42 後編 (拓真)
初詣は最悪なものだった。
願いを神に祈ったとしても、夢想する思いを宙に投げかけても、現状はなにも変わらず俺らの当たり前の日常はゆっくりと壊れていく。
俺の願いは……。なんて、どうしてあんなことを俺は願ってしまったのだろう。もっと大切な願いがあったような気がするし、もっともっと俺が叶えたいことなんて沢山あったのに……。
元日を過ぎ、二日、三日と三が日も過ぎ去った。
なにもなく例年通りに過ぎる三が日は、去年一年間を過ごした俺には少しだけ物足りないように思えた。
当たり前のように雑煮を食べて、恒例行事のお年玉を貰う。お節料理は母さんの手作りで、彩られたお節が綺麗に見えたのに俺の気持ちは正反対のような曇天だった。
もう少しで冬休みも終わってしまうと思うと、長い二学期の後の休みが短すぎるだろと文句でも言いたくなってしまう。だが、二学期が終わってからの一週間はとても長く感じてしまった。
雪菜の突拍子もない提案のクリスマス・パーティー。聖なる夜に聞いてしまったB棟の取り壊し。年越しと共に願った子供じみた俺の気持ち……。
たったこれだけのことがとても時間を長く感じさせて、それと同時に一之瀬に会いたいという気持ちが大きくなる。年末から三が日までは忙しいのは分かる。
一之瀬財閥の次期当主だ。色々なところに挨拶回りとかをしているだろう。だが、三が日も過ぎた今日は……。
俺はおもむろに携帯を手にし電話帳から一之瀬夏蓮の名前を見つけボタンを押してしまうか躊躇う。あと少しだけ指を携帯に近づければ勝手に電話がかかり一之瀬につながる。忙しかったなら留守番電話になるだけ。
それだけじゃないか。迷惑になることなんてなにもない。一之瀬の声が聞きたい。きっと一之瀬だって俺の声を聞きたいと思ってくれているはず。だけど、今の俺には画面に映るボタンを押す勇気が出なかった。
もし一之瀬が電話に出てくれたら俺は何を話すんだ。
『元気だったか?』
違う。
『忙しいのにごめんな。少しだけ声が聞きたくなったんだ』
違う。
『一之瀬が寂しがってると思って電話してやったぞ』
違う。
『なぁ一之瀬……。B棟がなくなることお前は知ってるのか……?』
自問自答の最後に本当に聞きたい俺の気持ちが混ざってしまい、そのまま携帯を机の上に置いた。
自分が冷静になるまでに然程時間は掛からない。暖かくなった自分の部屋の空気を換えるために俺はベッド横の窓をあけた。普段と何も変わらない冷たい冬の空気が部屋の中に入り込み、暖かくなっている俺の頬に触れ冷たくさせる。
一瞬の冷気はとても気持ちが良くて、大きく息を吸えば身体の中までその気持ちのいい冷気が充満する。だが、それで頭の中がクリアになるわけではない。
悩みは尽きることなく俺の頭の中を駆け巡り、失速することなく速度を上げるばかりだった。溜め息混じりに息を吐くと真っ白な俺の息が雲のように霧散し、空の上まで上っていきそうだ。
見つめる自分の息は空に辿り着くことなく消えて、残ったのは俺の気持ちとは正反対に晴れわたった冬の澄んだ青空だけだった。
ブーッブーッブーッ
不意に俺の携帯が震えだす。何度も震えるのは冬の寒さに負けそうに鳴っているからではない。誰かから電話がかかってきているということだ。画面にでている名前は
一之瀬夏蓮。
「も、も、もしもし、一之瀬か?」
どうして俺はテンパってるんだ……。もっと普通にでれただろ。
「何を貴方はそんなにも動揺しているの? 私からの電話を待ち焦がれていたのではないの?」
「あのな一之瀬。確かに一之瀬からの電話は待ち焦がれてた……って俺は何を言ってるんだっ!? そうじゃなくて、俺も電話しようとしてたからビックリしただけだよ」
「うふふ、そうね。私からの電話を待ち焦がれていることなんて当たり前のことだったわね」
久しぶりの一之瀬の声。数日前にあった沢山の嫌な事柄すべてを忘れさせてくれるような大好きな人の声。いつものようにじゃれ合うつまらない会話が俺の心を癒していく。
「そ、それで急にどうしたんだよ? もう忙しくないのか?」
「いえ、まだ少しだけ忙しいけど時間が空いたから電話をしたの。小枝樹くんの声がずっと聞きたかったから」
俺も一之瀬の声が聞きたかった。
愛しい人からの欲しかった言葉は真っ直ぐに俺の心へと落ちていき暖かみを帯びる。ポワポワと暖かくなっていく心とは正反対に一之瀬に逢いたいという想いが俺の心をきつく握りしめた。
「その、なんだ……。俺も一之瀬の声がずっと聞きたかった」
一つ間を置いたとたんに、自分でも驚くほど冷静に言葉を発してしまっていた。純粋に一之瀬の声が聞きたかったということもあるのだろう。だがそれでも、こんなにも落ち着いて恥ずかしいことを言えるとは思ってなかった。
それと同時に俺の気持ちは焦っている。冷静になれたのは焦りを隠すためなのか、それとも本当に一之瀬の声が聞けて安心しているのか。今の自分にはわからない。そして今ここで一之瀬に問いただしても良いのかさえ分からなくなってしまっていた。
「ありがと、小枝樹くん。冬祭りからまだ全然時間は経っていないのに、本当に永遠のように長い時間に感じたわ。もう二度と小枝樹くんの声が聞けないのかもしれないって錯覚してしまうくらい」
もう二度と……。
一之瀬の言葉を聞いてクリスマスの時の衝撃が俺の心を壊そうとする。重くて、痛くて、苦しくて……。真実を知りたいと思っていても、喉につっかえて何もでてきやしない。
俺はそのまま一之瀬の言葉に無言を返した。
「ねぇ、小枝樹くん。今夜、私の家で会えないかしら」
落ち着いた声音より少し低い。一之瀬の気持ちが何なのか分からないけど、その言葉に触れるのが怖いと感じてしまった。だがそれでも、俺は答えを決めなきゃいけない。
「あぁ、わかった」
久しぶりの電話だったのに、気がついてみれば楽しい気持ちなんてどこかに消えてしまっていて、俺と一之瀬の気持ちが混ざっているようで混ざりきっていない。
最後に残ったのはどこからともなく襲い掛かってくる焦燥感と、通話を終える一定間隔で流れる機械音だけだった。
冬は日照時間が短くなる。だが、そんな陽が落ちるまでの時間が俺には長く感じた。
久しぶりに一之瀬に逢えるのにソワソワとかドキドキとかそんな青春じみた感覚はなくて、不安だけが俺の体中を巡っているように思えた。
陽が沈み少しの時間が経ったころ一之瀬から連絡がきた。今日の用件が全て終わったと業務連絡のようなメールがきた。それを確認し俺は準備をする。
これといって特別なことはなにもしない。普通に着替えて普段から外に出かけるときに持っていく物をポケットにしまう。
男の荷物なんて携帯と財布くらいだ。それ以外をもたなくてもどうにでもなる。
全ての準備が終わったとき、ふいに疲れがどっとでた。この疲れの正体が何のかはわからない。俺はその疲れを癒すために少しだけベッドに腰を下ろす。
普段から使っているベッドは堅すぎず柔らかすぎずの曖昧な安物だ。俺の身体を包む込んでくれるわけでもなく、俺の身体を拒むこともしない。
お姫様が使うようなフカフカなベッドだったのなら、今の俺の疲れを一瞬で取り除いてくれるのだろうと夢想に浸ると疲れた笑みが零れた。
夢想を掻き消し一つ大きく息を吸う。そして重くなってしまった腰を上げ、囚人がつけるような大きな鉛のついた鎖に縛られている感覚になっている足を無理矢理動かし、一之瀬の家へと俺は向かう。
一月の空気は澄んでいた。吸い込めは身体の中まで凍えさせ吐き出せば真っ白な息が宙をたゆたう。
新年を迎えて数日。街は静かで、普段の喧騒とは程遠い景色を作り上げている。きっと後数日もすればいつもと変わらない喧騒に戻るのであろう。
そう思ったとき自分の足取りが遅いことに気がついた。
クリスマスのことがなければ、きっと早く一之瀬に会いたくて走っていたのかもしれない。だが、今の俺はそんな気分になれない。
会いたいと思う気持ちがないのではない。それ以上に全てが変わってしまいそうで怖いんだ。せっかく一之瀬と気持ちが一緒になれたのに、せっかくこれから楽しい時間が始まろうとしていたのに……。
「まったく、神様ってのは本当に意地悪なんだな」
声にだしどうにもならない現実を俺は神様のせいにした。独り善がりの戯言。
再び苦笑が湧き上がり、それから俺は何も考えずに歩みを続けた。
気がつけば一之瀬の家の前。久しぶりにくるこの場所は何度みても首が痛くなりほど高いマンションだ。そんなつまらないことを考えながら俺はマンションの中へと入っていく。
オートロック式の扉。開けてもらうために一之瀬をインターフォンで呼ぶ。
「はい」
「小枝樹です」
たったこれだけの会話で扉が開く。歩みをはじめる俺は思った。
前まではもっと他に話していたような気がする。他愛もなくて楽しくて心が温まるような気持ちになっていたような気がする。冗談を言われてムクれて……。でも今はそんな会話すらできなくなってしまっているんだ。
過去の情景が現れることはなかった。ただ漠然と楽しかった日々の微かな思い出に触れようとしているだけ。そう、楽しかった日々を……。
エレベーターの扉が開く。乗り込み一之瀬の部屋がある階層ボタンを押す。扉が閉まる。エレベーターが動き出す。上にあがっている感覚はあまりない。ただモニターに映っている数字が一つ二つと増えていくのを見て上がっているのだと無理矢理に認識をした。
そのときポケットに入れていた携帯が震えた。携帯を取り出し確認すると
『鍵は開いているから勝手に入ってきて』
一之瀬からのメール。目を通してすぐに携帯をポケットにしまった。再びエレベーターの階層表示に視線をおくる。半分。まだ半分だ。
だがこの思考を巡らせているあいだにも確実に階層は上がっていく。そして気がついた時にはエレベーターが止まっていて、扉が開かれていた。
重くなっている足を動かす。エレベーターの扉が閉まる。そこで俺は思った。
まるでここは牢獄だ。明るく照明が施されてはいるが、こんなのは牢獄にすぎない。囚人というよりも囚われの姫が軟禁されるような牢獄。
高く聳え立つ塔の最上かに幽閉される姫君。塔の最上階まで続くながい螺旋階段には等間隔で灯火があり足元を照らす。
最上階に着いたとき鉄で出来た大きな扉があり、その扉の左右に灯火が置かれている。
そんなファンタジーの世界を今の俺は想像した。だが、目の前に広がっているのは高級マンションの一室の扉。何度か見たことのある扉だった。
一之瀬からのメールどおり俺は鍵のかかっていない扉を開ける。
「おじゃまします」
リビングにいるであろう一之瀬には聞こえていないだろう。それくら俺の声は小さいものだった。
靴を脱ぎ、揃えて、俺はリビングへと向かう。
薄暗い。電気をつけていない。壁に手を当てながらリビングへと俺は歩く。目の前に扉が現れる。俺はの扉を開いた。
何畳あるのかわからないくらい広いリビング。入って左手にはオープンキッチンがあり生活感のない清潔そうなキッチンが目に入る。
視線を真っ直ぐに戻すと、カーテンも閉められていない大きな窓がある。そこから微かに差し込む月明かりが窓の近くに配置されている大きなソファーを俺の目に映し出した。
座っている少女。薄幸の美少女とはきっと月明かりに照らされている美しい少女のことを言うんだと思った。
俺と身長なんて然程変わらないのに、どうしてなのかその少女がとても小さく見えてしまった。
声をかけなきゃいけない。なのに言葉がでてこない。すると少女は俺に気がついたのか顔を俺へと向けた。
「久しぶりね小枝樹くん。どうしたの? 座らないの?」
優しい声音。優しい微笑み。
ここに来るまで俺は最悪なことばかり考えていた。なのに今、俺の目の前にいる一之瀬はおれが思っていたよりも全然元気そうで、その姿を見て安心している俺がいた。
「電気もつけてないから驚いてるだけだよ。それと久しぶりだな、一之瀬」
言いながら俺は一之瀬の隣に座る。その瞬間に一之瀬から漂ういい香り。
女の子の香りと言えばいいのだろうか。それとも純粋にシャンプーの香りとでも言えばいいのか。俺の鼻腔を刺激する一之瀬の香りは頭の中をクラクラさせるのには十二分なものだった。
サラサラとした綺麗な黒髪。月明かりに照らされて輝く白い肌。俺の言葉を最後に静寂が訪れ、横にいる一之瀬の呼吸が聞こえる。
一之瀬が俺を見たのは俺が来たときだけ。それからはずっと窓の外で燦然と輝く月を見つめていた。
静寂が耳を痛めることはない。だが、今の俺は何かが起こりそうで怖いと思っている。すると一之瀬が
「ごめんなさい、せっかく来てくれたのにお茶も出さないなんて。ちょっと待っててね、今淹れてくるから」
立ち上がる一之瀬はそのままキッチンへと向かう。
オープンキッチンのおかげでお茶を淹れている一之瀬の姿が見える。月明かりしか差し込まないこの部屋ではたまに一之瀬の姿を確認できなくなるときもあるが、それでも一之瀬が近くにいてくれることだけはわかる。
俺の隣から一之瀬が離れたのはほんの少しだった。お茶を淹れたカップを両手で持ち、ゆっくりと俺の方まで近寄る。
大きなソファーの前にあるガラス製のテーブルにカップを二つ置くと一之瀬は再び俺の横に座った。
カップからあがる湯気。紅茶の良い香り。月明かりが照らし出す銀色に似た光の反射。
俺も一之瀬も紅茶に手を出さなかった。ただ流れるのは重たいのかそうでないのかわからない沈黙。完全に心が安らぐわけではないが落ち着かないと言ったら嘘になってしまう曖昧な空間。
たゆたう湯気はゆっくりと消えていき、部屋の暖かさとは裏腹に自然の寒さを現しているように思えた。
ふと一之瀬に視線を動かすと、やはり大きな窓の外で燦然と輝く月を眺めている。そんな一之瀬の瞳がどんなものなのか俺にはわからない。ただ、近くで見ている一之瀬の後姿が何かを俺に語りかけているように思えた。
それでも俺は何も言葉を紡げない。それはきっと、始まりと終りの境目だったからだろう。その切れ目に自ら踏み込むのが純粋に怖いと思ってしまっていた……。
だが神様の悪戯なのか、それとも純粋な必然なのか、止まる事のない歯車が俺らの時間を確実に進めていく。
「ねぇ、小枝樹くん」
「……ん?」
「貴方はどうして私がここに呼び出したのか聞かないのね」
視線は月を見ているまま、俺のことなんて視野にも入っていない。でも、一之瀬の声音は少しだけ震えているように思えた。
「きっと、小枝樹くん……。ううん、みんな知っているのよね……。私のせいでB棟がなくなってしまうことを……」
一之瀬の言葉を聞いて顔を伏せる事はなかった。だって未だに一之瀬は俺のことを見てないから……。でも、こお話しをすることになるって俺はどこかで分かっていた。
いや違う。この話しをする為に今の俺等は会っているんだ。神様のいたずらでも、必然だったとしても、どうしてこんな……。
「これは……、これは言い訳になってしまうかもしれないけれど、私はちゃんと守ろうとしたわ……。私のせいで誰かの大切が失われるのなんておかしいもの。だから、私は、今の、自分が出来る精一杯をしたわ」
言葉が詰まっている。肩が震えているわけじゃない。でも、きっと一之瀬は泣いてる。
なのにどうして俺は自分の大切だと思う一之瀬を抱きしめない。苦しさを一緒に共有しようとしないんだ。俺は、一之瀬の隣に本当にいるのか……?
「でもね、私なんかじゃ何も守れなかった。小枝樹くんのようにはいかないわね。本当に凡人な自分が憎くてしょうがないわ……」
凡人な自分が憎い。俺は天才な自分が憎かった。憎くて憎くて……。なら今の一之瀬も俺と変わらないんじゃないのか。俺は救われた、天才の自分を受け入れられた。なら一之瀬は
「……一之瀬」
「私は誰も救えない。私は奪うだけ。私は最低な凡人」
身体が勝手に動いていた。
久しぶりに触れた一之瀬の身体は温かいような冷たいような曖昧なもので、後ろから抱きしめている一之瀬の身体が小さく思えた。細くて柔らかくて、長い黒髪からは良い香りがしてきて、俺の知ってる一之瀬だと素直に思えた。
だから
「一之瀬はちゃんと救えてる。一之瀬は何も奪ってない。一之瀬は最低なんかじゃない」
一之瀬の耳元で話す俺の声は大きくない。そして一瞬、一之瀬の身体が震えた。大きく一回、その後は小さく小刻みに何度も何度も……。
「小枝樹くん……」
小さく声を零す一之瀬の手が俺の手に触れる。
「貴方が思っているよりも私は最低よ。きっとこの短い人生の中で沢山のものをこの手の平から零してきたの」
一之瀬は俺の手を強く握る。
「目の前から消えてなくなるものに手を伸ばすこともしないで、私はただその場で見ていることしか出来なくて……。でも、もうそんな思いしたくないの……。なのに、なのに……」
一之瀬の身体も声も震えていて、俺は一之瀬の言葉を聞くことしかできない。
でもこれではっきりと分かった。B棟がなくなるのは一之瀬のせいなんかじゃない。全部、一之瀬樹のせいなんだ。でもどうして……?
「だから、お願い小枝樹くん……」
自身の思考を一之瀬の声で掻き消される。そして一之瀬は振り向き俺を見つめた。大きな涙をその瞳に溜め込みながら
「今だけ、今だけは貴方の前で泣いてもいいかしら……?」
「好きなだけ泣けよ。一之瀬の気がすむまで」
そう言い俺は再び一之瀬を抱きしめる。そのあと一之瀬が声を出して泣きだすまでの時間は刹那で、俺はそんな大切な彼女を抱きしめながら膨れ上がる感情を抑えていた。
一之瀬がどのくらいの時間泣いていたのかはわからない。十分なのか二十分なのかはたまた一時間くらい泣いていたのか。時間の感覚は分からないが、一之瀬がとても辛くて苦しかったことだけは分かる。
これでも一応は一之瀬の彼氏だ。それに目の前で泣かれて苦しみが伝わってこないほうがおかしな話になってしまう。
今は冷めてしまったお茶を一之瀬が淹れなおしているところだ。ここに来たとき同様に然程時間はかからない。慣れた手付きでお茶を淹れ、持ってくる一之瀬。
再びソファーに座り今度こそお茶に口をつける。
素直な感想は温かいだ。月明かりに照らされているたゆたう湯気が仄かな優しさを伝えているように思えた。
お茶を啜る一之瀬の顔は泣いて赤く腫れている目とカップに口をつける小さな唇、それと綺麗に通った鼻。泣き終わって時間が経たないからなのか、一之瀬はしきりに鼻を啜る。
そんな一之瀬の横顔をただただ俺は見つめていた。
「そんなに見つめてどうしたの?」
こいつが俺の視線に気がついていないとは思ってない。だが、ここまでストレートに言われれば少しばかり驚いたって神様は許してくれるだろう。
「そんなの一之瀬を見ていたいからに決まってんだろ」
「そう。本当に貴方は恥ずかしい台詞を簡単に言ってしまうのね」
少しだけ一之瀬の顔が緩む。それを見た俺に安堵の気持ちが湧いてくる。
本当だったら、久しぶりに会ってもっと楽しい会話をして、アレがあっただのコレがあっただのくだらない会話をしながら一緒に笑い合う。そんな当たり前のようにできることが、今の俺たちにはできない。
どこかで分かっていたんだ。俺達は普通には戻れない。なにがノーマル高校生ライフだ。初めからそんなものは夢現の幻にすぎなかった。
今の一之瀬をみていると本当に自分がワガママを言い続けて生きてきたんだって思うよ。コイツはずっと我慢して、ずっと独りぼっちで生きてきて、失わない為に自分を殺してきたんだ。でも俺だって、何も救えてなんかいないんだよ……。
俺はふと携帯の時計をみた。凄い遅い時間ではないがそろそろ帰らなきゃいけいともおもった。まだまだ話したいことも話さなきゃいけないことも沢山あるのは分かるが、ここで帰るのがいいだろう。
そして俺は残っていたお茶を口の中に流し込み立ち上がった。
「よし、俺はそろそろ帰るぞ。たぶんちゃんと話しはできてないと思うけど、それでも一之瀬の顔が見れてよかったよ」
偽りのない微笑み。自分で言うのは可笑しいと思ったが、それでも一之瀬に会えたことは嬉しいことだ。だが、
「待って、小枝樹くん」
弱い力で俺の服の裾を掴む一之瀬の声音は、掴んでいる手の力同様にとても弱々しく感じた。
「どうした?」
「その……、今夜はこのまま泊まっていけないかしら……?」
一つ俺の心臓が大きく脈打った。何かを期待しているわけではない。でも、何かが変わってしまうような大きな流れの渦が俺の身体をグチャグチャにしようとしているような気がした。
「な、なんでそんなこと言うんだよ?」
「ごめんなさい……。ダメならダメでいいの。ただ、今日は貴方と離れたくなくて……」
また一つ俺の心臓が大きく脈打つ。
「わかった。とりあえず家に連絡する」
「……ありがとう」
言って俺はリビングから出る。冷静な気持ちを保とうとしているのはとても滑稽だった。携帯電話を手に取り、親にメールを送る。数分後に親からのメールが返ってきて内容を確認する。
親からの返信はとてもつまらないものだった。『わかった。でも高校生ってことを忘れちゃダメよ』母親からのメールは俺の心臓の脈拍を加速させる。
何事もなかったかのように俺はリビングに戻り、引き攣った笑顔で言葉を紡いだ。
「すんなりと了承を得たよ。これだから男の親ってのは考え無しで困るよな」
乾いた笑い声を出しながらどうしようなもない現実を受け入れようと必死になっている俺はさっきまでのシリアスな会話すら忘れそうになっていた。
俺の言葉に無言を返す一之瀬の隣に俺は再び腰を下ろした。
緊張しているわけではない。だが、これ以上何を話していいのか分からなくなってしまっているのは事実なのだと理解する。
静寂は俺の心臓を苦しめるだけで、いっこうになにも解決してくれない。ここで俺が声を発すれば一之瀬はどんな反応をしてくるのだろう。
つまらない疑問は自身の心を苦しめるだけで意味のない自問自答なのだと気がつくのに然程時間はかからない。その時だった
「ねぇ、小枝樹くん。私はこのままずっと貴方の隣で笑っていたと思っているの。それは私を助けてくれたからとかそんな理由じゃなくて、純粋に貴方のことを愛しているからなのだと思うわ」
一之瀬が言っている台詞は俺にとってとても嬉しい言葉。だが、どうしてなのか、それを言っている一之瀬の表情はとても悲しそうだった。
「だからね、きっと今の私は小枝樹くんの全てが欲しいと思っているの。貴方の笑顔も、貴方の喜びも、貴方の悲しみも、貴方の心も、貴方の身体も……」
そう言う一之瀬は俺の瞳を真っ直ぐと見つめていた。何かを覚悟したのかのような真剣な表情。邪な気持ちなどこれっぽっちもない純粋な瞳。
俺はこれにどう応えればいいのだろう。何をすれば一之瀬の気持ちに応えられるのだろう。わかってる。わかってるけど、本当にそれでいいのか……?
俺が何かを考えているのを察したのか、一之瀬は一つ息を吸い、
「私に貴方の証を刻んで欲しい」
一之瀬の後方から照らし出している月の明かりは一之瀬の表情を完全には見せてくれない。だけど、微笑む一之瀬の優しさだけが今の俺に伝わってきた。
「お願い……。私を小枝樹くんだけのものにして……?」
「一之瀬……」
純粋なまでに自分の思考が停止していくのがわかった。それはつまらない感情ではなく、本当に一之瀬を愛しているから。
優しい月明かりがソファーに座っている俺等を照らし出す。見詰め合うのは何度もしてきた。キスだって冬祭りの時にした。でも、この感情はそれらとは全く違って官能的で妖艶なものだと瞬時に理解した。
一回目に触れる唇は優しいもので、その行為を何度も何度も続ければ俺と一之瀬の息は上がってくる。
空気を欲して唇を離せば近くにある一之瀬の顔を見つめる。それに応えるようにトロンとした目で一之瀬が見つめ返してきて再び互いを貪る。
互いの吐息が室内に充満し響く一之瀬の声が俺の理性を飛ばそうとしてくる。心で追いつかなくても一之瀬を求めているという思考だけは何も変わらなかった。
ソファーに一之瀬を押し倒す。そのまま初めて触れる一之瀬の柔らかい肌に自身の手を這わせた。
「……っん」
漏れる一之瀬の声は更に俺の気持ちを早まらせる。
触れてるの手を想像の中で感度のよさそうな部分に近寄らせる。一之瀬の大切を今の俺で埋め尽くしたいという欲望がそうさせた。
何度も何度も繰り返し、一之瀬の息の上がり方がキスのときとは違うのを感じる。すると
「ねぇ……、小枝樹くんっ……、このまま私の全てを貴方で満たして」
もうとめられない。
俺は一之瀬の服に手を伸ばす。人肌から布が剥かれていく音がリビングで小さく木霊す。
「貴方には私を信じて欲しい……。何があっても私は小枝樹拓真を愛しているって」
初めての経験は人の感覚を狂わせる。自分が知らないことは知ったときに喜びに変換されることもあれば絶望に突き落とされる時だってある。
その感情をこのとき覚えていればきっと一之瀬の言葉の意味を俺は理解していたのかもしれない。だが、それは後の祭りで、証が欲しいと言った一之瀬の気持ちすらこのときの俺は何も分かってなんかいなかったんだ。
何も分からなければ救われるのに、どうして人は互いの気持ちを理解しようとしてしまうのだろう。愚か過ぎるその現実はいったい、なにを教えてくれるのだろう。
「……愛しているわ、小枝樹くん」
何ヶ月も待たせてすみません。どうも、さかなです。
もしかしたらまたUPまでの時間が掛かってしまうかもしれませんけど、絶対に完結させるのでお付き合いお願いします。