ、かまわないよ」
「六年前、いえ年を越してしまったからもう七年前と言ったほうがいいかしら。それは私の誕生日に起こってしまった悲劇。あのシェイクスピアなら、このようなつまらない悲劇は作らないでしょう……」
あのひのこと。白と赤で塗りつくされたキャンバスのこと。
「あの日私は大好きな兄さんと買い物をしていました。そうしたら悪戯な風が私の帽子を飛ばしたの。それを追いかけた兄さんは車に撥ねられ命を落としてしまった」
再び無言で私の話を聞く樹。
「だけど、記憶の片隅を思い出せばあの事故は不可解なことが多数ある。でも今それを言ったとしても宙に霧散し消え果てしまうのが流れなのでしょう。だから結論を言いたいと思います」
みんなごめんなさい。小枝樹くんごめんなさい。私は私のやりかたで未来を紡ぐ。
「あの日、お父様が何を考え、何をしようとしたのかは私は言及いたしません。真実は霞、なにもなかったようになってしまった今の事実を私は受け入れます。ですが、もしも私が想像していたことが真実なのであれば、一之瀬樹には欠落があります」
「……ほう」
「それは、天才に恐怖しているということです」
「夏蓮。それは少し言い過ぎ―――」
「言いすぎでないのです。一之瀬秋という高い能力を兼ねそろえた跡継ぎがいなくなり、なのにもかかわらず、それと同等な能力をもっている一之瀬春桜を手放そうとする。それだけではありません。天才の春桜ではなく、凡人の私を次期当主へと誘おうとしていることが、天才を消そうとしている事実になる」
お父様の話を遮り私は話す。
「ここまでなら身内の話になり言い訳を簡単に並べられてしまうでしょう。ですがあなたは最も重大なミスをいた。それは、小枝樹拓真に固執してしまったということ」
兄さんや姉さんを迫害することだけで私の意見はまかり通る。でもそれだけで崩せるほど樹は弱くない。だがそこに、全く関係のない天才が介入してきたらどうだろう。
彼の中ではいなくなった天才、そして懐柔した天才しかいなかったのに、自分の力の及ばないイレギュラーな天才。小枝樹拓真を放っておくことはしない。
彼は私同様、とても臆病で繊細な凡人なんだ。
「ここまでの話を聞いてもらって感謝しています。そして今お父様が求めていることは、過去や天才に対する言及ではなく、私の対価なのでしょう?」
もう大丈夫だ。
樹の表情が私の話を少なからず受け入れなくてはいけないと悟った表情をしている。
あとは天才少女らしく気丈にふるまえばいい。
「私がお父様に支払う対価は―――」
息を吸う。緊張をほぐすために。そして私はさらなる一歩を踏み出す。
「支払う対価は、私です」
「ほう」
「私が今の願いを聞いてもらうための対価です」
みんなはきっと怒ってしまうかもしれないわね。でも小枝樹くんならわかってくれる。
天才少女と嘘をつき、凡人という事実を隠し続けた、天凡な私を。
「いまここで答えをださなくても大丈夫です。ですが、よい返答を期待しております。では、失礼いたします」
深々と頭を下げ、私は樹へと背を向けた。退室するための扉までは数歩。そして私は扉のノブに手をかける。
「夏蓮」
お父様の声で扉を開くのを止める。
「今、君が言った条件は私の傀儡になるということになる。それでもいいのかい?」
ここで逃がしてはくれないのが樹の力。でも
「何を仰っていますのお父様。私がこの扉のノブに手をかけた瞬間から、お父様が有利になる対話は終わっているのです。今のお父様は選択をしなくてはならない」
背を向けたまま私は言葉を紡ぐ。
「選択? 私は何を選択しなきゃならないのだい」
「一之瀬財閥を一代でここまで大きくした人なのに、今のお父様いはこんな簡単なこともわからないのですね。なら教えます」
私は樹へと振り向いた。その瞬間に見える樹の表情は怪訝にあふれていた。
「お父様、いえ一之瀬樹が選択しなくてはいけないことそれは、私を得るか失うかです」
言葉を聞き樹の瞳が睨むように細くなった。だが、それも一瞬ですぐさま普段の樹の表情へと戻っていく。それと同時に無言が答えなのだと理解した。
「もう一度言います。よい返答を期待しております」
私は再び頭をさげ、扉のノブに手をおく。その行動をしても樹から言葉が発せられることはなかった。私はそのまま元の世界へと戻っていった。
※
どれくらいの時間、私はあの空間にいたのだろう。解放されたというのに時計を見る気力すら湧かない。
虚ろな意識で出口まで歩いたのは分かる。途中途中でメイドたちが私を出口まで誘ってくれたこともなんとなくわかる。
それはきっと樹の命令なのだろう。樹の命がなければ、ここにいる人たちの大半がただの傀儡だ。
だが、無事に外までこれたということは先に述べたことがほぼほぼ事実なのだとうなずける。
屋敷の外にでた私は、一つ大きく息を吸った。
とても冷たくて澄んだ空気。大自然を感じているわけではないのに、あの空間から抜けるだけでこんなにも空気が澄んでると感じてしまう。それほど、あの空間と樹という人物が異質なのだといやでも理解できる。
でもまだ、これで終わりじゃない。私にはまだやることが残っている。
「お嬢様」
「後藤」
聞きなれた安心できる声。私の帰りを待っていてくれた信頼できる人。
「待たせて悪かったわね」
「とんでもございません」
私の体調を心配しているのか、はたまた従者としての役割を全うとしているのか、後藤は運転席から降りて車の扉を開けようとしていた。
「大丈夫。このくらい一人でできるわ」
私は後藤の好意を制止した。
「ですが」
「本当に大丈夫だから。それよりも今日は疲れているの。だから早く家まで送ってちょうだい」
「かしこまりました」
私の意思を汲んでくれたのか、後藤はそれ以上何も言わず運転席へと座った。
そんな私も疲れている体を車へと落ち着かせる。
走行中の後藤は何も話さない。私が疲れているのを知っているからだ。その優しさが今はとても心地が良くて、私は最愛の人を思い描きながら夢の中へと誘われる。
そう、小枝樹拓真を想いながら……。