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天才少女と凡人な俺。  作者: さかな
第八部 二学期 何モナイ景色
119/134

40 後編1 (拓真)

 

 

 

 

 

 長い長い二学期がもうすぐ終わる。思い返してみればレイが転校してきたのを皮切りに沢山の事件に遭遇した。


 小枝樹 拓真が天才だと露見してしまったり、文化祭で雪菜に告白されたり、神沢と牧下の関係を取り持ったり、ストーカー女の斉藤と友達になったり、一之瀬にフラれたり、一之瀬と恋人になったり。


 思い出すだけでもお腹いっぱいになってしまうほど、濃い数ヶ月を過ごしてきたと思える。


 だけどもうじき、そんな二学期が終わる。今日の終業式が終われば、俺等学生は冬休みへと突入する。


 三年生は大学受験やらで忙しいみたいだけど、俺等二年生にはまだあまり関係ない。なので今年の冬休みはとことん楽しもうと思っている。可愛い彼女もできたことだしな。


 休みを前にして浮かれている生徒のほうが多い。夏休みの前と同じような雰囲気すら感じる。だが、冬の冷たさのせいなのか気持ちの高揚がどこか大人びて見えた。


 落ち着いているわけではないが、はずむ声がどことなく寒い空気に攫われて、一歩前に進んだ思春期の形を作り出していた。


 夢に恋、希望や現実。さまざまな想いを受け取り感じていき成長していく高校生という時代。笑い声もはにかむ仕草も、すべては夢想の中に消えてしまう儚き幻。


 教室にいながらも澄んだ空気が簡単に静けさを運んでくる。それはきっと俺だけが感じている虚像なのかもしれない。


 ふと笑みが零れるのは嬉しくなってしまったからなのだろうか。見える光景が永遠のように感じてこの世界に取り残されてもいいとさえ思えてしまう。


 だが、時間は動き続ける。楽しい時間も悲しい時間も気がついた時には過去の存在へと変わり果て、今の自分を見つめることが難しくなる。


 教室の風景が体育館へと移ったとき、あとこれが何度繰り返されるのか想像した。


 生徒会長の挨拶や教師の言葉を聞き、つまらない校長の言葉を聞きながら俺は指を折り数えた。この永遠に続きそうな終りと始まりは両手で数えられるほどしか残っていない事に気がつく。


 体育館独特の埃のにおいが鼻腔を刺激し、ときたま聞こえる床を擦る音が俺の耳を支配する。生徒会長の言葉も校長の言葉も今の俺には入ってこなくて、ただただ永遠というものが存在しないのだとニヒルに思う。


 学生達の静寂には浮ついた気持ちが混ざっていた。それはきっと今日の夜に開催される冬祭りのせいだろう。


 生徒会主催で行われる冬祭りは参加自由形のささやかなパーティーだ。生徒会長に冬祭りに関しての偽の相談を受けた記憶はまだ新しい。


 騙された俺も悪いと思う。だが綾瀬のやり方は間違っていたと今でも思っている。


 大切だから守りたい気持ちはわかる。でも誰かを守るために誰かを犠牲にするのは絶対に間違っている事なんだ。すべての疑問が解決したとき、俺は綾瀬を傷つけた。


 真実というこの世界でもっとも残酷なやり方は悪魔の所業のように思えてしまう。それでも俺は何も間違ったことをしていない。だからこそ、あの現場に突然現れてしまった下柳に俺は間違っていないと言えたんだ。


 その後のことは何も把握していない。俺も俺で忙しかったし、途中で下柳に道を示してもらったし……。


 下柳も綾瀬も俺を恨んでいるかもしれない。でも俺があいつ等を恨む道理はない。感謝をすることしかないんだ。下柳は俺に可能性を教えてくれた。綾瀬は隣にいる人に近づく勇気をくれた。


 気がついたとき終業式は終わっていて、生徒達が体育館から退場し始めている。無意識のうちに俺も他の生徒の後ろをついていき体育館から出た。


 体育館から退場する前から生徒達の明るい声が飛び交う。緊張が完全に身体から抜け出たのか、その明るい声からは冬休みの計画や夜に行われる冬祭りの話で持ちきりだ。


 終業式の数日前に発行される冬祭りの便り。全校生徒に配布されるそれに書かれていたことは、俺が提案したドレスコードだった。


 去年、一昨年を知っている三年生と去年を知っている俺等二年生はドレスコードがついている冬祭りに期待し、何も知らない一年生ですら大人の雰囲気を味わえると今から胸を躍らせている。


 高鳴る気持ちがひしひしと感じ取れるくらい、飛び交う声は楽しげなものだった。


 体育館を出てA棟に辿り着く。あとは教室に戻って担任教師の話しを聞いて今日の学校は終りだ。そんな事を考えている俺は踵を返しもう一度、体育館のほうへと歩き出す。


 理由は簡単だ。一之瀬を探しにいく。我ながら女々しいことをしていると思うよ。だって教室に戻れば会えるのに、少しでも一緒にいたいだなんて女々しい以外の表現が見つからない。


 体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下で一之瀬に会う。


「あら、どうしたの小枝樹くん? さきに出て行くところが見えたけど?」


「いや、その……。少しでも一之瀬と一緒にいたくて……」


「ば、バカじゃないのっ……!? 教室に戻れば会えるのに……。でも、そう言って私のところまで来てくれた事はとても嬉しいわ」


 顔を真っ赤に染め上げ動揺する一之瀬だったが、最後には頬を赤く染めたまま微笑を俺に返した。その姿を見ているだけで幸せな気持ちになってしまう俺は、本当に阿呆なのかもしれない。


 通り過ぎていく生徒達の姿は横目で見えていた。だが、そんな事を気にする事すらできない俺と一之瀬。恋人になったときの状況なんていうものはきっとこんなものなのだろう。


 どんなに他者を気にしていたって二人の世界に入り込んでしまえば些細なものに変わる。それだけじゃなく、今の状況があまり生徒がいないということも俺と一之瀬を二人の世界に入らせるのに必要なことだった。


 そうして無言のまま俺と一之瀬は見つめ合い、刹那の時間を経て共に歩き出す。その時だった。


「拓真くん?」


 体育館のほうから俺の名前を呼ぶ声が聞こえ振り向いた。そこには綺麗で長い銀髪を冬の優しい風で靡かせている生徒会長の姿と、線が細く優男にしか見えない副会長が少しだけ俺を睨んでいるような瞳で立っていた。


 なにか話したそうにこちらを見ている下柳会長に俺は声をかける。


「どうした? なにか用でもあるのか?」


 意地が悪いとはまさにこの事を言うのであろう。下柳が何かようがあるのは明白だ。それを止められない副会長の綾瀬が少しばかり御立腹なのだろう。安易に想像がつくのが嫌になってしまう。


 下柳は俺の言葉を聞いて自身の綺麗な銀髪を手で靡かせた。そして言葉を紡ぐ。


「いや、たいした用ではないのだ。それに何も聞かなくても現状が私の知りたい答えを物語っている」


 そう言う下柳は微笑を浮かべる。そして俺は考える。現状が答え。


 その答えの意味を理解したとき、俺も下柳同様に微笑を浮かべた。そして隣にいる一之瀬へと一瞬視線を動かし、再び戻した視線で下柳に答える。


「あぁそうだな。本当に下柳には感謝してる。あのとき下柳が言ってくれなかったら、こんな未来はなかったんだって思うんだ。だから、ありがとな」


 もう諦めようとしていた。すべてが苦しくてすべてが嫌になっていた。身体もうまく動かなくて、このまま消えてしまいたいと思っていた。


 友達の優しさも何もかもが慰めにしか感じなくて、自分が惨めだって思えてしまっていた。そんな時に阿呆な生徒会長さんが威風堂々たる姿で現れたんだ。


 初めて会ったときのか弱さはなく、その代わりに自信という力を身につけた会長さんはとても大きく見えた。


 この人だったら付いていっても良いかもしれないと思わせるほどのカリスマ性を感じた。天才の俺がもっていない才能を彼女は待ち合わせていたんだ。


 だから俺の足は動いた。大切な人の手を掴むために動けたんだ。


 数日前の記憶は新しく鮮明に蘇る。脳裏を巡る情景を見て再び俺は微笑した。すると下柳も微笑みを強めていたらしく、俺を見ながら優しい笑みを送ってくれる。


 だが、その笑みは俺だけに送られていたもので、視線を一之瀬へと移した下柳は少し強めに一之瀬の瞳を射抜く。そして


「一之瀬 夏蓮。君の隣にいる男がどういう男なのか分かっているか?」


 真っ直ぐと飛んでくる下柳の言葉を一之瀬は受け止める。その表情は何も変わらず、だがどこか自信を持っている表情だった。


「えぇ、分かっているわ。小枝樹くんはとても強い人。でもそれと同時にとても脆い人。出会ってからの数ヶ月で小枝樹くんの色々な表情を見たわ。その結果、小枝樹くんは弱い人じゃなく単純に脆い人だと思ったの」


 一之瀬の言葉は冬の風に乗っかり少しだけ響いたように感じた。凛とした通る声は下柳と同じで、その言葉には俺の心を温めてくれるような想いが込められていた。


 弱い人じゃなく脆い人。言われてみれば確かにそうかもしれない。ずっと自分は弱い人だと思っていたけど、一之瀬が言うように単純に脆いだけなんだ。


 少し打たれるだけで駄目になりそうになって、すべてを捨てて逃げ出したくなってしまう。それは弱いからじゃなく脆いから……。


 自分の身を守るために、いやその脆さを隠すために俺は何度も逃げ続けてきたんだな。そんな恥ずかしいところまで一之瀬に見られてて、なんだかこそばゆい。


「そうだな。君の言ってることは間違っていないよ。拓真くんはとても脆い、だが私は弱い人間だった……」


 一之瀬の瞳を貫くような視線は下降し、下柳の視点が落ちる。


「数週間前、私が君達のところに依頼をしに行ったことを覚えているか? あの時の私は生徒会長というものが何なのかなにも分かっていなかった。自分の理想を叶えることが出来ないのが歯がゆくて、私にはやはり才能がないのだと諦めてしまいそうになったよ」


 下柳の瞳は曇り、悲しみを抱いている。そんな下柳を心配そうに見つめる綾瀬の拳が強く握られているのを俺は見逃さなかった。


「だけど一人の天才少年が私に気がつかせてくれたんだ。自分という存在の重みを……。今までの私は『みんなの理想』の生徒会長になろうとしていた。だから私は言葉遣いを変えてみたり態度を変えてみたりと、阿呆のように見た目だけを変えていった」


 悲しげな瞳を細め、下柳は話し続ける。


「その天才少年は私の部下に暴力を振るい、挙句の果てには自分はなにも間違っていないと私を睨みながら言ったのだ。本当に腹が立ったよ。私の部下を傷つけたのに、間違っていないとはどういう事なのかとね。でも、ことの真実を聞いてみれば、本当に彼はなにも間違っていなかったのだ……」


 気がつけば生徒どころか教員達の姿も見えない。始業の鐘の音が聞こえてこないから大丈夫だとは思うが、それもあと少しの時間だろう。


「その天才少年は私の部下が吐いた暴言に怒りを覚えたのだ。自分の大切な人を罵られる暴言に……」


「大切な人……?」


「あぁ、そうだ。拓真くんは、ここにいる道久くんが吐いた君の暴言を聞いて怒ったのだよ。一之瀬 夏蓮」


 俯く綾瀬、驚く一之瀬。だが、そんな状況なのにも関わらず俺と下柳だけは落ち着いていた。


 綾瀬の表情からは俺を憎む気持ちが少しだけなくなり、曇った表情で俯く。隣にいる一之瀬はきっと俺が一之瀬のことで怒ったのが不思議なんだ。


 俺は強く口を噤み、下柳の言葉を待った。


「初めに手を出したのは道久くんの方だったらしい。拓真くんに現状の真実を突きつけられ我を忘れてしまったと本人が言っていた。そしてなにも関係のない天才少女への暴言を吐いた。それを聞いた拓真くんが怒り、道久くんの胸倉を掴んで怒号をあげたのだ。そんなときに私が生徒会室へと踏み込んでしまった」


 俺の知っている真実。一之瀬の知らない真実。解き明かされていく見えなかった光景を一之瀬は真剣に聞き続けていた。


「その現状を見て、私は激怒したのだ。何をやっているのかと、私は拓真くんを悪者にしてしまった。でも拓真くんは私に言ったのだ『俺はなにも間違っていない』と……。それはそうだ、大切な人を愚弄され怒りの沸点を超えてしまっただけなのだからな。その真実を知って私は思えたのだ。自分を貫くという事がどれほど素晴らしい事なのか。それとその苦しさを……」


 きっとここからは俺の知らない下柳の気持ちが混ざってくるのだと思った。どうしてそう思えるのかは簡単だ。俯く下柳の瞳が後悔だけではなかったから。


「私の描いた生徒会長という偶像は壊れ、私は私が何者なのか分からなくなってしまった。そんなときだった。私に自分という重き存在を教えてくれた天才少年の今にも倒れそうなくらい弱っている姿を見たのは」


 それは一之瀬 秋の墓で一之瀬と会ってしまってからのこと。


「彼の姿は『なにも間違っていない』と言ったときのような気高さはなく、ただただ死を待つ人間のように思えた。だが私はそんな彼のおかげで一歩前に進めた。私が私である為の私の意志の根源へと辿り着かせてくれた。でもまだ分からない。私が思う私とはどういう存在なのか……。頭の中で巡るのは弱った自分の姿ばかりで、目の前で苦しんでいる恩師を救うことすら私にはできないと思ってしまった……」


 ゆっくりと感情が昂ぶってきている下柳の声は荒くなってきていた。


「手を差し伸べる事もできないっ……! それは私が私という存在に気がついていないからだっ! 中途半端な優しさは苦しみを生み、なんの救いにもならない。だが彼は自分が苦しんでいるのにも関わらず、私に謝ってきたのだ……。思ったよ、どうして自分が苦しんでいるのに目の前の他人を考えられるんだっ! 君はどこまで天才になれば気がすむんだっ! 私が凡人なのが可笑しいとでもいうのかっ! と……」


 感情的になっている下柳の瞳が薄っすらと滲んでいた。身振り手振りを使い自身の中に溜まっていたすべてを解き放とうとしているように見えた。


「卑しい自分の思考が巡った。だが、そのあとに私の中の私が私に言ったのだ……」


 激しい昂ぶりが抜け落ち下柳の声音が変わった。悲しみを含んでいるような声に聞こえるのに、優しさが溢れ出てくる声音。


「確かに私は凡人だ……。だが、生徒会長なのだと」


 冬の冷たい風に攫われる下柳の雫。同時に靡く絹のような銀色が彼女の真っ直ぐとした強い瞳を更に強く演出した。


「だから私は彼に手を差し伸べた。彼が苦しんでいるかじゃない、彼が天才だからじゃない。彼が、私の大切な生徒だからだ。それが、私のなりたい生徒会長というものだったからだ」


 俺の脳裏には下柳に助けてもらったときの映像が流れてきた。どうして下柳は俺に優しくするのかと疑問に思った。だが、下柳は俺に言っていた。


『私が生徒会長だからだ』


 あのときにはもう、下柳は自分の進むべき道が見えていたんだ。溝鼠のような醜い天才に生徒だからという理由なだけで手を差し伸べる事が出来る存在。人の上に立つ為の必要な資質。


 俺には人の上に立つことの出来るようなカリスマ性はない。ただただ天才という特殊なものを持っているだけ。だからこそ、この人になら付いていってみたいと一瞬でも俺に思わせた下柳には、紛れもなく人の上に立つ才能がある。


 この自分に自信がなかった生徒会長を信じてみたい。いや、信じたい。今の俺は心からそう思っていた。


 下柳の真っ直ぐな瞳は一之瀬から離れることがない。優しい微笑みは女神のように輝き、瞳の煌きと銀色の絹が彼女を瞬かせ幻影の存在のように感じた。


 その光の絹を受け止めた一之瀬は冬の風で漆黒の髪を靡かせ、左手で押さえる。そしてゆっくりと口を開いた。


「きっと、貴女のおかげで小枝樹くんは更なる一歩を踏み出せたのかもしれないわね。その事に関しては私も感謝の気持ち以外に他の感情を思い浮かべる事が出来ないわ。だから。本当にありがとう」


「それじゃ及第点だ。天才少女」


 下柳の発言に戸惑いをみせる一之瀬。当の本人は呆れた表情を浮かべ、他者から見たら一之瀬を見下しているようにも見える。


「どこか君は自分を特別な存在だと思っているのかもしれない。だが、それはごく普通なことだ。天才少女であり一之瀬財閥の娘だからな。でもな、そんなこと私には関係ないのだ。君がどんなに他者の持ちえていない物を持っていたとしても、君も拓真くん同様に私の大切な生徒なのだから」


 俺は下柳を誤解していたのかもしれない。いや、すべての人を誤解していたんだ。


 どこかで俺は天才少女の一之瀬 夏蓮のことを誰もが自分より上の存在だと思っていると感じていた。だけど下柳は自分が生徒の長であるから一之瀬も自分が守る対象なのだと言う。


 金も名誉も才能もすべてを兼ね揃えていようが下柳には関係ないんだ。


 一之瀬はこの学校の生徒。大切な存在に入るのなんてこの理由があればいい。


 そんな気持ちが今の下柳から伝わってくる。本当にこの生徒会長さんには完敗だ。俺の求めていたヒーローという形の片鱗をこの数週間で身につけてしまうのだから。


 隣にいる一之瀬を見る。驚いているのか現状を理解できないのか、一之瀬の表情は少しだけ大きく開かれた瞳が印象的でその他は普段となにも変わらない。


 もしかしたら瞳が少し大きく開いているように見えてしまっているのは俺だけなのかもしれない。


 下柳の言葉を聞いた一之瀬はなにも言わずに無言のままだった。そんな一之瀬を目の当たりにしたからなのか、下柳は止めていた歩みを再会させる。


 ちょうど一之瀬の横を通り過ぎるところで下柳の足は止まり自身の手を一之瀬の肩の上に乗せる。そして


「天才少女だからと言ってあまり気張る必要はない。隣にいる君の大切な人を頼ってもいい。彼には君を救うだけの力があると私は信じている。だがもし、それだけでは足りないと苦しくなってしまったときがくるのであれば、その時はこの私を頼ってくれたまえ。一之瀬 夏蓮」


 そう言う下柳は微笑んでいた。そしてそのまま立ち去ろうと再び歩みを始める。下柳の後ろを付いていく綾瀬 道久。俺も一之瀬もなにも言葉を発する事はない。


 今の一之瀬はどんな気持ちなのだろう。何度も一之瀬の顔を見るが表情はあまり変わらない。下柳の台詞は俺ですら驚いているのに、言われた一之瀬本人は何を感じているのだろう。


 一之瀬が何を考えているのか何を感じているのかなんて俺には分からない。だけど、なにも変わらぬ表情で一之瀬は俺の手を強く握り締めていた。


 少し痛いとすら感じてしまうけど、その痛みが一之瀬から俺へと流れてくる事が嬉しいと思ってしまった。だからもう少しだけ俺もかっこつけよう。


「なぁ綾瀬っ!」


 俺は振り向かないまま言葉を発する。


「冬祭り、楽しみにしてる」


 俺の言葉が綾瀬へと届いたのかは分からない。ただ下柳と綾瀬の足音が一瞬だけ止んだような気がした。だからこれでいい。


 きっと俺と綾瀬の関係を修復するのには時間がかかる。それでも今の俺が言えることは沢山ある。伝えたい事はただ素直に言葉という音にのせるだけ。あとはお節介な風がゆっくりとソレを運んでくれるのを信じるだけだ。


 残させた俺と一之瀬は少しのあいだ呆然としているような感覚だった。正確にいえば呆然としているのは俺だけで、一之瀬が何を考えているのかは分からない。


 ただ何の言葉も発さず、身体を動かす事もしないまま、俺が感じているのは一之瀬に握られた手の温もりだけ。


 時間が止まってしまったかのように思えたが、しっかりと時間は動いている。それに気がついたのは俺の手を握る一之瀬の力が再び少しだけ強まったからだ。


「ねぇ、小枝樹くん」


 なにも動かない。視覚ではなにも感じる事ができないが、俺の聴覚はしっかりと一之瀬の声を感じている。


「いつの間にか、私は沢山の人に支えられる存在になってしまったのね。夢にも思わなかったわ。まさかt天才少女の見方が生徒会長だなんて……。でも、嬉しかった……。こんな私でもこの学校の生徒になれたのが嬉しかった……」


 透き通る一之瀬の声。普段と変わらぬ凛とした声。だけど俺は知っている気丈を振舞う天才少女の手が震えている事を。


 だけど俺はなにも言わない。ただ一之瀬の話しを聞いているだけ。返事は声に出さなくても大丈夫。手を少し強く握れば済むことだ。


 それに沢山の存在に支えられているのは一之瀬だけじゃない。俺だってそうなんだ。


 だから今の俺たちはもっともっと楽しんで、もっともっと幸せを感じて、最高の高校生活だったって未来で言えるようにならなきゃいけない。


 過ぎ行く時間は大切なものばかりを思い出や記憶に変えていく。でもそれがなかったら今の俺たちはここにはいない。苦しい記憶も楽しい思い出も全部があるから今の俺等が笑っていられるんだ。


 そう思い、ふと笑みが零れた。


 そして俺等は二学期最後の夜へと誘われるのだ。

 

 

 

 

 

すみません。長くなってしまったので今回の後編は二分割にしました。


本当にすみません。

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