表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天才少女と凡人な俺。  作者: さかな
第八部 二学期 何モナイ景色
118/134

40 中編 (拓真)

 

 

 

 

 

 

 はっきり言おう。今の俺は浮ついている。


 昼休みの出来事があったからだとは思うが、授業中に口角が上がりそうになるのを必死で押さえている自分の姿を客観的に感じたとき、惨めを超えて哀れんでしまう自分が存在した。


 隣に座っている一之瀬のことをみることはおろか、教師の授業内容も頭に入ってこない。


 なんの勘違いも行き違いもなく俺と一之瀬は恋人同士になった。そして放課後に付き合って欲しいと言われれば期待しない思春期男子はいませんよ。


 あれか、あれなのか。一般家庭で育っていないお嬢様は色々と早いのか? それとも単純に一之瀬がお盛んだということなのか? いかんいかん。邪な考えはゴミ箱にポイしなさい俺。


 気がつくと五現目の終わりを告げるチャイムが鳴り響き俺は絶望する。


 意識を正常に取り戻した俺は机の上に置いてあるノートへと瞳を落とす。そこには無限に広がっていくような、可能性だけを残したまっさらな紙がある。文字を書きやすくするために備わっている等間隔に引かれた黒い線が今の俺を罵っているように見えた。


 まさに机上の空論。いや違うか……。


 後悔先に立たずと思いながら現状を受け入れる俺は、緩む口元を隠すことができずただただ変態へと化している。


 小休憩が終われば次の授業を告げる鐘が響く。なんとしてでもこの状況を打破しなくては天才ではなく変態のレッテルを貼られること間違いない。でも、ニヤニヤが治まらない。


「おい拓真。お前、そんなに嬉しいのか?」


 声が聞こえて顔を上げると、赤髪を手で掻き分けながら切れ長で人のことを睨むことしかできない瞳で俺の隣に現れるレイ。そんなレイも俺とはまた違う笑みを浮かべていた。それは悪戯な笑みとでも説明しておけば良いのか。とにかく、ここでレイに関わると碌なことがないのだと細胞レベルで俺は感じ取った。だから


「あぁそうだ。今の俺はとても嬉しいことがあった。それをすぐに察知してくれるレイは俺の本物の親友だ。そんな親友に俺のノロケ話を聞かせてやろう」


「待て拓真。別に俺はお前のノロケ話を聞きたいわけじゃない。ちぇっ、昼休みみたいにとぼけるならおちょくってやろうと思ったのに、つまんねーな」


 呆れた笑みを浮かべながら言うレイ。そんなレイを見て俺は素直に腹が立ってしまいました。なので簡易的な復讐をしましょう。


「おい待てレイ。確かに今の俺はとても幸せだ。だからこそ、次に幸せを手にするのは親友の城鐘 レイくんなのだよっ!」


 声を少しだけ張りながら俺はレイに言う。するとレイは俺の言葉を聞いて振り向く。そして嘆息交じりにこう答えるのだ。


「なにが俺の幸せだよ。俺の幸せは俺が自分で手に入れる。お前がそんな心配することはねーんだ━━」


 レイの言葉が途切れる。


 ここで説明しよう。俺がレイの幸せを願ったのにはわけがある。確かにレイは俺の親友だ。本当の意味でも幸せになってもらいたいと思っている。だがしかし、今は復讐をするということを最優先する。


 その意味が何なのか。もはや言葉を用いるよりも現状をみてもらいたい。レイの言葉が途切れると同時にクラスの女子の群れがレイを襲ったのだ。


 釣りをするのに撒き餌をする事がある。その意味は小魚を誘き出し、その小魚を狙ってきた大物を狙うという意味がある。だが、ここでは違う。その撒き餌こそが高級なのだ。


 どうして俺が高級な撒き餌をしたのかというと、その高級な撒き餌に寄ってくる小魚で撒き餌を苦しめたいという意図からなのだ。


 案の定、俺が言った『次はレイが幸せに』という言葉に反応した女子達が次々とレイに群がる。その理由は『私が城鐘くんを幸せにするわ』という安直なものばかりで、ここぞとばかりにイケメンのレイを食い物にしようとしている肉食魚達。


 これで俺の復讐は完遂された。さらば親愛なる友よ。


「ねぇねぇ拓真ー」


 ここで現れるのが雪菜嬢こと白林 雪菜。俺の幼馴染ズの一人だ。


 レイと雪菜とは腐れ縁で……ってもうこの話ししなくてもいいよね? きっともうみんな分かってる事だよね?


「どうした雪菜?」


 レイへの復讐を終えた俺の気分は清々しい。その気持ちを爽やかな笑顔に乗せて雪菜に返答する。


「レイちゃん助けなくていいの?」


 座席に座っている俺を見つめている雪菜の瞳と目が合う。爽やかな笑顔は失われ無表情のまま雪菜の言葉を聞き雪菜の瞳を俺は見続ける。無言の刹那が通り過ぎ、俺は「ふっ」っと笑った。


「あれは仕置きだ。だからこのままでいい。だが雪菜、もしもお前が助ける素振りを見せるのであれば俺の全ての力を使ってお前に嫌がらせをする」


 悪魔のような微笑みを浮かべながら言う俺の姿を見ている雪菜の身体がガクガクブルブルと震えだした。


 そんな雪菜の事をみていると、本当に昔の自分に戻ったような感覚に陥る。


 昔もよく雪菜をこうして苛めてたな。レイにも嫌がらせをして、その度に雪菜が止めようとしていたのを俺が脅してた。その時も雪菜はガクブルだったな。


 思い出が泡のように浮かび上がり、一瞬一瞬を映し出す。触れれば壊れてしまうソレに少し前までの俺は触れられなかった。


 何も壊したくない。このまま思い出があれば俺はずっと生きていける。そんな風に思っていたのに、今は簡単にその思い出に触れられる。


 触れれば弾け、幻想的な七色の雫が宙を舞う。だけど壊れたとしても忘れるということじゃないんだ。さまざまな記憶が点であり、そのすべてを線で結べば、嫌なことも楽しかったことも全部が俺という一人の人間を作り上げる。


 くだらなくもこの日常が俺の日常なんだ。


 笑みが零れる。それは優しい笑みだと自己評価しておこう。願わくば、このくだらない当たり前がずっと続きますように。


「くぷぷ。なに笑ってんの拓真。それも格好つけて。「ふっ」みたいな感じで。ちょっと気持ち悪いよ。ふふふ」


 さっきまでガクブルしていた雪菜が手の平を返したように俺の事を小バカにしている。せっかくいい感じのモノローグだったのに、全部台無しですよ。なので雪菜嬢に神の鉄槌を与えることにします。


「おい雪菜。俺はお前に言ったよな。レイを助ける素振りを見せれば嫌がらせをすると。でもな、それ以前に俺をバカにするという行為が尤も罪深いものだと知れ」


 口角を上げ笑みを作ってみるが目は笑っていない。今の俺の表情はそんなものだろう。そして俺の予想が正しいのであれば雪菜は再びガクブルになり、泣きながら俺に謝ってくる。そんな素直に謝る雪菜を俺が許すという算段だ。


 子供の教育というものは本当に難しい。


「わぁ~ん拓真が苛めるよ優姫ちゃ~ん」


 おいおい待て待て。確かに俺は悪役のような面で雪菜を脅したよ。だがそれは教育の一環としてだ。なのに雪菜さん、どうして天使の召還をなさろうとしているのでありますか?


「も、もう。い、いつもいつも小枝樹くんは、ゆ、雪菜ちゃんを苛めちゃメッだよ」


 透き通るような黒い髪。光の反射で青色に見えてしまうソレを馬の尻尾に結う。だが前髪は垂らしていて耳の前には顔よりも少し長い髪が垂れ下がっている。


 小さな身なりは高校生とは思えないほど華奢で、そんな彼女の魅力を引き立たせる黒縁メガネ。


 もはや神が生み出してしまった至高の存在。彼女から溢れ出す眩いばかりの光はまさにホーリー。この世界に顕現したすべての存在に分け隔てなく与えられる崇高なる恵み。


 俺の中に芽生えていた邪悪なる意味が瞬く間に浄化されていくのが分かる。そして俺は血を吐くことなく、こう言うんだ。


「グフォッ!!」


 昏倒するというのはまさにこのことだろう。俺は教室内で無様に変質者的な声をあげ床へと倒れこむ。その姿を目の当たりにしているだろうクラスの連中に静寂を与えた。


 先程までレイに群がっていた女子の声も、俺のことをバカにする雪菜の声も、その他の談笑も何もかもすべてが消え去り糸が張り詰めているようだった。空気の振動すらも許すことのない空間。それを作り出したのは俺こと天才少年である。


「小枝樹くん。私の恋人で在りたいのなら今すぐその惨めな姿を改め、即座に私に謝罪しなさい」


 張り詰めていた糸は悪魔大元帥様のお力で切られ、そして生贄になってしまっている凡人な俺は床を眺めています。


 けっして現実逃避がしたいわけじゃないんです。ただなんというか。純粋に怖いだけなんですよ。確かに俺は色々とやりすぎた部分もあります。でもね、もとはといえばレイがおちょくってこなかったらこんなことにはならなかったんですよ。


 それに雪菜だって俺のことを馬鹿にしたりしていましたよ。でもまぁ牧下は悪くないと思うんだが……。それでもすべて俺が悪いというのはおかしな話だと思うんですよね。


 床を見ていた瞳をちらりと一之瀬の方へと向ける。そこに居たのは本物の悪魔大元帥様で、黒い炎のエフェクトとバックに『ゴゴゴゴッ』という文字まで浮かんでしまう始末ですよ。もう俺にはどうすることも出来ませんよ。


 なんだか感慨深い気持ちになってしまいます。久しぶりというか何というか、一学期のころの俺ならすぐにでもやっていた必殺技。まぁ必ず殺す技ではないのだが、久しぶりということで必殺技にしておきましょう。


 必殺『諦める』


「本当にすみませんでしたあああああああっ!!」


 倒れこんだ身体を一瞬で土下座へと変え、言い訳をする前に発動する『諦める』を駆使し、倒れこんだ身体を一瞬で土下座へと変える。まさに神速の御業。


 一学期のころから今の今まで蓄積されてきた一之瀬への畏怖の念。ここで歯向かえば四肢をバラバラにされること必至だということが身体の芯まで染み付いている。その結果、土下座までの速さは刹那。


 そして俺は思う。ここまで完璧で尚且つ素晴らしい土下座をすれば悪魔大元帥様でもそのお怒りを鎮めてくれること間違い無しだ。これで俺は救われる。ただ床に額を擦りつけただけでなっ!


「何をやっているの小枝樹くん」


「へ?」


 俺の想像していた結果とは異なる台詞を言う一之瀬に対し、擦りつけていた額を上げながら、まるで小動物のような瞳で一之瀬を見つめ俺は間抜けな声を上げた。


 一之瀬からは黒い炎が消えることはなく、背後の文字も消えていない。怒りが鎮まっていないという証が確かに存在した。そして


「誰が土下座で許すと言ったの。貴方ならもっと相応しい謝罪のやり方を知っているわよね」


 ……俺に何を求めていらっしゃるのですか悪魔大元帥様。だが求めているのであればそれに応えるのが俺の役目。あぁ分かっているさ。座ってダメなら寝ればいいんだろっ!


「本当にずみまぜんでした」


 まるで棒のように身体を真っ直ぐにし、うつ伏せで床に横たわる。知っている人なら知っている土下寝。あまりにも普通すぎる派生をしてしまったのでなんだか恥ずかしいです。


 というか、もう俺には一之瀬が何を求めているのかさえ全く分かっていません。それどころか今の俺の姿って本気で惨めじゃないですか?


 彼女にどやされて土下寝しているんですよ? プライドもクソもありません。こんなのが天才で本当に申し訳ない気分にまでなってしまいますよ。なので、その……。そろそろオチにいっても宜しいでしょうかね。


 俺の土下寝はクラスの連中すべてが見ていた。それだけではない一部始終が丸見えだった。一之瀬と俺の会話は当たり前、その前の牧下のくだりも雪菜のくだりもほぼすべての連中が目撃していた。


 一之瀬と俺のやり取り最中は、はっきり言って静寂でした。まるで有名な寸劇を見ているのかの如く、生徒達は俺と一之瀬に釘付けだった。


 そして俺が完全に諦めてオチを求めたとき、クラスの誰かが小さな笑い声を上げた。するとたちまちその笑いは伝染しクラスの中を覆いつくす。


 笑い声が聞こえてきてやっと一之瀬も我に帰ってくれたのは不思議そうに辺りを見渡していた。その姿を土下寝のままでは見ることが出来ないのでうつ伏せから仰向けへと姿勢を変えて事の成り行きを観察する。


「やばい。やっぱり一之瀬と拓真はお似合いのバカップルだわ」


 笑い声とはべつに、初めに言葉を発したのは城鐘家の三男坊だった。周りに女子をはべらせながら腹を抱えて笑うレイの姿を見たとき、本気で笑っていると思った。


 レイにつられて周りの女子も大笑いしている。その雰囲気は嫌いではない。だがここでは地雷になりかねないと危惧する俺も確かに存在した。


「待ってよ城鐘くん。確かにカップルとして素晴らしいと僕も思うけど、なにが素晴らしいって土下座以外の謝罪方法を強要する一之瀬さんと、それに応えられる小枝樹くんの惨めさが、本当にもう面白くて、あははははは」


 次に地獄行きへの切符を手にしたのは学年一の美男子、イケメン神沢くんだ。悶えるように笑い続ける神沢はその綺麗な金髪を揺らしながらレイ同様にお腹を押さえている。


 そして二人の台詞を皮切りに、そこらじゅうで寸劇の話で盛り上がっていた。もうこの笑いの渦を止められる者はいない。ただ一人を除いて。


 大丈夫です。もうここでオチになるので心配しないでください。では皆様ごいっしょに、3、2、1。


 バンッ


 大きな音と共に再びクラスに静寂が奔る。その静寂には驚いているという気持ちも混ざっているが、気がついた者には恐怖が含まれている。悪魔大元帥様の降臨は机を思いっきり叩くというあまりにも小さな登場だが、恐怖を与えるのには申し分ない演出だった。


 教室の後方。窓際に近い場所で降臨された悪魔大元帥様は、美しい切れながら瞳を細め目頭に力を込め眉間に皺を寄せながらゆっくりと教室内を見渡した。ここに存在するすべての者の顔を覚えるように……。


 そして、普段は透き通っている声を、重く重くまさに悪魔大元帥の如く低い声で彼女は言う。


「貴方達、覚悟は出来ているのよね」


 無様に叫んだりはしなかった。だがその低い声音はここにいるすべての存在の中へと落ちていく。そして、蹂躙が始まった。






 放課後。


 疲れ果てている生徒の顔がやけに同情を買った。申し訳ない気持ちと自業自得という相反する感情が入り混じり変な気分だ。


 いつもなら放課後という自由を勝ち取った義勇兵のように歓喜の雄叫びを上げているのに、今は物静かで人生に疲れきったサラリーマンのような表情を浮かべている。


 時間は五現目と六現目の間、小休憩のときに起こった。簡潔的に言えば天才少女一之瀬夏蓮様もとい、悪魔大元帥様が大暴れしたのだ。


 まず初めにレイと神沢が贄になり、その後も怒りが治まらなかったらしく笑っていた他の生徒も虐殺にあった。それはもう悲惨な光景だったよ。


 泣き叫ぶ女子、勇敢に戦う男子。そのすべてが一瞬で灰燼と帰してしまうのだから怖い話だ。これできっと一之瀬に逆らおうとする奴等はクラスにいなくなるだろう。


 そして今に至る。


 放課後の静かな喧騒はあまりにも特殊で、感慨深い気持ちになってしまう。それでも日常というものには花が咲くような一瞬が訪れる。


 雪菜とレイ、それに佐々路に神沢、牧下と崎本も俺と一之瀬に聞いてきた。それはB棟に行くか行かないかだ。あまりにも当たり前になってしまっている行事が特別に思えた瞬間だ。


 だが、俺と一之瀬には用事がある。まぁ俺はその用事が何なのか知らないのだけれど……。


 とにかくみんなの誘いを断った俺等は何も変わらない放課後ライフを満喫していた。


「なぁ一之瀬。付き合って欲しいって言ってたけど、俺は何に付き合えばいいんだ?」


 純粋な疑問を一之瀬へと投げかける。


 隣で歩いている天才少女が今の俺の彼女だと思うと浮ついた気持ちが勝ってしまいそうになるが、ここは自分の気持ちを抑えながら平常心で聞く。


 冬の冷たい空気が一之瀬の綺麗な髪を靡かせた。自分の手でそっと髪を押さえる一之瀬は顔を俺の方へと向けながら答える。


「私に付いてきてくれればいいわ。これは私の決意表明だから」


「決意表明? よくわかんねーけど、一之瀬が言うならそれでいいや」


 適当な返しをしてしまったと思う。でも本当に一之瀬がそれでいいなら俺はそれでいい。


 夕方の喧騒は俺と一之瀬とは別の世界のようだった。楽しげに話している者、憂鬱な表情をしている者、混沌なような世界は今の俺と一之瀬から切り離されている。


 少し横に動けば腕が当たってしまうくらいの間隔、一歩一歩の歩幅が違くても互いに合わせようと気を使ってしまう心境、静寂が包み込みながらも互いを思い合える日常。


 ここにあるのが当たり前で、もう手放したくないと思ってしまう幸せな空間。


 空の青が祝福してくれているように思えた。真っ白な雲がゆっくりと流れて、低い位置まで落ちた太陽が俺等を照らし出している。冷たい空気も貧相な枯葉も喜んでいるように踊る。


 見慣れた景色から見慣れない景色。一度来た事があるような場所を歩きながら最愛の人を見つめる。


 俺の視線に気がついていない一之瀬は真っ直ぐと目的の場所を見ているように、視線を動かさず前だけを見つめていた。


 気がついた時には太陽の光がオレンジ色へと変わっていて、長い時間をかけて歩いてきたのだと認識する。


 学生の喧騒が聞こえなくなってからどのくらいの時間が経ったのだろう。辺りを見渡せば物静かな場所で、でもどこかで見たことがある。そんな疑問はすぐさま解決する事になり、目的の場所へとついたとき一之瀬のことを見た。


 すると一之瀬は俺を見ながら微笑む。夕方に来ていい場所ではないこの場所で一之瀬の決意表明が始まる。


「どうして私がここに来たのか小枝樹くんは分かる?」


 不意の質問。灰色の景色が流れていく中、俺は考える。この歩みを止める前に答えなきゃいないと少し焦ったのかもしれない。


「なんだろうな。決意表明って言ってたし、一之瀬にとって大事なことなんだろ? それに、もしかしたら俺にとっても大事なことなのかもしれない」


 俺の返答を聞いた一之瀬は不思議そうな表情を浮かべた。それはまるで『俺にとっても』という言葉に引っかかりを感じていたように。そんな話しをしていると一之瀬の目的地へと辿り着いてしまった。


 物静かな表情を浮かべ膝を曲げて一之瀬がしゃがむ。真っ直ぐと見つめられた灰色の塊へと一之瀬は話し始めた。


「この間は途中で帰ってしまってごめんなさい兄さん。今日は妹のワガママを押し付けに来たの」


 一之瀬 秋の墓。しゃがみ込む一之瀬の後ろで立っている俺は、久しぶりの兄妹の邪魔をしないように口を噤む。


「数年ぶりに会ったのに、いきなり来てワガママを押し付けるなんて品がない事をして申し訳ないと思っているわ。でもね、私は兄さんの気持ちが知りたいの。聞こえないって分かっていてもここで話したいって思ったの」


 今の俺からは一之瀬の表情が見えない。どんな顔をしてどんな気持ちを抱いてここにいるのか、俺には何も分からない。


「まず初めに単純な疑問。どうして兄さんは私を庇って死んでしまったの……? 兄さんが死んでしまったから、私は深く傷ついたのよ。誰も手を差し伸べてくれなかった。私は独りで叫び続けた。それでも生きてこれたのは兄さんが私の目標だったから」


 低いわけではない。だが悲しげな声音で話す一之瀬。後姿を見ているだけなのに、今にも泣き出してしまうんじゃないかと心配になる。その気持ちを背中越しに感じ取れているのに、俺には何もしてやれない……。一之瀬の決意をもう邪魔なんかできない。


「だから私は生きてきた。そうしたらね、兄さんの後継が私になったのよ。姉さんじゃなくて私に……。嬉って思った。これで兄さんの代わりになれる。でも私じゃ兄さんの代わりなんか務まらないの」


 一之瀬の声が一瞬、鼻声になったような気がした。


「だって私は……。昔から何も変わらない、兄さんの知っている弱虫で泣き虫な夏蓮のままだから……」


 俺の身を濡らすことのない慟哭。伝わってくる悲しみと苦しみ。何もできない虚しさは空気に霧散することなく、俺の身体の中で巡り続けた。


 今すぐに抱きしめたい。だけど、ここで俺が一之瀬を抱きしめたらすべてが無駄になっちまう。


 強く拳を握った。強く唇を噛み締めた。拳の中には痛みが奔り、口の中は仄かに鉄の味がしたような気がした。


「私は兄さんが大好き。ずっとずっと憧れで、本当に兄さんのようになりたかった……。でも兄さんは最期に言ったわよね。『僕のようにならなくていい。夏蓮はもっと自由に、自分でいれば良いんだ』って……。その言葉が私を更に苦しめた……」


 一学期のとき一之瀬から聞かされた一之瀬 秋の言葉。俺の中にも落ちてきて、離れようとしてくれなかった言葉。


「考えれば考えるほど分からなくなってしまったわ。私は兄さんのようになりたいのに、兄さんは私になって欲しくないと言った。私は大好きな兄さんの言葉を殉じて目標を失うべきなのか、大好きな兄さんのことを裏切って自分を貫くべきなのか、何も分からなくなってしまったの……」


 綺麗で長い一之瀬の黒髪がささやかな冬の風で揺れる。普段なら冷たいと感じてしまうその風も、今は何も感じさせまいという思いからなのか静かに通り過ぎた。


「だから私は最後の人間性に賭けて今の高校に進学したわ。そこはね少しだけ他の高校よりも難易度が高い学校。一之瀬財閥の私が行くような一流の学校とは違う。でも私はそこで何かを見つけられるって思ったわ。父様に反対されながらも期限付きで入学して、私と同じ瞳をした人に出会ったの」


 口の中に溜まっていたのか、一之瀬が何かを飲み込みながら喉を鳴らす。


「その人はね。本当にすべてを諦めてしまったような瞳をしてて、もう誰も信じないという気持ちが伝わってくるような空虚な表情をしていたわ。今までの私が出会ったことのない人。でもね、その人は数ヶ月間で変わってしまったの。普通の人と同じような言葉を使って、普通の人と同じような遊びをして、普通の人と同じような笑みを浮かべるようになったわ」


 一之瀬の声音から悲しみが消えていくのが分かったような気がした。


「だけど一年が過ぎようとしていたとき、私は再び出会ったの。何も感じていないような表情で三階の教室から景色を眺めている私と同じ瞳をしている人に。だから私は二年生になってすぐに彼にコンタクトを取ったの。そのやり方はあまりにも無様で華麗とは程遠いやり方。でもそのおかげで、私は彼に出会えた」


 ゆっくりとだが確実に、一之瀬の声音が変わる。はずむような声で、と言ってしまうと大袈裟になってしまうが、楽しい話しをしているという思いは伝わってくる。


「それから今日に至るまでの日々は凄く早かったわ。沢山の事件に巻き込まれて、沢山の人と出会って、笑ったり泣いたり、苦しんだり喜んだり……。忙しすぎてあっという間な時間だったわ」


 沢山の事件に巻き込まれたりって、一之瀬が面倒くさい事件をもってきたんだろ。まぁソレを言ってしまうと後々怒られそうなので黙っておこう。


 一之瀬の空気が変わった。楽しい話しを終りへと導くような寂しさを漂わせる。


「……ねぇ兄さん。私ね17歳になったの。兄さんと同い年になったのよ。あの頃の兄さんは何を考えていたの? きっと沢山のことを考えていたのよね。そのとき、兄さんは恋をしてた? 物語の中にでてくるような燃え上がる恋をしてた?」


 言いながら一之瀬は立ち上がった。そして後ろにいた俺の腕を掴んで強引に前にだす。


「今の私は恋をしているわ。そしてこの人が私の恋人、小枝樹 拓真さん」


 俺の腕にしがみ付きながら言う一之瀬の身体は少し震えていた。掴む腕の力も強くて何かに怯えているようだと感じた。


「さっき話した私と同じ瞳をしている人よ。本当は姉さんに伝えなきゃいけないって思ったけれど、一番は兄さんに紹介したかったの。だから……、この人が……、今の……、うっ……。私の最愛の……、うぅ……」


 言葉が途切れる。涙を流しているのは明白で、それを必死に我慢しているのが容易に想像がつく。


 一瞬だけ一之瀬の方へと視線をずらすと、一生懸命に涙を堪えながら顔をクシャクシャにしている一之瀬がいた。唇を噛み締め眉間に皺を寄せ、鼻水を啜り止められなかった涙を流す。その姿を見て思った。


 もう良いよな。余計なことなのかもしれないけど、このくらいは彼氏としていいよな。


 俺は真っ直ぐと一之瀬 秋を見つめながら一之瀬の頭の上に手を置いた。そして


「大丈夫だ。一之瀬の隣には俺がいる。だからちゃんと最後まで言ってやれ」


 一之瀬の視線を感じた。だがその視線に俺の視線が重なることはない。ただ俺は真っ直ぐと一之瀬 秋を見ているだけだ。


 そして何かを決意したのか一之瀬は息を整える。最後に大きく息を吸って数年間の想いを曝け出す。


「この人が私の最愛の人です。ずっと独りぼっちだった私を助け出してくれた人です。兄さん以上に大好きで大好きでしょうがない人ですっ……。でも、私がこの人に出会えたのは兄さんのおかげだって思ってるっ……。うっ……。あの時、兄さんが私を助けてくれなかったら、私はこの人に出会えてないっ……。うっ……、うぅ……」


 もう溢れ出した涙を止める術を一之瀬は分かっていないのであろう。何度も何度も自分の手で溢れる涙を拭っては拭う。その繰り返しを続けるだけで最後の言葉を出せずにいた。


 だから俺は何も出来ないけど、一之瀬の手を握ることだけは出来る。強く握ったその手は真冬の寒さにも負けず温かくて、不謹慎だけど嬉しく思えてしまった。


 そして一之瀬は俺が強く握った手を握り返して涙でグチャグチャになってしまった品のない顔で一之瀬 秋を真っ直ぐと見つめながら言う。


「だから、だから……。あの時、私を助けてくれてありがと、お兄ちゃんっ!!」


 静かな冬の墓地はオレンジ色で染め上げられ、灰色と混ざり合った色は今までの記憶を思い出に変えてくれるような優しい色をしていた。


 夕日が反射させる綺麗な一之瀬の涙は見えない。だって今は俺の胸に泣きついているから。子供のように大声で泣く一之瀬を優しく抱きしめる。


 冬の厳しい寒さは人にとっては堪えるものだ。だが、このときばかりは自然も一之瀬のことを見守ってくれていたのか、一瞬吹いた風が俺には温かく感じた。


 遠くから聞こえてくる夕方の喧騒も、カサカサと音を立てる枯葉の残党も、香の匂いが鼻腔を刺激するこの一瞬も、きっとすべてはこの日の為にあったのではないのかと思えてきてしまう。


 未だに泣いている一之瀬を優しく抱きしめ、俺はふと自己世界の思考に落ちる。


 一之瀬 秋の意図は分からない。でもそれが今のこの状況を作っているのかもしれない。もしも一之瀬 秋が死んでいなかったら俺は一之瀬と出会えていない。そうしたら、俺は他の人と恋に落ちてもっと違う結末を迎えていたのかもしれない。


 きっとそれも俺の中での幸せの一部だって思う。でも今はこの泣き虫な天才少女さんといるのが俺の幸せなんだ。


「なぁ一之瀬」


 涙でクシャクシャになった顔を上げ不思議そうな顔を俺を見つめる一之瀬。


「一之瀬の決意表明ってのは終わったろ? だから次は俺の番だ」


 自分の手で大量に流した涙を拭き、一之瀬は何も言わずに俺を見つめる。俺は一之瀬 秋の方へと向き、自信満々の微笑を浮かべていった。


「何があっても、どんなことがあったとしても、俺が絶対に夏蓮を幸せにします」


 温かな冬の空気が一之瀬 秋の微笑みに感じた。

 

 

 

 

 

 

 


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ