39 後編 (拓真)
願いを抱くのは愚かな事なのだろうか。祈りを捧げるのは弱者の所業なのであろうか。もしもそうだとするのであれば、俺は弱者になるべきなのであろうか。
昼下がりの太陽はそんな弱者になりきれない俺を照らし出して、温かな光と共に真っ白な光を放ち目の前の道を見えなくさせてくる。
生徒会長と名乗る少女に言われ、俺はまだ何かできる事があると自分の中に希望を見出した。それはきっと願いや祈りと同じで、自分が凡人ではなく弱者にまで落ちてしまったことを認識する。
身体はだいぶ楽になった。思考の海で溺れていた俺に差し込んだ光を掴み、海中の外に出たから呼吸をするのがとても楽になっている。
気がついた時には昼休みの終りを告げる鐘の音が俺の耳を刺激し、体力が回復し始めた覚束ない足取りで俺は教室を目指す。
一歩一歩が重く感じて俺はまだできると思えてきてしまう。零れた笑みを掬い上げ、俺はゆっくりと教室へと向かっていった。
昼休み終りの教室は騒がしい。昼食をとり元気を取り戻した学生はこれでもかといわんばかりに笑い声を上げている。日常の喧騒はあまりにも今の自分にはそぐわないものなのだと思い苦笑すら生まれる。
教室に戻ってきてさほど時間は経っていない。もう少しで授業が始まる。時計の針を見続けていても秒針が動くのがとても遅いと感じた。
辺りを見渡してもさきほど述べたように騒がしい学生がいるだけで、他に何か得るものなど何もない。視線は教室中を一周し自分の机に戻る。この数ヶ月間で感じてきた教室とはまったく別の世界なのだと思えてしまう。
「おい拓真」
聞きなれた幼馴染の声。俺を心配しているわけでもなく、俺に何か話したいわけでもない。そんな曖昧な声音で俺に声をかけてきた。
「どうしたレイ?」
単調な受け答え。俺にできるのはこれくらいなもので、普段と同じだとは言えない虚ろな瞳でレイへと視線と声を返した。
「いや、別に何かあるってわけじゃねーけど。でもお前がそれでいいなら俺もそれでいい」
重要な事は何も言わず、レイは普段と同じように俺を信じてくれているようだった。不意に見るレイの微笑はどこかぎこちなくて、俺の事をただ純粋に心配しているだけなのだと今の俺でも理解できた。
もしかしたらレイは全部気がついているのかもしれない。俺が何かをやろうと思ったときたいていレイは気がついていた。それでも何も言わずに俺のことをずっと見守ってくれていたんだ。
今のレイもそうなのかもしれない。そう信じなきゃ俺の心がどうにかなってしまう。
結局レイは俺に言葉を残し自分の席へと向かっていった。そして今の俺は独りきり。
沢山の生徒達がこの教室にいるのに、レイだって雪菜だって、それに牧下も神沢も崎本も佐々路もいるのに、今の俺は独りきり。この現状を打破したいというわけではない。それでも俺は一之瀬に話さなきゃいけない。
もう少しで昼過ぎの授業の鐘の音が響く。いまだに一之瀬は教室にいない。そして始業の鐘がなる本当に少し前、一之瀬は教室に戻り自分の席につく。
隣にいる一之瀬の表情はずっと見てきた無邪気な天才少女ではなく、人形のようにただ一点を見つめるだけの少へと変貌していた。だが、そんな一之瀬の姿を見たからといって臆したら下柳に申し訳が無い。
きっともう少しで教師が来るだろう。次の授業は数学だ。幸か不幸かアン子の授業。廊下に響く教師の足音を察し、少しずつ生徒達の話し声が小さくなる。
俺はその小さくなる声に紛れながら一之瀬だけに聞こえる声量で言葉を紡ぐ。
「一之瀬。今日の放課後、B棟三階右端の教室で待ってる。あの時、話せなかったことを話したいんだ」
「…………」
無言を返してくるのは分かっていた。でも俺はそのまま言葉を続ける。
「待ってるから。一之瀬が来るまでずっと待ってるから」
俺の言葉を紡ぎ終わった瞬間に教室の扉が開いた。そこには綺麗なスーツに身を纏わせながら堂々としている数学教師の姿。三十路前の女とは思えない美貌ひっさげ、茶色く染め上げられた髪の毛を巻髪に豪奢な雰囲気を漂わせる。大人の女性と表現するのが正しいだろう。
そんな数学教師が教室へと入り、学生の午後が始まった。
若いからといって進む時間が遅いわけではない。気がついた時には放課後になっていて、慌しく動き始める生徒の姿を垣間見る。
部活に勤しむ者、放課後の自由な時間を楽しもうとする者、将来の自分の為に勉学に励む者。多種多様な学生達が各々の時間を有意義に使うため喧騒を作り上げる。
そんな喧騒のなか、正反対な静寂を作り上げ自身の席で彫刻のように動かなくなっている俺。帰り支度を整えた雪菜やレイに声を掛けられたが、あいにく今日の俺には大切な用事がある。
誰もいなくなってしまった教室を一周見渡し、俺は立ち上がった。もちろん一之瀬の姿はみえない。B棟で待つと言った俺が一之瀬よりも後に教室をでるなんて世話が焼ける話だ。
微笑にも似た苦笑を浮かべ俺は歩みだす。
教室からでて廊下を歩く。一階へと続く階段を下り職員室へと向かう。教室には誰もいなくなってはいたが、いまだに校内には生徒達の姿がちらほろとみえていた。
歩く速度はさほど速くは無い。普段と同じ自分を演じながら破裂してしまいそうな緊張を隠し職員室へと辿り着く。
扉を叩き決まり文句の挨拶をし開いた扉のむこうにいる数学教師を俺は直視した。放課後に残っている仕事を片付けている様子の数学教師。ゆっくりと近づき俺は数学教師の肩を叩いた。
驚くことも無く振り向いた数学教師は一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、俺の表情を見て察したのか何も言わずにB棟三階右端の教室の鍵を俺に渡してくれた。
溜め息交じりの呆れた表情がどこか不安げに見えて、少しだけで俺の事を心配してくれているのだと理解する。俺は微笑だけを残し職員室を後にした。
再び歩く校内の廊下。校舎内の廊下は冬の寒気を留め冷えびえとしている。制服の上からコートを羽織っていてもその寒さが身体の芯まで侵食していくような感覚に陥ってしまう。
だけど今から俺が向かうB棟は外に作られている渡り廊下を通らなくてはいけない。簡易的な柵に半円型に湾曲された屋根が風情を醸し出す。大きな岩でも落ちてきたら一瞬で壊れてしまいそうな心許ない屋根の下を俺は幾度と無く通り続けてきた。
B棟はとても静かだ。部活として成り立っていない同好会の人達が数組いる程度で殆ど人はいない。授業で使われることもあるがその殆どが倉庫と化している。
同好会の人たちの楽しげな笑い声も聞こえるが自身の歩くカツカツという音のほうが耳を刺激しうるさいと感じてしまう。感傷に浸っているわけではないが、自然と足取りがゆっくりとなり、その一歩を感じながら進んでいく。
最後かもしれないという恐怖も後押ししているのだろう。もう二度と感じる事のできない一瞬を今の自分に刻もうとした無意識の行動。
だが三階まであがるのに時間はさほどかからない。あっという間に三階へと足を踏み入れ同好会の人たちの声も遠ざかり静寂に近い誰にも侵犯されない世界へと俺は入り込んだ。
階段をのぼりおえて右を向く。無限回廊のように続く道は確かに最果てをこの視野に映してくれて、俺は止まる足を無理矢理に動かし大切な居場所へと歩みだす。
何度も通った場所。何度も訪れた場所。何度も何度も来た、俺の居場所。
B棟三階右端の教室の前に辿り着き俺は一拍間を置く。
この扉の向うにはいったい何があるのだろう。初めて来たときと同様な思考に苛まれる。でも今のその思考は肯定的な好奇心ではなく単純な不安だ。何もかもを失うか、すべてを取り戻せるか。
二つの選択肢を俺は運任せにして下柳が言っていたような自分になりたいと願ってしまったんだ。何度も繰り返した希望のような願い。自身の無力さを知りながらも、誰に背中を押され俺は何度でも無茶な願いを祈り続ける。
呼吸は整った。そしてこの教室に一之瀬がいない事は分かっている。アン子から鍵をもらったのが何よりの証拠だ。
俺は鍵を開け、扉をひらく。
清々しいまでに何も変わらない。倉庫のように扱われているこの教室には机と椅子が散乱していて、指でなぞれば埃がまとわりつく。換気のために窓を開ければ冷たい風が吹き込んできて、舞った埃が夕日に照らされてキラキラと輝く。
この教室に俺は独りで来たんだ。高校生になりたての一年前の幼い俺は、この教室で何を見たんだろう。
過去の情景が一瞬だけ脳裏によぎり幻影の俺が姿を見せる。全てに絶望して何もかもがいらないものだと理解している俺の背中、でもとても寂しそうな背中。
窓際で頬杖をついて毎日のように夕日を眺めていた独りぼっちの俺。
そんな情景は夢のように儚く消えていき、再び俺を独りにさせる。いつものように適当に椅子を出し、いつものように座る。
数分が何時間にも感じてしまうほど一之瀬を待つ時間は途方もない。もしかしたらこのまま来ないのではないのかと悲観的な思考に苛まれそうになるが、首をふり無理矢理にその思考を掻き消す。
俯く自分の目には教室の床が映りこみ、皆の上履きで汚してしまった大切な場所の日常が刻まれていた。
少し視線を上げれば閉じた教室の扉が大きく見えて、早くこの扉が開かないかなとワクワクしているようなドキドキしているような、ただの不安が押し寄せてくる。
どれくらいの時間が経ったのであろう。ポケットから携帯を取り出して時間を見る。だが、俺がB棟三階右端の教室に入った時間が分からない。
体感的には数時間。でもきっと十数分なのだろう。時間の流れがあまりにも遅く感じてしまい、このままこの場所に閉じ込められ独りになってしまうんじゃないかという恐怖が俺を襲う。
時間という抗えない閉塞的な空間。進むも止まるも自分次第なのに、ゆっくりとだが確実に進み続ける。俺等の意思や成長なんていうものを無視して自由気ままに走り続ける。そんな時間を無駄にしてしまったとき人は思うんだ。
あぁ、あのときこうしておけばよかったな。
過去へと振り向き後悔という叶わない願いを飛ばし、現状の哀れな自分を嘲笑う。何も出来なかった自分を責める事もできずに、ただただ途方に暮れる。
そんなこと何度もあった。だから俺はここにいる。でも……。
「俺に一之瀬が救えるのか……?」
つまらない独り言だった。でも声にして再確認しなきゃ今の俺が何をしたいのか見失ってしまいそうで……。
震えだした右手を押さえる。だがそんな右手を押さえている左手も震えていた。
駄目だ。顔を洗いに行こう。このままじゃ一之瀬を救うどころか、何もできないまま終わっちまう。
B棟三階には一応トイレがある。いまだに使われているものなのだが使う人が少なすぎるために、使用できるか不安になってしまう。でも、ここは学校だ。水が止まっている事も無いだろう。
俺は椅子から立ち上がりB棟三階右端の教室の扉を開き廊下に出ようとした。だが
扉を開いた先の廊下には綺麗で長い黒髪をひっさげた天才少女がいて、急に扉が開けられたからなのか切れ長の瞳を大きく見開き俺の瞳を射抜いた。
「一之瀬っ……」
同様に俺も驚きの表情ででくわした一之瀬を見つめる。そして時が止まってしまったかのように、俺と一之瀬は刹那の時間みつめあった。
止まってしまった時間が動く瞬間を俺は感じた。急激に上昇する体温、心拍数も跳ね上がり手には汗すら滲みだした。握ることでその汗を一之瀬から隠すが、あまりにも子供じみた手法だと感じ少しだけ冷静になれた。
冷静になった頭をフル回転させ、俺は言葉を紡ぐ。
「な、なにやってんだよ一之瀬。早く中に入れよ」
ドア際にいた俺は言葉を紡ぎながら後方へとさがる。一之瀬が入ってこれるようにスペースを作った。だが、一之瀬はいっこうにB棟三階右端の教室に入ってこようとはしない。
不思議に思いながらも俺は何も言わずに一之瀬が入ってくるのを待った。
「私は入らないわ」
一瞬、一之瀬が何を言いたいのか分からなかった。俺は動揺を抑えながら表情でどうしてなのかを訴える。すると一之瀬は
「私はもう、ここには来ないと決めたの。だから早く小枝樹くんの話しを終わらせて頂戴。この教室の目の前にいるだけで不快な気持ちになるわ」
切れ長な瞳は綺麗なものではなく、人形のように淀み感情が何も伝わってこない。俺の知っている一之瀬 夏蓮なんて初めから存在しなかったと言わんばかりに人間のように動く人形に見えてしまった。
重力に逆らわない長い黒髪も瞳と同様に生きている者のソレとは違い、細い針金のように無機物な存在へと変質していた。
それでも俺はここで話すって決めたんだ。
「わかった。一之瀬がそう言うならこのまま話しをしよう。一之瀬が聞きたがっていたこの間の話しだ」
鎌を掛けている訳ではない。だがこの間の一之瀬 秋の墓の前での出来事の話しを持ち出しても、今の一之瀬は眉一つ動かさなかった。
ここで間を置いては一之瀬に不信がられる。俺は続けながら言葉を紡ぐ。
「どうしてあの場所に俺が居たのかを一之瀬は知りたがってたよな。俺はあの日、一之瀬 秋の過去を知った。それと同時に一之瀬 秋の願いの片鱗を見たんだ」
「兄さんの願い……?」
「あぁ、俺の考えが全部正しいというわけじゃないと思う。あくまでも俺の想像や妄想の範囲を超えない、くだらない思考だよ。でも俺は一之瀬 秋が一之瀬の兄貴だったんだと思う」
緊張からくるものなのか、自分の話したい内容を要約することができない。それにくわえて日本語すら上手く扱えていない。
「何を言っているの。私と兄さんは血縁で本物の兄妹よ」
相変わらず一之瀬の声音は淡々としている。俺の話しにもちゃんと返答をする余裕すらある。でも今の俺にそんな余裕はない。
「そういう事を言いたいんじゃないんだよっ……! 血縁とかそんなくだらないものはどうだっていいんだ。ただ、もしも俺が一之瀬 秋と同じ立場になったら同じことをするって思ったんだよ……」
俺の言葉を聞いて黙り込む一之瀬。その姿を自身の瞳に映し、俺は何もなかったかのように言葉は紡ぎ続ける。
「一之瀬は血縁とか言ったけど、血なんか繋がってなくてもルリが死にそうになってれば俺はこの命をとしてでも守る。それで俺が死んでルリが生きていたとしても、ルリは辛くて悲しい気持ちを抱いちまうんだろうな。それでも俺はルリを守る。アイツは俺にとって大切な妹だからな」
血の繋がりなんて関係ない。俺の家族は俺の大切な存在だ。何があったって絶対に守ってみせる。家族だけじゃない。雪菜もレイも翔悟も、佐々路も神沢も、崎本だって牧下だって……。今では斉藤も俺の大切な友達だ。それに自分に自身のもてない会長さんも副会長さんも全部、俺の大切な存在だ。
なぁそうだろう小枝樹 拓真。お前はそういう無鉄砲で後先考えないで自分の思い通りになるって思えるような奴だろ。だったら一番大切な存在を守らなきゃいけないよな。
乾いてしまった唇を舐め俺は再び言葉を紡ぐ。
「でも、今の俺にとって一番大切なのは一之瀬なんだ。俺は一之瀬を救いたい、俺は一之瀬を助けたい。迷ってた自分がバカに思えるくらい今の気持ちは清々しい。それもこれも一之瀬 秋が俺に教えてくれたからだ」
「……兄さんが貴方に何を教えたというの」
「傷ついてるのは一之瀬だけじゃない。俺もしっかり傷ついてるって……」
一之瀬 秋は俺に言ったんだ。俺も傷ついていると……。その言葉が俺の妄想でも想像でも構わない。今、一之瀬を守れるのは俺だけなんだ。
「兄さんが貴方も傷ついていると言ったのね。それが貴方の妄言でもいいわ。でもね、だからこそ私達はもう関係をもたないほうがいいと思うの。それが貴方の幸福へと変わるわ」
「変わらないよ……」
一之瀬の言葉に対して小さな声で一言いうのがやっとだった。一之瀬がいなくなって俺の幸福なんてありえない。一之瀬がいなきゃ俺はもう駄目なんだ。
「いえ、絶対に変わるわ。小枝樹くん、人という生き物は忘却するの。幸せな記憶も、辛い記憶も全て忘れ去っていく。今の貴方が抱いている苦しみだって私の事を忘れれば、深い深い貴方の奥底に眠り、二度と戻っては来ないわ」
無表情の天才少女。淡々と並べられる言の葉は一寸もずれることなく等間隔に並べられ、拍節機のように一定の音を繰り返していた。
今の一之瀬は少し前の俺と同じだ。二学期になってレイが戻ってきたときの俺と同じなんだ。
あの時の俺も今だけが辛いだけで少し経てばみんな忘れると思っていた。俺だけがいなくなればみんな幸せになるって思っていた。それに一之瀬の言葉には矛盾がある。もしも辛い事が忘れられるというのであれば、当の昔に一之瀬は一之瀬 秋の死を忘れているはずなんだ。
俺は小さな声で呟いた。
「ならどうして一之瀬は、一之瀬 秋を忘れてないんだよ……」
言い終わり一之瀬を見る。きっと俺の声は聞こえているから。核心に迫る言葉を紡ぐが一之瀬の表情は何も変わらない。そして
「兄さんの墓地で貴方には言ったけど、私は全て決めて兄さんにさよならを言いに行ったのよ。確かに今はまだ忘れることは出来ていないけど、過去という現実は受け止めているわ」
これが一之瀬の決意。もしもそれが本心だとするのであれば俺はきっとお節介なことをしている。それに一之瀬を苦しめる選択をしているのかもしれない。
でも俺は、もう俺でいるって決めたんだ。一之瀬の決意なんて関係ない。俺の決意を優先させてもらう。
「現実を受け止めたのか。なら何で一之瀬は人形みたいになっちまったんだ……?」
純粋な問いだった。一之瀬を変えてしまったの原因は誰なのか。いや、俺が引き金になってしまったことは分かっている。でも根本的な原因は何も分からないんだ。
後藤と話しをした夜。確かに沢山のヒントをもらい俺の中での考えは纏まった。でも、それが真実だとすればあんまりじゃないか。
一之瀬だって普通に生きている人なのに、その自由を奪われるなんて許せないだろ。
動き続ける時間は、宙に舞った俺の言葉を拾い一之瀬へと運ぶ。そして俺の言葉が一之瀬の耳に入ったときふと思い出したんだ。
あぁ、なんだか寒いな。
「人形、ね……。これは私が望んだことよ。いえ、初めから決められていたこと。今年の春、ここで貴方と出会うずっと前から決まっていたこと。私は一之瀬財閥の人形。私は一之瀬 秋の代替。そして一之瀬 樹の傀儡よ」
そうか寒いのは冬のせいだけじゃない。一之瀬の体温が感じられないからだ。
本物の人形のように無表情で、自分の感情なんてはなから存在しないと言わんばかりに淡々と話す一之瀬。そんな今の一之瀬には温もりがない。
こんな一之瀬にしちまったのは誰なんだ。つまらない疑問を浮かべても答えなんて一つしか浮かばない。だけどそれを言っても一之瀬は否定するだろう。一之瀬は自らの意志で答えを選択したのだから。
なら俺には何ができる。簡単なことだ。俺が綾瀬に伝えて、生徒会長さんから伝えられたことがある。
隣にいるなら言えばいい。
「人形、代替、傀儡。一之瀬がそう言うんだったらそうなのかもしれないな。それでもいいから聞かせて欲しい。さっき一之瀬はこの教室の前にいるだけで不快な気持ちになるって言ってたけど、一之瀬はこの場所が嫌いか?」
真っ直ぐと一之瀬を見つめる。だがB棟三階右端の教室の窓から入ってくる冬の澄んだ夕日が逆光になり、影を作りながら一之瀬の表情が半分見えない。
「えぇ、私はこの場所が嫌いよ」
即答だった。俺の質問を聞いてから時間は刹那。本当に嫌いだったんだなって思いこんでしまうくらい清々しい返答だった。
「そっか、一之瀬はこの場所が嫌いか……。でも俺は好きだ」
そう。この場所を嫌いになんて俺にはなれない。
「…………?」
「この場所は俺にすべてを見せてくれた。何もかもを拒絶した俺に優しさを教えてくれて、楽しかった思い出を大切なものにさせてくれて、また最高の友達に出会わせてくれた」
オレンジ色がすべてを呑み込むかのように膨れ上がり、教室と廊下は陰と陽の真反対の世界を作り上げていた。どちらが陰でどちらが陽なんて今はどうだっていい。
ただ思う。今の俺と一之瀬がいる世界はまったく別の世界なんだと。だから
「一年の春。俺はこの場所に来た。すべてがどうでもいいと思っていた俺には丁度いい場所だった。だけど数週間、数ヶ月と時間を過ごす間に俺の心は潤いだした。でもその潤いは偽りを含む本物のとは遠いもので……。それでも俺は楽しく日々を過ごしてた」
優しい気持ちが溢れてくる。自然と頬が緩み、俺は過去の話しを続けた。
「この教室に来てから時間の進みが早くなったような気がしたんだ。気がついた時には二年生になって、俺は黒くて綺麗な長い髪を春風で靡かせている天才少女にここで出会ったんだ」
俺の大切な思い出。
「あろうことか、その天才少女さんは俺を必要だって言ったんだよ。その時の俺は自分が天才だという事を隠し、当たり障りない凡人を装っていた。だから必要とされることが怖かった。俺は自分が天才だったせいで親友を裏切った。そのせいで天才だと期待されるのが怖かった」
俺の消すことの出来ない過去。
「でもそんな俺の真実なんて天才少女さんは知らない。だから俺は何食わぬ顔で天才少女さんが持ってくる依頼を受け続けたんだ。そしたらさ、期待されるのが怖かった俺が期待に応えたいって思うようになったんだよ。そう思うようになったのが初めの以来。バスケ部存続を賭けた試合」
翔悟と細川との出会いだ。
「結局さ、俺のせいで試合は負けちまったんだよ。最後のシュートのとき発作が起こってな。あの一瞬、考えちまったんだ。ここで俺がシュートを決めれば翔悟達、バスケ部を助ける事ができる。でも相手チームの奴等は何を思う? 弱小校にそこそこ成績を出している高校が負ける。そんなことになったら相手選手は絶望するんじゃないかって……。だから、発作が起こった」
苦しみを背負う事を決めていた少し前の俺。
「天才なんて碌なもんじゃない。誰かの希望や夢を奪うことしか出来なくて何かを与えるなんてやるだけ無駄だ。あの試合を経て俺はそう思うだろうって感じたんだ。でも違った。凄く悔しかったんだ。俺の事を友達だと言ってくれた翔悟にも必死な思いで俺に頼ってきた細川にも合わせる顔が無いって思ったんだ」
今年になって初めて逃げだしたんだ。
「そんなことがあってから、俺は少しだけ前向きに依頼を受けるようになった。次の依頼は神沢 司。この学校の二学年一のイケメン王子。そいつがもってきた依頼がまたふざけててさ、ストーカーをどうにかして欲しいときたもんだ。他人の色恋沙汰なんてどうでもいいって思ってたのに、これがまた探偵みたいな感じで楽しかった」
この頃に俺は似非ホームズさんに出会ったんだ。
「その次は牧下 優姫。友達がいない内気な女の子。その子の依頼は友達になってくださいだった。そのお願いを聞いた天才少女さんは激怒して牧下は謝りながらこの教室から逃げていったな。結局、俺がどうのこのう頑張らなくても全部イケメン王子にもってかれて依頼は完了。その代償に俺に大きな発作が起こった」
ここで再び知った。大切な友達を守るのに理由なんていらないと。
「倒れるときに最後に見えたのは涙を瞳に溜め込みながら俺の名前を叫ぶ天才少女さんだった」
あの顔を見たから、今の俺が必要とされている意味が分かったんだ。
そのとき
「ねぇ小枝樹くん。どうして私の知っている話しを延々としているの? 貴方が今まで話してきた内容には私も関わってきているわ。今更そんな話しを聞いて決心が鈍るとでも思ったの?」
「違う。今俺の目の前にいる一之瀬 夏蓮は話の内容には登場してない」
怪訝そうに俺を睨む一之瀬。真っ直ぐな視線は矢の如く、俺の瞳を捕らえて放さない。攻撃的な一之瀬の瞳とは正反対に俺は微笑を浮かべながら答える。
「今の一之瀬はただの人形なんだろ? あの事にいた一之瀬は人形なんかじゃなかった。無邪気に笑って、小さなことで怒って、何かと癇癪を起こしては俺を怒ってた。でもとても柔らかな笑顔で笑うんだよ一之瀬は」
目の前にある人形に話しかけている俺は滑稽なのかもしれない。無駄な足掻きをしている阿呆なのかもしれない。それでも俺は信じているんだ。
「話しが長くなりそうだから要約するよ。さっきも言ったけど俺はこの場所が好きなんだ。その理由は沢山の大切な人達に出会わせてくれたから。それだけじゃない。俺を昔の天才に戻してくれた。俺をあの頃のヒーローに戻してくれた。だけどさ、この場所のおかげでこの場所よりも好きなものができたんだ」
一之瀬の瞳が少しだけ大きくなった。その動きは微かなもので、よく見ていなければ誰にも分からないだろう。でも今の俺は一之瀬を見てる。だからその動きに気がつけたんだ。
それは微かな一之瀬の感情の揺らめき。
「それはお前だよ。一之瀬」
ここからは俺の気持ちを伝えるだけだ。修学旅行のときのような突発的な行動じゃない。ちゃんと伝えるんだ。俺のすべてを。
「もう一之瀬は知ってるかもしれないけど人形のお前は知らないのかな。俺は一之瀬 夏蓮が好きなんだ。同じ天才だからとかそんな単純なものじゃない。ただただ一之瀬 夏蓮が愛おしいんだ」
一之瀬の手が微かに震えた。だが表情は変わらず、先程少しだけ開いた瞳を求み戻し冷徹な人形になっている。
「俺はさ、きっと一之瀬よりも弱い。なにかあるとすぐに混乱して目の前の何かに縋りたくなる。修学旅行のときも俺は何も考えずに気持ちを伝えた。でもそれが結果的に一之瀬を苦しめる事になっちまった。本当に最低だと思ったよ」
言葉を紡ぐ事すら一之瀬はしない。それどころか口を開く素振りすらみえない。ただ俺の話しを黙って聞いている。人形の一之瀬 夏蓮は。
「だから今から俺が言うことが全部だ。聞き漏らすなよ一之瀬」
そして俺はただ一欠けらの俺の知っている一之瀬に話しかける。
「俺は天才少女の一之瀬が好きだ。俺は阿呆なことを簡単にしてしまう一之瀬が好きだ。探偵をやるからって言ってホームズのコスプレまでしちまう一之瀬が好きだ」
「やめて……」
「感情なんてどこにもないようなフリして、本当はすげー激情家の一之瀬が好きだ。それに自分の事が一番みたいな考え持ってるのに他人の為に頑張れる一之瀬が好きだ」
「……やめて」
「大切な人を失ってもそれを受け止めようとする一之瀬が好きだ。本当はもっともっと友達と笑っていたいって思う一之瀬が好きだ」
「お願い……、やめて……」
「全部ひっくるめて、俺は人形なんかじゃない等身大の一之瀬 夏蓮が、大好きなんだ」
「もう、やめてえええええええええええっ!!!!」
耳を両手で塞ぎながら大声で叫び、一之瀬は膝から崩れ落ちる。先程までみせていた冷徹な人形の外皮がペリペリと剥がれ落ちるように、感情が急激に上り詰めるようだった。
荒げる一之瀬の吐息は俺の発作のときのようにみえて、瞳を大きく見開き自身の頭の中で何かを見ているような表情をしていた。そして
「私は独りなの……! 私は誰も求めてはいけないの……! 私は人形になるって決めたのよ……!」
俺に話しているのか、はたまた自問自答なのか。一之瀬の視点は俺ではなく教室と廊下の境目で、いまだに耳を両手で塞ぎながら言い続ける。
「もう失いたくない。もう傷つけたくない。私は誰も愛してはいけない。私が愛せばその人は消えてしまう……。そう、だから私は人形になるの。感情をもたない人形になれば誰も愛さない。誰も求めない。私はあの部屋で独り……」
壊れた人形のように繰り返し言い続ける一之瀬。俺が起こしてしまった事象だと分かってはいるが、その姿を見ているのはとても辛い。
だから俺は一之瀬に声をかける。
「なぁ一之瀬。お前はもう独りじゃないんだ。だって目の前に俺がいるだろ? だから━━」
「私はずっと独りぼっちなのよっ!!!!」
壊れてしまった人形が俺の言葉に反応し、鬼のような形相で睨みながら大声で叫んだ。
「私は兄さんが死んでからずっと独りなのっ!! どんなに喚こうが泣き叫ぼうが誰も私のことなんて助けてくれなかったっ!! 私が助けてと哀願しても誰も私の手を掴んでくれなかった……」
落ちだす感情。溜まっていたすべてが溢れだすように一之瀬は言葉を紡ぎ続ける。
「助けるとか、助けたいと思ってたとか、そんなのはただの詭弁にすぎないのよっ!! 私はなんでもよかった。ただこの手を掴んでもらいたかっただけなのに……!!」
剥がれ落ちる人形の塗料は涙ではなく自身の感情で溶かしていくようだった。悲痛な叫びを一之瀬はあげているのに涙は流れていない。切れ長な瞳に溜めることも無く、ただただ叫び続ける。
すると、すべての感情を出し切ってしまったのか一之瀬の声音は少しだけ冷静に戻り、俺のことを睨みながら再び言葉を紡いだ。
「貴方だって……。貴方だってそうじゃない小枝樹くん。私を助けたいとか救いたいとか言いながら、私のこの手を掴もうともしなかった。私が独りでいる部屋の扉を開けてくれなかったじゃないっ!! 私は……、私は……」
怒りが抜け去り悲しみだけを募らせる一之瀬。そして思う。部屋の扉と言った一之瀬の言葉。
前に春桜さんが言っていたような気がした。一之瀬 秋が死んでから一之瀬は自分の部屋に閉じこもって独りで泣いていたと。そんな一之瀬に春桜さんは何も出来なかったと。
一之瀬が言っている部屋の扉というものが俺の推測どおりなら、それは過去の産物で今の俺にはどうしようもない。目の前に俺がいたって、一之瀬には見えていないんだ。
一之瀬の苦しみがほんの少しだけ伝わった瞬間、幻のような光景が見えた。
小学生の子供には広すぎるくらいの部屋。天蓋布のある大きなベッドが置いてあり、勉強をする為だけに高級な木材で拵えた机、窓には美しいレースのカーテン。絵本の中に出てくるようなお嬢様の部屋。
幼き少女なら誰しも憧れる部屋の真ん中で、一人の少女が膝を抱えながら蹲っている。耳を澄ませばすすり泣く声が聞こえてきて、それが一之瀬なのだと気がつくのに時間はかからない。
その少女が一之瀬だと確信したとき、俺の目の前に大きな扉が現れた。
大きな扉といっても部屋の扉と大差は無い。ただ凡人にはなかなかお目にかかることの出来ない、木彫りの豪華な模様がある。扉のノブも凝っていてまるで中世のヨーロッパかと勘違いしてしまいそうになる。
でも、この扉が今の俺と一之瀬の距離。とても近くにいるのにとても遠い。
「どうしてみんな私から出てくることを促すのっ!? どうして誰も扉を開けて私を外に連れ出してくれないのっ!? 扉に鍵なんてかかってないのにっ……!!」
そうだ鍵なんてかかってない。一之瀬はずっと待ってたんだ。誰かが扉を開けて連れ出してくれる日を。六年間もずっと独りで待ってたんだ。
そんな一之瀬に俺はなんて言った。助ける、救う。どんだけ無責任なこと言ってんだよ。一之瀬なら自分で這い上がれるって思ってた。一之瀬なら絶対に大丈夫だって思ってた。でも俺は一之瀬を知って初めに思っただろ。
一之瀬は普通の女の子だって……。
そうか。自分の気持ちを伝えるだけでも、相手の気持ちを知るだけでも駄目だったんだ。なら
「そうだよな。待ってるだけじゃ何も掴めないよな。俺はどんな事をしても一之瀬の隣にいたいって思ってる。だから今からその扉を開けるよ」
言葉を紡ぐと幻想の世界は消え去り、目の前に現実が舞い戻ってくる。豪華な扉なんて存在しなくて、あるのは古くなった学校の扉。それに閉まってなんかなくて、一之瀬の姿がはっきり見える。
これでいいんだ。これが俺の気持ちなんだ。
「……小枝樹くん?」
一歩前に踏み出し俺は一之瀬に近づく。その一歩は今まで歩いた事のないような長い一歩で、とても重たい一歩だった。
数歩歩き、一之瀬の前で足を止める。俺と一之瀬の間にあるのは教室の扉が閉まるための数センチだけ。廊下と教室。外と中。
俺は笑みを浮かべ腕を前へと出し、一之瀬を腕を掴む。そして無理矢理に俺の胸へと引っ張り出した。
「これでいいんだろ? 一之瀬」
何が起こったのか分かっていない様子の一之瀬を俺は抱きしめる。強く強く抱きしめる。すると一之瀬は現状を把握したのか俺の腕の中で暴れだした。
「やめて、放して小枝樹くんっ!!」
「放さない」
「ダメ……。私は誰も愛さないの。私は人形になるって決めたの。貴方が放してくれなきゃ、貴方を不幸にしてしまうわ……」
「それでも、放さない」
「お願い……。放して……。これ以上、私に好きな人を苦しめさせないで……」
鼻を啜る音が聞こえた。だけど俺はもう一之瀬を放したくない。だってさ、二回も放しちまったんだ。この弱い女の子の腕を二回も放しちまったんだ。だからもう、二度と放さない。
「今、好きな人って言ったか? それって俺の事が好きってことなんじゃ━━」
「そうよっ!! 私は貴方のことが好きなのよっ!! 私の事を一番に考えてくれて、私の事をただ純粋に好きと言ってくれる。小枝樹 拓真が私は好きなのっ!! だから、だから……」
「それは人形の一之瀬 夏蓮の気持ちか? それとも俺の知ってる阿呆な一之瀬 夏蓮の気持ちか?」
「うっ……。そんなの、後者に決まっているじゃない……」
涙を流しているのがわかる。一之瀬の鳴き声は何度か聞いた事があるからな。それよりも、俺のことを好きだと言ってくれている事のほうが驚きだ。あれだけ俺の告白を拒絶していたのに。だけどそれが一之瀬が俺の事を考えてくれての行動だったなら嬉しいとさえ今は思える。
「なぁ一之瀬。俺は絶対にいなくならない。何があっても一之瀬の隣にいる。もうお前をあんな寂しい部屋で独りぼっちになんかさせない。だから」
抱きしめていた一之瀬の体を少しだけ離し、一之瀬の顔を見ながら俺は言った。
「あんまり天才なめんなよ」
「……小枝樹くん」
涙でクシャクシャになってしまった一之瀬の顔はハッキリ言って酷いものだった。それでも愛おしいと思ってしまうのは惚れた弱みなのか。なんでもいいが、とにかに俺は一之瀬が好きだ。
「そうだ。まだ一之瀬に聞いてない事があった」
言って俺は一之瀬の手を引っ張り窓際へと連れて行く。そして
「これが外の世界だ。久しぶりに部屋からでた感想を言ってくれ」
子供のようなことをしていると重々承知している。だけど聞きたかったんだ。大好きな一之瀬と出会わせてくれたこの景色を見て、一之瀬が何を思うのか、何を感じるのか。
涙を浮かべていた一之瀬は自分の腕で涙を拭い窓からの景色を見る。数秒間その景色を見たと思ったら、何も言わずに再び涙を一之瀬は流した。
俺に見える景色はオレンジ色に染まったどこにでもあるような景色で、住宅が並び遠くにはビルも見える。校舎に植えられた木々は邪魔をしない程度に葉のつけない茶色を見せて、窓も開けていないのに寒さが伝わってくるような白い雲がチラホラ見えた。
一之瀬の体温を感じている。温かな春のような体温。鼻を啜る声も、いまだに震えている身体も俺はすべて受け止める。
この場所で出会って、この場所でまた始めるんだ。
「なにもない景色が見えるわ」




