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天才少女と凡人な俺。  作者: さかな
第八部 二学期 何モナイ景色
111/134

38 前編 (夏蓮)

 

 

 

 

 

 貴方の気持ちは本当に嬉しいものだった。自分が求めてはいけない答えじゃなかったら、きっと私は貴方の隣で今も笑っていられるんだって本当に思う。


 だけど、私はもう誰も愛してはいけないの。私が愛すればその人は絶対に不幸になってしまう。そんな悲しい未来、もう私は見たくないの。


 貴方は自分の幸せよりも他人の幸せを考える人。だから私も貴方の幸せを考えたい。そうしなければ私は、一之瀬財閥の人形にはなれない。


 このまま私をどこか遠くに連れて行って。


 そんな物語のお姫様が恋した騎士に言うような台詞、私には言えない。だからごめんね小枝樹くん。


 私はもう一度、一人ぼっちになるわ。いいえ、私は兄さんが死んでしまったあの日から、部屋の扉を開けてなんかいない。




 平日の学校を退屈だと思えるほど私はお嬢様ではない。それでも流れる時間の平穏さや、当たり前のように繰り返される日常に退屈を覚えないものはいないだろう。


 とても楽しくて、とても過ごしやすい。普通の日常というのもはこういうものなのだろうと私は思う。だけどこれは私の日常なんかじゃない。


 普段通り女子生徒の友人と話もする。いつも通り皆と共有している授業という時間を真剣に過ごしている。


 なのに、これは私の日常なんかではない。


 自分で離れようと、自分で関わらないと決めたのに、どうして私の思考はこんなにも弱気なの。私はずっと一人で生きてきた。私はずっと一之瀬財閥の傀儡だ。これから先もずっと……。


 だから私は決めたの。己の意思で人形になり、その為には大切な人達との関係を切らなくてはいけない。その切っ掛けが小枝樹くんの告白にすぎなかったのよ。


 いずれ私はこの学校からいなくなる。そうすれば、ここで作り上げた幸せなんてものはただの記憶になるだけ。


 そんな安らぎはずっと私の隣にはない。その記憶を思い出すたびに私は涙を流すだろう。だったら自分から壊す。それで良い。


 諦めは時には大切なものだ。大人になるにつれて人は諦めを覚えゆっくりと社会に溶け込んでいく。そして最後には誰にも見えなくなり全ての景色に同化してしまうんだ。


 きっと私もその一部になる。一之瀬財閥という存在はあまりにもこの国に影響を及ぼしている。だから皆が笑って暮らせるのであれば、私はもう誰にも見つけてもらわなくても大丈夫。


 授業の中、私は隣の席の小枝樹くんを間接視野に捉える。視野の端っこにいる貴方のつまらなそうな顔。そんな当たり前のように見ることの出来ていた表情が、今ではとても懐かしく感じてしまう。


 そんな小枝樹くんの表情を見て私は自分の右手首を左手で押さえた。


 そこには少し前までにはあったソレが無くて、自分の願いが叶わないという証明を自身の肌で感じている。


 机の下で誰にも見えないように掴む腕が震えているのを知っているのは、きっと私だけだ。


 沢山の人が回りにはいるのに、どうして私はこんなにも孤独なの……。


 授業が頭に入らない。頭の中を巡るのは小枝樹くんの事と、これから訪れる自分の未来への恐怖。


 そんな恐怖を抱いている時点で可笑しな話だ。私は自身の意志でその未来を歩もうとしているのに……。


 その思考に至り不思議と体の震えが止まった。


 もう、恐怖を感じる事すら感覚的に止めてしまう自分を理解し、ゆっくりと人形になっていく心が分かる。


 それで良い。それで私は救われる。


 鏡で見れば虚ろな表情。そんな自分の顔が見えなくても自身から感情が抜け落ちていくのが分かる。留めなくてはいけないものは無い。すべてを落としきらなくては……。





 長く感じていた午前の授業も終り今は昼休み。


 少し前までなら誰かと昼食を取るのが当たり前になっていたけれど、今の少しでも他人との接点を減らし、その記憶の中から私という存在を消し去らねばいけない。


 そんな私は一人、誰もいない場所へと赴く。


 結局の所、誰もいない場所を選択するとなればB棟という選択肢を拭えないのは楽しかった思い出があるからだろう。


 私は素直にB棟へと足を向かわせる。きっと誰もいない。そんな期待を胸に秘めながら、もしかしたらと下らない思考に苛まれる。


 それでも私の歩みが止まる事はない。


 そしてB棟の階段を最上階まで上がり三階へと着く。上りきった私はすぐさま右の方へと視線を動かしたが、やはり誰もいなかった。


 安堵しているのか、はたまた期待を裏切られたと思っているのか。私は無表情のまま視線を廊下の床へと落とす。


 そのままB棟三階右端の教室の方へと自然に足を向かわせる私。その行動に気が付いた時、私は後悔した。


 結局、まだ心のどこかで求めてしまっている。あの楽しかった日々を忘れられないでいる。


 確かに喧嘩もしたし、嫌味も言い合い、感情を剥き出しにして言葉を交わした時もあった。でも、私にとってそこは……。


「あれ? 一之瀬か?」


 不意に聞こえる男子生徒の声。その声は私の心の芯まで届き、ずっと聞いていたいと思ってしまう声。


「小枝樹くん……?」


 顔は上げた私は彼を瞳で捉える。いつもと変わらないように見えて、いつもとは全く違う彼の表情。そんな彼はB棟三階右端の教室から出てきた。


 彼、小枝樹くんの存在を確認した私は名前を呼びながらもこの場から逃げ出してしまいたいという気持ちに胸を苦しめる。


 だけど、足が動かない。さっきまで嫌だ嫌だと思いながらも、誰もいない場所を求めてこのB棟まで足を動かし続けたのに、今ではそんな軽かった足が鉛を巻かれたかのように重く感じている。


「なんだろう。いつも教室では会ってるけど、その、久しぶりだな」


 一生懸命に作り上げた笑顔で小枝樹くんは私に話しかける。緊張をしているのか、いやただ気まずいだけだろう。


 小枝樹くんの視線は私には送られず、そっぽを向いたままだった。


「えぇそうね。確かに久しぶりなのかもしれないわね」


 微笑んでいるつもりはある。でも今の自分の表情を確認できない状況では自分が上手く笑顔を作れているのかも不安になってしまう。


 こんなこと前まではなかったのに、どうして今の私は自分の表情一つに気を使っているのだろう。


「その、なんだ。ほ、ほら弁当っ! 昼飯食いに来たんだろ? 教室に入って食えよ。それに少しだけ一之瀬と話したい……」


 私の手の中に納まっているお弁当箱を見た小枝樹くんは、どこかぎこちなく提案する。それを受け入れたい気持ちと拒否しなくてはいけないという強迫観念に苛まれた。


 そして思う。小枝樹くんはこんなにオドオドするような人だったのかと。


 何か理由があるのであれば言えばいい。それはこの場で終わる事で教室内へと案内する意味がない。それに小枝樹くんは私と話がしたいと言った。その内容が気になる反面、不安を仰がれている感覚になる。


 ざわつく心は治まらず、大きくなりつつある炎を煽り立てる強烈な風の如く私の体を動かせた。


「分かったわ。ここでお昼にしようと思っていた事は間違いじゃないのだから、少しだけお話でもしましょう」


 そう言い私はB棟三階右端の教室へと入る。その後ろから何も言わずに小枝樹くんも入ってくる。


 少しだけ教室内は埃っぽい。少し来ないだけでこんなにも感覚というものは変わってしまうものなのね。きっと私が来なくなってからこの教室に大きな変化なんて何もない。


 感傷に浸りながらも、私は机の上にお弁当箱を置いて椅子を引き腰を下ろす。私の真正面に小枝樹くんが座り一学期の時の事が頭の中を流れた。


 二人でこの教室で昼食をした時、私のお弁当を美味しいと言いながら夢中で頬張っていた小枝樹くん。


 でも、それも全て夢幻にすぎない。


 どこかでこれが小枝樹くんと一緒にいられる最後なのだと思った。だからきっと小枝樹くんの願いを私は受け入れたんだ。


 頭の中を流れゆく情景は殺伐としていて万華鏡のように沢山の色を持ち合わせてはいない。小枝樹くんとの記憶も、兄さんとの記憶も……。


 モノクロの世界は私を包み、いずれ私もモノクロになる。そうすれば何も怖くない。


 妄想のような思考を止め、私はお弁当を広げる。そして普段と変わらない昼食が始まる。目の前に小枝樹くんがいるのは不思議だけれど、何か特別なものではないと感じている。


 箸を持ち口に食物を運び始めて少し時間が立つ。無言で私の食事を見ている小枝樹くんはどこかおかしい。


 私に話しがあるからと言っていたのに、何も放そうとしない。このままのペースで私は昼食を続ければ昼休みは終わってしまう。


 そう思ったときだった。


「あのさ一之瀬……」


 小枝樹くんの声が聞こえた私は、持っていた箸をお弁当箱の上に置いた。


「なにかしら?」


 顔を上げ問いかけながら小枝樹くんを見る。すると小枝樹くんの表情はいつにもまして真剣なもので、少しだけ身を構えてしまう自分がいた。


「多分、この先ちゃんと話せる機会なんてないかもしれないから単刀直入に言う。修学旅行での告白、本当にすまなかった……!!」


 小枝樹くんの言葉を聞いて驚いたという表現をするのが適切だろう。額を机に擦りつけながら謝る小枝樹くんの姿は私が想像していたものとは全く違っていた。


 私はてっきり問い詰められるものだと思っていた。


 どうしてこの教室に来なくなった。どうして俺だけじゃなく皆とも距離を置いているんだ。


 小枝樹くんが言ってきそうな事なんて何個も思いつく。だけど、目の前の小枝樹くんは私の知らない小枝樹くんだ。そんな小枝樹くんに私は言葉を返す。


「どうして謝るの?」


 間抜けなものだ。天才少女と呼ばれ続けてきたこの私が、本当につまらない返答をする。分からないという事が怖いことは知っているが、分からないだけではなく動揺し凡人以下の返答をする。


 情けない。本当に情けない……。


「どうして謝るって……。一之瀬が言ったから……」


「私が言った……?」


「告白をする事で関係が変わってしまう。それを言われて気がついて、本当に後の祭りで……。だけど、俺と一之瀬の関係が元通りにならなくてもいい。それは俺が仕出かしてしまった過ちに対しての罰だ。でも皆とはこれからも仲良くしてもらいたい……」


 私が言った事とはそう言うことだったのね。


 私は小枝樹くんに告白されて、その後も色々と言われて……。だから私は言ったのよ。元には戻らないと。


 そして小枝樹くんからもらったブレスレットと返した。それが私の意志なのだと伝えるために。でもそれが最善だったのかと問われれば、分からないと答えるだろう。


 自分の中での正解は他人の中での不正解になってしまう。ならばどこかを妥協したり諦めたりしなければ先に進む事は出来ない。


 何かを犠牲にしない成功は有り得ない。


 小枝樹くんの話を聞いて、私は少しだけ間を置いた。そして口を開く。


「その事で貴方が謝る事はないわ。それに私は進んで現状を作り上げたの。だからこれが、今の私にとっては必要なのよ」


 私の言葉を聞いた小枝樹くんは無言を返した。俯いたその顔は表情が見えなくて、どんな事を考えているのかどんな気持ちになってしまっているのかが分からない。


 静寂の空間は居心地の良い場所ではなくて、何も変わっていないと思ったB棟三階右端の教室が嫌いになってしまいそうだった。その時


「俺はさ、本当に自分勝手な男なんだ」


 突然の静寂を切り裂く声。私はその声に耳を傾ける。


「何でもかんで自分の思い通りになると思ってた……。それで沢山の人を傷つけた。なのに、俺は自分の勝手な想いを一之瀬に伝えて一之瀬を苦しめた……。大好きだと思っている人を俺は苦しめた……。だから俺は誰かを傷つけることしか出来ない天才なんだ」


 数分見ていなかっただけなのに、言って顔を上げた小枝樹くんを見て久しぶりに感じた。


 今まで弱っている小枝樹くんは何度か見た。強くて凛々しい小枝樹くんも見た。楽しそうに笑っている小枝樹くんも見た。でも今の小枝樹くんはそれとは全然違う。


 弱々しくて今にも泣きそうで、なのにどうしてそんなに強くいられるの……!! 怖くないのっ!? そんなにも自分の心を他人に見せて怖くないのっ!?


 感情が蘇り、聞いてしまいたいと思っている言葉が頭の中を駆け巡る。だけどそれを現実にする事は私にはできなくて……。


「もしも小枝樹くんが、傷つけることしか出来ない天才なのだとしたら、やっぱい貴方の願いは聞き入れられないわ」


「どうして……!! 俺の事はどうだっていいっ!! だけど他の奴等は関係ないだろっ!! 皆にとって一之瀬は大切な友達なんだ……。一之瀬にとっても大切な友達なんじゃないのかよっ!!」


 私にとって大切な友達だ。崎本くんも神沢くんも優姫さんも門倉くんも楓も雪菜さんも……。それに小枝樹くんは……。


「だからなのよ」


「え……?」


「だから私はもう、ここにはいられないの」


 震えた声は小枝樹くんだけ。私の声は震えていない。いつも通りの天才少女で、この現状を他人に見られたとしても天才少女で、私はこの先もずっと天才少女で……。


 はっきり言おう。涙が零れそうだった。何度も何度も人形になると決心しているのに、皆の事を考えてしまうとどうしても涙が溢れそうになってしまう。


 己の心の弱さが招いた結果なのは分かっている。だけど私だって叫びたい……。何度も、何度も、何度も……。私の心は悲鳴をあげ続けているんだ。だけど私は天才少女……。一之瀬財閥の傀儡としてその感情を抱いてはいけない。


 人形は何も感じず、人形は逆らわない。人形は裏切らないし、人形は心がない。


 もしも私が何かを呪うのであれば己の運命だけだ。


 こんなにも感情が自分の中で蠢いているのに、小枝樹くんにいつもの一之瀬にしか見えないんでしょうね。でも、小枝樹くんは本当に心配性だからこれくらいが丁度いいのかもしれないわ。


「私はね小枝樹くん」


 そう言いながら私はお弁当箱を片付け始める。


「逃れられない必然の中で生まれているの。それは誰も持つことの出来ない富と名声を持っている。だけど誰もが持っている温かさや安らぎはない」


 言いながら片付け終わったお弁当箱を私は持ち立ち上がる。そんな私を視線で追いながら小枝樹くんは無言で私の話を聞いている。ただただ苦しそうな表情を浮かべながら……。


「それはきっと平等だと思うの。皆が持っていないものを私は持ってる。だけど私が持っているものを皆は持ってない。だから天才と凡人は分かり合えない……」


「天才と凡人が分かり合えなくても俺たちは……」


 小枝樹くんの言葉の途中で私は微笑んだ。すると小枝樹くんの言葉は途絶えてしまい私の顔をただただ辛そうに見つめていた。


「決心とか決意とかそんな大げさなものではないけれど、私は今日ここで小枝樹くんと言葉を交わして決められたわ。だからちゃんと小枝樹くんに言わなきゃいけないわね」


 時計の秒針すら低速に感じてしまう程の時間の流れ。それはゆったりとした安らぎに満ちた長い時間ではなく、重々しく終わってしまいたくない後悔の時間。


 でも本当に時間は残酷だわ。


「私を好きになってくれてありがとう。でも、さよなら」


 B棟三階右端の扉を開け廊下へと一歩でる。言葉を言い終わった時の小枝樹くんは体から力が抜けたのか本当に間抜けな顔をしていた。


 そんな事を思いながらもう二度と来ないB棟三階右端の教室に背を向け、そしてもう二度とあの頃に戻れない小枝樹くんに背を向けて……。





 別れの時なんて本当に一瞬でしかない。


 初めの別れは突然で、何が起こったのかも分からず目の前で起こっている現実を受け止める事すら叶わなかった。


 だけどゆっくりと流れる映像はとても鮮明でコマ送りで見ているようだった。その後、回転している赤いランプの光と狼の鳴き声を模倣した甲高い嫌な音が私の耳と瞳を刺激した。


 清潔感のある真っ白な車体とは裏腹に車内は機械が沢山あって血塗れの兄さんが運ばれた。現実を認識できない私でも自然と兄さんの近くに居たいという想いだけで自身の足を動かす事ができた。


 そして訪れる突然。


 何も理解できないまま兄さんの体から力が抜け、その姿を見たお医者さんは血相を変えながら蘇生処置を繰り返した。私はその場で項垂れて力なく動かなくなってしまった兄さんと懸命に処置を繰り返すお医者さんをこの瞳に焼き付けていた。


 数分後、揺れ動いていた車体は止まり後方の扉が開かれる。待っていた数人の看護師が兄さんを連れて行き、私はそこで独りぼっちになってしまった。


 次に兄さんに会った時、それは物言わぬ屍と化した時だった。


 沢山の血と傷で見ていられなかったさっきまでの兄さん。でもその時の兄さんはとても綺麗で今にもいつものように笑ってくれるような気がしていた。


 私の隣では姉さんが泣き叫ぶ。父様は動かぬ兄さんを見つめながら眉間に皺を寄せ難しい顔をしていた。その場にいたのはその三人。


 母様は父様に言われ我が子の最期を見ることは叶わず、菊冬は幼いという理由で遠ざけられた。そしてその場で感情を見せなかったのは私だけ。


 これが一つ目の別れ。


 二つ目の別れはさっき済ませてきた。


 沢山の記憶が芽生えた大切な場所で、私の尤も大切だと思える二人目の貴方に私はさよならをした。


 苦しそうな表情、声を出したくても出せない辛さ。その全てが最後の貴方の顔に見えた。手を伸ばす事すら出来ず、ただただ現実を受け入れる事しかできない弱い貴方。


 脳裏で巡る最後の瞬間。その光景は数時間前に起こった出来事で、数年前の過去の映像よりも鮮明だった。美しく散る花弁のように、ハラハラと落ちては消える真後ろの記憶。


 振り向くだけで全てが見える。なのに、今の私はそれを消そうとしている……。


 消えてしまえばどうってことはない。記憶なんて消えてしまえば人は楽に生きていける。


 つまらない思考を浮かべながら私は家のソファーに身を委ねる。


 結局、昼休みが終わった後、私は小枝樹くんを視野に入れる事はなかった。辛いと思いたくない、辛いと思われたくない。そう思う事はとても利己的で、私の浅ましさが垣間見えたような気がした。


 それから何事もなく岐路に着き今に至る。


 ソファーの上で膝を抱え、私は再び思考する。


 二つ目の別れの意味はいったいなんだったのだろう。私は別れを選んだ。それはこれ以上皆に苦しんで欲しくなかったから。それに小枝樹くんにはもう悲しんで欲しくない。


 だから私は別れを選んだ。でも私が直接別れを言ったのは小枝樹くんだけだ。どうして一番苦しんで欲しくない人に私は言ってしまったのだろう。


 こんな悩みは頭を抱えることでもない。冷静に考えれば分かってしまう事だ。


 私は小枝樹くんに忘れて欲しかったんだ。私との全てを忘却し、小枝樹くんの人生を歩んで欲しかった。私はもう一之瀬財閥の人形になる。父様の命令を従順にこなす傀儡。


 そんな姿、小枝樹くんには見られたくない。だから私は彼の告白を理由に遠ざけて契約を破棄し、さよならを言ったんだ……。


 違うっ!!


 私は誰よりも小枝樹くんを求めている。こんな私を見つけてくれたのは小枝樹くんだっ!! 私が一人じゃなくなったのは小枝樹くんのおかげなの……!!


 ならどうして私は素直に全てを話さないのっ!? 小枝樹くんに話せば何とかなるかもしれないっ! それに皆にも話せば私は普通の女子高生に……。


 昂ぶった感情の思考は長くは続かず、すぐさま冷静な自分に戻ってしまう。


 何を愚かな事を考えているのかしらね。私に自由なんてものはなくて初めから全てを決められているのに……。どうして私は父様に背いてまで今の高校に行きたいって思ったのだろう。


 あ、兄さんの願いを叶える為だわ。それに兄さんの真意を知りたくて……。


 本当に幼稚で阿呆な考えだったと今なら理解できる。でもきっと、その時は精一杯の自分のやり方で自分自身の道を見出したかったんだって思えるわ。そう思えるようになったのも、私が大人になったからかしら。


 自分の思考で思わず微笑む。目の前に見えているのは自分の膝。温かい空気を流し込んでくれる暖房機。自身で触れている体は温かく、凍える事はない。


 だけど、どうしてだろう。凄く寒い……。


 きっとまだ私は人形になりきれていない。まだまだ私は何かを失わなくてはいけない。自分の意思で自らの行動で、私は私の全てを壊さなきゃいけない。


 そう思った私はソファーから立ち上がりクローゼットへと足を運ぶ。


 六畳ほどのクローゼット。そこには沢山の服が並んでいる。真っ白なワンピース、同じように見えるデニムが数本、ドレスにコート、沢山のある。


 でも今の自分は分かっている。こんなにも華やかな服を必要としていない事を。


 私は綺麗な服達を乱暴に除けて片隅に置いてある服に手を伸ばす。それはドレスと言っていいものなのかわからないけど、色が違えばドレスだと言ってもおかしくはないわ。


 シンプルな作りで清楚感もある。白や青、赤でもいけるわね。その色で作れば小さなパーティーになら出席できるほどの物だ。


 私はその服を手に取り、自身が身に着けている衣服を脱いだ。カサカサ、シュルシュルと音を立てながら着ていた制服を脱ぎ捨てる。


 下着姿になった私は全身鏡の前で今の自分を見つめた。誰もがつけているような真っ白な下着を身に付けた天才少女が私の目の前に現れる。


 貧相だと自分では思ってしまう。だって今の私、とても疲れているしやつれている。目の下には隈が薄っすらと見えている。


 そんな自分の姿を見て私は鏡に触れた。頬の部分からゆっくりと下の方まで撫で回すように触れて、触れ終われば振り子のように力を失った腕が揺れている。


 自分の姿を見つめながら私は我に還る。そして床に乱雑に置かれていたドレスを手に取る。真っ黒なドレス。


 喪服。


 日本のスーツ形式の物ではなく、海外で使われているドレス式の喪服だ。


 元来喪服は葬儀の時に身につける服だが、今の私の回りで死んだものはいない。でも私にとっては葬儀となんらからわない。


 自身の体にゆっくりと、だが確実に真っ黒なドレスが纏っていき、全てを纏って鏡で見た自分の姿は日本人形とフランス人形を足して割ったようなものだった。


 真っ黒で長い髪、整っていると言われる顔、切れ長な瞳、真っ黒なドレス。


 こんな人形があったとしても誰も買わないだろう。不気味で呪われてしまうと思われるのが関の山だ。


 本当はここで紙を束ねようとしていた。葬儀のしきたり的に髪は束ねたほうが良い。でも今の自分の姿を見て束ねる事を私はやめる。


 今の私は呪われた人形がお似合いだ。


 少し笑みを作り、自身を嘲笑ってみた。そして私は一言だけ鏡の前の自分に言う。


「今から行きます。兄さん」


 そう言い私は兄さんのいる場所へと歩みを始める。


 少し曇っていた天気が今の私には丁度いいのかもしれない。雨が降ったとしてもそれは兄さんの涙であって生きている者の涙ではない。


 顔に力を入れて無表情を演じる自分の姿はきっと奇怪なものだろう。喪服を着ながら平然と歩いている女はさぞ滑稽だろう。でも私にはもう一つ、やらなくていけない事がある。


 そう、突然訪れた一度目の別れを上書きする。三度目の別れを……。

 

 

 

 

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