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天才少女と凡人な俺。  作者: さかな
第九部 冬休み 刻マレル証
125/134

41 後編 (夏蓮)

 

 

 

 

 

 

 十二月二十四日。俗世はクリスマス・イヴというイベントで賑わっている。車の中から見える景色はとても華やかで、楽しそうに笑みを浮かべる者からそれを僻んでいる者まで様々だ。


 私は今、姉さんの誕生日パーティーの会場へと向かっていた。クリスマス。イブが誕生日だなんて皮肉に笑うことすらできない。


 私の誕生日は盛大に行われた。だけど姉さんの誕生日は違う。華やかで盛大なのは変わらないのに、その会はまるで腹に一物を抱えた者達が集う夜会に成り下がっている。


 毎年見てきたそのおぞましい空間は、思いだすだけで今の私の心を真っ黒に染めていく。


 車の中から見える景色は徐々に変わっていった。美しい月明かりに照らされる白銀。帳をおとした世界を照らし出す人工的な白やオレンジの輝きも全てを乱反射させ私の瞳を焼きつかせた。


 人が造りだした自然とは正反対のネオンが咲き乱れ、私の心を掻き乱す。


 会場についても私が姉さんに出来ることなんて何もない。ただただ指を咥えてつまらない大人達に微笑を振りまくだけ。私は慣れている。私ならそれでも構わない。でも姉さんは……。


 天才少女と持て囃されたのは私だ。なにもない凡人の私が本物の天才である姉さんを殺した。存在を奪い上げてしまった。だからこそ、私は姉さんを助けたい。こんな考えになったのはきっと小枝樹くんの影響だろう。


 自分は無力だと理解しながらも、納得いくまで全力で走らなきゃ気がすまない。それで救えた者を取りこぼしているのならとんだ道化だが、小枝樹くんは全てを救ってきた。


 今の私にそれができるのであろうか。単純明快なこの問いを浮かべたとき、微かに私は笑みを浮かべた。


 車の窓ガラスに反射して自分の顔が見える。その顔は純粋に誰かを好きになったり、楽しく高校生活を謳歌している者の顔ではない。まさに一之瀬財閥の顔だった。


 私が忌み嫌ってきた一之瀬財閥。傀儡の未来につながり続けている私には憎悪でしか自分の気持ちをきっと表現できないのだ。


 小枝樹くんが私を救ってくれたように、私も同じことをすれば救えるのであろうか? つまらない疑問。可笑しくて可笑しくて、笑うことすら躊躇してしまう。


 醜い凡人は醜いまま。どんなに輝いている天才と恋仲になったとしても、私が私であることには変わりない。ただ少しだけ変わったとするのであれば、往生際が悪くなった。


 これも全部、小枝樹くんのせいなんだから……。


 今頃みんなは小枝樹くんの家でパーティーをしているころね。私も誘わせたのだが、姉さんの誕生日パーティーがあるからと言って断ってしまった。


 本当だったら私も今頃、小枝樹くんの家でみんなと一緒に笑い合えてあるだろうに。大衆向けに大量生産されたサンタクロースの帽子を被って、子供だましのクラッカーなんかを鳴らしあって……。


 だけど、私は姉さんの傍にいたい。私のことをずっと考えてきて、私のことを庇ってくれた姉さんの傍に私はいたいの。もう、前みたいな弱い夏蓮なんかじゃないから。


 きっと小枝樹くんなら「やってみなきゃわかんねぇだろ」とか言って、出来ないと言った私を罵倒するに違いない。今の私は小枝樹くんの彼女。だから小枝樹くんに恥ずかしい姿なんて見せられないわ。


 何ができるのかなんてわからない。でも姉さんの傍にいることにきっと意味がある。だから……。


 私は右手首の銀細工を左で手握り締めた。そして瞳をとじて小さく呟いたのだ。


「お願い……。私にも力を貸して、小枝樹くん」


 再び目を開いたときに映った光景は、先程と何も変わらないぼんやりとしたネオンの光だけだった。

 

 

 

 

 

 会場は例年同様にホテルを貸し切っている。私の誕生日のときもそうだったが、最近はあまりにもお金持ちという感覚が薄れてしまっているせいか、どこか違和感を私は感じていた。


 学校で催された冬祭り。私にとってはとても些細で一般的だと思えてしまうのに、冬祭りは寒さとは正反対にとても温かなパーティーだと私は思えた。


 くだらなく、楽観的で、どこか大人を真似した思春期の精一杯は、今の私が欲しているものだと理解する。


 華やかな会場、煌びやかな色合い。それは場の空気だけではなく来場者も含めてだ。誰もが憧れるようなシンデレラの世界。


 会場に着くなり私に話しかけてくる殿方は沢山いた。有名な資本家、一代で富と名声を築き上げたIT関係の社長、金と地位を民衆を騙して手に入れた政治家。多種多様な著名人が私を見るなり目の色を変え、お近づきになりたいと卑しい気持ちを押さえながら笑みを零す。


 不愉快だわ。


 一之瀬財閥次期当主だというのは重々に理解しているつもりだ。だけど、私は高校二年生という掛け替えのない時間の中で、大切なことを教わった。


 たとえどんなに他人から見てくだらなく見えてしまうものでも、たとえ小さく輝いている光でも、私は偽者なんかではなく本当に笑い合える瞬間や、友達、家族、そして恋人といたいだけなんだ。


 だけど今は感傷に浸っているときではない。ましてや自分の望んでいる温かな居場所を夢想しているときではないんだ。


 気を引き締めなおした私に一つの疑問が浮かび上がる。自分の誕生パーティーのときとはあからさまに違う。私に話しかけてくる殿方が年配なお方ばかりだ。


 どうして……? 私の誕生日パーティーのときはあんなにも年の近い殿方が話しかけてきていたのに……。何かが違う。私の誕生日パーティーのときと何かが違う。


 その違和感に気がついても天才少女ではない私にはその本質まで覗くことが出来ず、純粋に小枝樹くんが羨ましいと思ってしまった。


 だって彼は、私の誕生日パーティーの日、私が心から笑っていないことに気がつき、父様にまで牙を剥いたのよ。それはきっと私のことを見て思ったのかもしれないけど……。だけど今ここに彼がいれば、この違和感の本質を理解することだって出来るかもしれない……。


 私が姉さんに会えればこの違和感の本質に気がつけるっていうの……? いいえ、決してそれは出来ないと私は思うわ。だって、私は天才なんかじゃないのだから……。


「夏蓮姉様っ!!」


 私の耳を誰かが刺激した。それは聞きなれたとても温かな声音で、名前を呼ばれるだけで安心感すら覚えてしまう。


「菊冬」


 長く美しい金色の髪。普段はそれをツインテールにしているけど、今日は特別なパーティーということもあってか、真っ直ぐと重力に反することなく靡いている。ピンク色のドレスは彼女がまだ幼いという表現でもあるが、私とあまりスタイルの変わらない彼女には大人な妖艶さすら感じる。


 薄っすらと化粧をし中学生だとは思えないほど大人っぽくなっているのに、私を見つけ名を呼んでいるときの彼女はとても子供のように無垢な笑みを浮かべていた。


 可愛い私の妹。私が守らなくてはならない存在。


 私は話しをしていた人達に頭を下げ、菊冬の元へと歩いていく。私が近づいてくることに気がついた菊冬も、慌てることなく一之瀬家に相応しい態度で優雅に歩む。


 だが、私の隣までついた菊冬はそれまでの優雅さが消え、子供のように私に甘えてきた。それは私も同じだった。きっと菊冬が傍にいるからこそ安心感が湧き、冷静に思考を凝らすことが出来る。


 クリアになった頭でも私の思考は本質まで辿り着くことは出来ず、ただただ周囲の者達を眺める事しかできなかった。


「どうしたの? 夏蓮姉様」


 不意に菊冬の声音が変わった。その言葉は心配している気持ちが全面に押し出されているように感じた。そんな菊冬に私は、


「どうもしないわよ。ただ早く姉さんが登場してほしいと思っていただけよ」


 そう言うと菊冬は頷き、私の意見に賛同したかのように笑みを零した。だが私は嘘をついている。姉さんの登場を待っているのは間違いではないけれど、それ以外にも私の菊冬に言えない卑しい気持ちがある。


 何度も何度も菊冬には言われてきた。『私にも頼って』と……。でも今回の件は本当に菊冬を巻き込めない。菊冬には何も知らなかったと弁明できる状況を作っておいておかないと。


 姉さんだけじゃない。私は菊冬も守りたい。私の大切な家族を私は守りたい。


 会場の華やかさの中できっと今の私は一人になろうとしている。隣で笑っている菊冬の笑顔を見ていると恐怖すら和らいでいくようだった。


 世界がゆっくりと動いているように見える。そして私は会場のある人物へと焦点を合わせた。他の存在が灰色に染まり、全てがモノクロになっていく。だが私が見ている人物だけはハッキリとした色で私の瞳の奥を突き刺していた。


 一之瀬 いつき


 その時だった。大勢いる人の中、気づかれないように瞳に入れていた一之瀬樹が、一瞬だけ私を視線で貫き、そして笑った。


 瞬間、体内の血液が沸騰するかのように流れる速度を上げた。心臓の鼓動が血液の流れと同調し、早くそして強く打ち付けてくる。恐怖が蘇ったわけではない。単純に全てを見透かされているのだと感じた。


 ドクンッ、ドクンッと周囲の人にも聞こえているのではないかと疑問に思ってしまうくらい大きく脈打つ心臓。刹那な時間が何十分、何時間にも感じて気がついた時には世界に色が戻っていて、隣にいる菊冬が心配そうな顔で私の顔を覗き込んでいた。


「夏蓮姉様……?」


「だ、大丈夫よ。なんでもないわ。でも、ごめんなさい菊冬。少しお手洗い行ってくるわ」


 眉間を八の字にしている菊冬の顔が見えたが、私はそれ以上なにも言わずに会場から出て行った。

 

 

 

 

 

 鏡に映る自分の顔はとても醜かった。血色も悪く真っ青を通り越して真っ白に見える。会場に来る前に見た白銀の世界のような美しさはなく、無様な姿を晒していた。


 無意味に蛇口を捻り勢いよく水を出し続けている。滝のように流れる水の音がトイレの中に響き、ゆっくりと自分の気持ちを落ち着かせていった。


 父様のあの笑みが未だに脳裏を駆け巡る。気持ち悪さに似た感情が溢れだしそうになって胃がムカムカと今にも痙攣を起こしそうだった。その時


「こんな所にいたのか、夏蓮」


 私の名前を呼ぶ声。その声の方へと振り向くと鮮やかな真っ赤なドレスに身を包んだ姉さんが立っていた。


 一之瀬 春桜はるお。私の姉さんで、一之瀬家の本物の天才。


 桃色の透き通るような細い髪は肩まで伸びていて、普段は真っ直ぐに下ろしているそれを、今日はふわっとしたセットをされていて、本当に美しい人だと思った。


 私なんかよりも身長が小さい。優姫さん同様に高校生にもましてや現役の大学生だとは誰も思わないだろう。


 姉さんは私の方へと近づき、隣の鏡を見ながら何も言葉を発さない私に話しける。


「お前が会場から出て行ったときは少しばかり心配したぞ。何があったかはだいたい分かるが、あまり無茶をするんじゃないぞ」


 優しい姉さんの声音。私の事を心配してくれる温かな感情。その言葉でムカムカしていた胃が少しばかり楽になったような気がした。だが、それと同時に菊冬にも姉さんにも心配をかけてしまっている私の惨めさにも気がついてしまった。


「お父様を見ているときの表情はまさに憎悪そのものだったぞ夏蓮。だがなお父様にあのようの攻撃的なことをするな。お前には荷が重過ぎる」


「全部、見られていたのね……」


「まぁな。たまたまステージ袖から会場を眺めていたらお前の殺気にも似た顔が見えて、それを線で追ったらお父様がいる。きっと私を心配してくれてやってくれている事なのだとは思うが、やめておけ」


 互いに顔を見ることはなかった。ただただ目の前に映るもう一つの世界の半身を眺めていた。


「それとな、お前が感じてる違和感の正体も教えてやろう」


 姉さんの言葉で、一瞬自分の体が硬直するのが分かった。それと同時に脳内を巡るのは『どうして』だった。


 姉さんが天才なのは知っている。だけど、どうして私が抱いた疑問まで分かってしまうの。


 視線を感じ真横にいる姉さんを見たとき、姉さんは苦笑交じりの微笑を浮かべていて、そしてその目が何もかもを見透かしている父様の目のように感じてしまった。


「今日のパーティーはな、単純に私の誕生日を祝うだけのものではない。今年のお前の誕生日のときよりも、さらに深く私の嫁ぎ先をお父様は探しているのだよ。それがお前が感じた違和感の正体だ。私も今日で二十一になる。来年は大学生活最後の年。このタイミングで私の旦那を探すのは間違った時期ではないだろう?」


 そう言い微笑を浮かべたまま姉さんは自分の半身を再び眺めだす。そして私は


「だけど姉さん……。私は姉さんを守りたいの……。結婚の話が出始めているのならなおさら……。私は姉さんにずっと支えてもらってきた。だから、だから私も……」


「夏蓮」


 姉さんから笑みが消えていた。真剣な表情で私のことを見つめる姉さんに、私は少しばかりの恐怖を抱いていた。この先に、私を拒絶するようなことを言われるのではないのかと、怖くて怖くて堪らなかった……。


「ハッキリ言うぞ。お前が誰かのことで真剣に悩み、苦しみ、そして救おうと足掻くのは私にとっても嬉しい。それは自分の妹がゆっくりとだが確実に大人になっていると実感できるからだ。でもな、きっとお前は拓真と一緒にいる時間が長すぎたんだ……」


 一瞬、姉さんは視線を落とす。だがそれは刹那。そして再び私のことを見つめた姉さんが言う。


「お前は私でも、ましてや拓真でもないんだ。私は大丈夫だから、自分の身の丈以上のことをするんじゃない」


 言葉を聞いて、私の時間が止まった。


 身の丈以上のこと……? 違う、私は自分のことをよく知っている。姉さんの言いたいことだってちゃんと理解できる。私は姉さんや小枝樹くんのように天才じゃない。だけど、家族を守ることが出来ないほどもう弱くだってないの……。


 どうして……? どうして姉さんはそんなこと言うの……? 私はただ姉さんを……!!


 止まってしまった世界で姉さんが微笑んだような気がした。そして「もう時間だから私はいくな」と聞こえたようにも思えた。気がついたとき、姉さんの姿はなく、ただただ私の耳を痛めるのは、激しく打ち付ける水の流れる音だけだった。

 

 

 

 

 結局、私が会場に戻るまでにはかなりの時間がかかってしまった。真っ白になった自分の顔に血色を戻し、再び天才少女の一之瀬夏蓮に戻るまで時間がかかってしまった。


 会場は姉さんの登場から大いに盛り上がりをみせ、父様に連れられて挨拶をしている姉さんを遠めに見ていると、再び痙攣してしまいそうなくらい胃がムカムカとしてくる。


 飲んでいるものも食べているものも、なんの味もしなくて、ただ口の中に入っては噛み砕き喉を通して胃に落とす。単純でとてもつまらない行為を私は続けていた。


 居心地がとても悪い。B棟三階右端の教室に行きたいと安易にも思考してしまう。


 あの教室には安らぎがある。私の望んだ世界がある。何もなく埃っぽい、だけど温かな気持ちが充満した私達の居場所。


 いつの間にか私はあの場所を本当に必要としていたのね。本当に、本当に……。


「……ん」


 なんだか頭がボーッとする。気分が悪いわけではない。ただ、姉さんのために自分が何を出来るのか考えるだけで、頭の中がグチャグチャになっていって、明確に答えがでないことに対して苛立ちを覚える。


「……れん」


 だけど立ち止まることなんてできない。姉さんから話しを聞いてしまったからなお更だ。私にだって救えるはず。私にだって━━


「おい、夏蓮っ!」


 不意に自意識の世界から現実の世界へと呼び戻される感覚に陥る。自意識の世界は無音で、まるで深い海の底のように静かだったけど、現実の世界はそれとは正反対に賑やかだった。


 私の名前を呼んだ人物が私の目の前にいる。その人はとても心配そうな顔で、普段から私よりも視点の低い場所から私の顔を覗き込んでいた。


「ごめんなさい。少しボーッとしてて……。それでどうしたの姉さん?」


 声の主である姉さんに私は返答する。すると姉さんの表情は一瞬だけ苦痛を伴うような表情になったが、それを普段と同じ表情に戻して


「お父様がお前を呼んでいる。会場を出た先にいると言っていた。ただそれを伝えに来ただけだ」


 淡々の言う姉さんの声音には感情が込められていないように感じた。そして私は姉さんが伝えてくれたことを実行するために、再び会場から出て行った。



 会場からでたホテルの廊下にその人はいた。


 一之瀬樹。


 娘の私から見てもとても若く見える。これが半世紀を生きた人間の若さなのかと言われれば確かにかなり若く見えてしまう。真っ黒な髪をオールバックにセットし、高級なスーツに身を纏わせるこの男こそが現一之瀬財閥の当主である。


 私がでてくるのを確認すると父様は微笑を浮かべながら私に近寄ってきた。そして


「大丈夫かい夏蓮? 少し顔が優れないようだが」


「ご心配おかけして申し訳御座いません」


 私は父様の言葉にありきたりな返答を返す。目の前にいる父様には嫌悪の気持ちでいっぱいだ。私だけじゃない、姉さんをも苦しめるなんて、絶対に許されることじゃないの。


「どうしたんだい夏蓮? 少し人間のような表情をするようになったじゃないか」


 突然の父様の言葉。今の私の感情が表情にでてた……? まさか、私はぴくりとも自分の表情を動かしてなんていない。なのに、どうして……?


 純粋に恐怖を感じた。それは少し前に見た父様の微笑よりも遥かに怖いと感じてしまっている。重たい声音は透き通っていて、誰彼構わず心の中をグチャグチャに侵食してくるようなずっしりとした声音。


 繰り返し流れる『人間のような表情』それが今の私の身体を硬直させる。


「まぁ、それはいい。だけどね夏蓮。言いたいことがあるのであれば、ちゃんと言わないといけないよ」


 微笑みを崩すことなく、ただただ私を攻め立てる。周囲から見れば単なる会話に見えるかもしれないが、父様の怖さはこの他人に恐怖を与えるやり方だ。


 だけど、父様は言った。言いたいことがあるなら言えと。ならこれが姉さんを救える最後のチャンスなのかもしれない。


 そう思った私は一つ息を吸い、そして吐く。少しだけ心を自分の力で落ち着かせて、父様の目を見ながら私は口を開いた。


「でしたらお言葉ですが、姉さんの婚約は早計かと思われます」


「どういうことだい?」


「姉さんは現在、日本でもっとも優秀な大学に通われております。それは一之瀬財閥の娘なら当然のことなのでしょう。ですが、この先の一之瀬財閥のことを考えるのであれば、海外の大学、あるいは現大学の大学院生になることのほうが良いと私は考えます。したがって婚約、またはその殿方をお探しになる行為自体が早計かと思います」


 私はもう弱くなんかない。姉さんだって救える。独りぼっちのあの部屋から私は出れたんだ。だから、絶対に……。


 父様の表情は少しの驚きを含んでいた。一つ息を吐いた父様が言葉を紡いだ。


「そうだね。夏蓮の言うとおりだ」


「でしたらっ━━」


「だけどね夏蓮。春桜の未来を決めるのは君じゃない。私なのだよ」


 姉さんの未来を決めるのは父様……? そんなのおかしい……。だって人の未来を決めるのは……。


「そんなのおかしいですっ!!」


 激情が私を支配する。この感覚を私はどこかで感じた事がある。あぁ、そっか。誰かの為に精一杯になるのって、小枝樹くんだ。


「姉さんの未来を決めるのは父様じゃないっ!! 姉さんの未来を決めるのは姉さんですっ!! こんな横暴が許されるわけないっ!!」


 きっと初めてだったと思う。私がこんなにも父様に歯向かっているのは。でも感情が止められない。


「私のことをどんなに人形のように扱っても構いませんっ!! だから姉さんと菊冬は自由にしてあげてくださいっ……!! 私が兄さんの代わりにになるから……。だから……」


「小枝樹 拓真の影響かい?」


 言葉を失ってしまった。同時に父様の言葉の意味が理解できなかった。だって、どうしてここで小枝樹くんの名前がでてくるの……? 小枝樹くんは何も関係ないのに……。どうして……?


 返答をしない私に父様は言葉を続けた。


「前までの夏蓮はもっと聞き分けのいい子だった。だが、ゆっくりと確実に夏蓮は人間らしくなっていったね。その原因が小枝樹 拓真だと私は思うのだよ。きっとそれだけじゃないね。夏蓮の通っている学校。あれにも夏蓮を変えてしまった原因があると私は考えている」


 恐怖がゆっくりと背後から迫ってくるような感覚になった。冷静に淡々と話す父様の姿、それを聞く無様な私の姿、そして背後の恐怖。


 心臓の鼓動も早くなっている。それが恐怖からくるものだと理解しようとするが、今の私にはハッキリとした原因が分からない。そして父様は更に言葉を紡いだ。


「だからね、私は考えたのだよ。夏蓮から、いや、小枝樹拓真から、これも違うな君達から尤も大切なモノを奪ってしまおうと」


「な、なにをしたんですか、父様……?」


 絞り出した声はゆっくりと父様の耳に届き、私へと近づいてくる。私の呼吸はだんだん荒くなり、最悪な未来を想像してしまっていた。


 そして父様は私の耳元で奪ったモノを口にする。とてもとても楽しそうな声音で。


 瞬間、現実を受け止められなかった。私の腕は重力に逆らえず垂れ下がり、驚きを隠せない表情は瞳を大きく見開くが、何を見ているのか分からなかった。刹那の時間が過ぎ、思考できない私は残ったのは純粋な後悔と憤怒だった。そして


「どうして……、どうしてそんなことをするんですかっ!!!! 皆は何も関係ないっ!! 私だけでいいのに、どうして父様は皆から奪ったんですかっ!! どうして、なの……? 答えて下さい父様━━」


「やめろ夏蓮」


 叫び散らす私の肩に誰かの手が置かれる。振り向いた先には姉さんがいて、冷静な表情で私を制止している。


 すると姉さんは私の前に立ち父様へ向かって話し出す。


「申し訳御座いませんお父様。夏蓮の教育は後でしっかりと致しますので、ここは穏便に……」


 深く頭を下げる姉さん。その姿を私は見ているのに何も出来なかった。姉さんの言葉を聞いた父様は笑みを浮かべ姉さんの肩を叩き、


「大丈夫だよ春桜。問題にするようなことでもない。まぁ夏蓮のことは春桜に任せるよ。でも、早く会場には戻ってくるのだぞ。今日の主役は君なのだから」


「はい」


 そう言い父様は会場へと戻っていった。

 

 残される私と姉さん。私は何も姉さんに言えなかった。だってさっき、身の丈上の事をするなと言われたのに、私はそれをしてしまったんだ……。


 身体に力も入らない。もう私には何も……。


「大丈夫だったか、夏蓮」


 俯く私に優しい言葉をかけてくる姉さん。その言葉を聞いて瞬間に私は泣き出してしまいそうになった。でもここで泣いてはいけない。涙を我慢しながら姉さんへと顔を向ける。


「ごめんなさい……、姉さん……」


「なぜ謝る。夏蓮が謝ることは何もない。さっきも言ったが私の事を思っての行動なのであろう? なら私は許すぞ。それに……」


 優しさから苦しみへと表情を変えた姉さんが話しだす。


「お前が思っているよりも私は婚約に対して気分が悪いものではないんだ。寧ろ私が一之瀬財閥にできることなのだと誇りにすら感じる。一之瀬財閥の次期当主は夏蓮だ。だから私にはもう、これくらいしか残ってないんだよ」


 ドクンッ


 姉さんの言葉を聞いて心臓が跳ね上がったような気がした。私は胸に手を添えて確認するが、先程よりも心拍数は激しくないと感じる。なのに、どうしてこんなにも不安を感じているのだろう。


 その不安はすぐに現実のものとなる。


「私は秋の代わりにはなれなかった。本当は私が天才だから夏蓮がこんなにも苦しむ必要なんてなかったのにな……。私が無力だったから、夏蓮を守ることすらできなかった……。だからこそ、私が夏蓮にできる最後のことが、お父様に逆らわず嫁に行くことというわけだ」


 ドクンッ


 再び襲い掛かる胸の苦しみ。そして理解する。これは気のせいなんかじゃない。


 痛くて苦しくて堪らない……。どうして、姉さんが……。違う。私が姉さんから全てを奪ってしまったんだ。


 天才の姉さんの居場所を私が奪ってしまった。私が私じゃなければ、姉さんはもっと自由に生きていられたのかもしれない。私がもっと強ければ、何も奪われなかったのかもしれない。


 何度も何度も強く打ち付ける胸の痛みは、自分が壊れかけてしまっているかのように感じてしまった。でも、まだ私は壊れるわけにはいかない。私が強く、もっともっと強く……!!


「夏蓮」


 姉さんが優しく私の名前を呼んだ。すると私の身体を優しく包み込み、姉さんの温もりを確かに感じることが出来た。でも、これが最後なのだと私は理解しきれていなかった。


「大丈夫だ夏蓮。お前には拓真がいる。それだけじゃない、沢山の友人がいるではないか。辛くなったら皆を頼れ。お前の弱さを見たとしてもお前から離れるような奴等ではないのだろう? だからもう、夏蓮には私がいなくても大丈夫だろ?」


「姉さん……?」


「私は大丈夫だ。絶対に夏蓮を守ってみせる。秋がそうしたように私も……。だから聞いてくれ、夏蓮」


 抱きしめられているせいで姉さんの顔が見えない。耳元で優しく囁きながら言葉を紡ぐ姉さんの存在しか今の私には認識できていない。そして私の心臓の速度が急激に上がっていくのが分かった。


「私が、一之瀬財閥の歯車になる。お前を人形なんかにはさせない」


 声がでなかった。何もできなかった。本当は姉さんを救いたかった。本当は叫びたかった。


 嫌よ姉さん……。私のために自分を犠牲にするのなんて間違っているわっ!! 私が弱いからそうするの……? だったら私、もっと強くなるから……。もっともっと強くなって誰にも屈しないくらい強くなるからっ……!! だから、姉さん……。いかないでっ……!!


 叫びは思考の宙を舞う。身体を震えさすことも出来ずに私はその場で立ち尽くした。私の無言を肯定に捉えた姉さんがゆっくりと身体を離す。そして何も言わずにただただ私の大好きな姉さんの微笑を最後に向けられていたのだった。


 佇むことなんて私には許されない。でも、どうしてだろう。胸が痛くて痛くて、苦しくて苦しくて、今にも張り裂けてしまいそう……。この苦しみはいったいなんなの……?


 あぁ、そっか。小枝樹くんはこんな苦しみをずっと一人で抱え込んできていたのね……。ごめんなさい、私には何も出来そうにないわ……。


 姉さんの未来も、皆の大切なモノも、全部私のせいで失ってしまった……。ねぇ、小枝樹くん……。私はいったいどうすればよかったの……? ねぇ、小枝樹くん……。貴方ならいったいどうしていたの……?


 胸の苦しさに耐え切れず、私は膝から崩れ落ち右半身を壁にもたれかけさせる。そこでやっと自分の足が震えている事実に気がつき、滑稽だと思考の中で笑って見せた。


 でも現実は笑みを零す力すら残っていなくて、私は小さく救いも求めていた。


「ねぇ、小枝樹くん……。助けて……」

 

 

 

 

 

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