37 中編 (拓真)
何も変わらない日常なのだと俺は思っていた。これ以上、問題なんて俺には課せられなくて、天才に戻ったとしても温かな友達がいる自分の求めた日常を送れるのだと信じていた。
少しばかり俺の想像とは違う結果になってしまってはいたが、B棟三階右端の教室で楽しく友人達と談笑をしている日々は変わらない。
毎日全ての人が集まるわけではない。それくらい自由で自分達で決めて集まり、つまらない話をする。ただそれだけがの場所がとても居心地が良いんだ。
だが、それを覆す出来事。覆すと言ってしまうと大げさなのかもしれないが、天才だという柵に俺は再び直面したんだ。
きっと俺が求めすぎてしまったのがいけなかったのだろう。安易に依頼なんていうものは受けてはいけないんだ。
必死になっている人に手を差し伸べたい。それが自分のワガママだと理解していたのに、本当の自分はコレなんだといい訳を並べて、俺はまた他者を傷つけてしまった。
案外、大丈夫だと思っていた事でも実際に言われてみると結構きつい事が多い。
そのせいで引き篭もりになってしまったり対人恐怖症を発症させたりするわけではないが、確実に胸が苦しいという事だけは分かった。
「天才には凡人を理解できない……、か……」
呟く俺の言葉を優しく聞き入れてくれる人はいない。それは俺の事を考えてくれる人がいないというものではなく、現状の俺が一人だからだ。
今日は下柳と綾瀬の一件もあったので、おとなしく下校を選んだ。昼休みが終わってからはずっと下柳の言葉が俺の耳から離れてくれなかった。
だが、幸か不幸か俺の異変に気が付く奴はいなくて、何事もなく放課後を向かえる。そして俺はさっき言ったようにおとなしく下校を選んだというわけだ。
帰り道は少し冷え込んだ。完全に陽が落ちていたわけではないが、湿気が少なくなっているせいか北から押し寄せてくる風が地肌の指を痺れさせた。
吐息をかけてしまいたくなるくらいの寒さ。だが俺はその気持ちを押し殺して自分の手を制服のポケットの中にしまいこんだ。
温かいと感じる事はない。ただ風を凌げればそれでいいと思っての行動。
結局、帰り道はその寒さとの戦いだけで簡単に終わってしまい。気がついたときには家に着いていた。
扉を開けても誰もいない。父さんと母さんは仕事で、妹のルリは受験勉強を友達の家ですると言っていたな。その事を思い出すのに然程時間はかからない。
俺は玄関で靴を脱いでから自分の部屋へと直行した。その理由を述べるのであれば、早く温かい服に着替えたいだからだ。
部屋に入るやいなや俺は制服を脱ぐ。そして普段適当に置き去りにされている家着へと着替えを済まし、暖を取るため部屋のエアコンをつける。数十秒の後、暖かい空気が部屋を駆け巡り、安堵の表情を浮かべ俺はベッドへと横になった。
それが現状だ。
部屋の明かりは点けていない。カーテンも閉めている。カーテンの隙間から見える陽の明かりはゆっくり夜の帳を下ろし、今となっては真っ暗になってしまっている。
暖かくなった部屋と静かな家の調和は取れていなくて、ここに居る自分自身がその平穏を掻き乱しているみたいだった。
頭の中では沢山の事を考えているのに、何も分からない。答えが出ないというわけではない。寧ろ答えは出したんだ。
下柳純伽の依頼を断るという答え。その言動が間違っていたのだろうか。ここに来て少しの不安に苛まれる。
俺は正当な理由でちゃんと依頼を断れたのであろうか。いや、きっとそれは出来ていないな。だって俺は下柳に暴言を吐かれたを理由に依頼を破棄している。
それは自分勝手な私情にすぎず、もしも報酬をもらって依頼を受けているのであれば完全に信用を失う行為だ。
自問自答の中で俺は肯定と否定を繰り返す。正しいと思ってやった行為でも、後々考えてみればもっとやり方があった筈だと思考してしまう。
己の浅はかさに感服してしまいそうで怖くなる。天才だという他者の評価が今の俺は怖い……。
俺は額に右腕を当て、思考の海へと堕ちていく。大きく広がるその深淵は真っ暗闇で光すら見えない。だが不思議と自身の思考なだけあって客観的に自分の姿だけは見えるようになっている。
コポコポと真っ暗な海の中で弾ける空気。その出処は分からないが、今の俺がいる場所よりももっと深い所だという事だけは分かる。
おかしい。真っ暗闇なのにどうして気泡が見えるんだ? あぁそうか。これは夢だ。ベッドで横になりながら考えていたせいで、いつの間にか眠ってしまっていたんだ。
夢だと分ければ何も怖くない。
俺はコポコポと溢れ出す気泡に触れた。その瞬間に数個の気泡が割れる。ゆっくりと手を動かし、また違う気泡に触れる。割れる。
触れる。割れる。触れる。割れる。触れる。割れる……。
俺はつまらない単純作業を繰る返し行い続けた。そうしていると何も考えなくても良いような気がしたからだ。真っ暗な世界の居心地の良さと不安が入り混じって少しだけおかしな気分になってしまっているのかもしれない。
おかしくなっているのなら、おかしくなっているで構わない。そんな自分を受け入れよう。
俺の身体はどんどんどんどん深い海の底へと落ちていき、気がついた時には気泡すら無くなっていた。分かるのは重力が弱く浮いているような錯覚になってしまう自分の体。そして自分の弱い心だけだった。
思い返す。俺は斉藤の依頼の一件で思い知った筈だった。考え無しに依頼を受けるという事がどれ程沢山の人を巻き込み傷つけるのかという事を……。
なのに俺はもう一度その過ちを繰り返してしまった。あの依頼をしに来た下柳。その現場にいた奴等なら「あれはしょうがない」と俺の事をきっと庇護してくれるだろう。
だけど、依頼を受けたからにはしょうがないでは済まされない。俺は繰り返してしまったんだ。
斉藤の件のとき、いやと言うほど一之瀬に言われたのに……。
こんな時、一之瀬なら何て言ってくれるのかな……。また馬鹿げた事を仕出かした俺を見ながら「貴方は自分を安売りしすぎだわ。ヒーローになりたいのは分かるけど、もっと自分を大切にしなさい」とか言ってくれるかな。
頭の中で流れる一之瀬の言葉と声は俺の願望にすぎず、その消えていく一之瀬の声に手を伸ばしていた。
一之瀬の強さに憧れた。凛々しく輝いている一之瀬に憧れた。でも、俺はアイツの弱さを知った。だからきっと好きになったんだ。
それが今じゃ話すこともままならず、もしかしたらもう一之瀬は……。
ブーッブーッブーッ
機会の振動音。振るえるそれと土台のテーブルが音を大きくさせ、眠っている俺を起こした。
ゆっくりと身体をベッドから起こし、俺は鳴っている携帯を手に取る。そして気が付く、自分の頬が濡れている事に。だが今はそんなくだらない事を考えている意味は無い。
俺は携帯の画面を見て相手が幼馴染の女子だと認識した。それを確認すると俺は幼馴染からの電話にでる。
「もしもし。何か用か雪菜」
寝起きだからなのか、それとも見ていた夢が良い物ではなかったからなのか、俺の態度は素っ気無い。だが、そんな俺の耳へと帰ってきた雪菜の声はいつもと何も変わらなかった。
「た、た、拓真……。お願い、寒いから早く玄関開けて……」
雪菜の震える声。それは辛いとか悲しいとか苦しいとか、そういう気持ちの部分が表しているものではない。単純に寒さに凍えているだけのものだった。
俺は雪菜の言葉を聞いてベッドの上に立ち、窓を開けて外を見る。すると案の定、制服姿で震えている雪菜の姿が見えた。
寒いので窓を閉める。そして俺は雪菜に言ってやった。
「お前、本当にバカだな」
暖かくなった俺の部屋に凍えそうな雪菜の図。目の前で繰り広げられている些細な日常はそんなものだ。
暖房が効いている部屋のなのに、雪菜は未だにコートを脱ごうとしない。それほど外の気温が下がっていたのだろう。陽も暮れて真っ暗になっている世界はさぞ寒かろう。
窓を開けて雪菜を確認するとき思い知っている。
空けた瞬間流れ込んでくる外気。この寒い風をヒューと表現した先人が素晴らしいとさえ感じてしまう。
そして今、ブルブルと身体を震わせている雪菜嬢は俺の部屋で身を縮めながら自身の身体を抱きしめ温めている最中だ。
「ど、どうしてこんな時に限って寝てるのぉ……、拓真ぁ……」
寝ていた事は俺が悪いわけではない。だが、いつの間にか眠っていたとしても雪菜を凍えさせてしまった事実は変わらないわけで
「悪かったって雪菜。俺も色々と疲れてんだ。それで、どうしていきなり家に来たんだよ?」
ベッドに座っている俺は床に座っている雪菜を少し見下ろしながら言う。
そんな俺の言葉を聞いた雪菜は唇と身体を震わせながら俺の方へと視線を動かした。
「あ、そっか。あ、あたしがどうして来たのか拓真はわからないよね。え、えっとね。お母さんがたまには拓真ちゃんにお礼しなくちゃって言って煮物持ってきたの」
そう言いながら鞄と共に持ってきていた袋を雪菜は俺に見せ付ける。
その事実を知って俺は少し安堵した。その理由は沢山あるけど、今は雪菜の身体を温めてやるのが最優先だ。
「そうか。まぁ兎に角、寒そうだから暖かいココアでも入れてくるか?」
「お、お願い……」
雪菜の言葉を聞いて俺は一つ息を吐き、ベッドから立ち上がる。そんな俺の姿をその瞳に映し出す事すら困難になっている雪菜はそのまま自身の身体を温めていた。
暖かいココアを持ってくると雪菜は嬉しそうに目を輝かせた。
多分、これは俺の予想になってしまうかもしれないが、ココアを入れて持ってくる間に雪菜の体温は回復していたと思う。
そう思ってしまう理由を述べるのであれば、俺が戻ってきた時の雪菜は既にコートを脱いでいたからだ。
まぁそうだよね。確かに長い時間寒い外に放置されたとしても、入って来た部屋が暖房の暖かさで充満していたとしたら結構早めに身体も温かくなるよね……。
雪菜の姿を見て嘆息気味に俺は自室へと入った。そして机にココアを置く。そんなココアが注がれたカップを雪菜は両手で持ち、ゆっくりとすすった後、幸せそうな表情で顔を緩ませた。
「ふぅ。やっぱり冬のココアは五臓六腑に染み渡るねぇ」
五臓六腑って……。女子高生が使う言葉ではないな。というか
「おい雪菜、どこでそんな言葉覚えたんだ?」
雪菜同様に俺はココアをすすりながらベッドへと腰を下ろす。そして俺の質問が雪菜の耳にも届いたのか、雪菜はカップを机に置き俺の方へと視線を動かしながら答える。
「んー? この間テレビでなんか言ってたから使ってみただけだよ?」
雪菜の答えはあまりにも単純なもので、納得してしまうというか納得するしかないというか。まぁ雪菜が五臓六腑の意味を理解して使っているとは思ってなかったけど、使い方を間違えないところが雪菜らしい。
そんな雪菜を見て俺は微笑んだ。だけど、その雪菜の優しさに甘えるわけもいかない。だからここは、俺から本題を切り出そう。
「それで、どうしてうちに来たんだ?」
「だからお母さんが煮物を━━」
「そういうのは良いから、ちゃんと言ってくれよ」
雪菜の言葉を俺は遮る。そして俺の言葉を聞いた雪菜は真っ直ぐに俺の事を見つめていた。
その表情は怒りや悲しみといった悲観的なものではない。どちらかというと優しさや温かさが含まれているように思えた。そして雪菜は言葉を紡ぐ。
「だってさ、今日の拓真なんか変だったもん。昼休み終わってからずっと何か考えてるみたいな難しい顔しててさ。でもきっとあの拓真の表情に気が付いたのはレイちゃんとあたしくらいだと思うけどね」
俺の不自然に気が付いていたような事を言い出す雪菜。だが、雪菜だけが気が付いたのならば適当に言っている可能性もあるが、レイまで気が付いていたとなるとその言葉に信憑性が増す。
けして雪菜が鈍感だと言いたいんじゃない。レイのような無頓着な奴でも俺の些細な変化に気が付いたんだ。それは幼馴染だからという長い間に培われた絆なのだと今の俺は思った。
「それにB棟にも来ないで一目散に帰っちゃうんだもん。何かあったって思うのが普通なんじゃないの?」
あっけらかんと答える雪菜は再びココアを啜った。そしてもう一度ココアの入ったカップを机に置いて俺を見た。
「どうして拓真が変なのか当ててあげようか? この間の依頼の事でしょ」
的確に言う雪菜に俺は何も返せない。いや、無言を返していると言ったほうが正確なのかもしれない。
雪菜なら分かってしまってもしょうがないなと諦めたくなる気持ちもあるが、どうしてその答えに辿り着いたのかが知りたい。
「なんでそう思うんだ?」
「そんなの簡単だよ。拓真は誰かの事じゃないと真剣に悩まないもん。それで最近の誰かを探し出せば自然と会長が出てくる。どうだい明智くん、あたしの推理も中々なものだろう」
真意と冗談が入り混じる雪菜の声音に俺は安心を覚える。本当にこのバカな娘と幼馴染で良かったと心から思えてしまうんだ。
「それだけじゃないのだよ明智くん。あたしの推理が正しいのなら事件が起こったのは昼休みだ。ここからはあたしの推論だが、拓真はきっと会長に会ってる。そこで今回の依頼の話をし、拓真は会長の依頼の真実を聞いてどう解決したらいいのかと悩んでいる。どうかね、明智くん」
当たらずしも遠からず。雪菜の推論は間違った方向にはいっていない。だが、今回の結果は俺が絶対にしないような結果だ。そこを予想するのは難しい。
昔から一緒にいる幼馴染だからこそ、その答えに辿り着く事は無いんだ。今回の俺の行動は異例だって自分でも思ってしまうから。
そんな雪菜に俺は再び微笑を作り答える。
「まぁそうだな。間違ってはいないが間違ってるが正解かな」
微笑みに悪戯を混ぜた表情で雪菜に答えると、雪菜は無言を返した。静かに俺から視線をずらし机の上に置いてあるカップを見つめる。少しそのカップを雪菜が突くと中に入っているココアの水面に重い波紋が広がった。
その静寂は俺の耳を痛め、次第に自身の鼓動が聞こえてきた。ドクドク、ドクドクと早くなったり遅くなったりする鼓動。
数ヶ月前までこの鼓動を聞くのが俺は怖かった。その音が聞こえる度に呼吸はしづらくなり、痛みを感じる時すらあった。その発作は自身が招いてしまった罪であり罰であった。
だが、今の俺にはもう発作はない。
俺を救ってくれた人達がいる。俺の元へと帰ってきてくれた人がいる。結局、心の病なんか自分が満たされれば解決してしまうようなものが殆どなんだ。
だからこそ、今は俺が誰かに与えなくてはいけない。そう俺を心配してくれた雪菜にだって感謝を伝えなきゃいけない。
思った俺は、不意に静寂を破る事無く雪菜の頭を撫でた。
俺はベッドの上、雪菜は床に座っているおかげで雪菜の頭が撫でやすい。ゆっくり、ゆっくりと雪菜の頭を髪を撫でる。
その行動を起こした俺が不思議なのか、はたまた驚いているだけなのか雪菜は俺へと視線を動かした。数秒間見つめある。すると雪菜は俺の手を自ら除けて立ち上がった。
「違うよ拓真」
言葉の意味が理解できなかった。だが、優しい表情で俺を見ている雪菜がここに居ることだけは分かったんだ。
「拓真は沢山頑張ってきたよ。今まで何人もの人を拓真は救ってきたんだよ。あたし達だけじゃなくて、全然関わりを持ってない人にも拓真は自分を傷つけながら教えてきたんだよ」
立ち上がった雪菜を見上げながら俺は雪菜の言葉を耳に入れる。すると
「だから本当に頑張ってね、拓真」
そう言った雪菜の手が俺の頭のへと優しく落とされた。
単純な雪菜の言葉。優しく撫でてくれる温かい雪菜の手。俺はずっと、こんな優しい女の子に見守られてきていたのか……。何も知らないくせに、どうして雪菜は俺の欲しいものが分かるんだよ……。
優しく俺の頭を撫でる雪菜。そんな雪菜の顔を俺は見る事ができず俯く。だが、無意識のうちに頭に乗せられている雪菜の手とは逆の手を俺は握ってしまっていた。
「前にも言ったかもしれないけど、あたしは拓真に沢山救われたんだよ。それに救われただけじゃない。勇気だって沢山もらった。もっともっと強くなって拓真を救おう。って思ったけど結局あたしは拓真を救えない。どんなに拓真が救われたって言ったって全然救えてなんかない。だから今でも拓真は苦しんでるんでしょ……?」
雪菜の落ちついた声音。決められていたと思ってしまうほど俺の心に刺さる言葉。
きっと今の俺は雪菜の言葉を否定したい。だって俺は雪菜に救われたから……。ずっと一緒に居てくれた雪菜に俺は救われたんだ。でも、今の俺が苦しいと感じている事実を否定は出来なかった。
結局、俺は今の雪菜の言葉に無言を返した。すると雪菜はそのまま話を続ける。
「拓真は自分の苦しい事を全然言ってくれてないからさ、あたしにも分からないんだ……。でも拓真が苦しんでるのは分かる。だからあたしは図々しく聞くの。何があったの? って」
掴んでいる雪菜の手にかかる力が少し弱まった。それは自身の意思とは関係ないのだと信じたい。だけど、その事実は変えられなくて自分が安心してしまっている事を俺は受け止めなくてはいけない。
それが恥ずかしいとは思わない。なのにどうしても認めたくも無いんだ。
自分の中での葛藤。それが雪菜に露見する事はない。頭の中で考えている事が外に漏れでる事はないのだから。
「本当に拓真は意地っ張りだね」
不意な雪菜の言葉に俺は思わず視線を上げて雪菜を見つめてしまった。
「良いんだってば。拓真が凄い強い人だなんてあたし思ってないよ? だからずっと苦しかったんだもん。でも今はこうして拓真の弱さに触れられる。真っ直ぐ拓真の目を見て、拓真の弱さに手を差しのべられる」
言った雪菜は微笑んでいた。何も言えない俺の心を見つめて、誰にも真意は分からないと思っていた俺の事を見つめて雪菜は微笑んだ。そして俺は俯く。
もう、限界だ……。
「俺は……。どうしていいのか分からないんだ……」
雪菜の手を掴んでいる力が再び強まった。それだけじゃない。冷静を装うとしていた無表情にも力が入り俯いていて雪菜には見えていないかもしれないが、その顔をは力が入って剥き出しになってしまった歯と、強く後悔をしてしまい寄せられる眉間の皺が混ざった汚い面をしていた。
言葉の強さはそれほどでもない。きっと俺はまだ踏ん切りがついていないのだろう。前に進み勇気なんて今の俺にはない。
すると雪菜が再び言葉を紡ぐ。
「あたしも、分からないよ……。頑張って考えてみても生徒会長の依頼と、もう一つしか思いつかないもん……」
もう一つ? 下柳の事意外に雪菜はいったい何を考えているんだ……? それを理解していない今の俺は、不思議とその答えを聞きたくないと思ってしまった。
だけどそれが許されるわけも無く、雪菜はそのまま言葉を続けた。
「さっきさ、あたしの推理で会長さんと何かあったって言ったじゃん? 確かにそれも間違ってないって思うんだけど、もしかしたら一番の問題はさ」
分かってる。雪菜に言われなくて分かってるんだ。だからそれを言葉にしないでくれ……。それを聞いてしまったら、俺はその事実を受け止めなきゃいけなくなってしまう。それは嫌なんだ。だって、だってアイツは……!!
「夏蓮ちゃんがB棟に来なくなった事だよね……?」
俺の中での時間が止まった。
雪菜の手を強く握り締められていた自身の手からは力が抜け落ち、無様にも宙で揺れている。そして俺の視線は何も見たくないと言わんばかりに虚無の世界へと堕ちていき部屋の床を雪菜の足越しに見つめていた。
流れている空気はとても重たいもので、雪菜の呼吸が俺には聞こえた。けして荒いわけではない。それなのに雪菜の呼吸が聞こえ、その一定のリズムが恐怖を駆り立たせる。
俺は雪菜に何も言えない。自分の本当の弱さを露見する事だけは絶対にできない。どんなに今まで惨めな俺を見てきたってそれは俺の意思とは反しているものだ。
自分の意思で自分を見せ付けることなんて俺には怖くてできない……。
「ねぇ、拓真」
ふと弱々しい雪菜の声が聞こえた。
その瞬間、俺は暖かで柔らかい感触に包まれる。それは精神的なものではなく肉体的もの。すぐに雪菜が俺を抱きしめているのだと分かった。
「さっきも言ったじゃんっ!! 大丈夫だってっ!!」
雪菜……?
「拓真は自分の感情を全然前に出せてないんだよっ!! 感情的になっても良いんだよ? 拓真の全部を伝えて救えないならどう足掻いたって救えないっ!! ならさ、怖がらずに全部を伝えなよ。それで誰かが傷ついて苦しんで辛くなっても、あたし達は居なくならなかったでしょ……?」
抱きしめながら言う雪菜の声は俺の鼓膜だけではなく、その熱を身体にも伝えてくれた。抱きしめているその力が強くなるのが分かる。そして震えている些細な動きすら密着している今なら分かる。
そうだよな。怖かったのは俺だけじゃないんだよな。
「雪菜……」
久しぶりに言葉を紡いだ俺の声はとても弱々しかった。擦れていて泣きそうな声に聞こえてもおかしくはない。だが、今の俺は泣きそうになんてなってない。
「今回の会長の依頼を俺は断ったんだ……。自分で考えて断ろうと決めた。だけど、断ったときの俺は本当に感情的になっていなかったのか。理不尽になっていなかったのかって何度も考えてた……。そしたらさ、何が正しくて、何が間違ってるのかが分からなくなったんだ」
押さえきれなくなってしまった自分の気持ちを吐露する。吐き出す感覚はとても不快なもので、なのにどうしても不快な感覚の中に楽になっていけるという安堵感を覚えていた。
だけど結局、それが安堵に繋がるのならと安易が考えにいたり、俺は言葉を紡ぎ続けた。
「何度も同じ事に直面してるのに、俺は何が正しいのか分からないんだっ!! ヒーローになりたいと妄言を吐き散らしてたって、他人よりもヒーローになれない事なんて分かってんだよっ!!」
「馬鹿なこと言わないでっ!!」
俺の言葉を聞いていた雪菜は怒号を上げた。そして涙ぐみながら雪菜は俺を睨んだ。そして
「なにがヒーローになれないよ。何がわかってるよ。拓真がそんな事言ったら、拓真がヒーローだって信じてるあたしは何を信じればいいのっ!!」
近い距離にいる雪菜。それは今まで俺を抱きしめてきたから。だけどその近距離で怒号を上げる雪菜の悲しみが俺には分からなかった。だけど
「ヒーローの拓真はあたしの憧れなの。ヒーローの拓真は絶対無敵なの。でも、ヒーローの拓真にだって苦しいって感じるときがある……。それをあたしは分かりたい……。だから、ヒーローになれないなんて言わないでよ……」
睨みつけていた顔を俺の左肩に落とし、今ではすすり泣く雪菜の声が俺の耳を強く刺激する。それと同時に震える雪菜の体が、その悲しみを俺の体中へと流し込んでいるみたいだった。
そして考える。俺は本当にヒーローになれるのかと。
困っていたり苦しんでいる人を助けた。それは偽善的な思考の外側にあって俺の本当の意思なのだと思える。だけど、その現実が困難になれば俺は逃げ出す。今回の下柳の件でそれは立証済みだ。
なのにどうして雪菜に言われて俺はこんなに悔しいと思っているんだ?
どうにも出来ない事だってある。それはこの世界の理不尽であり、紛れもない現実だ。それをどう受け止めるかでその先の生き方が決まっていくと言っても過言ではない。
なら俺はどうする。答えを弾き出す。そして
「なぁ雪菜。もう一回聞くけど、俺はどうしたらいい……?」
雪菜の顔は真横にある。それは俺を抱きしめながら自分の顔を俺の左肩に置いているから。そんな近距離にいる雪菜に俺は問う。
「そんなの、拓真の好きにすれば良いんだよ。だって拓真は、拓真なんだもん」
俺は、俺か……。
何度その言葉を自分に言い聞かせてきただろう。何度その言葉を他者から聞かされてきただろう。
その時、その時で俺はその言葉に頷きそれを納得して行動を起こしてきた。だけど今の雪菜の言っているソレは全く違う言葉に聞こえる。
拓真は拓真。それは自分は自分。だから自分の思うように動けば良いんだよって言う優しさに包まれた抽象的な言葉。だけど今の雪菜は違う。
拓真は拓真。だけど諦めたり妥協したら絶対に許さない。あたしのヒーローの拓真はどんなに悪者になっても、どんなに聖者になっても自分を変えない意地っ張りな子供なんだよ。
そう、俺には聞こえた。
だから俺は、抱きついている雪菜を離し、鼻と鼻が当たってしまうかもしれない距離で涙を流す雪菜に言う。
「俺の弱さを受け入れてくれてありがとな。だから、俺はまた前に進むよ。自分が自分であるために」
その言葉を聞いた雪菜は眉間を皺を解き、一瞬の微笑を見せた。