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天才少女と凡人な俺。  作者: さかな
第八部 二学期 何モナイ景色
114/134

39 前編 (拓真)

 

 

 

 

 

 B棟三階右端の教室にはきっと大切なものがある。


 逃げ出した俺を優しく受け入れてくれて、心を閉ざし続けた俺に光を見せてくれて、独りぼっちだった俺に大好きな人と出会わせてくれた。


 この教室から見る景色が俺は好きだ。この教室でくだらない話を友達とするのが俺は好きだ。この教室の窓際で俺等を見ながら微笑んでいるお前の事が好きなんだ。


 朝の時も昼休みの時も放課後の時も、俺の見ている景色にはもうお前がいなきゃ意味なんてないんだよ……。だから、一之瀬……!!



「はぁ……、はぁ……、はぁ……」


 走っていた。無我夢中で走っていた。いや、歩いていた。俺は歩いていたんだ。でもゆっくりとその場所に近づくと、俺の足は地面を強く蹴るようになり最終的には走ってしまっていた。


 鼓動の高鳴りは走っていたからではなく緊張からくるもの。自分の気持ちを抑え、それでも理解を深めていきながら俺は走る。


 湿気が多い冬の夜。辺りには靄がかかり一寸先も見えないと言えば大袈裟になってしまうが、それくら濃い霧が俺の視界を奪っていた。


 見えない恐怖を知っている。触れられない恐怖も知っている。そして一番怖いのは分からないこと。だけど今の俺は分かっている。


 自分が何をすればいいのかを。


 怖いという感情は常にある。今だって本当は怖い。この霧の向うで待っている人物に俺はいったい何を言えばいいんだ。数年ぶりに会う家族のように楽しい話だけできれば救いようもあった。


 だが、今の俺が向かっている場所は、これから会う人物は楽しい話なんてさせてくれないだろう。いや、きっと俺が楽しい話なんてしないんだと思う。


 深く暗い海の中を泳ぐように、俺は霧を掻き分けながら目的の場所まで走る。


 走る。走る。走る。走る。走る。走る。


 やがてゆっくりと歩幅を狭め駆けるのを止め歩く。その歩みは数歩だけで俺の足は止まった。


「はぁ……、はぁ……、はぁ……。こんな所にいたのかよ、一之瀬 秋」


 霧がかかっていてハッキリとは見えない。だが確実に今の俺の目の前には一之瀬 秋がいる。


 この男と会うまでに凄く時間がかかったような気がした。現実では数ヶ月しか経っていない。


 一之瀬と出会って一之瀬 秋の存在を知り、一之瀬の家に行って一之瀬 秋の外見を知った。そして数刻前にこの男に会って話をしなきゃいけないと思った。


 目の前の光景を受け入れて俺は自分の感情を抑えながら話を始める。


「初めて会うのに不躾かもしれないけど、はっきりと聞かせてもらう。どうして一之瀬を独りぼっちにしたんだ……?」


 俺の視線は真っ直ぐだと思う。霧のせいでハッキリと見えてないが確実に俺は一之瀬 秋を見ている。


「何も答えないならそれでもいい。だけどな、アイツは……。一之瀬はアンタのせいで今でも苦しんでんだぞっ!!」


 拳を強く握っていた。今にも掌から血が流れてくるのではないかと心配になるほど、強く握り締めていた。


 悔しくて歯痒くて、この男が何のも知らないなんて許せなくて……。怒りの感情のままに俺は全てをぶちまける。


「俺はさ、アンタと同じで天才だよ。何でもできるし誰だって救えると思ってた。でも蓋を開けてみれば不甲斐ないただの凡人で、誰も救えなくて誰にも与えられなくて……。でもアンタは違うんだろ? アンタは誰かを幸せに出来るんだろ? だったら一之瀬の事も幸せにしてくれよ……。アイツの本当の笑顔を取り戻してくれよ……」


 俺の言葉は宙を舞い独り言のようになっている。だが不意に聞こえた『なら君が幸せにすればいい』という言葉。その言葉は俺の怒りに拍車をかけるには簡単すぎるものだった。


「俺には出来ないんだよ……!! 俺には一之瀬を救うことも、笑顔にする事もできない……。だから俺はアンタに頼みに来たんだっ!! アンタじゃなきゃ駄目なんだっ!! アンタ以外の唯一なんて一之瀬にはないんだよっ!! どんなに俺が笑って見せたって、どんなに俺が大切だと思ったって、どんなに俺が好きになったって……。アイツはアンタの前じゃなきゃ笑ってくれないんだよっ!!」


 涙が流れてきた。冬の寒さとは正反対に温かい雫が頬を濡らす。だが、その温かさは風に吹かれ俺の頬を凍らせる。ゆっくりと流れる雫とは裏腹に強く噛み締めている口からは今にも血が流れてきそうだった。


 俯いていたせいか、地面に落ちる涙が見えた。その雫が地面に落ちるのを皮切りに俺は再び言葉を紡ぐ。


「一之瀬はさ……。すげー優しいんだよ。何にも興味がないみたいな態度とるくせに、いつも皆のこと見てて。大人ぶった自分を演じながら本当はもっと大声出して楽しみたいって思ってる……。他にもたまに子供みたいな事したり、すぐにムクれたり、可愛いところもあんだよ……」


 微笑む事が出来たのは奇跡に等しい。辛くて苦しくて堪らないのに、一之瀬の笑顔を思い出すだけで微笑が生まれる。そんなか弱い女の子を守れない現状を自分を垣間見て笑みは消え絶望へと摩り替わる。


 その時、声が聞こえたような気がしたんだ。


『君なら夏蓮を守れるよ』


 声が聞こえ俺は咄嗟に一之瀬 秋がいる方へと視線を移す。一瞬だけ瞳を大きく見開き、霧がかかりハッキリと見えない世界を自身の視界に乗せる。


 その行動をしても一之瀬 秋の表情は俺には見えなくて、ただ口元だけが笑っているような気がした。


「俺には守れないんだよ……」


『大丈夫。君になら夏蓮を守れる』


「適当なこと言うんじゃねぇっ!! 俺は一之瀬を守れなかった。一之瀬の苦しみを理解できなかったっ!! 無知は罪だ……。何も分からないからって、俺は一之瀬に告白して傷つけたんだ……」


『だけど、傷ついたのは夏蓮だけじゃない』


 怒鳴り叫ぶ俺に優しい言葉をかけてくる一之瀬 秋。年上だというだけではない。本当に何もかもを見透かしている天才だと感じた。


「一之瀬だけじゃないって言うんだったら、他に誰が傷ついたって言うんだよ」


『それは、君だよ』


「俺が、傷ついてる……?」


『そうだよ。だって好きな人に告白を断られて傷つかない人なんていないだろ? それでも君は夏蓮を想い、そして助けたいと救いたいとその重くなってしまった足を動かせる。紛れもない天才だ』


 一之瀬 秋を真っ直ぐと見ていた。呆然という言葉が一番あっているのか、一之瀬 秋の言葉を聞いて身体から力が抜けていくのが分かる。


 無表情ではない。だが、どんな感情が込められているのかを聞かれれば困ってしまうのが現状だ。だけど、一つ分かる事はこの男には勝てないという事だ。


 幼少期からずっと憧れ続けたヒーロー。誰にも負けなくて全ての悪を打ち滅ぼす事が出来ると信じていた。


 だけど、人の心というものはそんなに単純なものではなくて、気がついた時には俺が悪になっていた。


 そして何年も時間が過ぎて沢山の出来事が俺に押し寄せてきた。自分で考えて行動して、どうしていいのかを友人に相談して……。何度も何度もくだらなくとも重要な事柄を解決してきた。


 そこには、新しく出来た友達が居て、昔から一緒にいる幼馴染が居て、新しく出来た親友は居て、戻ってきてくれた幼馴染が居て……。


 結局俺は一人じゃ何も解決できなかったんだ。誰かが居てくれて、こんな俺を支えてくれるから解決できた。


 俺は天才なんかじゃない。でも俺は凡人でもない。俺は……。


 天凡の小枝樹 拓真だ。


 だからこそ、俺には何も出来ない。一之瀬 秋の言葉の意味を完全に理解する事が出来ない……!!


 気がつくと強く噛み締めていた唇も、落とし続けた涙も消え去って、残った感傷が自然と言葉を紡がせた。


「俺が……。俺が傷つくなんてどうでもいいんだ……。自分が傷ついてしょうがない事象を俺は起こしてきた……。何度も救われて、その度に俺は傷つかなくてもいいのかもしれないって思ってきたよ……。でも、最後の結果がこれだ。どう足掻いたって、何を選択したって、俺の傷つく未来は変わらないっ……!! それが、俺の選んだ未来なんだっ!!」


 何度かの質問。何を選ぶのか。俺は確かに選んだんだ。誰も傷つかない未来を。だけど紳士執事は答えた。『誰も傷つかない未来なんてない』と……。


 だけど俺はそんな未来が見たかった。誰も傷つかず、皆が笑っていられる。そんな子供じみた夢の形を作りたかった。


 そして俺は後藤の質問を受けて気がついたんだ。確かに誰も傷つかない未来なんてない。もしもそんな未来があったとするのならば、それは奇跡に等しい神の御業。


 だから俺は、俺が傷つく未来を選んだんだ。それが正しい。俺が傷つけば皆の笑顔を守れる。そう思っていたのに。


 皆がそんな俺を止めてくれた。俺が傷つけば皆も傷つくと言ってくれた。だから俺の考えが間違っていたと今の今まで思っていた。


 でも、ここで俺が傷つかなきゃ一之瀬は絶対に救われない。一之瀬が笑っていない未来なんて考えたくない。一之瀬が悲しみ続けている未来なんて俺は考えたくない。


 一度通った道は後戻りできない。あの時選んだ俺が傷つく未来はまだ続いている。その道の上で俺は真意を問う。


「なぁ一之瀬 秋……。アンタはどうして最期にあんな言葉を一之瀬に言ったんだ……?」


 風の音だけが俺の耳を刺激し、一之瀬 秋は無言を返した。


「天才のアンタなら一之瀬の未来くらい分かってたんじゃないのか……?」


 無言の重圧ではない。本当にそこには何もないかのようなまっさらな無言。誰と話をしているのかさえ分からなくなってしまうほどの無言は耳を痛める。


 気がついていないわけじゃない。初めから全て分かっている。だけど、どんな今の自分が狂った人だと思われても俺にはもう、一之瀬 秋に頼るしかないんだ。


 初めは怒りだった。怒りをぶちまけて、どうして一之瀬を傷つけたのか、どうして一之瀬を独りにしたのか、どうしてアンタは死んだのかを問い詰めるつもりだった。


 だがやはり一之瀬 秋の方が俺よりも何枚も上手で、結局俺は流されるままに自身の気持ちを吐露してしまっている。本当に無様で滑稽な天凡だ。


 返答がないまま、俺は再び口を開く。


「アンタの一言で一之瀬が何を思って、何を考えて、何をするのかをアンタは分かってたんだよな……?」


 どんなに悔しい思いを声音に変え、言葉に乗せても一之瀬 秋は無言を貫き通した。


「その全てを分かりながらも、アンタは一之瀬を守ったって言うのかよ……。俺には出来ない事を簡単にやっちまったって言うのかよ……」


 俺の声は震えている。このままいけば再び涙を流すことだってあるだろう。唇を強く噛み締める事だってするだろう。それで血が流れ、体中の水分がなくなったとしても今の一之瀬 秋は無言を突き通すのだと分かっている。


 一方通行のキャッチボール。相手が居るのにボールが返ってこない。まだ目の前に壁があればボールは返ってくるのに、その壁は霧に包まれ姿を見せてはくれない。


 俺は言葉を並べながら膝から崩れ落ちる。湿気にまみれた地面はとても冷たくて、布越しに水が染みてくるのがわかった。


 膝を折り項垂れ、力なく腕を垂れ下げる無様な姿。客観的に見えなくても今の俺が無力だという事だけはわかる。


 そして俺は哀願するように言葉を紡いだ。


「頼むよ、一之瀬 秋……。もう一度、一之瀬の前で笑ってくれ……。お願いだから、一之瀬に会ってくれ……。それと教えてくれ。俺はどうすればいいんだ……。なぁ、一之瀬 秋……。答えてくれよ……」


 小さな声音は俺の耳にだけしか届いていないように、無言が答えてくれる。その現状が居た堪れなくて、なのに身体が動かなくて、叫び声を上げるしか俺には出来なかった。


「答えてくれよ、一之瀬 秋っ!!!!」


 俺の叫びが起こした現象なのか、はたまた少し強く風が吹いただけなのか。目の前だけの霧が晴れ一之瀬 秋の姿が俺の眼前に現れる。


 死人に口なし。分かっていた。今までの一之瀬 秋の声が幻聴なのだと、俺は分かっていた。


 それでも真実が聞きたくて、いや俺は俺の欲しい言葉を一之瀬 秋に言わせていただけだ。何も答えられなくて当然で、何も答えが返ってこないのが当たり前なんだ。


 目の前に広がる景色は鉛色ばかりで、綺麗に造形された石の塊は物言わぬソレに成り果てていた。ただ深く彫られている『一之瀬』という文字が現実の世界へと俺を引き返させる。


 叫び声は木霊さず、霧散している真っ白な靄に喰われていくようだった。初めから俺の叫び声はなかったもののように、全てを抹消された気分だった。


 今は居ない大好きな人の最愛の人。俺にはこの人の代わりなんて出来ない……。


 その時だった。


 カランッ


 甲高い音が聞こえた。それは細い鉄が地面に落ちた時のような耳を痛める甲高い音ではない。木製の何かが落ちる音。ししおどしの奏でる音色に近いが、もう少し高い。


 俺はその音が響いた方へと視線を動かす。


 まるで喪服のような真っ黒なドレスに身を纏った少女。長く黒い髪は真っ直ぐに落とされていて人形のようだと感じた。美しく儚い表情を浮かべる少女を見て、俺の思考が停止した。そして震えた間抜けな声で小さく呟いた。


「い、一之瀬……」


 俺の呟いた声が聞こえたのか、儚い表情を浮かべていた一之瀬の瞳は細まり怒りを抑えた睨みが俺の瞳を射抜いた。


 蛇に睨まれた蛙とはまさにこの事を言うのであろう。金縛りにあったように俺の身体は硬直し、声を発する事すら出来なくなってしまった。


 そんな俺を見ながら一之瀬は重たく低い声音で淡々と言葉を並べた。


「どうして貴方がここにいるの、小枝樹くん」


 一之瀬 夏蓮の声はとてもよく通る声だ。心を蹂躙するように一之瀬の声が発した言葉は言霊と化し、俺の身体を支配する。


 何も出来ない俺は一之瀬に何を言い返せばいいんだ。


 脳内で繰り返されるいつもと変わらない単純な自問自答。考えても考えても答えなんて出ないのに、今の俺はそれすらも出来ない。


 やがて苦痛な静寂は互いの気持ちを諭すように寒さだけを置いていく。そしてゆっくりと、俺等の心を代弁するように天が涙を流し始めた。


「お願い、答えて小枝樹くん。どうして貴方が兄さんの所にいるの……?」


「…………」


 無言を返すことしか出来ない。一之瀬の目を真っ直ぐ見ることすら今の俺には出来ない……。


「そう。貴方も兄さんと同じように、何も答えてくれないのね」


 一之瀬の言葉が矢のように胸に突き刺さった。その痛みは何度か感じた事のある痛みで、俺はその痛みを与える存在を救うことが出来なかった。


 視線を一之瀬へと移した俺の目に映ったのは、紙くずを作るように悲しみを自身の手でクシャクシャにして、その悲しみをまっさらで綺麗な微笑で包み込み華やかな色をつけた張りぼての笑顔だ。


 どうしてだろうと疑問が過ぎる。この場所には霧がかかっていて数メートル先すら見えないのに、一之瀬の姿も儚げな笑顔も今の俺には見えている。


 だけど、とても近い距離に居るとは思えない。夢や幻だと信じてしまいたくなる思考すら頭をよぎる。だが、目の前にいる一之瀬はきっと本物で、今まで幻想の中で話をしていた一之瀬 秋とは違う。


 紛れもない本物の一之瀬 夏蓮だ。


 張りぼての笑顔を俺に見せた一之瀬はその笑顔のまま踵を返す。ゆっくりと反転される一之瀬の細い体。それを見てもう触れられないのだと思い俺は一歩踏み出し一之瀬の腕を掴んだ。あの修学旅行の夜と同様に……。


「待ってくれ、一之瀬……」


 俺の声を聞き、腕を掴まれた一之瀬は振り向かないまま歩みを止める。真っ黒なドレスが夜の帳と同化してしまわないように、俺は一之瀬だけを見つめた。


 だが、一之瀬は無言を俺に返し動こうともしなければ話そうともしない。絶えられず俺は再び口を開いた。


「どうしてここにいたのかはちゃんと説明する。でも今は説明できない……。だけど聞いて欲しい。俺は純粋に一之瀬が大切なんだ……。もう、一之瀬に悲しんで欲しくないだけなんだ。好きだから……。俺は一之瀬が好きだから……!!」


 止め処なく溢れ出てくる気持ちは真実で、隠す事も偽る事も今の俺にはもう出来ない。一度目の告白を謝罪したのに、再び同じ過ちを繰り返してしまう俺は本当に天才なのであろうか。


 天才というレッテルが俺の何かを邪魔しているわけではない。だけど、どこかで一之瀬が天才じゃなかったという事が不安を煽り立てているようだった。


 空を駆ける俺の言葉は一之瀬に届いているだろうか。静寂がその真意を確かめされる事を拒み、冷たい空気の中、再び無言になってしまう俺と一之瀬。


 掴んでいる腕には確かに温もりがあるのだろう。だが、その温もりを感じる事が今の俺にはできない。まるで本当に一之瀬が人形になってしまったみたいに何も感じない。


 後姿の一之瀬 夏蓮。真っ黒で長い綺麗な髪は漆黒のベールに包まれ、それと同調したドレスが錯覚を起こし今にも一之瀬が消えそうになる。


 いなくなってほしくない。ずっとこのまま繋がっていない。


 くだらない俺の願望は誰の気持ちも関わらない己の欲であって、目の前にいる一之瀬を救いたいと願っている俺が偽者のように思える。


 いたたまれなくなった俺は再び言葉を紡いだ。


「……ごめんな。一之瀬」


 一瞬だけ一之瀬の腕が震えたような気がした。


「俺が一之瀬を苦しめてるんだよな……。勝手に一之瀬の中に土足で踏み込んで荒らすだけ荒らして、それがバレれば説明できないだもんな……。きっと俺は天才じゃない。だからヒーローにもなれない。ただ一之瀬に笑っていて欲しいだけなのにっ……」


 天の涙は互いの身体を濡らす。シトシトと流れ続けるソレは今の俺の心を映し出しているようだった。温かい筈のソレが今の俺にはとても冷たく感じた。


「貴方は優しすぎるのよ……」


 不意に聞こえる一之瀬の声。その声音は感情の込められていないような淡々としたもの。だけど俺は一之瀬の声が聞けて嬉しくなってしまったのか、はたまた驚いてしまっているだけなのか、俯いていた顔を上げ真っ黒なで綺麗な髪越しに一之瀬の顔を見つめた。


「どうして小枝樹くんはそんなに優しいの……? どうして小枝樹くんはこんな私を好きになったの……? なのにどうして……」


 一之瀬の疑問に俺は答えられない。頭が働いていないといえばそれで終わってしまうが、それだけじゃない。一之瀬の事を好きになった経緯なんて俺にだって分からないんだ。


 気がついた時には好きになってて、この気持ちを抑える事が出来なかった。それに俺は優しくなんてない。自分勝手でわがままな最低な男だ。そう思っているから何をどう答えていいのかわからない。


 だが、俺の思考は無駄だったみたいだ。一瞬の間を置いた一之瀬は振り向き感情的に言葉を紡ぐ。


「なのにどうして私を苦しめるのっ!!」


 振り向いた一之瀬の瞳には大粒の雫が溜め込まれていて、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。


 勢いよく振り向いたから綺麗な黒髪が宙を靡く。だが雨に濡れているせいで重くなって、初めてB棟三階右端の教室で一之瀬に会った時とは全く違う情景だった。


「貴方が優しいから、貴方が私を好きになったから、貴方がどんな時でも私の手を掴んでくるから私は苦しいのっ!! 全てを終わらせる為に私はここに来たのに……。私の中にある人間性を全てなくす為に私は兄さんにさよならを言いに来たのっ!! なのに……、どうして小枝樹くんは私の決意を台無しにするの……?」


 さよならの決意。一之瀬は決断したんだ。自分で考えて自分だけで悩んで、自分だけの答えを決断したんだ。


 大好きな兄に別れを告げるという決意は相当なものだろう。本当なら無くしたくない、本当なら失った事実を認めたくない。それでも一之瀬は全てを受け入れ英断を下そうとしていたんだ。


 なのに俺はどうだ。一之瀬の真実を聞いて怒りが込み上げてきて勢いだけで一之瀬 秋の所まで来てしまった。それだけじゃない。沢山文句を言ってやろうと思っていたのに、結局は一之瀬 秋に縋り俺の答えを聞こうとする始末。


 初めから何もかもが違っていたんだ。財閥の娘と孤児。失い続けている者と再び得た者。前に進む女と立ち止まる男。全てを捨てられなかった男子高校生と全てを捨てる決意をした女子高生。そして


 天才と凡人。


 もう俺には一之瀬を止める事なんて出来やしない。自身の体から力が抜けていく。さらりと一之瀬の腕から俺の手がずり落ちた。


 雨が強くなる。砂利と石畳が混同する不可思議な世界は沢山の雨音を奏でている。高い音、低い音、早い音、遅い音。幾重にも重なり不協和音ではない心地の良い鎮魂歌のように聞こえた。


 それは一之瀬が認めた一之瀬 秋の死と、ここで終わってしまう俺等の別れを奏でているようだった。


 身体から力が抜けてしまった俺はただtだ立ち尽くすだけで、そんな俺の姿を一之瀬が見ているのかさえ分からない。でも、真っ黒なドレスに雨音が吸い込まれてしまうのだけが俺の傍に一之瀬が未だにいるのだと教えてくれる。


 だから最後に言わなきゃ……。


「ごめんな一之瀬……。俺には、一之瀬を守れなかった……」


 鏡で自分の顔を見たら虚ろだと言うかもしれない。視点は砂利と石畳を見つめていて動かせない。生気が無くなってしまったように、ただただ足元だけを見つめていた。


 すると少しの間があき俺の視野から真っ黒なドレスが消えてなくなった。それと同時に聞こえる音はぴちゃぴちゃと雨を進む音ではなく、ばちゃばちゃと雨を蹴る音だった。


 もう手を伸ばす事もしない。俺にはそんな資格なんてない。子供の時みたいなヒーローにはなれないんだ。雪菜に手を差し伸べたヒーローは過去の産物で、もうどこにも居やしない。


 あぁ、この雨で全てが流れ去ってくれればいいのに……。


 くだらない思考を浮かべ俺の口元が緩んだ。微笑にしては汚くて、だがこのまま狂ったかのように笑い続けたいと思った。


 でも思ったように声は出ず、俺は天を仰いだ。空から舞い落ちる雫が顔を濡らしては落ち、濡らしては落ち……。今の俺を嘲笑っているように天が矢を降り注がせる。


 雨音で掻き消される自身の鼻を啜る音が驚くほど耳で木霊した。そして天の矢を受けながら俺は無感の涙を流した。


 本当にこれで終わってしまった。本当は一之瀬を助けたかった。


 俺にはまだ何かできるんじゃないのかっ……!?


 いや、何もできやしない。


 一之瀬が求めている事を俺は知ってるっ……!!


 違う、それは俺が求めている事だ。


 まだ走れば一之瀬に追いつくっ……!!


 そんな力はもうどこにもない。


 お前は本当にそれでいいのかよっ!!


 あぁ、もう終わった事だ。


 繰り返される自問自答はまるで二つの人格があるみたいで、本当の俺がどちらなのか自分ではもう分からない。そして俺は汚い顔のまま物言わぬ石の塊に振り向きながら言ったんだ。


「なぁ一之瀬 秋。俺はどこで間違えたんだ……?」

 

 

 

 

 

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