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天才少女と凡人な俺。  作者: さかな
第八部 二学期 何モナイ景色
117/134

40 前編 (夏蓮)

 

 

 

 

 ずっと悪夢を見ていたような気がしていた。何年も何年も外れることのない鎖に縛られ私は牢獄のような世界に独りでいた。


 自分の中で芽生える感情などというものは不要で、悲しみをと苦しみを消し去る術は心をなくした人形になることだった。


 外の世界を窓越しに見ては綺麗で美しい風景が瞳を焼く。私の中から消えてくれない感情へと飛び火したとき、私は狂ったように叫び続けた。それは人の子の泣き声ではなく獣と同じ。


 言語にならない音の羅列を感情にのせて奏でる自分の姿を窓の反射で見たとき、もう壊れかけているのだと理解した。


 血走った瞳にグシャグシャの髪。痛みを忘れていたせいで、腕には生々しい引っかき傷。心が壊れかけている人間という動物はとても無様で、自分の身体を滅茶苦茶にして気持ちを落ち着かせる。


 身体の動きは弱くなり、次第に聞こえてくるのは荒げた自分の吐息。その吐息がゆっくりと元通りになり私は部屋の真ん中で蹲る。


 膝に顔を埋め、真っ暗な世界へと堕ちていくことを望んでいるのは狂った自分を認めたくないわけじゃない。ただ純粋に、すべてを忘れたいだけだった。


 だが、闇の世界が見せるのは鮮血の光と天使とは程遠い白の世界。鳴り響く甲高い音が私の耳を痛めて、見える光景が私の瞳を焼き尽くす。それだけならまだ良かった。聴覚と視覚だけではなく、記憶という残忍な拷問器具は匂いまでも思い出させた。


 夏に輝く緑の香り、暑い風が運んでくる湿気交じりの懐かしい香り、それと人間の生々しい鉄の香り。


 飛び散り私に付着したわたではない。ただゆったりと流れてくる真っ赤な液体から漂ってきただけだ。夏の重たく暑い空気と混ざり合ったソレは私の鼻腔を刺激し、詰まることなく私の感覚へと落ちた。


 絶望。その時の私はなにも考えられなくなっていたが、後々考えてみれば絶望していたのだろう。


 現実の私は発狂することすら出来なかったのに、精神世界の私はいまだに絶望に塗られ、獣の断末魔のような叫びを繰り返していた。なのに


 今、目の前には何もない景色が広がっている。


 叫びと嘆きを続けた世界は崩落していき崩されたパズルのように消えてなくなっていく。落ちいく精神世界の幻影は、くだらない私の涙で流されていくようだった。


 オレンジ色と灰色が混ざり合い人工的な建物の影をつくり、私の絶望を浄化していく。何度も見ていた景色がこんな状況でも特別には見えなくて、本当に何もない景色。


 きっと私は変わることを恐れていた。変わっていく自分を恐れていた。何も変わらないことなんてないと知っているのに、堪らなくそれが怖かった。


 変わってしまう日常、変わってしまう人々、変わってしまう私の大切な居場所……。


 でもここは何も変わっていなかった。どんなに私がワガママを言っても、どんなに私が遠ざけようとしても、どんなに私が変わってしまおうとしても、この景色は何も変わらなかった。


 それだけじゃない。埃まみれのこの教室も、古びた机と椅子が散乱する風景も、そして隣にいてくれる小枝樹くんも……。


 景色がぼやけた。原因は分かってる。涙を流しすぎたせいだ。止まる事の知らない私の感情の雫は、私の頬も私の首も、私の服もこの教室の床も、すべてを濡らし何もかもを色づかせた。


 その瞬間、私は強く小枝樹くんの腕を掴んだ。もう離れたくないという意志を伝えるために。


 私の願いが届いたのか、小枝樹くんは私の肩を優しく抱き寄せてくれた。何もない景色を見ながら、オレンジ色の光に包まれ、私は再び安寧の地を取り戻したのだ。





 人の噂というものは本当に驚いてしまうほどの早さで伝染していく。


 私と小枝樹くんの想いが伝わりあってからほんの数時間後。はっきり言ってしまえば次の日のこと。昼休みには噂が広がり私と小枝樹くんは身動きが取れない状況になっていた。


「ねぇ夏蓮。小枝樹と付き合う事になったって本当っ!?」


 親友の楓が私に詰め寄ってくる。それだけじゃない。他の女子生徒も昼休みの鐘の音と同時に私のところまで走りよってきた。


 そんな楓に否定とも肯定とも取れる曖昧な返答を返しながら私は小枝樹くんの心配をしている。それは目の前の光景が教えてくれる、あまりにも単純明快な現状だ。


「やめろお前等っ!! 俺は別に罪人とかじゃないんだぞっ!! いてっ……! おい、いま俺の肩を殴ったやつ誰だっ!! 天才の力をこれでもかといわんばかりに使いながら延々と嫌がらせしてやるぞっ!」


 小枝樹くんの怒号にも似た叫びは男子生徒達の心を射抜く。冗談だと分かりながらも生徒達は小枝樹くんから目を逸らし自分は犯人ではないと言いたげな表情をみせていた。


 その状況の中、一人の小枝樹くんの親友が悪戯な笑みを浮かべながら小枝樹くんへと近づき小枝樹くんの肩を叩きながら言葉を紡ぐ。


「誰が肩を殴ったかなんてこの際どうでもいいだろ拓真。それよりも俺等はお前と一之瀬の関係の真実を聞きたいんだ。なぁ話してくれよ拓真」


 城鐘 レイ。彼の一言で弱まっていた群集の力に再び灯火を与えた。波のように押し寄せる興味の声。「それが知りたいんだ」「どうなってそうなった」などという言葉が飛び交い再び小枝樹くんは窮地へと誘われる。


 だがその状況を見ている私も同じ状況だ。ただ普通に心配している視線が、色恋沙汰に興味を持っている一般的な女子高背には熱視線に見えていたということだ。


「もう、わかったよ夏蓮……。そんなに熱い眼差しを小枝樹に送るくらいなら、なんか小枝樹ピンチそうだし助けてあげれば?」


 楓の言葉を聞いて私は我にかえった。再び女子生徒達のほうへと視線を戻すと、楓の話しに便乗したのか「うんうん」頷きながら理解を示している表情をしている。


 そんな間にも小枝樹くんへと詰め寄る男子生徒の猛攻は治まりを知らない。ここで思うことは、私がどうにかしなくてはいけないということ。


 意を決した私は椅子から立ち上がり、大きな声で言う。


「その、みんな聞いて欲しいの」


 私の声が教室内で響き渡り静寂に包まれる。クラス中の視線は私へと向かれ、当事者である小枝樹くんですら何が起こるのか分からないという不安げな表情を浮かべていた。


 息を整え、再び言葉を私は紡ぐ。


「えっと、その……。みんなが気になっている私と小枝樹くんの関係なのだけれど……。わ、私はその……。小枝樹くんの事が、その、好きなのだけれど。付き合っているかと聞かれるのであれば、それは凄くあいまいと言うか、現状がどういう感じになっているのか私にも分からないというか━━」


ガタンッ


 話している最中に何かが倒れる音が聞こえた。すぐさまその音のほうへと視線を動かしてみると席の椅子が倒れている。そしての倒した人を見上げてみれば小枝樹くんで、不安げな表情で私へと言葉を投げる。


「ちょっと待て一之瀬。俺等って付き合ってるんじゃないのかっ!? 確かに曖昧な感じになってたけど、俺は何度も告白してるし、一之瀬だって俺のこと好きだって言ってくれたし……」


「ちょ、それを言うなら私の台詞よ。確かに好きだとは言われたけど正確にお付き合いをする話しはしていないわ。寧ろ、貴方が曖昧な言動をとるからこういう中途半端な噂になっているんじゃない」


「それを言うなら俺も言わせてもらうが、一之瀬だって何も聞いてこなかったじゃんかよっ! 昨日の今日で整理がついてないのは分かるけど、もっと言いたい事を言えばいいんじゃ━━」


「おーい、みんな。もうやめとこうぜ。これ以上俺達が波風立てると、延々と痴話喧嘩を見せ付けられるらしい」


 私と小枝樹くんが言い合っているなか、城鐘くんが呆れ顔で教室内にいる男子生徒と女子生徒に指示を出す。


 城鐘くんの言葉を皮切りに、次々と生徒達がいつもの昼休みへと戻っていく。その光景を目の当たりにした私と小枝樹くんは目をぱちくりとさせながら現状の把握に勤しむ。そして現状を把握したとき、私と小枝樹くんは瞳を合わせ赤面しながらゆっくりと席へとついた。


 授業と授業の間にある小休憩ではない。今は昼休み。だからこそこの現状が数分だけではなく十数分続くという現実。


 目眩がしてしまいそうな現実に直面し、私は再び隣の席にいる小枝樹くんに視線を送る。


 すると、小枝樹くんも同じ事を考えていたのか私のほうを見ていた。そして目が合う。


 気恥ずかしいという気持ちもあるが、今はこの現状をどうにかしなきゃいけない。その気持ちが重なり合ったのか私と小枝樹くんは言葉を交わす事も無く席を立つ。


 考えていることが一緒だと思えたのは、私と同じく小枝樹くんもお弁当箱をもっていたということ。


 いまだに頬の熱が取れないまま私は教室から出ようとする。そしてその後ろから小枝樹くんが後を追ってくるのが分かった。だが


「はぁ……。初めからイチャイチャしたいなら言ってくれよ」


 城鐘くんの溜め息交じりの台詞。そんな台詞を聞きながら、私と小枝樹くんは後ろを振り向かずに教室から出て行った。





 教室から出たところで行く場所など無い。


 私と小枝樹くんは無言のまま隣どうし歩く。かける言葉が見つからないわけではない。ただ教室で茶化された事を思い出すと何を話していいのか分からないだけ。


 ふと隣にいる小枝樹くんを横目で見ても難しい顔をしながら真っ直ぐと廊下の先を見ている。その表情を見るだけでなんだか自分の身体が強張ってしまうような感覚に陥った。


 もしかしたら小枝樹くんは私となんか一緒にいたくないんじゃないかと、不安だけが脳裏をよぎる。


 それでも私達が行き着く場所は一つだけで、気がつけばB棟三階右端の教室まで辿り着いていた。だが、そこで一つの疑問が私のなかに生まれた。


「ねぇ小枝樹くん。ここに来たのはいいけれど、どうやって教室に入るの」


「あっ……」


 小枝樹くんと目を合わせて確信する。小枝樹くんは何も考えずにここに来たのだ。


 自分達の教室からでて真っ直ぐにここへと向かった。そして今に至る。それはB棟三階右端の教室の鍵を取りにいっていないということだ。


 小枝樹くんのことだからもしかしたら事前になにかしているのだと思ったけれど、やはり何もしていなかったのね。


 私は嘆息し呆れ顔で再び小枝樹くんを見る。


「ま、待て一之瀬。今から俺が取ってくるから、少しだけ待っててくれ」


 そう言うと小枝樹くんは踵を返した。だが、私はそんな小枝樹くんの腕を掴んで


「取りに行かなくてもいいわ。今日は廊下でお昼にしましょ。それに今から取りに戻ったら時間がなくなってしまうもの」


 私の言葉を聞き、振り返った小枝樹くんはすまなそうに頷くと私の隣で廊下へと腰を下ろした。その小枝樹くんの姿を見た私もその場で腰を下ろす。


 布越しにひんやりとした廊下の冷たさが伝わってきた。それだけじゃない。今は12月半ば。普通に生活するだけでも寒いのに、暖房もないこの場所は本当に寒い。


 冷え切ってしまった身体を温めるものも無く、食事を済まさなければいけないという強迫観念にも似た状況に陥る。


 小枝樹くんと二人でいたいという気持ちもあるけれど、ここに長居してしまえば小枝樹くんが風邪を引いてしまうかもしれない。


 私はすぐにお弁当を開き礼儀よく『いただきます」と言い箸を進めた。そんな私の姿を見たからなのか、小枝樹くんも慌てながらお弁当箱を開き私同様『いただきます』と言い昼食を始める。


 一之瀬財閥の次期当主だからといってお弁当が豪華ということはない。独り暮らしをしている私は自分の昼食を自分で作る。


 ありきたりで簡易的なお弁当。昨日の夕飯の残り物と、朝の限られた時間で作れる簡単なおかず。それらをお弁当箱に入れ、彩りに野菜を入れる。ご飯にはふりかけを予めかける。


 そんな普通のお弁当を食べながら、普通の生活というものをふと想像した。



 

 朝の光がカーテン越しに差し込んできて私は目を覚ます。時計を見ると登校時間ギリギリで焦りだす。バタバタと忙しく準備を終えるとリビングへと駆けていく。


 リビングの扉を開けるとそこには母親と父親がいて、兄弟とかいてもいいわね。


 温かな朝食が用意されているのを見ながら、私は家族に少しだけ悪態をつくの。


『どうして起こしてくれなかったのっ!?』


 私の怒りの声を聞くと父親は少し微笑み、母親は口うるさくこう言うの。


『いくら起こしても起きなかったのは夏蓮でしょっ! もういいから早く朝ごはん食べちゃいなさい』


 母親の私を戒める言葉を聞きながら、むくれながらも席に着き朝食を取る。


 遅刻しそうなので急いで食べ終え食器を重ねてキッチンのシンクへと置く。そして置いてあった鞄を取り慌てて家を出るの。


 眩んでしまいそうなくらい眩しい太陽の光を浴びて駆ける。急がなきゃ急がなきゃと思いながらも私はこの普通な日常を満喫している。


 ふと笑みが零れ、私は学校へと急ぎながら向かう。


 走ったせいで少し汗をかいた。学校近辺についた頃には余裕で間に合う時間になっている。切れる息を整えながら私は走る足を止め、辺りを歩く生徒の歩幅にあわす。


 学生というのはとても元気がある。朝の喧騒にその身を委ねながら、私はこの世界に浸る。


 穏やかな風に靡く爽やかな制服、嬉々として話す女子生徒の姿、眠い目を擦りながら歩く男子生徒の姿。すべてが当たり前なのに、当たり前に思えなくて私は再び笑みを零す。


 その時、私の肩を叩いて『おはよう』と声をかけてくる男子生徒がいた。私は振り向き彼の顔を見る。


 逆光で見えづらくなっている彼の顔。それでも満面の笑みを浮かべていることだけは分かる。そして、その笑顔を見た私の心が波打ち、嬉しいという気持ちでいっぱいになるんだ。




 涙が流れていた。


 その涙は悲しいという気持ちが溢れたものではない。夢の世界とは異なるかもしれないけど、それでも今の私にも普通の日常というものを感じられる現状がある。


 お弁当を食べている箸の動きが止まった。ポタポタとご飯の上に降り注ぐ自身の涙を拭う事すらできず、私はただ時が止まったように制止していた。


「お、おい一之瀬っ!? どうしたんだよっ!? 何泣いてるんだ? もしかして弁当にすげー辛いおかずでも入れたのか……?」


 私の涙に気がついた小枝樹くんは、驚きながら言葉を紡ぐ。その言葉はとても優しいもので、私の心を溶かしてくれた人なのだと再認識する。


 あの冷たく寂しい部屋の扉を開け、この私を部屋の外に連れ出してくれた人。何もない景色した見えなかったけど、隣にいてくれる人が小枝樹くんだから私はもう一度、人に戻れたのだと思う。


「くすくすっ」


 小枝樹くんの反応が面白くて涙の後に笑いが起こった。本当にくだらないことを言いながらも本当に私のことを心配してくれている小枝樹くん。


「お、おい。何笑ってんだよ一之瀬……?」


「いえ、あまりにも貴方が間抜けで斜め上な発言をしているからついね。あはは」


「おまっ……。俺は本気で心配したんだからなっ! 料理が上手い一之瀬でも昨日の今日なら変なおかずを入れてきてしまうと本気で思ったんだからなっ!」


 子供のようにむくれ、無邪気に怒る小枝樹くんは頬を赤く染め上げながら言う。その姿が愛おしくて、無意識に流してしまった悲しみの涙がいつの間にか笑い泣きに変わってしまっていた。


 可笑しくて可笑しくて、お弁当を廊下に置き私はお腹を抱えながら笑った。そして思うの。


 あぁ、私はこんな日々が欲しかったんだ。昔のように、なんの曇りもなく大声で笑えるその日を待ちわびていたんだ。本当に可笑しい。だって悲しくないのに涙が止まらないのだもの。


 嬉しくて楽しくて、キラキラと輝きだした当たり前な日常が私の宝物に変わっていく。この日々が永遠であれと願ってしまう私は天才少女ではなくただの凡人だ。


 笑い続けている私を見ている小枝樹くんは本当に困った顔をしている。何が可笑しくてそこまで笑っているのかと今にも口頭で言いそうな表情だ。


 優しくて頼りがいがあって、少しとぼけている所もある愛しい人。誰彼かまわず手を差し伸べて、無茶なことだって簡単にやろうとする。私の憧れていた天才そのものの無邪気な人。


 自分の指で流れた涙を拭い私は小枝樹くんを見る。そう、私の


「あはは、大好きよ。小枝樹くん」


 大好きな人を。


「ちょ、い、一之瀬っ!? いきなり言われると、その、すげー恥ずかしいというか何と言うか……」


 更に頬を赤く染め上げた小枝樹くんは私から視線を逸らし、少し汚れている廊下の床を見ながら言う。その仕草を見ながら可愛いと思ってしまうのは今の私が心から小枝樹くんを好きでいられるから。


 だが、その想いを抱いたとき不安が漣のように押し寄せてきた。小枝樹くんは私を好きだといってくれているけど、その気持ちは永遠ではないのかもしれない。もしかしたら再び兄さんのときのような悲惨な別離が訪れるのかもしれない。


 どんなに好きと言い合っても、どんなに大切な時間を共有したとして、この世界に永遠なんてない。もし、私の前から小枝樹くんがいなくなってしまったら、私はどうなってしまうのだろう。


 笑みが消えていくのが分かった。それはまるで公演を終えた劇場に幕が下りてくるようにゆっくりと。


 怖がっているんだわ。私はまだ怖くて怖くて堪らないの。触れる喜びが煙のように触れられなくなり、空気に混ざって消えてなくなる。それは単純な恐怖へと変わり、私の心を置いてけぼりにする。だが


「どうしたんだよ一之瀬? さっきからコロコロ表情変えて、もしかして生理━━」


バチンッ


「その表現は控えたほうがいいと思うわよ。小枝樹くん」


 くだらないことを言い出す小枝樹くんの頬を軽く叩き、私は戒めるように彼の顔を見る。


「た、確かに今のは不適切だった。謝る。ごめん。でも本当に今日の一之瀬は情緒不安定だな」


 それは、貴方が隣にいてくれるからなんて言えない。それを言ってしまったら私を苦しませないために小枝樹くんは私の傍から居なくなってしまうから……。


 小枝樹くんの言葉に私がなんの返答も出さなかったからなのか、小枝樹くんは私から視線を逸らし廊下に座る低い視線のまま窓の外で輝く青を見つめた。


「まぁ、何となく一之瀬がどうして変なのかわかる。多分それは俺のせいだ。まだ数ヶ月しか一緒にいないのにこんな仲になっちまって、どこを見てどこを歩いていけばいいのか分からないよな」


 不意に話し出す小枝樹くん。その話の内容が私にはいまいち掴めない。だが、そんな私のことを見るわけでもない小枝樹くんは言葉を続ける。


「俺もさ、一之瀬と好きどおしになるなんて思ってなかったんだ。初めは俺、一之瀬のこと嫌いだったし……。天才が嫌いで何でもできる一之瀬が嫌いだった」


 そんなことはない。私みたいな凡人よりも本物の天才である小枝樹くんのほうが何でもできる。誰でも救える。私にはできないことを簡単にこなしてしまう。


 思いながら後悔の念がよぎる。私は小枝樹くんに嘘をついている。私の真実を小枝樹くんに話していない。こんなにも私の事を好きだと言ってくれる人に私は何も言えてない……。


「でもさ、一之瀬は俺なんかよりも頑張り屋で、意地っ張りで、寂しがり屋で……。そんな天才少女に心を奪われてしまったのは不覚だと思う。それでも俺は一之瀬が好きだ。もう二度と離したくない」


 そう言い小枝樹くんは私の手を握る。温かな思いが体温で伝わってきて、恥ずかしさと同時に罪悪感が私を襲う。


 本当ならば雰囲気のある優しい空間なのかもしれない。でも私には小枝樹くんの温もりを完全に受け止める資格がない。


 私は小枝樹くんに嘘をついている。それだけじゃない。私は小枝樹くんを兄さんの幻影に仕立て上げ、その微温湯の居心地のよさに酔いしれていただけだ。


 さっき好きと言ったけど、本当ならば私がその言葉を言うことすらおこがましいことなのだ。


 でも、私は小枝樹くんが好き……。


「なぁ一之瀬。俺はさ一之瀬が好きなんだよ。もっと雰囲気のある場所で格好をつけるのもいいかもしれないけど、こうやって何の変哲もないただの廊下で昼飯を食う。ただ隣にいてくれれば良いなんてくだらないことは言わない。一之瀬が隣にいるから特別な場所になるんじゃないんだよ。俺と一之瀬がこの場所を特別にするんだ」


 輝く青を見つめていた瞳が私へと流されてくる。優しく微笑み、私を見つめる天才少年はその付加要素をなくしてしまっても、私にとって大切な人。


 あぁ、そうか。この人がいるから大切なものが増えていくんじゃないんだわ。私とこの人がいるから、特別で大切なものが増えていく。


 きっとそれはゆっくりと紡がれる想いの形で、私達がいなきゃ手に入れられないもの。この先で私達を待ち受けている全ての闇を、きっと小枝樹くんとなら光に変えられる。


 一拍間をおいた小枝樹くんは更に私の手を強く掴み、真っ直ぐとみつめながら言う。


「だからよ。泣きたいときには泣いてくれ、笑いたいときには笑ってくれ。ベタベタなこの台詞を一之瀬と本物に俺はしたいんだ。誰もが簡単に言う言葉を現実にできるのなんて、天才の特権だろ?」


 悪戯に笑うその笑みは、悪意が混ざっているものではなく純粋な少年のようなものだった。そんな小枝樹くんに言葉で返答をするのではなく、私は視線を青へと逸らし小枝樹くんの手を強く握り返した。


 その瞬間に訪れるとても幸せなしじま。昼食をとることも忘れ、私と小枝樹くんはゆったりと流れる空間に身を任せた。


 何もなくていい。何もないがいい。それでも綺麗に見えるだろ。


 私のなかで流れる言葉は小枝樹くんが教えてくれたもの。B棟三階右端の今は私達の居場所になっている教室から見える景色は本当に何もない。


 住宅街の灰色とその日の天気の気分しか見えない。雨が降っているときもある。曇りで鉛色を広げているときもある。晴れ渡り大きな太陽が見えるときもある。でも、それだけ。何の変哲もないどこでも見れる何もない景色。


 心を打たれる事もなく、感動する事もない。でも、どこか今の私は落ち着く景色なんだ。


 小枝樹くんが見ていた景色を私も見たい。ただそれだけの気持ちだったけど、簡単には同じものは見れなかった。でも今は違う。小枝樹くんと私は同じ景色を見ている。


 本当に、時間が止まってしまえばいいのに……。


 ふとした自身の邪な想いを打ち消すように私は青から小枝樹くんへと再び視線をずらした。すると、私の視線に気がついてくれたのか、小枝樹くんも私を再び見る。


 何も言葉は交わさない。ただ見つめあうだけ。それだけでも今の私は本当に幸せを感じる事ができる。だが


「なぁ一之瀬。俺さ、まだちゃんと言ってなかったことがある」


「なにかしら?」


「えっと……。その……。少し言いづらいというか気恥ずかしいというか……」


「もう。貴方は本当に感じなとき歯切れが悪くなるわよね」


 苛立っているわけではない。これが普段の私達。一学期の春から何も変わらない私達。


「その、だからっ!」


 勢いよく身体ごと私の方へと向く小枝樹くん。その勢いに押され少しばかり私は萎縮してしまった。そして


「一之瀬っ! 俺の恋人になってくれっ!!」


 真剣な表情で、偽りなど皆無だとわかる表情で、小枝樹くんが言う。私は何も考えられなくなってしまった。ただ枯れてしまった涙だけが私の感情を再び色づかせる。


 嬉しくて嬉しくて、この言葉を待っていたのかと自分で錯覚してしまうくらい嬉しくて。そんな言葉がなくったって私は小枝樹くんの隣にいるのに、でも凄く、嬉しくて涙が溢れてくる。


 でもダメ。これ以上泣いてしまったら小枝樹くんが困ってしまうわ。優しい小枝樹くんなら嬉しくて泣いてしまっている私のこともきっと心配してくれる。だから堪えよう。そして私の人生で一番素敵な笑顔で答えなきゃ。


 私は涙の混ざる見っとも無い笑顔で答える。


「はいっ……!!!!」


 私の返答を聞いた小枝樹くんはそのまま私を優しく抱きしめてくれた。その温もりが私のずっと求めていたものだと認識するのにさほど時間はかからない。そして心の中で私は言い続ける。


 大好き。大好き。私は小枝樹くんの事が大好き。ずっと私が幸せになることなんてないのだと思っていた。でも、そんな場所から私を小枝樹くんは助けてくれた。私の大好きな人が私を助けてくれた……!!


 子供じみた言葉の羅列が私の脳内を駆け巡る。幼い頃の私が蘇ったように、動かなくなってしまった時計が動き出す。失ってしまった時間を取り戻すように、私は歩みが再び始まる。


 だからその時間を本物のするために、小枝樹くんと一緒にあの場所へと行かなきゃいけない。


 私は小枝樹くんにしがみ付きながら耳元で言う。


「ねぇ小枝樹くん。今日の放課後、少し私に付き合ってくれないかしら……?」


 私の言葉を聞いた小枝樹くんは小さく頷きながら肯定の意を示す。その合図を受け取り安堵に落ちる私は、きっともう天才少女なんかじゃない。ただの凡人女子高生だ。


 この日々を本物にする為に三度目のさよならじゃなく、最初で最後のありがとうを伝えに行こう。


 

 

 

 

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