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天才少女と凡人な俺。  作者: さかな
第八部 二学期 何モナイ景色
112/134

38 中編 (拓真)

 

 

 

 

 

 声にならない叫びが一之瀬に伝わる事はなかった。


 何言ってんだよ一之瀬……? 嘘だよな? さよならなんて嘘だよなっ……!? 待ってくれよ……! いかないでくれよ一之瀬っ!!


 虚空を切る事すら許されなかった。震える現実は俺の声で空気を揺らす事が出来ず、誰にも届きはしない静寂な叫びは自身の頭の中で木霊し、心を疲弊させる。


 静止画のようにゆっくり動く現実は、自分の無力さを物語り、後悔をする事すら許されない無限の監獄のように思えてしまった。


 そして影すら消える。


 一之瀬を視覚で認識する事はもう出来なくて、それでも縋るような自分の気持ちが一之瀬を聴覚で認識する。


 誰もいないB棟三階にカツカツと響く足音だけが今の俺の救いに成り果てている。だが、そんな刹那的な救いは永遠ではない。


 消えいく子守唄のように、ゆっくりとだが確実にその音は消えていく。そして全ての感覚で一之瀬を捉えられなくなり、俺はB棟三階右端の教室で無様にも項垂れた。


 足と同じく膝も床についていて、硬直してしまっている足とは裏腹に腕は力なく俺の体からぶら下がっている。視点は廊下と教室の境界線にあって、俺の意思はどこにあるのか見当もつかなかった。


 悲しみに塗りつぶされてしまうのであればまだ救われた。泣き続け後悔をし嘆いた先に何もなくても、この体からは、この小枝樹 拓真という中身からは何らかしらのものが排出され少しは気分が晴れていたのかもしれない。


 もしも怒りに苛まれてしまったのならば、辺りの無機物にこの気持ちをぶつけるだろう。机に椅子、ロッカーに壁。なんだって良い、今の行き場のない気持ちがどこかへ消えていってくれるのなら自分の足であろうが手であろうが傷つける覚悟はある。


 でも、今の俺にはそれすら許されない。


 思考を停止しているわけではない。でも、もう一之瀬の事を考える意味があるのかと自分の中で問い続けている。


 一之瀬は俺との契約を破棄した。そして今、目の前で俺に『さよなら』と言った。それは本当の意味で全てが終わってしまった事の証で、俺がこれ以上何かを考える意味なんてないんじゃないのか。


 一学期の時、俺は一之瀬と契約なんかじゃない約束をした。一緒にこの学校を卒業しようと。


 あの時の俺はただ純粋に一之瀬と卒業をしたいって思っていたんだ。一之瀬財閥とか一之瀬 樹との約束とかそんなもん全部無しにして、一緒に卒業したいって思ったんだ……。


 友人として出来る事、もっともっと一之瀬に沢山の楽しいや嬉しいを感じて欲しくて、その一心で今まで俺は頑張ってこれた。


 確かに途中でもう駄目だと思った時もあった。天才である自分が憎くなった。それでも一之瀬はこの場所で、B棟三階右端のこの教室で待っててくれたんだ……。


 でも今残されているのは俺だけ。冬になり12月の乾いた空気は俺の肌を切りつけ、自分で触れればたちまち傷が開いてしまいそうだ。


 制服越しに伝わる床の冷たさは、ゆっくりと俺の体温で温かくなり、長い時間自分が同じ体勢でいる事を教えてくれる。見つめている廊下と教室の境界線はどんどんぼやけていき、今では何を見ているのかさえ分からない。


 愚かな自分に断罪を下したいと思うが、これ以上何をどうすれば自分を裁けるのか疑問に思ってしまう。


 そう思ったときふと笑みが零れた。


 口元が笑っているのに眉間は八の字になり、乾いた笑みは冬の空気と似ていて驚いてしまうほど滑稽だった。


 その後、俺の体が動いたのは学校生活で当たり前のように聴く鐘の音が響いた時だった。




 昼休みが終り午後の授業。隣にいる一之瀬がとても遠くに感じて、その思いを振り払うように勉強に集中した。


 既に教科書には目を通している。だから分からない部分はない。それでも教師達の単調で大衆向けの講習に耳を傾ける事しかできなかった。


 だけどチクタクチクタ、時計の秒針が教師の声と重なり不協和音へと化す。集中力が途切れそうになり、嫌な思考だけが頭を巡った。


 ノートを取っている自身の手が止まり、教師を見ているようで空間を見ている自分を制御できない。狂っていると言われればそれまでなのかもしれないが、強いショックを与えられた人間なんてこんなものだと言い聞かす。


 そして空間を見ている俺の視野に視線が飛び込んできた。


 教室の一番後ろの窓側の席。今の俺がいるのはそんな場所。だとすれば、その視線を送ってきている存在は後ろを向いていることになる。でも今は授業中で後ろを向くなんて中々できる事ではない。


 俺はその視線に気がつき初めに見たのは教師の現状だった。


 ここにいる生徒に背を向け、黒板にカタカタと文字を書く教師。その姿を見て少しの安堵感に包まれる。俺を見ている生徒が怒られなくて済むからだ。


 そして俺は教師からその生徒へと視線を動かした。


 動いているのは瞳だけ。体が動く事はない。ましてや首すら動いていない。俺は自分の瞳だけを動かしてその生徒を視野に入れる。


 それは雪菜だった。


 普段となんら変わらない雪菜の瞳。だけど俺はそんな雪菜と目が合い咄嗟に視線を逸らしてしまった。


 どうしてそんな行動をしてしまったかなんて今の俺には分からない。なにかやましい事を隠しているわけでもないし、雪菜に告白された事で気まずいと思っていたのは少し前の自分だ。


 なら、俺はどうして雪菜から視線を逸らしてしまったんだ……?


 この瞬間から俺はもう雪菜を見ることが出来ない。間接視野に入れても雪菜は俺が見えていると理解するだろう。だとすれば前方に視線を送ることすら困難になってしまう。


 駄目だ。頭の中がグチャグチャになって何をしていいのか分からない。今の俺は何が正しい選択なのか分からない。


 集中しろ。授業に集中するんだ。


 自分で自分に言い聞かせ、俺は再び逸らした視線を黒板へと向けた。そして間接視野に入ってくる雪菜はもう俺の事を見ておらず、その広がった光景が少なからず今の俺を安心させた。


 それからの時間はいつも通りの普通な時間。


 この教室内で普通とは違う時間だと思っているのか俺と、たぶん一之瀬だけだっただろう。


 あまりにも日常的な風景に違和感を感じ、そしてこの中で普通という存在から逸脱してしまっている自分という存在が不思議に思えた。


 何もなく過ぎる午後の授業。当たり前のように終りを告げる担任教師の話し。放課後の喧騒は俺の心を締め付け、隣に座っている一之瀬の姿はもうなかった。


 B棟三階右端の教室に行こうかな。


 そんな気分にはなれない。今日の今日であの場所に行く勇気が俺にはない。


 少しだけ教室内を見渡す。そこにはいつも俺と一緒に居てくれる阿呆な奴等の姿はなく、既に部活もせず放課後の教室で談笑をしている生徒が数人いる程度だった。


 HRが終わってどれくらいの時間が経ったのだろう。先程まで聞こえていた放課後の喧騒が嘘のように、数人の声とその間を流れる静寂の冷たい空気が俺の耳に流れ込んでくる。


 痛いと感じてしまう静寂の空気で俺は帰ろうと思った。このまま学校にいれば嫌でも今日の事を思い出す。


 そして俺は立ち上がり鞄を持つ。教室にいる連中に「また明日」と言い、少し心配そうな表情をみせるクラスメイトを残し俺は昇降口へと向かう。


 教室を出て廊下を歩く。カツカツカツカツ。生徒の人数が少なくなった校舎では俺の足音がやけに近くで聞こえた。それすらも今の俺にとっては耳障りに過ぎない。


 階段を下りる。踊り場を過ぎる。階段を下りる。


 昇降口までの距離なんてそんなに遠くはない。もっと遠くにあってくれれば俺は昇降口を目指すための思考を巡らせるだろうに。


 忘却は許されなかった。


 結局、何もなく昇降口に辿り着き何事もなく靴を履き、普段と変わらず学校の門を潜り抜けた。


「たーくまっ!」


 聞きなれた幼馴染の声。明るく元気で無邪気なその声は俺に安心感と緊張感を同時に与えた。


 学校の門から出て端のほうに居る幼馴染は外に出なければ分からない位置にいて、少し虚を突かれた気分になってしまう。


 午後の授業で一回目があってから言葉も交わしていない。それどころか目すら合わせていない。


 その事実がある中、幼馴染は笑顔で俺に話しかけてくる。


「もう、遅いぞ拓真」


「悪い雪菜。少し考え事をしてたんだ。お前が待ってるなんて思ってなかったんだよ」


 いつもと同じ。いや、きっと今の俺は普段通り雪菜に接する事が出来ていない。緊張のあまり顔はきっと強張っていて、それでも無理矢理作っている笑顔が似合わなくて。


 声だって震えているのかもしれない。俺はどうやって雪菜と喋っていたんだ……?


 くだらない疑問。それが今の俺の最重要な項目へと追加され、戸惑いで雁字搦めになり身動きが取れない。


「拓真はいつもそうだよね。大切な事を考えるとき絶対に一人で考える。まぁそんな事あたしには関係ないけど」


 少し冷たい言葉を俺に投げかけてくる雪菜。でもその言葉とは裏腹に雪菜の表情はとても優しくて柔らかかった。


「というか、あたしだけを待たせるのは良いんだけど、ちゃんと皆だって待ってたんだからね」


 優しい表情から一変し、頬をプクッと膨らませ安易に怒っていますという表情を作る雪菜。そして俺はそんな雪菜を見ながら雪菜の発した言葉に疑問を抱いた。


 みんなってどういう事なんだ……?


 俺はすぐさま辺りを見渡す。


 誰も居ない。と思いたかった。でもそこにはちゃんといたんだ。


「本当に遅いよ小枝樹。雪菜に誘われなきゃあたし普通に帰ってたんだからね」


 佐々路……。


「遅いのは許してやれよ佐々路。拓真が遅れてこなかったら俺だって間に合ってなかったんだから」


 翔悟……。


「ずるいよ佐々路さん。白林さんに誘われていの一番に了承したのは僕なんだよ」


 神沢……。


「ゆ、雪菜ちゃんが、ど、どうしてもって言うから、わ、私も待ってたんだよ。ほ、本当は司くんとデートだったのに」


 牧下……。


「俺はユキに誘われたから来ただけだ。つまんねー顔してる拓真も見たくないねーしな」


 レイ……。


「私は司様がいるから請け負っただけだ」


 斉藤……。


「ねぇねぇ斉藤さん。やっぱり俺の事を好きになった方が良いと思うんだけどな」


「すまない。私は司様以外愛せない体なんだ」


 崎本……。こんな時まで本当にバカだな……。


 俺の目の前にはいつものメンバーが揃っていて、笑顔を見せている奴もいれば、照れ隠しにそっぽを向いている奴もいる。


 きっと俺は誰も他人を理解する事なんて出来ないものだと思っている。どんなに近くに居たって、どんなに天才だって他人の気持ちなんか分からない。


 それは自分の本当の気持ちすら分からないからで、絶対に誰も本当の欲しいものは手に入らないって思っている。


 だけど今の俺の目の前には皆が居て、それはきっと俺の欲しいものなんかじゃなくて……。なのに俺は今、少しでも嬉しいと感じてしまっていた。


「本当に……。お前等はお節介なんだよ……」


 真っ直ぐと皆を見る事ができない。視線は下方へ動き笑っているような悔しがっているような、そんな曖昧な表情を俺は浮かべた。


 何も言わなくても辛い時にはきっと皆が居てくれて、独りぼっちだと感じてしまっていた愚かな自分が滑稽だ。


 そして俺の目の前にまで歩いてきた奴が俺の肩へと手を置いた。


「お節介だよ。俺たちはな。でもそれが友達ってもんだろ。親友」


 その言葉を聞いて俺は顔を上げた。


 普段から傍にいる大切な親友。レイが笑っていた。


 そんなレイの優しさに触れて、そして雪菜の優しさに皆の優しさ。怖くてしょうがなかった気持ちが完全に腫れる事はない。でも、それでもこの温かな気持ちが俺を救ってくれる。


「まぁなんだ。別に無理にお前の事を話せなんていわねーけどよ。ここにいる奴らはバカユキが集めたもっとバカでお前のつまんねー面を見たくないって思ってる奴だ。だから拓真、あんま無理すんな」


「ごめん……。あと、ありがとな」


 俺の肩に手を置いているレイの肩に俺はもたれ掛かった。胸に顔を埋めてしまいたいと思っていても、気恥ずかしさが先行しレイの肩を借りるくらいの事しか出来ない。


 こんなバカで阿呆な奴等だからこそ、俺は一之瀬にも一緒に居てもらいたい。そこに俺が居なくても、コイツ等の中には一之瀬だって必要なんだ。


 改めて思う当たり前の思考。どんなに『さよなら』と言われようが『戻れない』と言われようが関係ない。俺は知ってる。本当の一之瀬の気持ちを。


 でも今は少しだけ疲れているかもしれない。たまには誰かに甘えるのも悪くはない。


 再び上げた顔で俺は皆の事を見渡し、本当の居場所がここなのだと理解する。そしてその甘えの中に身を落とし束の間の安らぎを感じる。





 12月になり街中はクリスマスムードへと変貌する。駅前に等間隔で並ぶ木々は細かな電飾で正装をし輝き、辺りには赤と白が多くなりただの街が夢の世界のようになっている。


 吐息は白く、少しの時間で手が悴んでくる気温。自然と服装は厚くなり冬を越す為の準備が着々と進んでいく。


 まだクリスマス前だと言うのに、陽が落ちて電気で輝く駅前にはカップルが多いと感じた。学生のカップルも居れば社会人の大人なカップルもいる。


 楽しげで明るい声が響く中、俺は友人達と遊んでいた。


 今日の昼間に絶望を感じたばかりだと言うのに、神様はこんなにも早く俺に安らぎを与えた。もしかしたら少し早いクリスマスプレゼントなのかもしれない。


 ゲーセンに行ってカラオケに行って、ファストフードで飯を食って笑顔が絶えないとても居心地の良い時間。


 他愛もない会話は普段と同じく楽しくて、この時間が永遠に続けばいいと思った。


 一之瀬がいない現実は受け止めている。本当はここに一之瀬も居るはずなのにって思うけど、どうしても疲れた自分を優先してしまい一之瀬の事を忘れようとしている自分がいた。


 こんな考えになってしまった時、いつもの俺なら街中の喧騒に苛立ちを覚えて、周りに居る友人達の優しさが辛かった。


 でも今はいつも以上に楽しんでいると自負している。それがただの逃げだっていう事は分かっているつもりだ。それでも縋りたい。もう、辛いんだ……。


 一之瀬の事を忘れる事なんて不可能だと思っているのに、今の俺は刹那的な安楽に身を投じてしまっている。


 本当に楽しい。何も考えなくて良い状況がこんなにも楽しいなんて思わなかった。このまま逃げてしまいたい。このまま一之瀬の全てを忘れて俺は……。


 その時、俺はふとポケットに手を突っ込んだ。その瞬間に思い出される記憶。


 金属のようなものが俺の手に当たり、それが何なのか分かるまでに然程時間はかからない。


 そう、俺は一之瀬の誕生日の時にプレゼントした願いの叶うブレスレット。


 一之瀬に返されてからずっと制服のポケットにしまいこんでいたんだ……。


 ふと訪れる現実は、俺の心を再び極寒の地へと誘うのには最適で、ポケットに入れている手が不思議と冷たく感じた。


「どうしたの小枝樹?」


 一瞬だ。本当に一瞬だけ俺は表情を変えたと思う。でもその一瞬を見逃さなかった佐々路。でも、どうしたのと聞かれたって俺は何も答えられない。


「ん? なにがだ?」


「いや、別に何か少しだけ小枝樹が辛そうに見えたから」


「何言ってんだよ。お前らのおかげで少しは元気でたんだぞ?」


「そっか」


 雑踏の中を歩く俺は下らない会話を佐々路とする。自分の真意を悟られないよう一生懸命に自分を偽り、嘘をつきながら……。


 結局俺は何も言えないんだ。自分の真実を一之瀬に言えなかったように、俺は皆にも今の真実を言えない。


 誰かに吐露してしまえば楽になると頭では分かっているのに、どうしても最後の一歩が踏み出せない。それはきっと俺の弱さの片鱗で、もっともっと深くを探れば俺の弱さなんて沢山出てくる。


 天才でもヒーローでもない小枝樹 拓真を俺は知らないんだ……。


 歩く冬の駅前は賑やかで、辺りよりも自分達の方がうるさいのかもしれないと思い微笑する。その時だった。


 気にも留めずに歩いていた俺の間接視野に入る個人的な装飾売り。少し大きめな長テーブルに安物の黒い布地を敷き、その上には数々の銀細工が並んでいた。


 俺はその装飾売りを見つけ


「悪い皆、少しだけ外すわ」


 そう言い残し俺は装飾売りのもとへと足を向かせる。


 俺の言葉に反応した数人がなにやら声を掛けてきてはいたが今の俺にその声は届かなかった。


「あの……」


 装飾売りのもとで足を止め、俺は小さな声で話しかける。する装飾売りの女は俺の顔を見て


「いらっしゃい。ってアンタ確か夏の時の」


 その言葉を聞いて驚いたというのが尤もだろう。俺は数ヶ月前の記憶を持っている装飾売りの女に驚いたのだから。


「もしかして覚えているんですか?」


「覚えてるに決まってるでしょ。それでどう? 願いは叶いそう?」


 笑顔で対応する装飾売りの女。だが女の言葉を聞いて俺は少しだけ俯く。けして辛そうな顔をしたつもりはない。でもきっと今の俺の顔は酷いんだろうな。


 ここに皆が居なくて良かったって思う。俺に気を使ってくれたのかもしれないけど、それでもいなくて良かった……。


「なんだい、まだ叶いそうもないのか?」


「いえ、叶うとか叶わないとか、そういうのじゃなくて……。多分初めから願っちゃいけなかったんですよ」


 女の質問に答えながら俺はポケットに手を入れる。


 冬の寒さで冷たくなってしまった銀細工に触れ、それが現実なのだと理解し、全てをなくしてしまおうと思った。


「何が言いたいか分からないけど、アンタはそれでいいの?」


「はい。きっとここでもう一度貴女に会えたのは俺が諦める為なんだって思います。だから、これ」


 そう言い俺はポケットから銀細工を取り出し女に手渡そうとする。


 だが女は俺の手の上にあるそれを眺めながら難しい表情を浮かべ、しまいには嘆息し言葉を紡いだ。


「アンタそれを私に返してどうしたいんだい?」


「いや、だから、その……。俺にはもう必要なくなったし、手元にあると思い出して辛いから……」


「辛いって思えるんならいいじゃないかい」


 予想だにしなかった女の言葉。俺はその言葉を聞いて腹が立った。


 だってそうだろ。何も知らない赤の他人に知ったような事を言われて、苛立ちを覚えないほうがおかしいだろ。


 気がついたとき、俺は叫んでいた。


「辛いって思うことの何がいいんだよっ!! 願っても願っても叶わない、縋っても這い蹲っても叶わない願いを持ち続ける事がいいって言うのかよっ!!」


「願っても縋っても這い蹲っても叶わないね……」


 俺の声は辺りに木霊した。周囲の人達は何かあったのかと俺の事を見てくる。そしてそんな俺とは相反し女の声は小さく、一瞬だけ悲しそうな表情を見せた。だがそんな表情は本当に一瞬ですぐさま俺の事は真っ直ぐと見つめながら言う。


「アンタの願いも、このブレスをもらった子の願いも、縋ったり這い蹲れば叶う程度の願いなのかい? 本当にその程度なのかい?」


 その程度……?


 俺の言葉を言われるなら良い。でも一之瀬の願いを否定する事なんて絶対に許さない。


「アイツの願いは叶わなきゃいけないんだっ!! どんな事をしたってアイツは幸せにならなきゃいけないんだよっ!! 俺は良い……。俺はもう十分に幸せをもらった……。でも、アイツは……」


「本当にアンタもまだまだ餓鬼だね。あのね、それはアンタの願いだよ。でもこのブレスはもらった子の願いを叶えるんだ。それに私は言ったよね。アンタも願わなきゃ叶わないって。その子が幸せにならなきゃいけないのに、アンタはここで諦めてそのブレスを私に返すのかい?」


 一之瀬の幸せ。


 今まで俺が考えてきた一之瀬の幸せは俺の幸せだった……? 俺は自分の幸せを一之瀬の幸せだって勘違いして押し付けていたのか……?


 女の言っている事が間違っているとは思わない。それだけじゃなく、俺は今の女の言葉を肯定しようとしている。


 間違っていたのは俺なのだと……。


「確かにね。そのブレスは願いを叶えてくれるよ。でもね、願いを叶えるっていうのは誰かから願いを奪うって事なんだよ。その子の願いが全ての人の願いじゃない。その子の願いが叶えば誰かの願いが叶わなくなっちまうかもしれない。だから私は思うんだよ。願いは奪うものだってね」


 言い終えは女の表情は優しかった。微笑に包まれたその表情は凍り付いてしまった俺の心には届いてはいない。でも少なからず気がつけたことはあると思っている。


 静寂と喧騒が入り混じる摩訶不思議な世界。道行く人達は笑顔で楽しそうな会話が今にも聞こえてきそうな感じだ。でもその声が俺に届く事はなくて、深い静寂の世界へと誘う。


 だが、先程まで女に差し出していた手は引き下がり、気がついた時には強くブレスレットを握り締めていた。


「そうだよ。それでいいんだ。アンタはまだそのブレスを持ってなきゃ駄目なんだよ。もしもそれで駄目なら次はちゃんと返してもらうからね」


 冗談交じりの女の声音。ふと笑みが零れるが全ての悲観的な感情がなくなってしまったわけではない。ただただ可笑しいと思っていたんだ。


 どうして俺は他人に自分の気持ちを吐露してしまったんだろう。少し気持ちの部分を突かれたくらいで感情的になって、何も知らない相手に対して本気で怒って……。


 これならいっその事、皆に言ってしまったほうが良かったんじゃないのかと思ってしまう。


 でも、これで確信した。俺に忘却は許されない。


 いつもの自分を作り上げ装飾売りの女に別れを告げる。歩き出した街並みは寒空の下で輝いていて光が眩しく感じた。


 そんな俺はどこに居るのか分からない皆の所へ戻る為に雪菜に連絡をする。すると何を思ったのか、今皆が居るのは俺や雪菜の家の近くの公園だそうだ。ここが落ち着くと言い出した奴がいるらしく移動をしたらしい。


 場所が分かれば問題はない。俺は少しだけ足早に皆の場所へと向かった。





 駅前の雑踏から抜け出し住宅街へと入る。時間は夕飯時。辺りの家々からは良い匂いと優しい明かりが俺の鼻と瞳を刺激する。


 寒空の下、少しだけ寂しいという気持ちになるがそれを緩和してくれる優しい友人達が待っている。その事を考えるだけで震えていた身体が治まる。


 冗談交じりに息を吐き、白くなった息を見て俺は微笑む。その吐息の靄の中からゆっくりと寒空に輝く星達が俺の目を見てきて冬の澄んだ空気を実感した。


 皆が待っているから早く行かなきゃ。


 そんな気持ちが脳裏を過ぎるが、もう少しこの12月の空を楽しみたいという気持ちが足早になっていた俺の歩みを緩めさせる。


 冬の空に凛と輝くオリオン座。その傍にある冬の大三角。星に興味がない俺はそのくらいの星座しか知らない。


 だけど空を見るだけで分かるものがあるという喜びは掛け替えの無いものなのだと理解する。この行為をする者も少なく、そしてこれを当たり前と思っている者の方が多い。


 どうしてこの景色が当たり前にあると思ってしまうのだろう。毎日毎日、同じ事を繰り返してしまっているせいで非日常が日常になってしまう。


 疑問は直ぐに解決する。


 だけど、その当たり前をいつ当たり前にしてしまうのだろう。元々当たり前ではなかったものが当たり前になる瞬間というものはいったいいつなのだろう。


 慣れ。


 きっと自分の中で無意識のうちに慣れてしまうんだ。それがあるのが当たり前、これがあるのが普通なんだと。


 でもこの世界に本当に普通だと思えるものは存在するのであろうか。否。きっとそんなものは存在しない。


 だから人は失って後悔する。今の俺のように……。


 つまらない思考を浮かべながら俺は冷たくなってしまった手を自身の吐息で温める。


 刹那的な温もりは優しさと消えてしまう現実を教えてくれて、何度も何度も手に吐息をかけた。


 意味がない事だと理解している。それでも目の前にある小さな希望に手を伸ばしてはいけないのか。もしかしたらそれを逃げだという人も居るかもしれない。でも俺は……。


 その時、俺の耳に聞き覚えのある声が聞こえた。


「だから、どうしてアンタがここにいるのよっ!! もうあたし達には関わらないでっ!!」


 思考を巡らせながらも歩き続けていた俺はいつの間にかいつもの公園の傍まで来ていた。だから聞こえる。佐々路 楓の怒号。


 少し嫌な予感がした。それが正しいのか正しくないのかは分からないが、早く公園へと行かなきゃいけないと思い俺は走り出す。


 佐々路の叫び声が聞こえる程の距離だ。走って分とかからない。そして俺は皆のいる公園へと入っていく。そこには


「おやおや佐々路様。そんなに興奮なさらないでください。この時間に大声を出すのは御近所迷惑になってしまいますよ」


「そんな事分かってるわよっ!! だけど、アンタと関わると碌な事がないの。お願いだから、早くどっかに行って」


 広がった光景は予想が出来た光景で、佐々路と紳士執事が口論をしている。


 口論と言っても佐々路が一歩的に怒鳴っているだけだ。それに他の皆も紳士執事を睨みつけていて、一触即発という言葉が似合ってしまうくらいの光景だった。


 そんな事を考えていると紳士執事が俺に気がつき目が合う。そして微笑を浮かべる紳士執事。


「やっと主役がきてくれました。待っていたのですよ小枝樹様」


「……後藤」


 後藤の言葉を聞いて皆が一斉に俺の方へと視線を動かす。その視線に圧倒される事はない。だけど、諦めの気持ちは浮かべずには居られなかった。


「小枝樹様。私がどうして今ここにいるのかお分かりでありますよね?」


 不意な質問は俺にとって不意ではない。


「あぁ。わかってる。でも、どうして皆が居る場所を選んだんだ」


「それは小枝樹様だけではなく、他の皆様にも聞いてもらいたい話だからですよ」


 俺だけじゃない……?


「おい拓真。いったいお前等は何の話をしてんだよ」


 不信に思ったレイが俺に声をかける。だが俺はそんなレイの質問に答えられない。すると後藤が


「大丈夫ですよ城鐘様。今からその話をしようと思っているのです。そう━━」


 後藤が何を言いたいのかは何となく分かる。このタイミングといい話が出来すぎてるんだ。俺に忘却を許さないのは必然で、どう足掻いたって俺はもうこの呪縛から逃れられない。


 皆の視線が後藤に集まる。そんな後藤はいつもの紳士執事の笑みを見せながら言ったんだ。


「これから話すのは夏蓮様の過去。そして真実で御座います」

 

 

 

 

 

 

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