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天才少女と凡人な俺。  作者: さかな
第九部 冬休み 刻マレル証
126/134

42 前編 (拓真)

 

 

 

 

 

 

 あと数時間で今年が終わろうとしていた。俺はリビングで年末特番を見ながら何も考えないようにしていた。


 テレビから流れてくる映像はお笑い芸人が笑わないように努力するという内容で、きっと何も事件が起こりもしなければ俺だって笑いながら年末を過ごすことが出来ただろう。


 どうしていいのかさえ今の俺には分からない。


 きっとこれが運命だったのだと自分に言い聞かせてしまえば楽になれるのかもしれない。だが、どうしても運命なんていう曖昧なもののせいにはしたくなかった。


 だってそうだろう? 俺は何もしていない。失わない為に俺は何もまだしていないんだ。だけどそれを覆すのは今さら高校生の俺にはどうしようない現実で……。だからこそ、今は何も考えたくなかったんだ。


「お兄ちゃーん」


 ルリの声が聞こえ声が聞こえたほうへと振り向く。


「あー? どうした?」


「いや、その、えっと……。あ、年越し蕎麦の天ぷらはのせる? それとも別皿?」


「あー、そうだな。別皿で頼むわ」


「はーい」


 ルリの態度は少しおかしい。どこか俺に気を使っているような感じがする。それも無理はない。だってルリもあの現場にいたのだから。


 俺は再びテレビへと視線を戻す。そして嫌でも思いだしてしまう。あの日、十二月二十四日のクリスマス・イブ。アン子が家に来てからの出来事を……。

 

 

 

 

 

 アン子の表情はとても怖いものだった。今から何か大切な話しでもするかのように静かで、そして何かの意思を決めていたように俺は見えた。


 俺の家に来るなり上がりこんだアン子はそのままリビングまで直行した。その後を俺はついていき、訳も分からないままリビングについた時には皆が不思議そうにアン子の事を見ていた。


 だが、その不思議そうな表情は予想だにしていないアン子の登場に驚いているだけで、すぐさま空気は温かなものへと変わっていった。


「おー、アンちゃんも来たんだねー」


 キッチンから料理を運びながら雪菜が言った。美味しそうなローストチキン。それは俺がスーパーで買ってきた出来合いのチキンだ。オーブンで温めなおしたそれは鼻腔を刺激する香ばしい匂いをリビング中に漂わせていた。


 そんな雪菜にアン子は何も言い返さない。ただ、リビングに入るなり立ち尽くしているだけだ。その姿が俺にはあまりにも不自然に見えたが、仕事終りで疲れているのかと思い気にも留めなかった。


 ぞくぞくと運び込まれてくる料理を見て神沢がはしゃぎだした。


「本当に美味しそうだねっ!! 僕がサンタならみんなにトナカイの丸焼きをご馳走しているよっ!!」


 不謹慎極まりない発言をする神沢は楽しそうに言う。それにしても言っていることが滅茶苦茶すぎる。美味しそうだねの後にご馳走するって……。自分ならもっと豪華な料理を用意できたみたいな言い方になってますよイケメンさん。まぁトナカイは食いたくないけど……。


 いつの間にか大量生産されたサンタの帽子を被っているあたりも、本当にパーティーを楽しもうとしている神沢の気持ちが伝わってくる。


 他の連中も料理が運び込まれ始めてきたころからテンションが異常に上がってしまっていた。テーブルにはローストチキンをはじめ、シーザーサラダに生ハム、バケット。バケットはニンニクの風味をつけたものと何もつけてないものがあった。


 それに加えてお洒落なフィンガーフード。見るからにクリスマスパーティーをするぞいった料理が次々にでてくる。飲み物は未成年なので冬祭り同様にシャンパンを模倣したジュース。気分を高めるために紙コップや普段から使っているグラスではなく、お洒落にもシャンパングラスを使用する。


 フォークにナイフ。大きな器に盛られたサラダには木製のサーバー。ここが本当に日本なのかと疑いたくなるような出来栄えに俺は感動を覚えた。


「あとはあたし特性のグラタンが焼き終われば完成だよー」


「お、ユキのグラタンが食えるのか。それはラッキーだな」


 みんなに向けて言った雪菜の言葉にレイが返した。そして俺もレイの言葉に賛同するように頷く。


 雪菜のグラタンは絶品だ。他の料理も普通に美味いのだが、グラタンだけは格別だ。ホワイトソースから丁寧に手作りし、ベーコンにマカロニといったシンプルなグラタンなのだが、チーズの塩梅やホワイトソースの滑らかさ、もう絶品という言葉でしか表現できないほど美味い。


 もしかしたら雪菜はグラタンを作る天才なのかもしれない。


 そんな思考を浮かべているとチーズの焼ける良い匂いが鼻の奥まで侵入し、俺の思考を停止させようとしてくる。それは俺だけではなく、ここにいる全員がきっと同じことを感じているに違いない。


 ゆったりと流れる休日の午後のように、皆の目が細まり匂いの主である存在に釘付けになっていた。


「よし、完成っ!」


 雪菜の声がリビングにも聞こえてきて、その瞬間にみんなの時間が慌しく動き出す。赤と白のチェック柄のキッチンミトンを装備した雪菜が、大きな耐熱皿で作られたグラタンは運んでくる。


 その瞬間にリビング内では歓喜の声が上がった。驚きや興奮を隠し切れない青春高校生達の弾む声。そして雪菜はテーブルの真ん中に持っていたグラタンを置く。


 どこを見ても笑みが零れていて、嬉しさや喜びが伝わってくる。その姿を見ているだけで俺も嬉しくなってきてしまう。


「よーし。これで準備も出来たし、クリスマス・イブパーティーを始めよー」


 主催した雪菜が明るい声で号令をかけると、皆がテーブルの周りに集まってくる。先程までサンタクロースの帽子を被っていたのは神沢だけだったのに、いつの間にか崎本にレイ、牧下に佐々路、挙句の果てには翔悟まで被ってやがる。


 普段なら「テンション上げすぎだ」とか俺は言ってしまうが、今日はまぁいいだろう。ついでに言っておくがルリと雪菜と斉藤はトナカイの耳を模倣したカチューシャをつけています。


 俺は、その……。何も無しと言う事で……。なんかすみません……。


 グラスにシャンパンを模倣したジュースを注ぎいれると、淡い金色が宝石のように見え、細かくたつ泡が夢の世界へと誘うように思えた。


 全員分の飲み物が用意できたが、未だに動こうとしないアン子を全員の瞳が射抜く。


「おいおい、どうしたんだよ杏子? お前も早くグラス持てよ」


 不思議そうな表情を見せながらもレイがアン子にグラスを渡しながら言う。だがアン子はいっこうにそのグラスを受け取ろうとはせず、ただただ少し俯いたままだった。


 何かがおかしいとは思ったが、これは本当になにかあったのかもしれない。


 そう思った俺は


「なぁアン子、お前なにかあったの━━」


 ピーンポーンッ


 言い終わる前に家のインターフォンが鳴る。きっと細川が到着したのだろう。その音を聞いたみんなの静寂は破られ、もう一つグラスを増やしジュースを注ぎ始めた。


 俺はアン子の様子が気になったが、そのまま玄関まで行き細川を向かいいれる。

 

 

 

 

 玄関を開けると案の定、細川が立っていた。俺は適当な挨拶を言いながら細川を玄関へと入れる。


 友達ともクリスマスのパーティーをしていたと翔悟が言っていたが、思ったよりも到着が早くて驚いた。まぁきっと友達といるよりも翔悟と一緒にいたいのだろう。


 細川の身長は高くはない。雪菜と同じくらいだと思う。だが髪は女子に珍しいベリーショートでバスケ部のマネージャーをしているかならなのか、はたまたその見た目からなのか、とても活発な女の子に見える。


 今日の服装はそんな活発な細川には珍しい、とても女の子らしい服装だった。


 普段から着ているのかは分からないがスカートを着用している事にまずは驚く。ヒラヒラが段々になっているグレーのスカート。上は濃い目の赤色のタートルネックのセーター。アウターは冬らしい真っ白な厚めのコートだった。


「小枝樹せんぱーい。ちょー寒いよー」


 玄関に入っても寒さが残っているのか、鼻を真っ赤に染めながら手を温めるために手の平を擦り合わせていた。


「リビングは暖めてあるから早く上がれ。それにもう料理も出来てるし、本当に今からパーティー始めるところだったんだよ」


「あたしって本当にタイミングばっちりですね」


 そう言いながら笑う細川に俺も笑みで応える。ブーツを脱いだ細川が家へと上がり、俺等はリビングの扉を開ける。


 依然としてアン子は立ち尽くしているように見える。そして俺が戻ってくるまでにアン子に何かを話しかけていた雰囲気すら手に取るように分かった。その光景を見て少しばかり苛立ちを俺は覚えた。


「なぁアン子。どうしたんだよ? うちに来てからずっとそんな調子じゃねーか」


「すまない。拓真」


 俺の言葉に返答をするアン子。その声音は楽しいパーティーをしようと俺の家に来たのではないと言う意味を含んでいるように感じた。


「何に謝ってんのかわかんねーけど、言いたいことがあれば言えばいいじゃねーか」


「………………決定した」


 ボソボソと小さな声で言うアン子の言葉が聞き取れなかった。俺はすぐさま「なに?」と聞き返す。そしてアン子は俯いていた顔をあげ、ここにいる全員の顔を見ながら言ったのだった。


「B棟の取り壊しが決定した」


 静寂がさらに静寂になったような感覚になる。それまでにあった柔らかな空気の流れが、アン子の一言で動きを止めて今は今にも切れてしまいそうな一本の細い糸のようになっていた。


 誰もなんの言葉も発さなかった。どこくらいの時間静まり返っていたのだろう。きっとものの数十秒だと俺は思う。だが、あまりにも長く感じてしまう静寂の意味は混乱だけではなく、受け止めたくないと必死に抗おうとしていたのだろう。


 その感覚は俺だけではないはずだ。だって、静寂がその証拠になってしまうから……。


 言ったきりアン子も何も言わない。そしてこの静寂を破ったのは、


「おいおい、冗談にしては笑えないぞ、杏子」


 レイだった。


 震えていた。レイの声は震えていた。微振動を繰り返す唇を無理矢理に制御しながら言葉を発したレイの声は、自分の意思ではない震えに耐えることができず、その現状を顕現してしまっていた。


 レイの言葉を聞いてここにいる皆は現実を突きつけられてしまったような表情をしている。俺だって、その一人だ……。


「なぁ杏子。お前いったい何言ってんだよ? 俺等はこれからクリスマス・イブのパーティーをしようとしてるんだぜ? ユキの特性グラタンだってあるんだぜ? みんなで楽しくワイワイしようとしてるんだぜ? なのに、なに笑えねぇ冗談言ってんだよ」


「冗談ではない」


 苦しく眉間に皺を寄せながら言うレイにアン子は再び俯き小さく返答をした。その瞬間、レイの怒りが爆発してしまったのだろう。


「ふざけんなっ!!」


 勢いよくアン子の胸倉を掴むレイ。その現状を見て翔悟が「やめろレイっ!!」と叫びながらレイの身体を押さえつける。その行動がよかったのか、アン子の胸倉からレイの手は放れる。


 翔悟がレイの両脇から腕を入れ後ろから雁字搦めにする。暴れるレイ。レイの手が放れたアン子は衝撃に耐え切れず勢いよく尻餅をつきその場で俯く。


 力なく俯くアン子を見て俺は思った。こんなアン子見たことない。


「B棟が取り壊しになるってなんだよっ!! もう三階右端の教室に行けねぇとでも杏子は言いたいのかよっ!! なんとか答えろよっ!!」


 翔悟に押さえつけられながらも、レイは暴れながら感情を言葉に乗せる。レイの問いにアン子は答えない。すると冷静な表情で斉藤が出てきた。


「少し落ち着け城鐘レイ。お前の言いたいことはここにいる全員が分かっている。だが、私は一つだけ腑に落ちないことがある。だから一旦クールダウンしろ。感情的になっていても現状を把握することはできない」


「うるせぇっ!!」


 いっこうに冷静さを取り戻せないレイの怒号が響き続ける。


「俺にも斉藤にも、ここにいる奴等の気持ちはわかんねぇんだっ!! B棟三階右端の教室の大切さを俺とお前には分からないんだよっ!! コイツ等は俺等よりもずっと前からあの場所を大切な居場所にしてきたんだぞっ!! だから……、奪われてたまっかよっ……!!」


 悔しそうに歯を食いしばり拳を握り締めるレイは、やっと暴れるのをやめ押さえている翔悟の体に身を預けているように見える。


 レイが怒っているのは俺等の為だった。きっとレイの中にも沢山の感情やらが巡っているのだと思う。それにコイツはあの場所、B棟三階右端の教室にいた俺等をバラバラにしようとしたことがある。そのことだってレイの中ではずっと後悔という重たく錆び付いてしまった鎖で雁字搦めになっているはずだ。


 だからレイは誰よりも先に怒りを表面化し、大好きなアン子の胸倉まで掴んで怒っている。アン子は未だに俯きながら虚空を見つめている。小さく動く唇を読み取ると、アン子は何度も何度も誰にも聞こえない声量で「すまない、すまない……」と言い続けていた。


 レイが感情的になっているのに、どうして俺は何も感じていないのだろう。もしかして、俺にとってもB棟三階右端の教室はそんな程度のものでしかなかったっていうことなのだろうか。


「確かに、城鐘にはあたしがどんなにB棟三階右端の教室が好きかなんて分からないよね。だってあたしのほうが城鐘よりもあの教室に長くいるんだから。でも━━」


 混沌と化す現状で言葉を紡ぐ佐々路。それはレイを罵倒しているように感じる言葉で、何を言おうとしているのか今の俺にはまったく分からなかった。だが、一拍間を置いた佐々路が自分の言いたいことを告げる。


「でも、悔しいけど、そんなあたしよりも隆治のほうがあの教室に長くいる。だからきっとあたしにも、皆がどう思ってるのか分からない……」


 そう言いながら少しだけ寂しそうな表情をした佐々路は、崎本のほうへと視線を動かした。その視線に気がついた崎本が今度は口を開く。


「その、なんだろうな。俺にとってあの場所はすっげー居心地がいい場所でさ、なにもしてなくてもすごく楽しくて、あの場所のことを考えると楽しい思い出しかなかったんじゃないかって思うくらい楽しくて……。でもきっとこんな風に思ってる俺なんかよりも、もっとあの教室の楽しさを知ってるのは牧下さんだって思うんだ」


 次に視線をおくられた牧下だった。


「え、え、えっと……。わ、私は、きょ、今日ここでみんなとこうして、た、楽しくパーティーできるのは、ぜ、全部、あ、あの教室があったからだと思う。わ、私の、と、友達に出会わせてくれて、わ、私の大好きな人に出会わせてくれて……。き、きっと、わ、私はそれだけで、す、凄く嬉しいから、な、なくなるって言われても、よ、よく分からない……。だ、だから、それは、つ、司くんが、よ、よく分かってるんだと思う」


 牧下のご指名は神沢だ。


「そうだね。優姫さんが言っているように僕には何となくあの場所がなくなるってどんな意味か分かるよ。きっと前までの僕だったら城鐘くんみたいに怒鳴り散らしてたかもしれない……。それくらい僕はB棟三階右端の教室が大好き。でもさ、僕は思うんだ。B棟三階右端の教室が壊れてなくなったとしても、僕達の絆は壊れてなくなったりしないって。きっとその気持ちを僕よりも知ってるのは門倉くん、君だよね」


 神沢は微笑を浮かべながら翔悟へとバトンを渡す。


「神沢の言うとおりだ。俺等の絆は簡単には壊れたりなくなったりしない。だけど、初めに佐々路が言ってたみたいに長くあの教室にいるのは俺よりもキリカだって思うんだ。もっとも、部活の勧誘が忙しくて俺の方が長くいるかもしれないけどな」


 神沢同様に微笑を浮かべる翔悟は、細川へと視線で「次はお前だぞ」と言わんばかりに強く細川の瞳を見つめていた。


「あ、あの……。あたしは来たばっかりで状況が全然わからないんですけど……。でも、そうだなぁ。それを言うならあたしよりも一之瀬せんぱいのほうがあの教室にいる時間が長いんじゃないんですかね?」


 細川はここに来たばかりだ。だからここに一之瀬がいない事を把握していない。キョロキョロと一之瀬の姿を細川は探しているが、見つかるわけがない。すると


「夏蓮ちゃんよりも、ここにいる誰よりも、B棟三階右端の教室のことをよく知ってる人が一人いるよ。だから最後はその人に決めてもらおう。ね、拓真」


 不意に俺へと話しがまわってくる。


 リビングを見渡すと全員が俺を見ていて、羽交い絞めにされていたレイもいつの間にか翔悟から解放されている。


 誰もが俺の言葉を待っているようだった。だけど、今の俺にはわからない。確かにB棟三階右端の教室がなくなるのであれば、寂しさだって抱くし少しのあいだ辛いと思うことだってあるだろう。


 でも、今コイツ等が言っていたことが全部俺の気持ちを言ってくれているようで、何も言葉がでてこない。だからこそ、冷静になる。


「その、気持ちとか、あの場所がなくなるとか、やっぱりまだ俺は実感が湧かないんだ。でも初めに斉藤が言ってたように俺にも腑に落ちない部分がある。きっと斉藤が思ったことと同じだとは思うが、それを俺等はちゃんと聞いてから答えを出さなきゃいけないって思うんだ」


 そうだ。レイには悪いが怒りを表面上かするのは少し早いと思う。だってアン子はB棟三階右端の教室がなくなるなんて一言も言ってない。ただ「B棟の取り壊しが決まった」と言っただけなのだ。


 俺の言葉を聞いた連中の中で意味を理解しているには斉藤だけのように見えた。本当に感情的になると周りが見えなくなるのは全員似ているんだな。


 そして俺は直接床に座り込み俯き続けるアン子に言う。


「アン子」


 ただ、名前を呼んだだけでアン子の肩がビクリと大きく動いた。だが俺はそれに気がつかないフリをして話し続けた。


「どうしてアン子がその話しをしに来たのかはわからない。だけど、ちゃんと全部話してくれないか」


「そう……、だよな……。わかった。その前にお前等が疑問に思っていることを答えてやるから何でも聞いてくれ」


 ゆっくりと立ち上がり大人の表情へと戻るアン子。だがその瞬間、ここにいる誰もがアン子の苦しみを理解した。少しだけだけど、目じりが赤く染まっていたから……。


「まずは私の疑問に答えてもらう」


 一歩前に出る斉藤。ゆるいパーマの髪が揺れているのがわかったとき、その一歩がとても力強いものなのだと感じた。


「城鐘レイが早とちり変な勘違いをしてしまっているが、B棟の取り壊しが決まったとしても、すぐにB棟に入れなくなることはないと私は思っている」


 斉藤の言葉を聞いて一番最初に驚いた表情を浮かべたのは、やはりレイだった。そしてすぐに顔を隠すようにレイは俯く。きっと自分が早とちりしたことが恥ずかしいのだろう。


 そして斉藤の考えは俺も考えていた。B棟の取り壊しが決まったという事は、話し合いが終わったということ。だとすればB棟を封鎖するにはまだまだ時間がある。斉藤もそのことを考えていたのだろう。


「B棟の封鎖はもう始まっている。三学期が始まり次第、全生徒へと通達されるだろう。だからもう、お前等がB棟に行くことはないんだ」


「ちょっと待ってくれ、それはどう考えてもおかしな話にしか聞こえないぞ如月教諭」


 焦りを隠せない斉藤。それは俺も同じだった。


 アン子が言っていることは正しいのなら、計画がずいぶん前からおこなわれていたという事になる。だとしても、三学期から使えなくなるのはおかしな話だ。どんなに早くても春まで待つのが学校側の対応だろう。


「おかしな話しではない。B棟の取り壊しの件は前々から持ち上がっていた。今はまだ何も起こってはいないが、老朽化が進んだB棟を生徒に使わせるのには教師として抵抗がある」


「なら、どうして今なんだよ……?」


 俺が割って入った。


「それは……」


 口篭るアン子。そこに今回のB棟取り壊し決定の意図や意志があるように思えた。


「ちゃんと話してくれアン子。こんなことを今さら持ち出すのは女々しいかもしれないけど、俺にあの教室に行けって言ったのはアン子だぞっ! 責任取れなんて言わない。だけど納得できなきゃ俺だって気分わりぃんだよっ!!」


 モヤモヤする。自分の中でB棟三階右端の教室への気持ちが分からなくて……。今年の一学期、一之瀬があの場所の鍵をアン子から奪い、あの場所を奪われたような感覚になったとき、俺は全力で叫んでいたのに。その感情をどこかに落としてきてしまったのではないのか思えるくらい、今の俺にはこの胸の中に芽生えるモヤモヤがわからない……。


「B棟を取り壊すにあたって問題が一つだけクリアできなかったんだ……」


「問題ってなんだよ……?」


 俺の声に反応しアン子が俺を見つめる。その表情は教師のものなのか、アン子のものなのかわからない表情で、そんなアン子を見つめ返しながら答えを待つ。


「まぁ在り来たりな問題だ。資金だよ。学校側にはB棟は取り壊して新しく校舎を建てるまでの資金が足りていなかったんだ」


「それをクリアできたってことは……」


「あぁ、融資をしたいと申し出てきた存在があるんだよ」


 アン子の言葉を聞いて少しだけ嫌な予感がした。だけど、それをする意味が俺にはわからない。それをしたところで、有益になるようなことが皆無に近い。だからこそ、それは絶対にありえないことだ。


「それって、いったい誰なんだよ……?」


 恐怖を感じているわけではない。だが自然と体が震えていた。声も震えてる。自分がどうしてこんな状況になってしまっているのかまったくわからない。


 するとアン子は俺から視線をずらし再び皆のほうへと向きを変えた。


「その、なんだ。少しだけ私に懺悔をさせてほしい」


 アン子の表情は真剣だった。ふざけている素振りなどまるでなく、真剣にここにいる皆に話しをしようとしている。アン子は一つ息を吸い、そして


「ここにいるお前等は私の大切な生徒だ。教師である私が守るべき存在だ。だけど、B棟の件に関しては私ではどうしようも出来なかった……。それだけじゃない、私はお前等に救われたような気がする。レイと雪菜、それに拓真は私の幼馴染のような奴等だ。子供のころから知ってる、私の大切な奴等なんだ」


 アン子の懺悔を静かに聞く面々。俺もその一人だった。


「私一人ではどうしようもできなかった。雪菜のこともレイのことも、拓真のことも……。だけどB棟三階右端の教室というありふれた物置教室がお前等を出会わせ、私の大切な奴等に新しい笑顔を与えてくれた。神沢は言ったよな、B棟三階右端の教室が壊れてなくなったとしても、僕達の絆は壊れてなくなったりしない。私もそうであってほしいと願っている。だけど、私は教師としてお前達を守ることができなかった……」


 声が震えている。俺や雪菜にレイの前なら弱さを見せるのはわかる。それは昔からの付き合いが長いから。だけど、ここにいるのは教師の如月杏子しか知らない奴等のほうが過半数を占めている。


 これがアン子の覚悟。いや、自分で言っていたな。これは、懺悔なんだ。


「最後までB棟の取り壊しの延期を私は訴えた。お前等が卒業するまででいい、その時間を稼ぐのが私の役目だと思った。だけど、大人の世界というのはとても難しいものだ。気持ちだけでは何も守れやしない……。私は本当に無力だ。もう、私にできることは、お前達に謝ることしかない……。本当にすまなかった……」


 深く頭を下げるアン子。リビングの中にはアン子の鼻を啜る音が聞こえ、誰も何も言わない。数秒間の沈黙が流れるとアン子の顔の下の床に大きな雫が零れるのが見えた。


 ずっとアン子は戦ってきてくれたんだ。俺らガキのためにずっと独りで……。責任を背負い、教師であるために。俺は何をアン子に言えばいいんだ。すると


「もういい。もう大丈夫だから、泣くんじゃねーよ、杏子」


 下げているアン子の頭を優しくレイが撫でながら言う。アン子もそれに応えるかのように顔を上げた。


 少しだけ化粧が崩れている。今にも子供のように泣き出しそうな顔もしてレイを見つめている。そんなアン子にレイは優しく微笑みかけながら


「杏子はずっと頑張ってきたんだろ? 拓真とユキの心配をずっと独りでしてきたんだろ? 自分だけが大人だからちゃんと見てやらなきゃって気張ってたんだろ? 今ここで泣くのは駄目だと思うけど、俺の前だけならいくらでも泣いていいから。ずっと独りにしてごめんな」


 レイの言葉を聞いて更に流れ出しそうになる涙を必死にアン子は堪える。そして次は俺が言うばんだ。


「そうだよアン子。ガキに見えても、ここにいる奴等は相当なことがない限り自分達で何でもできるから。それに駄目になりそうになったら、神沢のいう絆って奴が皆を助けようって自分勝手に動き出す。だから今は泣かないで、さっきの俺の質問に答えてくれ。懺悔はもう終わったんだよな」


 少しだけ流れてしまった涙を自分の手で拭い、アン子は俺を見る。


「聞いて後悔しないか」


「しねーよ。なぁ、みんな」


 俺の言葉を聞いた皆が何も言わずに頷く。だが、きっとこれを聞いて後悔しなかった奴等はいなかっただろう。俺だってそれを知ってしまってどうすればいいのかわからなくなってしまったのだから……。


「わかった。融資を申し出てきたのは━━」


 どうして俺は楽観的に考えていたのだろう。それを知ったとしても何も出来ないことなんてわかっていたはずなのに……。だけど、それを聞かないとB棟がなうなるという事実を受け止められたなったのも本当だったんだ。


 脳内で言い訳を並べることすら出来ずに、俺は先に立ってしまった後悔を見据えていた。


「━━一之瀬財閥だ」

 

 

 

 

 

 

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