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天才少女と凡人な俺。  作者: さかな
第九部 冬休み 刻マレル証
130/134

43 中編 (夏蓮)

 

 

 

 

 

 

 想いの欠片が一つずつゆっくりと重なり合う。幾重にもなったソレは私の心を満たしていくような感覚と、何か大切なモノを奪われる感覚が混ざり合っていた。


 身体に痛みが奔り幸せを感じれば、熱くなった身体が更に熱くなり想いも抱きしめる力も強くなる。


 離さないで、私をこのまま離さないで……。


 強く願った望みが現実になっていると、私の耳元で語ってくれるのは彼の荒れた吐息。次第に汗ばむ彼の身体と私の身体。繋がりあえた喜びを感じながら獣のように互いを求め合う。この世界の終りとでも言わんばかりに、夜の空に燦然と輝く月が私達を照らし感情の海へと溺れていく。


 本当にこのまま世界が終わってしまえばいいと子供のような思考を浮かべながらも、大人が味わう甘美な現実を私は離そうとしない。


 痛みは快楽に変わり、頭の中が彼色に染まっていく。溶け合い全てが一つになれば、夢心地の世界が私を優しく包み込んでくる。


 果てる瞬間は同時で、息が上がり想いが伝われば二人の静かな時間が訪れる。直接感じる彼の温もりは私の身体のすべてを包み込み、安らぎの時間を与えてくれる。


 何度も何度も唇を重ね、何度も何度も愛の言葉を囁き合う。


 そうしていると、気がついた時には彼の寝息が聞こえてきて、私は彼の頭を撫でながら言うの。


「本当に、愛しているわ。小枝樹くん」


 自分の心の中に出来た覚悟が、私の言葉を重くする。愛しているから殺す。なんて言葉が物語の中にでてきたりするけれど、私は違う。愛しているからこそ、幸せに生きて欲しい。


 当たり前な感情がいつからか当たり前ではなくなり、とても特別な感情なのだと私の血潮が騒ぎ出す。


 私の選択なんて初めから一つしかない。ただこの当たり前だと思えない幸せな時間を、もっともっと感じていたいと思うワガママな自分に苛まれているだけ。


 だから私は言ったのよ。


『私に貴方の証を刻んで欲しい』


 その言葉にどんな想いが乗せられているのかなんて、きっと小枝樹くんには分からないわよね。でも、もしかしたら貴方は天才だから気がついているのかもしれない。


 どこまでも自分勝手な願いを浮かべている私は、天才に憧れた一之瀬夏蓮に戻ってしまっているのだと理解しているわ。でもね、きっとそんな物語のようなハッピーエンドをこの世界では求められていない。


 自分以外の人達が幸せになっているのなら自分が不幸になるのが道理だもの。私一人が不幸になって世界中の人が幸せになるなんて、そんな傲慢なことは考えてない。


 だた、貴方だけには……。小枝樹くんだけには幸せになってほしいの。その幸せな空間に私がいなくても、貴方の記憶からはゆっくりと消えていなくなってしまうわ。


 だから心配しないで小枝樹くん。私は一人でも、もう大丈夫だから……。


 自身の現実と離れてしまっているような曖昧な思考を浮かべながら、私は小枝樹くんの腕の中で眠りに落ちていく。





 穏やかで優しい夢を何度も見た。暗く残酷な夢を何度も見た。


 それは私の願いが形にならない事を示していて、過去の呪縛から解放されたいと願う私もいたからだ。


 抱きしめられる感覚を思い出せば涙が流れ、死が別つあの日に触れようとすればすり抜けていって、目が覚めたとき貴方の寝顔が横にあれば私は苦しい微笑を浮かべる。


 とても可愛らしい寝顔。子供のように無邪気な顔をしている。まつげが長い。普段はとても男性らしいのに近くでよく見れば女の子みたいな顔してる。愛おしい貴方。


 起こさないようにゆっくりとベッドから出て時計を見る。そのあとにカーテンを少し開け外の景色を見た。


 遠くのほうで朝日が希望を掲げながら昇ろうとしている。朝の靄が日の光を反射させ幻想的な世界。まるで海の上にいるかのような静かで心地の良い世界。


 寝起きの私の身体は冷えるのがとても早かった。すこし身体を震わせ私はカーテンを閉める。歩き始め寝室から出る。昨日の事を思い出して頬を赤く染めるようなことはない。


 リビングには一瞬の幻影が広がり消えていく。シャワールームへと足を運び、私はつけている下着を脱ぎ捨てた。


 身に纏っていた衣類はそれだけ。シャワールームに入り取っ手を捻る。キュッキュッと甲高い音が響き渡り、瞬間つめたい水が私の身体に触れる。


 何も感じない。どうしてなのかさえ今の私には分からない。ただ分かるのは、幸せな時間を過ごしているのにもかかわらず、虚ろな表情をしている自分の姿が鏡にうつっているということだけだった。


 しだいにシャワーからでてくる水が温かくなる。なんの温もりも感じない温かさ。私はソレを頭から被り自分の身体を奔る幸せの苦痛と、この先に訪れる愛した人の幸運を想像し虚ろに浸っていた。


 水の流れる音は私の心に響き渡り、落ちいう雫は私の耳を痛める。


 全てがうまくいかないなんてわかってる。だけど、これだけは絶対に成し遂げなきゃいけない。


 結露ができた鏡に手を触れ私は願いを言霊にした。


「どうか、小枝樹くんが笑っていられますように」


 私の声はシャワーの音に掻き消される。誰にも届かない私の純粋な想い。これが叶うときにはきっと私は小枝樹くんの隣にはいない。だけど私はここで止まれない。


 本当の一之瀬夏蓮を小枝樹くんが見つけてくれたから。


 次に鏡にうつった自分は虚無から覚めた強い意志を持つ者に見えた。髪の毛は濡れ毛先から雫が落ちる。シャワーの水音が響き渡っている現状は何も変わらない。


 だが、今目の前にいる私という存在はいつのときよりも強く凛々しい天才少女なのだと自分で思ってしまった。


 これが天才少女の一之瀬夏蓮なのだと、これが私の求めた天才の姿なのだと。


 瞬間、笑みが零れる。微笑なのか苦笑なのか分からない。意味深長な自身の笑みを見つめながらシャワーを止める。


 バスルームから出たあとは何も考えなかった。普段どおりに身体を拭き髪の毛を乾かし服を着てリビングに戻る。


 寝室の中を少しだけ覗き込むと、未だ夢の中にいる小枝樹くんの姿があった。そして脳裏を巡るのは、この先に同じような現実が訪れるのかという疑問。


 だが、それを考え出したらキリがない。私はこの瞬間を大切な時間にしたい。


 ゆっくりと寝室の扉を閉め私はキッチンへと向かう。


「さて、朝食の準備でもしようからしら」


 今の私は貴方の彼女。伴侶になることが出来ないとしても、今だけは私のワガママを許してもらえるかしら。ねぇ、神様。

 

 

 

 

 朝食はとてもシンプルなもの。トーストにベーコンエッグ、グリーンサラダにコーヒー。


 フライパンにベーコンと卵を入れて火が通るのを待つ。ゆっくりとパチパチ、パチパチと音をたてながらベーコンの良い香りが鼻腔を刺激する。


 食パンをトースターにセットしてポットのお湯を確認する。切り終えた野菜の水をきり食器に盛ると彼が寝室から出てきた。


「ん、ふぁ~。良い匂いだなぁ」


 大きなあくびをしながら寝癖であちこち跳ねている髪をワシャワシャと掻き彼は呟いた。


「もう少しで朝食ができるわ。顔でも洗ってきなさい」


「ん? 朝飯か? どおりで良い匂いがしてたわけだ」


 他愛の会話。それが本当に幸せな一瞬で、私は彼に微笑みそれに応えるように彼も寝起きの優しい微笑みを返してくれる。


 小枝樹くんがリビングから出て行くのを確認し私は朝食の準備に戻る。こんなに楽しく料理をしたのはいつぶりだろう。小枝樹くんにお弁当を作った以来かしら。


 お揃いのマグカップとかはないけれど、いつか……。


 だめ。どうしても決意が鈍ってしまう。とても幸せなこの瞬間が私の背負った重荷を忘れさせてくれる。だけど、私は姉さんを救いたい。天才少女の一之瀬夏蓮ではなく、一之瀬春桜の妹の一之瀬夏蓮として。


 でも、きっとこんなことしたら姉さんは怒るでしょうね。それだけじゃない、小枝樹くんも他の皆もきっと怒ってしまうわ。だけど、その怒りは私の事を考えてくれているという証。私の中にちゃんと刻まれた絆。


 考え事をしている間にトーストもベーコンも焼きあがり、お皿に盛り付けてテーブルへと運ぶ。そうこうしているうちに小枝樹くんが戻ってきて朝食を食べ始める。


 小枝樹くんは「うまい」を連呼しながら男の子特有のガツガツとした品のない食べ方をしていた。私はそれを見ながら微笑み、最愛の人と一緒にいれるこの時間を大切に感じていた。


 食事を終えた小枝樹くんはシャワーを浴びるといいリビングからでて、私は食べ終わった食器を片付ける。少しの時間が経ったのち小枝樹くんが戻ってきて二人でソファーに座る。


 再び淹れたコーヒーの湯気がたゆたうなか、小枝樹くんが口を開いた。


「なぁ一之瀬、今日も忙しいのか?」


「今日は一日なにもないわ。でも明日からは冬休み明けまで分刻みで用事が詰まっているわね」


「そっか。なら今日はデートでもするか」


「デート?」


「そうそう。ほら俺ら付き合ってからまともに会うのも今日が初だし。初デートと洒落込んでみませんかお嬢様」


 悪戯な笑みを浮かべる小枝樹くんが今の私にはナイト様に見えて、鳥篭の中から連れ出してくれるたった一人の存在なのだと改めて理解する。


 私は小枝樹くんの申し出に笑顔で頷き、二人でいそいそと支度をはじめた。





 空がとても広く感じた。雲一つない晴天は太陽の暖かさをいつも以上に伝えてくれて冬の寒さを忘れさせてくれるほど暖かいと感じる。


 隣に歩いている小枝樹くんの手を握れば、太陽とは違った温かさが私の身体に巡ってきた。


 初めてのデートは特別なもの。だけど私達にはもう特別なことなんてないのかもしれない。マンネリ化したカップルとは違い悲観するようなことでもない。私達にとっての特別はもっと他にある。


 当たり前のように過ぎていく風景は時間を忘れさせてくれるものばかりだった。


 カフェでお茶を飲み甘いケーキを食べる。民族系の雑貨店で木彫りのキーホルダーを見て笑う。疲れたらベンチに座り行きかう人を眺めがなら他愛もない会話をする。


 高校生。そう、私達は高校生なんだ。


 特別なものなんて何も持たない高校生。もしも特別なものが私達にあるのだとすれば、小枝樹くんは天才で私は財閥の娘。


 ただそれだけ。


 もしも私達のことを特別な人だと思う人がいるのであれば言いたい。


 どんなに特別なものを持って生まれたとしても私達だってただの人。苦しい気持ちも抱けば楽しい気持ちも抱く。大好きな人が笑ってくれれば自分も笑えるし、逆に悲しそうな顔をされれば自分も悲しくなってしまう。


 自分にないものを持っている人が羨ましくなるときだってある。私は天才の小枝樹くんに嫉妬していたんだって今なら思える。小枝樹くんだって天才である自分を嫌いになって努力して凡人になろうとしていた。


 人間が無い物強請りの生き物なのは重々理解している。でも、だからって自分の持たないものを持っている人間を特別扱いなんてしちゃいけない。だって


 同じ人だから。


 冬の風が私の髪を靡かせた。晴天で暖かいと言っても時間が過ぎ陽が傾けば冬の風は身体を凍えさせようとする。露出している肌や手が冷たくなる。


 でもそんな時は小枝樹くんが笑顔で言ってくれるの。


「寒いんだったらもっとくっつけよ。そうしたら俺も温まる」


 私は無言で小枝樹くんの身体に身を寄せる。


 通りすがる人達は私達を見る気配がない。どこにでもある当たり前の風景の一部に私達がなっているからだ。天才と令嬢だということなんて誰も気にしない。


 ただ小枝樹くんと一緒にいられることが本当に幸せ。このままずっと続いて欲しい。ずっとずっと私を離さないでほしい。でも、幸せを感じているときの時間はあっという間に終わってしまう。


 気がつけば夕方。小枝樹くんが私を家まで送ってくれた。


 マンションの入り口。オートロック式の透明な自動ドアが私達の前にある。家の鍵を使えばすぐに開き、また小枝樹くんと会えなくなってしまう。でも私は一之瀬夏蓮。気丈に振舞うのは慣れているわ。


「今日は本当に楽しかったわ。次は冬休みが明けなきゃ会えないけれど寂しくて泣かないでちょうだいね」


「ばーか。誰が泣くかっての」


 意地悪を言いながらも私の頭を優しく撫でてくれる小枝樹くん。


「それに寂しくて泣いちゃうのは一之瀬のほうなんじゃないの? ま、そんなことはねーか。それじゃ、俺はそろそろ行くな。仕事がんばれよ」


 私の頭から優しい温もりが離れていく。もっと撫でてもらいたい、髪の毛を触ってもらいたい、頬に触れてもらいたい、抱きしめてもらいたい、愛の言葉を囁いてもらいたい。


 感情と言う名の欲望が私の心で肥大化し止められなくなるのがわかる。


「小枝樹くん……!」


 去りゆく小枝樹くんに私は後ろから抱きついた。


 困っているかもしれない。自分でもこんな行動をするようなはしたない女だとは思わなかった。でも今はまだ離れたくない。


「ど、どうした一之瀬」


「ごめんなさい。貴方を困らせていることはわかっているの。でも、このままじゃ本当に寂しくて泣いてしまいそうだから……」


 気丈になんて振舞えなかった。これが私。一之瀬夏蓮。わがままで泣き虫な等身大の一之瀬夏蓮。


 小枝樹くんを離したくない。離してしまえば本当に終わってしまう。覚悟が鈍ることはない。でも、私は小枝樹くんと一緒に━━


「なにかあったのか一之瀬」


 不意な小枝樹くんの言葉に身体が震えた。天才少年の小枝樹拓真はなんでも分かってしまうのだと、恐怖にも似た何かに包まれるような感覚になる。


「べ、別になにもないわ。ただ貴方が私をからかうから、本当に寂しいと思ってしまっただけよ」


 背中越しに私は返答をする。その答えは真実であり嘘でもあった。


 静寂ではない無言の張り詰めたような空気が私を硬直させる。小枝樹くんに今の私の真意が読み取られてしまっているのではないかと不安が過ぎり、また小枝樹くんになにも言わない自分が嫌でしょうがなかった。


 すると小枝樹くんは自身の身体にしがみ付いている私の手に触れ優しく解いた。ゆっくりと振り向き小枝樹くんは笑顔で言った。


「わかった。一之瀬がそう言うなら信じるよ。でも、本当になにかあるならちゃんと言ってくれ。そうじゃなきゃ心配しすぎて胃が痛くなっちまうからよ」


 何も言おうとしない愚かな自分とは正反対なとても純粋な笑顔だった。


 この人は本気で私のことを心配してくれる。そんな小枝樹くんに私はいったい何をしているの。自分本位な思考で何もかも自分でどうにかしようとしていて、私は最愛だと思っている人にすら自分の未来を話せない。


 それが確実に起こることかはまだわからない。それでも私は意識的に小枝樹くんと離れる未来を選択している。それがみんなの幸せのためだと信じながら。


 今この場ですべてを小枝樹くんに話せばどうにかなるのかしら。私の考えを小枝樹くんに伝えればもっと良い解決方法が見つかるのかしら。私は、私は……。


「胃が痛くなったのなら胃薬を飲めばいいのよ。それに、そんなに心配しなくても私は大丈夫よ。一之瀬夏蓮を信じなさい」


「そっか。ならもう心配しない。んじゃ、今度は本当に帰るからな」


 出会ったときから変わらない嫌味交じりのいつもの会話。時間の残酷さが色濃く映し出されコマ送りに見える情景が私の心を何度も掻き乱す。


 カツリ、カツリと小枝樹くんの足音がロビー内に響き渡り精神的と肉体的な別離を垣間見る。その瞬間を理解したとき、私の想いが具現化した。


「待ちなさい。小枝樹くん」


 振り向く小枝樹くん。不思議そうで困ったような顔。


 数歩しか離れていない小枝樹くんに近づき、私は━━


「忘れ物よ」


 唇を重ねる。


 小枝樹くんの胸に両手を当てほんの少し背伸びをしながら、もう何度目なのか分からない接吻を交わす。


 冬祭りのときには指で数えられるくらい。でも昨日の夜にはもう数えられないくらい重ねた唇。昨夜の余韻が残っているわけではない。残っていないからこそもう一度、小枝樹くんの感触を刻みたかった。


 身体の芯まで届くこの温もりは唇を離したあとも残響のように居座り、私の心を戒める。間違えないように、道を踏み外さないように、私の心に残り続ける証。


 深いキスではない。ただ体現されていないだけで想いはどこまでも深く落ちていくような感覚。


 唇を離せば近くに顔を真っ赤にし驚いている小枝樹くん。そんな小枝樹くんが可愛いと思えて少しだけ心が軽くなる。


「な、な、いきなり何してんだよ一之瀬///」


「あら、昨日の夜はもっと凄いことをしているのに、今更キス程度で動揺するの?」


「お、お前っ/// 確かにそうかもしれないけど、やっぱり緊張はするし恥ずかしかったりもずるだり……///」


「そう。でもこれでまだ少しは寂しくても泣かないですむかもしれないわ。ありがとね、小枝樹くん」


 微笑は偽りのソレで、誕生日のときみたいに小枝樹くんは気がつかない。だって、あの時の私よりも今の私のほうが嘘をつくのが上手くなっているのだもの。


 それは最愛の小枝樹くんに心配をかけたくないから、私のことでもう苦しんでほしくないから。


 貴方はとても優しい人だもの。私が少しでも弱さを見せれば自分の人生を全て捧げても私を助けようとしてくれる。そんな強い人……。


 あの場所で出会ってもうかなりの時間が経ったわね。気がついたら年も越えていて、優しく温かな風が吹いていた春が身体を凍えさせる冬に変わってしまった。


 夏も秋も沢山のことがあった。私の心を満たしたり、逆に不安にさせたり。凡人少女が本物の天才になろうとしたり、天才少年が再び天才に戻ろうとしたり。本当に沢山のことがあったわ。


 そして何度も思ってしまう。まだ小枝樹くんに触れていたい。


 でももうお終い。今の私にはやるべきことがある。だから


「本当に急にこんなことするのやめろよな」


「あらどうして?」


「だからっ! その……、不意とかも嬉しいけど、やっぱりするならちゃんと一緒がいいと言うか、なんというか……って俺はどんだけ女々しいんですかっ!!」


「うふふ。そういう小枝樹くんも私は大好きよ」


 照れる小枝樹くんを見つめる私の頬が緩んだ。さっきまでの寂寥感せきりょうかんが消え去り希望の光まで差し込んでくるように思えた。


 見詰め合って触れ合って、小枝樹くんの全てを私に刻んでもらって、私が私であると私が許すことができ一之瀬夏蓮の不安を今の私は背負っていける。


 悲しい未来が待ち受けていたとしても大丈夫。きっとそれを小枝樹くんも受け止めてくれる。


「じゃ、じゃあ今度は本当に帰るからなっ!」


 小枝樹くんの言葉が終わると、絹のようにゆっくりと滑らかに繋いだ手が解けていく。今度は追わない。小枝樹くんの背中を見つめるだけ。


 マンションの重たい扉を開けた小枝樹くんの横から冷たい空気が流れ込んできて私の頬を掠めた。


 軽く浮き上がる私の髪は一瞬で重力に引き戻され、赤く染まった私の頬は小枝樹くんの温もりか寒さのせいなのか曖昧になる。


 音も立てずに閉まった扉のさきにはもう小枝樹くんの姿は見えなくなっていて、本当に一人になってしまった。


「ふぅ」


 私は一つ息を吐きロビーの扉をあける。そこを潜り抜けて少し歩き踵を返しもう一度小枝樹くんがいるのではないかと確認する。


 でもやっぱり小枝樹くんはいなくて少しだけ寂しさが蘇ってしまう。


「こんな気持ちを私は何度も小枝樹くんに与えてしまっていたのね……」


 呟き私は決意する。俯いていた顔を上げ真っ直ぐと未来を見つめて


「姉さんを歯車になんかさせないわ。私が絶対に救ってみせる」


 小枝樹くんがくれた勇気と、皆がくれた諦めない気持ちを思いだし一之瀬夏蓮は歩き出す。






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