39 中編 (拓真)
一之瀬 秋との出会いは最悪なものになってしまった。最悪を作り上げてしまったのは俺で、誰も傷つかずに済むはずだったのに、安易な俺の思考が一之瀬 夏蓮を深く傷つけた。
そんな俺の帰りを皆は待っていてくれた。レイが言っていたように俺だけが傷つくのなら良かったのに、何も出来ずあまつさえ一之瀬 秋に哀願してしまう始末。
救いようが無いとうはこの事を言うのであろう。沢山の質問を投げかけてくる友人に俺は何も答えられなかった。
無様で滑稽な俺を笑って欲しい。だけど今は何も話したくなかった。
あれから数日の時間が過ぎた。俺等の日常は止まる事を知らず常に流れ続けている。当たり前のようで当たり前じゃない、それでもって見えていた景色が摩訶不思議に輝き日常を非日常へと変えていく。
一之瀬と話すことをしなくなった。このまま本当に終わってしまうのだと自分の中で理解する。隣の席に居るのにとても遠くに居るような感覚。
B棟三階右端の教室にも今は行っていない。あの場所に行けば嫌でも一之瀬の事を思い出してしまうから。
そんな俺を客観的に見てまた逃げているのだと笑いたくなってしまった。微笑が生む現実の残骸は数日前の一之瀬の微笑を蘇らし、俺から嬉しさや楽しさと笑みを奪っていった。
無気力という表現が尤も適切であろう。全てのものに興味が湧かなくて何もかもがどうでもいいと感じている。失ったものを再び手に入れることなんて出来なくて。崩れた砂山はもう二度と作り上げる事なんて出来ない。
灰色の世界で留まるのならそれは幸福であったのだろう。ただ色が無いだけでそこには確かにあるのだから……。でも、どんなに色がついていたとしても今は何もないんだ。
思考の停止を促されたのか、俺の身体は休息を求めている。誰も居ない場所でただ何もない場所で、俺は何も考えたくない。
校舎を彷徨うのはまるで死人のようだった。昼食時の楽しげな声が耳障りで、笑みを浮かべている生徒全てが不幸になればいいとさえ思えてきてしまう。
何がヒーローだ。今の俺は、自分に不幸が降り注いだだけで他者の幸福を否定してるじゃないか。当たり前のような幸せを感じられるのなら、俺は凡人に生まれたかった。そうだ、全部俺が天才だからいけないんだ。
一之瀬 秋だって天才に生まれたから死んだんだ。だったら俺も、全てを終りにすれば……。
「拓真くん……?」
聞き覚えのある通る声。その声は不安と心配が入り交ざった震えた声で、今にもひっくり返ってしまいそうな声音をしていた。
振り向かなくても何となく誰なのか分かってしまう。いつもの俺ならば何も変わらない日常的な表情をつくり、誰にも自分の苦しみを露見しないように最善を尽くすだろう、だが、今の俺にそんな余裕はない。
「どうした、下柳?」
振り向く力は弱々しく、壁に手を当て自身の体重を支えながら俺は振り向いた。
綺麗な長い銀髪は本人の不安を含みおとなしくなっている。美しい曲線を描く身体もどうしていいのか分からないと嘆くように力が入り縮こまる。
今の俺が弱っているのが分かるのであろう。下柳は眉間を八の字にし不安げな表情で俺を見ている。そんな下柳の姿は俺の想像を超えていなくて、出会って少ししか時間は経っていないのにいつもの下柳だと少しだけ安堵を覚えた。
少しだけ頬が緩み微笑にも満たない笑みで俺は下柳の返答を待つ。
「どうしたはこっちの台詞だ拓真くん。凄く疲れているように見えるが、何かあったのか……?」
その優しさは相変わらずで、少し前に迷惑をかけた俺を心配してくれている。
「何も無いといえば嘘になる。でも、これは俺の問題だ。下柳には関係ない」
「関係ない事はない」
いったいこの生徒会長は何を言っているんだ。俺が関係ないと言っているんだから下柳には関係ない。もしも関係があったとしても当事者でもない下柳にはやはり関係のないことだ。
疲れた体を下柳の方へと全て向けて、片手で壁を押さえながら俺は質問を返す。
「どうして、そんな事が言えるんだ? 下柳が関わった案件でもないし、今の俺の問題に一切下柳は関係してない。その意味の無い自信は他者をバカにしてる。止めておいた方がいいぞ。それに俺は下柳や綾瀬に迷惑をかけた。心配される道理はないよ」
苦しい表情も悲しい表情も、ましてや楽しい表情も嬉しい表情も今の俺には作る事ができない。ただただ無感の仮面を被り、淡々と言葉を紡ぐ。
すると下柳は不安と心配が入り交ざった表情を変え、真っ直ぐと俺を見つめる。その表情は本当に立派な生徒会長のように今の俺には見えた。
「関係もあるし、道理だってある」
自信に満ち溢れている彼女の真っ直ぐな瞳は今の俺を苛立たせる。普段の俺なら怒鳴っていただろう。感情的になり汚い言葉を吐き散らし、最後には最低な真実を突きつけて相手を看破する。
だが、何度も言うが今の俺にはそんな事が出来るほど体力がない。寧ろすでにこの場から早く立ち去る事さえ考えている始末だ。
「だから、その自信はどこからくるんだよ」
「私が生徒会長だからだ」
思いもつかなかった答えを言う下柳。生徒会長だからなんなんだ。俺の中で繰り返される単調な疑問。その疑問を解決する事すら出来なくて、時間が止まってしまったかのように俺は無言を返した。
何も言わない俺が気に食わないのか、下柳は再び眉間を八の字にし視線を少し落としながら言葉を紡ぎ始めた。
「私は生徒会長だ。そして拓真くんはこの学校の生徒だ。なら、生徒の長である私が生徒の拓真くんを心配して何が悪い。拓真くんを心配する道理が生徒会長だからでは不服か……?」
俺が気に食わないわけではない。純粋に俺の事を心配しているだけの下柳。己が一番なりたいと願った生徒会長の理想を体現するように、不安を含みながらも真っ直ぐな下柳の瞳が俺を貫く。
綺麗な心に触れた。真っ直ぐで揺るがず諦めず、純粋に力になりたいと願う銀髪少女の心に……。
疑問符で終わっている下柳は俺の返答を待っている。だが俺は下柳に何も言い返せない。すると下柳は再び口を開いた。
「拓真くん。あの日の事を全部、道久くんから聞いたよ。どうして拓真くんはあの場で全てを話そうとしなかったんだ……?」
再び送られる質問。
あの日とは、俺が生徒会室で綾瀬の真実を暴き、感情的になって半暴力行為をしてしまった時の事を言っているのだろう。
俺が綾瀬の胸倉を掴み壁に押しつけ怒号を上げる。怒りを混ぜた視線は綾瀬を真っ直ぐと睨みつけ治まる事をしらなかった。そんな場面を下柳に目撃された。
下柳からしてみたら俺が綾瀬を押さえつけているように見えただろう。実際は綾瀬から仕掛けてきたことなんて下柳は知らない。でも俺は下柳の言っているようにその場で弁解はしなかった。
記憶を蘇らし俺は数秒目を閉じる。そしてその瞳を開き下柳の質問に返答をする。
「なに言ってんだよ。出てけって言ったのは下柳だぞ? それに釈明したところであの時の下柳が俺を信じてくれるとは思わなかった」
あの時の自分の対応を俺の言葉を聞いて思い出したのか、下柳の表情が暗くなる。自責の念にかられ今にも泣き出してしまいそうな雰囲気すらある。
自分が相手にされないとすぐに泣いてしまう下柳なのに、どうしてなのに今は涙を流さずただただ何かを考えるように俺から視線をずらしていた。
「これで話は終りだ。納得してるかしてないかは俺にとってどうでもいい。今は少しでも独りでいたいんだ」
「待ってくれ拓真くんっ!!」
もともとの進行方向へと身体を反転させた俺に下柳の声が背中から押し寄せる。踵を返しながら俺は再び下柳を視野に入れた。
「まだ何かようがあるのか」
「そ、その……。わ、私は凡人だ。道久くんだって凡人だ。でも拓真くんは天才だ……。私には凡人同士の道久くんの気持ちも理解できなかったから、拓真くんの気持ちを理解する事なんてきっと出来ないのだろう……。それでも何か聞けることはないか……? 私にできる事はないか……?」
純粋な思いからくる気持ちはとても美しい。だが、気持ちを向ける相手を間違えばたちまちその言葉は凶器へと変貌する。
一言一言がザクザクと音を立てながら身体を傷つけ、無意識の善意がその重さを増させる。偽善であれば対処法なんていくらでもあるのに……。心底この生徒会長はお人よしなんだな。
下柳の言葉を聞いて俺は下柳の方へと歩む。そして自身の間合いに入り下柳の身体を壁越しに少し押し、よろめき壁にもたれ掛かる下柳に多き被さるように睨みつけながら俺は言う。
「下柳。俺を心配してくれるのは本当にありがたい。でもな、善意はいきすぎると迷惑になるんだよ」
「そ、それでも私は今の拓真くんが心配で━━」
「哀れむのはやめてくれっ!」
精一杯の怒号。力なき叫び声は一瞬だけ廊下に木霊したが、その姿はすぐに消え去ってしまう。
拳二つ分くらいの間を開けて俺と下柳の顔ある。近距離と言ってもいいだろう。互いの顔を全て見るのに丁度いい距離。今の俺がどんな表情をしているのかは分からないが、下柳の表情は驚きと困惑が混ざり瞳を見開きながら俺を見つめている。
下柳の優しさにも下柳の言動にも腹が立つ。俺の事を心配する意味なんて無いのに、真っ直ぐな善意が俺を苦しめているって分かって欲しい。
「はっきり言う。お前に出来る事なんて何もない。それは下柳が自分で言ったんだよな、俺は天才で自分は凡人だって。凡人がどうやって天才の手助けをするんだ。だからもう、やめてくれないか」
「どんなに言われても、私は拓真くんの力になりたい」
壁際に追い詰められた下柳は恐怖を感じているだろう。全ての感情を抑えるように瞳には涙が溜まっている。それでも真っ直ぐと力強い瞳で俺の事を見れるのは、下柳が生徒会長だからなのかもしれない。
そして困惑を抱いたのは俺だった。もう諦めて欲しい、これ以上俺に何かをするなんて無意味だ。下柳はバカじゃないから、それくら分かるだろう。
出かけている言葉は音に変わらず、俺の頭で木霊する。ままならない気持ちが表面上に現れ壁についている俺の手は拳に変わっていた。
「拓真くん、私はな」
小さな声が聞こえた。俺の顔をから視線を逸らし廊下の地面を見つめている下柳。銀色の髪の毛が邪魔してどんな表情をしているのか分からない。だが、そんな俺の心情なんてお構い無しに、下柳は言葉を紡ぎ続けた。
「道久くんか全てを聞いて本当に自分が情けないと思ったんだ。副会長である彼にいらぬ心配をさえ、それどころか拓真くんにまで迷惑をかけてしまった……。ビックリするくらい、私が生徒会長に相応しくないのだと実感したよ……」
悲しみに囚われてしまっているのは分かる。でも今の下柳の声は震えていない。悲しみに押し潰されないように必死で何かを伝えようとしている。
いくら俺が疲れていると言っても、目のまで言われれば分かってしまう。
「私は道久くんに頼るだけで自分で何かをしようとはしなかった。自分なりに頑張ってみたけど、何の成果も出なくてバカにされる一方だった……。私が生徒会長に相応しくないのは自分でも分かってる。でも悔しいじゃないか。私の事だけじゃなく生徒会メンバーの陰口を叩かれるのは……」
知らない事実。他人の苦しみ。下柳が抱いてきた苦しみは、きっと俺には分からなくて、でも綾瀬には分かっていた。
だから綾瀬は下柳を騙してでも俺を利用して、生徒会長としての地位を確立させたかった。いや、下柳に気がついてもらいたかったんだ。
今の生徒会長は下柳なのだと。
どうしてだろう。苦しいのは俺の方なのに、下柳の話を聞いてると自分の苦しみが小さく思えてしまう。苦しくて傷ついているのは俺だけじゃないって、思えば思うほど自分の事がどうでもよくなっていく。
「だから私は道久くんの話しを聞いて努力をしようと考えた。どんなになれないと他者に蔑まされようとも、どんなに生徒会長に向いてないと罵られようとも……。私は生徒会長になると決めたのだ……!」
廊下の床を見つめていた下柳の視線は俺へと向く。その瞳はやっぱり強くて、揺るがない信念をもった者なのだと瞬時に理解した。
なら俺には何が出来る。今の下柳を目の前に俺は何を言い返せばいい。
無言を返したいわけじゃないのに、必然的に強く口を噤んでしまう。それが今の、いや今までの俺なんだ。
何も分かってない。何も理解なんてしてない。俺は分かったつもりになっていただけで、結局なにも分かってなかった。
他人の恋心も、今の自分も、選択した未来の事も……。
思考が思考を生み、答えのない無限回路へと俺を誘っていく。目の前で小さくなっている銀髪の少女はとても大きくて、一之瀬を失った俺には何も出来ないんだ。
「なぁ拓真くん」
苦しみの表情で俺に言葉を投げかける下柳。俺はその続きを何を言わずに待った。
「私は君に救われたと思ってる。自分がどんなに悪者のになろうとも他者の最善を導き出し行動が出来るのはとても素晴らしい事だ。それが出来るのは君が天才だからではない。君が君であろうと強く思い続けたからだと私は思うんだ。わざわざ通らなくてもいい険しい道を通ろうとする愚か者が君なのではないのか……?」
「関わってから時間も経ってないのに、分かったようなこと言うんじゃねぇよ……」
下柳の言葉は芯をつくものだった。自分でも気がつけていない部分もあり否定したい気持ちも技っているが、下柳の言っている事が全て間違っているとは思わない。
弱々しく反論をしてみたものの、力なき声に俺の意思が乗っかっているのは分からなくなる。フワフワとしている現状が俺の思考とリンクしていない事を教えてくれて、不完全なままの言霊は宙に霧散し消えていく。
だが、下柳の意志は消えていなかったのだろう。もう目も合っていない俺に言葉を続けた。
「そうだな。拓真くんの言っている事は尤もだ。あまりにも正論過ぎて笑みさえ生まれてしまうよ。でも、純粋に私が感じた事を言ったまでだ。私にはまだまだ至らない所が沢山ある。理想の生徒会長になるには時間がかかるだろう。もしかしたらなれないまま任期を終えてしまうかもしれない。なぁ、拓真くん。こんな今の私はどんな風に君に見えているんだ?」
不意の質問。下柳の優しい声音が俺に尋ねてくる。そんな下柳の問いに答えられないのは、今の俺が疲れているからなのか、それとも分からないからなのか。
いや、俺は分かってる。下柳がどんな人間なのか。頑張り屋で一生懸命で、自分の理想を追いながらも他者の意見も受け入れられる。そんな生徒会長だ。
思っている事を言葉に出来ず。下柳はそのまま再び口を開いた。
「私はな生徒会長に向いていないんだ。この言葉遣いも無理に使っている。そう、今の質問を投げかけた所で拓真くんの見えている私は生徒会長の私だ。そして私の見えている拓真くんも天才の拓真くんだけなんだ。きっと誰も他人の本心なんて知りやしない。それでも私達は他人を騙し、自分を騙し懸命に本当の自分を探し続けているのだ」
本当の自分……。
「だがな、人はそんなに簡単な生き物ではないらしい。本当の自分なんて在りはしないのだ。だがここには確かに本当の自分が存在する。本当の自分と偽者の自分。それを決めるのはいったい誰なのだろうな。他者が求めた私になれば私が嫌われる事は無いだろう。その代わりに自我を失ってしまうかもしれない。でも、私が決めた私になれば、気に食わない者が現れ私は孤立してしまうかもしれない。その代わりに見たことも無い景色を見れるかもしれない。いったいどちらが正しいのであろうな」
下柳の言葉は矛盾の塊みたいなものだった。どちらも正しいし、どちらも間違っている。自分の中で何を得たいかでその答えが変わってしまう。
「俺には何が正しいかなんてわからないよ……」
間抜けなな声音だ。発せられた台詞すらどうしようもないもので、素直に感じた事は早くこの場から立ち去りたいだった。
だが、身体が思うようにいうことを聞いてくれない。自分が弱っていたという事は理解していたが、下柳と話をしてまさかここまで精神的にも肉体的にも限界を迎えるとは思わなかった。
俺の弱々しく情けない返答に、下柳は上手に作り上げる事のできない中途半端な微笑で再び言葉を紡ぐ。
「私は信じたいのだよ。自分が理想の生徒会長になれることを。その始まりは偽者だったのかもしれない。私はこんな人間じゃない、私は生徒会長なんかにはなれない。でも、私は皆の生徒会長になりたい。そんな願いから始まった自分というものは、きっと偽者なのだ。だが私は信じる。いずれその偽者が本物の自分になる日が来るのだと」
俺が弱いことは知っていた。こんな半端な天才よりも前を真っ直ぐと見つめて自分の理想を追い続ける凡人のほうがよっぽど強いのだと俺は知っていた。
その強さは鋼の如く、打たれても打たれても壊れる事のない信念の中に生まれる。なら、何度も諦めてきた俺はいったいなんなんだ。
初めは純粋な正義からだった。だがその正義で他者を傷つけることを知って諦めた。そして俺の中身は空っぽになってしまった。
でも、そんな俺に光が差し込んだ。その光は輝かしいとはとても言えなくて、なのに俺はその光に惹かれて子供のように手を伸ばしたんだ。
希望は絶望を生む。確かにあった温かな光は愚者である俺のせいで消えてなくなり、俺は再び空っぽの暗闇へと落とされた。
そこには確かに大切なものがあるのに、光のおかげで取り戻した大切がそこにはあるのに、光が無くなれば何も見えなくなってしまう。闇雲に自身の腕を振り回してみても何かに触れる事は無い。
終わったんだ。何もかもが終わったんだ。
なのに……。どうしてこの銀髪少女は俺のなりたいと望んだ真っ直ぐな瞳をしているのだろう。それは何も失ったことが無いからだと思い込めば納得がいく。
でも、この少女は自分のなりたいものの為に過去の自分を捨てようとしている。否定的ではなく肯定的な意味合いで真っ直ぐと過去の自分と決別しようとしている。
輝く銀髪も震える腕も潤む瞳も、どうしてアンタは俺よりも綺麗なんだよ……。
偽者が本物になるってなんだよっ!! 偽者は偽者なんだよっ!! 本物なんて俺にはわかんねぇよっ!! 天才なのか凡人なのか、俺が求めてる俺がなんなのかなんてわかんねぇよっ!!
逆流する感情。思考と思想が不確かになりハッキリと分かるのは、子供のように分からないと否定し続ける俺の人間性だけだった。
「だから私は生徒会長になりたい。こんな私が聞くのはおこがましい事なのかもしれないが、一つだけ拓真くんに聞いてもいいか?」
自身の思考の中に流れ込んでくる生々しい下柳の声。脳内で再生されている俺の声と耳から入ってくる下柳の声が混ざり合って何が現実なのか分からなくなりそうだった。
そして中途半端な微笑ではなく、本物の微笑みで下柳は俺を見つめる。ゆっくりと口が開き、俺はその言葉を聞いた。
「君がなりたい君は、いったいなんなのだ?」
真っ直ぐな下柳の瞳は、停止していない時間を無限の世界のように感じさせる。誰もが当たり前に感じている刹那が俺には常しえのように感じていた。
俺がなりたい俺。それがもしも叶うのならヒーローになりたいよ。ずっと昔から憧れ続けた正義のヒーローになりたよ。でも、それじゃ大切な人を助ける事が出来ないんだ。今更なりたいものなんて俺には……。
『小枝樹くん』
なんでだよ……。どうして一之瀬がでてくるんだよ……。どんなに足掻いたって助けられないんだ。もう、俺は一之瀬を助けられないんだよ。俺がこれ以上一之瀬に関われば苦しむのは一之瀬なんだ。
これでいい。これでいいんだ。下柳が何を言おうとも俺はもうこのままが最善なんだと理解している。このまま全てが終われば必要最低限の苦しみだけで済む。皆が笑っていられるのにはこれが一番いいんだ。
「大丈夫かい拓真くん。今の君は何かに抗おうとしているようだよ」
「何言ってんだよ。俺が抗う? 何を抗うって言うんだよ」
「それは私には分からない。でも、君の中の君にならわかるんじゃないのかい? 君がなりたい君は君の願いを知っているよ」
願いなんて初めからわかってる。俺は一之瀬とずっと一緒にいたい。一緒に卒業だってしたいし、いつまでも馬鹿な事で笑い合いたい。それが叶わないと分かっているから苦しいんだ。
俺は一之瀬を助ける為に全てをやった。もうこれ以上、俺に出来る事なんて何もないんだよ……。
身体から力が抜けてしまった。無様に膝から崩れ落ちる俺を下柳は見下しているのだろう。もう力が入らない。これはきっと復讐かなにかだ。下柳は嫌がらせをした俺に復讐しているだけなんだ。
いい言葉を並べているようで、実は俺を苦しめるような言動をしている。そうだよ。俺は下柳を苦しめたんだ。これが俺の罰だ。これで俺は……。
「拓真くんも言えば良いだけなのだよ」
「…………?」
顔を挙げ下柳を見つめる。何が言いたいのか今の俺には分からない。
「君が道久くんに言ったのではないのか? 隣に居るのだから言えば良いのだと。言った本人が出来ないのであれば、それほどの道化はないだろうな」
隣に居る……? 確かに俺は綾瀬に言った。でも今の俺の隣には一之瀬はいない。
「ふざけんな。俺の隣にはいないんだよ。綾瀬の隣に下柳が居るような状況じゃねぇんだ……」
「ならば走ればいい。君が隣に居ればいいだけのことだ。その人が君から離れていってしまうのならば君が走ってその人の隣に居ればいいのだ。君はその努力をしたか? 君は離れゆくその人のもとまで全力で走ったか?」
下柳の言葉を聞いて思い出す。霧が濃くて雨が降っている寒々とした灰色の空間を……。
俺はあの時、一之瀬の腕を掴んだ。でも何も出来なくて、一之瀬を救えなくて……。最後には走って消えていってしまう一之瀬の背中を見ることも出来ずに諦めて項垂れた。
その時、俺は自問自答をしたんだ。まだ走って追いかければ間に合うと。でも俺はそんな自分の意思を否定して何もしなかった。
でもその場で追いかけてどうする。何も出来ないまま意味の無い時間だけが流れていくだけだ。それにあの日見た一之瀬は、初めて出会ったB棟三階右端の教師の時の一之瀬とは違っていたんだ。
きっと時間が変えてしまったのだろう。少ししか時間が経っていないといっても日々人は成長していくし、移ろいでしまう。
B棟三階右端の教室の景色は何も……。
思考が停止した。俺はまだ一之瀬に自分のできる全てをしてない。一之瀬の気持ちばかり考えて、一之瀬 秋に会ったりしていただけで、俺は俺のできる最善をしていない。
身体に力が入るのが分かる。もう一度立ち上がり、また一之瀬に気持ちを伝えたいって思えてくる。
俺は下柳を見上げた。すると下柳は視線を返しながら
「やっといつもの君らしくなったね。拓真くん」
「俺は、まだ、なれるのか……?」
「なににだい?」
「俺はまだ、なりたい俺になれるのか……?」
無様な質問だ。無様なのは質問だけではなく現状も全て無様だ。情けなくて今の自分を客観的に見たいとは思えない。
廊下の床に膝をつけ、同学年の凡人女子生徒に希望を与えられる。綺麗な銀髪が昼下がりの太陽の光を反射させてクラクラしてしまうほど眩しい。偶然なのか必然なのか、今までの俺等のやり取りの間、他の生徒が来ることは無かった。
そして訪れる。再起のとき。
「あぁ、君は君のなりたい君になれるよ。この生徒会長が保障しよう」
笑みは希望の塊で俺の道を指しているように思えた。
まだ、俺は一之瀬に見せてない。だから、もう一度だけ……。