44 中編1 (夏蓮)
もう少しで冬休みが終わる。そうすれば、また私の当たり前な生活が日常という名で戻ってくる。
この休みの間に小枝樹くんと会えたのは一度だけ。それは互いが会わないようにしているとか、そんなマイナス的なことではない。ただ、私が忙しいだけだ。
多忙という言葉を使っていいのかはわからない。だけど冷静に今の自分を分析すれば疲れきっているということだけは確かなようだった。
学生の本分は勉強だというのに、今の私は一之瀬財閥の仕事に追われている。ただ父様の後ろを付いて歩くだけの簡単な仕事ではない。今後、私が一之瀬財閥の当主となることを知っている人達への挨拶や、仕事の概要、もっと言ってしまえば学生の私も含めた取引の話までしていた。
十代の私に意見を求めてくる大人の姿は滑稽に見えてしまう。だが、そんな大人達は私のことを天才少女だと信じている。だからこそ、普通の女子高生への対応とは違い意見を求められてしまう。そこには一之瀬財閥次期当主という肩書きも含まれるが、天才少女という肩書きのほうが目立っているだろう。
考えれば考えるほど馬鹿げた話だ。でも私は一之瀬財閥の次期当主。その馬鹿げた大人の世界に否が応にも入らなくてはいけない。
だけど、本当に今は疲れている。
会議とは名ばかりの接待が終り、私は家に向かっている。父様とは別々の岐路。私は後藤の運転している車に乗り込んだ。
「お疲れのようですね。夏蓮お嬢様」
後部座席に乗り込むと後藤が話しかけてくる。
「そうね。冬休みに入ってから自由な時間があまりなかったから、少しだけ疲れているわ。後藤はどう? 疲れてはいないかしら」
疲れているのは確かだが、他者を心配できないほど追い詰められているわけではない。少し苦笑いをしながら私は後藤に聞いた。
「お心遣いありがとうございます。私は大丈夫で御座います」
バックミラー越しに後藤の笑みが見えた。その笑みを確認した私は
「そう。それならよかったわ」
それからの車内に会話はなかった。ただ流れていく人工的な色とりどりの光を眺めながら小枝樹くんのことを思った。
もっと抱きしめていて欲しかったとか、もっとキスをしていたかったとか、初めての夜の温もりがまた欲しいとか、色々。
はしたなく下品な妄想だってする。彼の吐息を思いだし体だって疼いたりする。
これが大人になった証明だなんて思わない。でも小枝樹くんの全てを求めてしまっている事実だけは否定したくない。今の私には大人と子供の区別すら分からなくなってしまっている。
そんなことを考えているときだった。
不意に鳴り出す私の携帯。画面を見ると姉さんと表示されていた。
「はい。もしもし」
「おぉ出たな。もう仕事は終わっているのか?」
「えぇ、今さっき終わったわ。それで何かようかしら姉さん」
「あぁ、少しお前と会って話しがしたくてな。もし今から大丈夫なら会って話しでもしないか?」
急な姉さんの申し入れ。一瞬なにか嫌なことを話されるのではないのかと不安にかられる。それだけではなく、今の私は疲れている。今日じゃなきゃいけない理由がないならこのまま帰ってベッドにダイブしてしまいたい気分だ。でも、
「えぇ、大丈夫よ。だけど今日は疲れているからあまり長い時間は無理かもしれないわ」
「それでいい」
私と姉さんは会う約束し電話をきる。後藤に行き先を告げ、また車内は静寂に包まれた。
姉さんに言われた場所。そこは有名なフレンチレストラン。ドレスコードがあるようなお店ではないけれど、何回か来ている私が味の保証はしよう。
車の中で少し乱れたスーツを直し車から降りる。店内に入るとボーイが近くまで来るが、私の顔を見るなり奥の方へと案内をはじめた。
常連ではないものの、天才少女として、そして一之瀬財閥のお嬢様として顔は知られているみたいだった。
個室の部屋に案内され中に入ると姉さんがすでにいた。
「思ったよりも早かったじゃないか」
「近くにいたからね。それで、話しがしたいなんてどうしたの?」
言いながら私も席に座る。
「まぁいいじゃないか。せっかくの姉妹水入らずだ。ゆっくり話そう」
姉さんの意味深長な言葉を聞き怪訝な表情になりそうになるのを押さえる。
その後は料理を食べながら、本当に他愛のない会話をした。
最近の仕事のこととか、学校のこととか、小枝樹くんとのこととか。そして再び同じ台詞を私が言ったのはデザートが運ばれてきたときだった。
「それで、姉さんは私と何を話したかったの」
「まぁ、そうだな、うん。何が話したかったとかじゃないんだ。ただ夏蓮とこうして食事をして普通の会話をして姉らしいことをしたかっただけだ。他意はない」
どうしてだろう。普段となにも変わらない姉さんだと思えるのに、どこか遠くに行ってしまいそうな危うい雰囲気が拭えない。
このまま姉さんが私の前から……。
その時思い出されたのは、姉さんの婚約の話だった。
去年の終りごろ、姉さんの誕生日におこなわれた、誕生日パーティーというなの婿探し。あの時の私は父様に異見をしたが、本物の天才ではない私は何もできなかった。だけど今でも、本当は姉さんの力になりたいって思っている。
「他意はないって言っているけれど、私にはなにかあるようにしか聞こえないわ」
デザートに手をつけることはない。それと同時に運ばれてきたコーヒーに手を伸ばすこともない。ただ姉さんの顔を真っ直ぐと見つめながら言葉を紡ぐだけ。
「本当に他意はないんだ……。ただこのまま時間が流れれば、こういうふうに夏蓮と共有する時間が少なくなってしまうからな。どうしてだろうな。自分で決めたことなのに、私はこの時間がとても愛おしく感じて、願わくば永遠に続けばいいなどと、淡い夢想に浸りそうになってしまう。いつから私はこんなにも弱くなってしまったのだろうな……」
永遠に続けばいい。きっと誰もが楽しい時間や愛おしい時間の中、そういうふうに夢想してしまう。私だって楽しい時間が永遠に続けばいいって思っていた。だけどそれは現実から目を背ける結果になってしまい、何も生み出さず何も解決できない。
だから私は前に進もうと思った。最愛の人ができたし、大好きだった兄さんの気持ちも分かった。私の願いは成就している。それだけ私は簡単に前に進むことができるんだ。
「姉さんはとても強い人よ。私の憧れだし頼りになる人。ずっと姉さんに甘えていたいって本気で思ってしまうときもあるわ。でもね姉さん、貴女の妹は姉を支えられないような腑抜けに見えるかしら?」
「夏蓮……」
「確かに私は兄さんが死んでしまってからずっと独りぼっちで誰にも頼ろうとはしなかった。でも姉さんはそんな私のことを影でずっと守ろうとしてくれた。姉さんの誕生日にとき、私は姉さんを守りたいって思ったのに、結局私が姉さんに守られてしまう結果になった……。でもやっぱり私は姉さんを守りたい」
今の私は姉さんの誕生日のときと違い、姉さんを守る術を知っている。もしかしたら姉さんは怒るかもしれない。でも、私のやりかたが間違っているとは言わせない。
「あの時も言ったが、自分の身の丈以上のことをするな。夏蓮には荷が重過ぎる。私は構わないのだ。こうして夏蓮と過ごす時間が少なくなってしまうのは残念だが、完全になくなってしまうわけではない」
「それでも私はやるわ」
「いい加減にしろ夏蓮っ!! 弱さを見せてしまった私にも非はある。だけどお前には私を救えやしないっ!!」
「そうかもしれないけれど、私はやるわ」
「どうして分かってくれないんだっ!! 私はこんなふうにお前と口論をしたくて呼んだんじゃない。もっと楽しく、もっと昔みたいに……」
真っ白なテーブルクロスを握り締め、姉さんは俯く。微かに見えた姉さんの表情は、眉間に皺を寄せ、悔しそうに苦しそうに強く唇を噛み締めていた。
けれど私は違う。真っ直ぐに姉さんを見て、今の気持ちを真っ直ぐに姉さんに伝えるだけ。
「昔のようにはいかないわ」
「夏蓮……?」
私の言葉を聞いた姉さんは顔をあげ、悔しさや苦しさが恐怖に変わってしまった怯えた表情で私を見る。
「昔のようにはいかないのよ。私達は日々成長していって、子供のような夢想を描きながらも大人の世界を生きるために色々な術を身につけていく。昔のように無邪気なままでいられれば、それはもしかしたら幸福なのかもしれない。昔のように兄さんもいて皆で笑いあえていればとても幸福なのかもしれない」
そう。私が求めていた本当の未来。姉さんがいて菊冬がいて兄さんがいて私がいて……。それで陽だまりの中、皆で笑っているの。沢山の思い出を作っているの。
でも、その未来があったとしたのならば、そこに小枝樹くんはいない。雪菜さんも楓も、優姫さんも神沢くんも、門倉くんも城鐘くんも、斉藤さんも崎本くんも……。
今の私を形成するにあたって必要だったすべてが、そこにはないんだ。
「でも、兄さんはもういないわ。兄さんは死んでしまった。私の大切な場所は一度六年前に壊れてしまっているのよ。それはもう二度と戻ってこない昔のこと。だけど今は違う。まだ何も壊れてなんかいないし、これからだって私が壊させたりなんかしない」
そうよ。絶対に誰にも壊させやしない。
「私はね姉さん。兄さんに本当の自分を探すための問いを六年前にもらったの。それは私の心を苦しめるのには十二分すぎるほどの問いだったわ。私は悩んだ。悩んで苦しんで道を間違えて、独りでいじけて部屋に篭ったまま出ようともしなかった。でもね、そんな私に答えを教えてくれたのは皮肉にも兄さんと同じ天才だったのよ」
無言のまま姉さんは私の言葉に耳を傾け続ける、
「この六年間はとても苦しかった。私は一之瀬財閥の次期当主に選ばれるし、天才少女なんていう肩書きまでつけられて、本物の私なんかどこにもいなくて……。でも小枝樹くんが本物の私を教えてくれた。それはこの六年間の苦しみがなかったら出会えなかった。だから私は身の丈以上のことをするの」
誰かを守りたいなんていうのはきっと傲慢なのだ。そこには相手の気持ちなんか存在しなくて、自分の気持ちだけが具現化してしまっているだけの独り善がりにすぎない。
だけど彼は違った。独り善がりのワガママを貫き通して自分の願いも誰かの願いをも叶えてしまう、本物の天才。
今思えば兄さんだって彼と同じだったんだわ。妹の私のことが大好きで妹の姉さんのことが大好きで、自分の周りにいるすべての人が大好きで……。そんなみんなの笑顔を守りたかったから、自分のワガママを押し付けたのよ。
小枝樹くんに出会って、兄さんの真意を知らなければ、私は兄さんのことを天才として偶像化し神のように崇めることしかできなかったと思う。
でも兄さんは神様なんかじゃない。私と姉さんが喧嘩をすれば困った笑みを浮かべて、私が泣いていれば本気で心配して、優しく微笑んでくれる。
兄さんだって小枝樹くんだって、きっと凡人の私となんら変わりはしないのだと今はわかるから……。
「だって私の大好きな人と最愛の人は、自分勝手を貫き通すことのできる、愚かな天才なのだから」
また迷ってしまうかもしれない。自分の意思を貫き通せなくなってしまうかもしれない。それでも今は、この言葉に迷いはない。
「夏蓮……、お前を強くしたのは秋と拓真なのか」
話し出した姉さんの言葉は、とても静かな声音で、そして真実を聞きたがっている問いだった。
「えぇ、兄さんと小枝樹くんは本当に私にとっては特別な存在よ。でもね、それだけじゃない。きっと沢山の人たちが私のことを心配したり、私のことを大切だと思ってくれたりしたから、今の私は私でいられるの。姉さんだって、その一人なのよ?」
席から立ち上がり、私は姉さんの隣にいく。座ったままの姉さんは不安げな表情のまま私を見上げていた。
そんな姉さんを見て、私は私に問いかける。
本当に今の私には不安はないのであろうか。私がすることで誰かに迷惑がかかってしまわないだろうか。それ以前に、私の選択は間違ってはいないのであろうか。
他者の不安は伝染する。姉さんの不安が今の私に伝染し決意を鈍らせる。だが、それは姉さんのせいにしているだけであって、幻にすぎない。
掻き消すことのできない不安を私は飲み込み笑みを浮かべる。きっとぎこちない。姉さんには嘘だってばれてしまうかもしれない。それでも私は姉さんに安心してもらいたい。
「だから姉さんは何も心配しないで、今までどおりの姉さんでいて? 私が姉さんを守るから」
「夏蓮……」
姉さんの声音は今にも泣き出してしまいそうなくらい震えていた。だけど、私の決意を理解してくれたのか、真意に気がついてくれたのか、姉さんは私の名前を呼ぶだけで止めようとはしてこなかった。
そして私は
「それじゃ姉さん、私はそろそろ行くわね」
「どこに行くんだ……?」
「少し用事を思い出したのよ。それに言ったでしょ。姉さんは私が守るって」
「……そうか」
もう姉さんは私の瞳すら見てくれなかった。何かを諦めてしまったように項垂れ、力なく椅子に座り続けるだけだ。私は姉さんが何かを言うのではないかと思い待つ。だが、姉さんは何も言わなかった。
そして私は姉さんをこの場に残し室内から出る。後藤を呼び車をこさせ、私は後藤に言う。
「お願い、父様の、一之瀬樹のところに連れてって頂戴」