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天才少女と凡人な俺。  作者: さかな
第七部 二学期 想イノ果テニ
104/134

35 後編 (拓真)

 

 

 

 

 

 頭から離れない。空気の振動の残滓なのか未だに一之瀬の声が聞こえている。これが幻聴である事は明確だが、それが現実なのか夢幻なのか今の俺には判断が出来ない。


身体が熱い。喉も痛い。熱を発している身体とは正反対に寒気を感じる。本格的な冬の訪れなのか、その寒さがどこから来ているのか皆目見当もつかない。


「はぁ……。お兄ちゃん、完全に風邪だね」


妹の声が俺の頭で反響する。何度か繰り返される『風邪だね』という言葉と一之瀬の言葉が乱雑し混沌とした不協和音へと俺を導く。


でも俺にはまだやる事があるんだ。風邪だか何だか知らないが学校に行かなくては……。


妹に現実を突きつけられているのに、俺は身体を無理矢理ベッドから起こす。上半身が布団を離れ、寒さが急激に増した。


「駄目だよ今日は学校休まなきゃ。一応言っておくけど、熱が39度超えてるんだからね」


どうりで体を上手く動かせないわけだ。フラフラするという表現が正しいのかは分からないが、正常に身体を動かせないのは本当だ。熱に侵されているせいなのか思考も単純になっているようだった。


「悪いルリ。行かなきゃいけないんだよ……。それに早く家でないと遅刻する。雪菜には馬鹿にされたくない」


行かなきゃいけないという強迫観念が俺を支配していた。そんな時ですら一之瀬の言葉は頭の中で反響し続けていて、おかしくなりそうだった。


そんな思考を巡らせながらも、俺はルリの制止を無視してベッドから出て、立ち上がる。片方の足の俺の体重が乗った時しっかりと現実を突きつけてくれた。俺の足は自身の体重を支える事が出来ずに膝を折る。そしてその場で俺は倒れこんだ。


「お兄ちゃんっ……!!」


俺の事を呼ぶルリの声。だがそれすらも曖昧で、目の前にルリが本当にいるのかさえ分からなくなっていた。それは熱のせいなのだと言ってしまえばそれまでの事だが、前日の一之瀬のとの言い合いで精神を消耗している俺は、この世の終りなのかもしれないと本気で思っていた。


節々が痛いという感覚はない。だが、それ以前に身体に力を入れることすら困難な状況なんだ。吐く息は熱を帯びていて、その熱さを感じながら俺の意識はそこで途絶えた。




 何時間眠っていたのだろう。気が付けば家の中が静かになっていて、ベッドから起き上がる気力すらなくなってしまっていた。


二度目に目が覚めた時は、一度目と違って冷静さを取り戻している。その少しの思考を許された状態になり始めて自身が熱を出し寝込んでしまっているのだと完全に理解する。


どうして俺が風邪を引いたのか。それはきっと昨日のせいだ。


俺は一之瀬を追いかけるために走った。その勢いは自分の全ての力を振り絞るかのように。でも、それがいけなかったんだ。本格的な冬目前のこの時期の気温は低い。だが、俺は自身の身体を動かし過ぎたせいか、発汗作用で汗をかいた。


でも、身体の熱が上がっている俺には昨日の気温は丁度良かった。制服のネクタイは緩んでいて、シャツのボタンも開けていた。おかげでその時の俺は涼しさを感じ、体温を下げる事に成功している。


だが、問題はその後だ。急激に体温を下げてしまったせいで現状の風邪という状況になっている。だがきっと要因はそれだけではないだろう。一之瀬が言った


『それと、私達の契約は今日も持って破棄します』


この言葉で精神的にやられてしまっていた事は否めない。その二つの要因が今の現状を作り出しているわけという事だ。


それにしても風邪というものは本当に厄介だ。ここまで体力を奪い、精神的にもゆっくりだがダメージを与えてくる。弱気になってはいけないというが、この状況で弱気にならない方が不思議だ。


風邪を引いたのは夏以来だな。夏に風邪、冬に風邪。これだけを見れば、俺が風邪を引かないのは春と秋だけになってしまう。でもまだ11月だ。ギリギリ秋だと言っても誰にも文句は言われないだろう。


それどころか、年に二回しか風邪を引いてない事を褒めてもらいたい。と思ってみたが案外普通なのかもしれないので誰かに言うのはやめておこう。


それにしても腹が減った。熱でだるくなっている身体を無理矢理動かし、俺は携帯の時計をみる。今の時間は昼の1時過ぎ。腹が減るにはいい頃合だ。


今日の俺は朝飯を食っていない。いや、食っていないではなく、食う事すら出来なかった。胃が荒れるのを覚悟し、俺は薬だけ飲んで眠ったのだ。そのおかげで少し楽になっている。


だが、胃の中に何も入っていない状態で薬を飲んだせいなのか、それともただただ普通に腹が減りすぎて胃液が俺の胃袋を刺激しているのか。兎に角、胃が痛いと感じている事は確かな事実だ。


ここで俺は一つの疑念に苛まれる。それは何か、俺はここからキッチンへと無事に辿り着くかという事だ。


確かに朝よりも体力は戻っている。薬と睡眠のおかげで何とか思考するまでには戻っている。だが、本当に俺はここから立ち上がることが出来るのであろうか。そんな事を考えていても埒が明かないので立ち上がってみた。


案の定、ベッドの横で倒れてしまう。朝よりも楽になったと言っても、高熱が未だ続いている事には変わりない。なのに、家には誰もいない。


俺が男の子だからですか? それとも高校生だからですか? あ、天才だからかな。


どの理由を挙げても俺を一人にするのは何か間違ってないですかねっ!? つーか百歩譲って一人でもいいよ。だったら俺の部屋に何か食べ物や飲み物を置いてもらいたかったですっ!


なんにせよ、今の状況をどうにかこうにか打破できなければ、俺は再び薬を飲む事すら出来ない。本当にうちの家族はどこか抜けている……。


ベッドの横で倒れっぱなしだと風邪にひびく。俺はもう一度、無理矢理身体を起こしベッドへと戻っていく。そして布団を首まで掛けて再び思考する。


薬が切れてしまっている今。十二分に取ってしまった睡眠のおかげで全然眠くない。だからこそ俺は薬を飲んで再び眠りにつきたい。何故、そんな風に思うのか。それは簡単な問いだ。


起きてる方が辛いからである。


その苦しみから少しでも解放される為に、無駄に思考が働いてしまう。それの厄介な事に、病魔という存在のおかげでマイナスな思考しか浮かんでこない。


この数週間で起こった出来事が脳裏を巡る。それは何度も考えている事で、そして何度も答えが出なかったもの。本当に全ては解決したのだろうか。


昨日、斉藤に言われた事だって未だに俺は納得していない。俺は優しくなんてないし、俺は自分の事だけしか考えていない。


あの時だって、苦しんでいる斉藤をこれ以上見たくないから逃げ出した。そしてあろう事か、その逃げ道に一之瀬を俺は使ったんだ。


どこかで上手くいくって思っていた。同じ天才の一之瀬なら今の俺の事を分かってくれるって思っていた。でもそれは俺の思い違いで、全ては泡のように消え去って夢だったと思いたいくらい後悔している。


その後悔を許されていないのは分かっている。全ては俺が犯してしまったことなのだから……。でも俺だって人間だ。いっぱしに後悔だってするし、悲しくだってなる。それを天才だからという理由なだけで規制されてしまうのなら、天才に人権はない。


でもそうじゃないだろう。俺等は人間で、喜んだり悲しんだりできる。それだけが人間の定義だとは言わないが、少なからず他の人間と同じだという事を知ってもらいたい。


誰にだって失敗はある。それは天才だって同じ事なんだ。


あー駄目だ。頭を使えば使うほど、クラクラなのかユラユラなのか分からない視界が大きくなる。そしてそれはゆっくりと、だが確実に激しさを増す。思考をする事も許されず眠る事すら出来ないなんて、いったいなんの拷問だ。


ガチャリッ


何か音が聞こえた。だがそれはきっと熱のせいで聞こえてしまった幻聴だろう。普段なら間違いなく誰かが家に帰ってきたと思う音。でも今の時間は昼の1時過。この時間に誰かが帰ってくるはない。


父さんも母さんも仕事だし、ルリも学校だ。だとすれば熱のせいで幻聴が聞こえたという摩訶不思議な非現実を答えとして出しても何らおかしなことはない。それに世界が回っているように見えているんだ。幻聴くらい聞いても仕方がないだろう。


俺はその現実を受け入れようと試みたが、どうも違和感を感じる。家の扉が開く音が幻聴だったとしても、さっきまではしなかった人の気配を感じる。


玄関の扉が開く音がしてから数秒後、リビングの方へと向かう足音が聞こえたような気がした。もしもそれすら幻聴だというのなら、一階から水の音と機械的な音が聞こえてくるこの現実すら幻聴ということになってしまう。


摩訶不思議で非現実的なオカルト経験をした事がない俺からしてみたら、こんなにも同時に超常現象というものが起こりうることなのかと疑問に思ってしまう。


俺は天才だ。だが、霊感があるわけではない。したがって熱を出しているからと言っても現状が不可解で尚且つ現実的な事象だと考える。


俺の予想だともう少しでその答えが分かるはずだ。単純なものなのかと疑問を抱いてしまえば単純ではない。でも、それに至る経緯は想像がつく。それを考慮して俺の部屋に食べ物や飲み物、そして風邪薬だがないのだというのなら肯けてしまうからだ。


足音が俺の部屋へと近づいてくる。その足音は俺の予想通り俺の部屋の前で止まる。そしてゆっくりと部屋の扉が開かれた。


「拓真、起きてる?」


聞きなれた声。昔から何度も聞いている落ちつく声。思考を繰り返したせいで目を開ける事すら苦に思っている俺は、ベッドに横たわり目を閉じたまま俺の部屋へと入って来た女の子声で現状を想像する。


俺へとかける声は小さめで、俺が寝てた時の事を考慮して出しているのだと分かる。その優しさはずっと当たり前だと思っていた。だがそれが当たり前ではなく特別なものなのだと最近知った愚かな天凡な俺。


その声を聞いて安心したのか少し眠気が襲う。だが、ここで寝てしまっては申し訳がない。その気持ちだけで辛いながらも声を振り絞った。


「……雪菜か?」


俺の声は自分で発していたのに、とても弱々しく聞こえた。客観的に自分を見れていると言うのなら聞こえは良いのかもしれないが、単純に自分が弱っているのだと再認識しただけである。


雪菜は俺の声が聞こえるとゆっくりベッドの方まで近づいてくる。そして横で床に座る。


「大丈夫? 生きてる? あ、喋ったから生きてるか」


この状況下でよくもまぁつまらないボケをかませますね雪菜嬢っ!! 俺のは病人なんだよっ! 声を出していつものようにツッコム気力がないんだよっ!! だからこうして脳内でツッコンでいるんだよおおおおおっ!!


「ごっほんっ、ごっほん」


咳き込む。俺は咳き込む。それはわざとやっているのではなく、きっと脳内でハッチャけてしまったからだ。思考をするだけで現状に影響を齎すとは、本当に風邪というものは恐ろしい。


長年掛けて研究をしても、風邪を治す薬が出来ないというのが信じれてしまう。


「何咽てるの? もう、馬鹿な事考えてるからだよ」


呆れながら俺に言う雪菜。それは声音だけで判断している。でもきっと今の雪菜は俺の事を完全に見下している。それに加えて哀れんでいる可能性すらある。そういう冷たい表情をしているはずだ。


決して馬鹿にしているわけではない。だた熱がでている今じゃないと出来ない普段からの復讐を実行しているだけだ。そんな単純な女が雪菜という女の子だ。


「す、すまないが、今はふざけているだけの体力がない……。頼む、俺に食料と水を……、あと薬」


要約して自分の意思を伝えてはみたが、雪菜が本当に理解しているとは思えない。要約しても分かりやすい、誰でも理解できる事ですら雪菜には理解できないときがあるんだ。それが白林 雪菜だ。だが


「分かってるよ。ちゃんと食べ物買ってきたし、飲み物は勝手に冷蔵庫の中から持ってきた。それに薬だって持ってきたよ」


コンビニで買い物をしたのか、見慣れたビニール袋を俺に見せつける雪菜。重たくなった瞳をかろうじて開き、無理矢理動かした頭の向きでおぼんが床に置いてあるのが分かる。そこにはコップに入った水と薬箱。その全てを瞳に入れる事でようやく、雪菜の言葉を信じることが出来る。


「ありがとな雪菜。すまないが身体を起こしてくれないか?」


どうにかこうにか頑張りを見せれば身体を起こす事は出来る。だが、そんなみっともない姿を見せるよりも雪菜に起こしてもらう方が早いし、病人と言う事で自身のプライドを傷つけることもない。


俺の言葉を聞いた雪菜はコンビニの袋を床に置き、俺の背中へと腕をまわす。そしてゆっくりと俺の上半身を起こす。その一連の行動が終わると雪菜はコンビニの袋から食べ物を出し俺へと手渡す。


それは肉まんだった。


ここまでくると驚きはない。寧ろいつも通りの雪菜である事が嬉しくすら感じる。だけど、今の俺は病人だ。それも自分でベッドから身体を起こすことすら少し困難なほどの。


そんな病人が食べられるものなのであろうか。いや、確かに美味そうだ。買ってきたばかりだからなのか、それとも俺の部屋が寒いからなのか、肉まんからは湯気が立ちそのホカホカさを視覚だけで伝えてくれる。


仄かに香ってくる肉の匂いは柔らかな城壁と言う名の生地が抑止力になり、仄かになっているのだろう。だが、その城壁を一度でも崩してしまえば肉の旨みと香りが部屋中に立ち込めるのであろう。


俺は思う。どうして風邪を引いているのかと。これが普段通りの健康体であれば貪りついている所だ。雪菜が年がら年中肉まんを貪っているのは何故だと疑問を抱いてしまうが、今の俺は肉まんを貪りたい衝動を抑えられない。


その思考と行動は噛み合わず、俺は小さく肉まんを一口食べる。その瞬間、口の中に広がる肉汁と生地の甘さ。最近のコンビニの肉まんはここまで進化しているというのか。


そんなくだらない思考を浮かべながら食事を進める。だが、肉まんを半分ほど食べ終わった時に限界が来た。


「悪い雪菜。もう大丈夫だ」


「うん」


悪いと思いながらもこれ以上は肉まんを食べる気力が出ない。少なからず胃に食べ物は入れた。後は薬を飲んでゆっくり休みたい。


雪菜は手渡された肉まんをおぼんの上に置き、代わりにコップに注がれた水と薬を俺に渡す。薬は錠剤ではなく顆粒剤。袋からして苦々しい色をしているし、飲んだ事があるその薬が苦いという事実を俺は知っている。


だが、躊躇しているほど今の俺は余裕ではない。雪菜に手渡されてすぐに袋を開け、薬を口の中へと入れる。そして間髪いれずに水を口の中へと流し込み薬を飲み込む。


ざらついた感覚が口の中を覆ってはいるが、時間が経てばそれすらなくなるだろう。俺は空になったコップを雪菜に渡して再びベッドへ横になる。


目を瞑った俺は雪菜へと問いを投げかけた。


「なぁ雪菜。学校は大丈夫だったか……? 神沢に牧下、それに斉藤も」


「拓真が心配する事はなにもないよ。優姫ちゃんと神沢くんは仲良しだし、斉藤さんとは会ってないから分からないけど、門倉くんの感じだと大丈夫なんだと思う。それに神沢ファンクラブの優姫ちゃんを苛めてた人達の件もレイちゃんが解決してくれた。まぁ神沢くんの協力もあったんだけどね」


俺の少ない言葉で全てを理解し語ってくれる雪菜。その優しさに感謝の気持ちを伝えたいと思っているが、いかんせん風邪のせいで体力が制限されている。俺にはまだ聞きたいことがある。その為に体力を残しておかなくてはいけない。


そして雪菜が説明してくれた俺の気になった現状の補足をしよう。


まずは神沢と牧下。この二人が修学旅行終りから付き合っているのはもはや俺等だけが知っていることではない。学校中に知れ渡っている事実なのだ。だが、俺が懸念していた事は最後に見た神沢と牧下の姿。


その時の二人はこの先、恋人同士になるような雰囲気ではなかった。だが、斉藤の姿を見て神沢が真摯に謝ったという事を聞いている。それで解決だと言われれば解決なのだが、俺は少し腑に落ちない。


そして次に斉藤の件。この件に関しては俺が直接、斉藤に言われているので解決している言えば解決しているのだ。だが、俺の中で今回の斉藤の依頼が完遂されたとは思えない。


結局、全てをどうにかしてしまったのは依頼主の斉藤なのだから……。でもそれで斉藤が良いというのであれば、これ以上俺の気持ちを押し通すのは無粋なのであろう。


最後に神沢ファンクラブの反牧下勢力の鎮圧についてだが、雪菜の言葉どおりレイが動いてくれたのであろう。そして神沢に協力してもらったという事から推察するに暴力担当でレイが赴き、実質は神沢が宥めたのであろう。


どういう経緯で解決にまで至ったのかは分からないが、神沢の譲歩や納得させる為の何かを用意していたのだろう。これがあくまでも俺の推論。真実は風邪が治ってから聞こう。


ここまでの思考で体力を使い果たした俺は、一番聞きたかった事を力弱く雪菜に言う。


「なら、一之瀬はどうした……?」


俺の言葉を聞いて不思議がっている雪菜。俺の言葉の意味が分からないと言わんばかりの素っ頓狂な顔だ。


「夏蓮ちゃん? 別にいつも通り普通だったけど?」


普通だった。その言葉を聞いて安心したのは確かだった。だが、普通だった一之瀬を想像するとそれは普通ではなく不自然なものだと思えてしまう。


昨日の事を深く考えていて欲しかった。というわけではない。俺の行動は感情的で真っ直ぐ過ぎた。それは一之瀬を動揺させるのには簡単なものだったであろう。それでも一之瀬が普通だと見えてしまうのは、それが一之瀬の覚悟だからなのかもしれない。


そんな何かを覚悟した一之瀬を俺なんかが止めても良いのであろうか。きっとそれは余計なお世話で、迷惑極まりない事なのだと思えてしまう。


だってそうだろ? 一之瀬の覚悟を止めるとかって俺の自分勝手なワガママなのだから……。どんなに言ったってきっと一之瀬の意思は変わらない。だったら俺は一之瀬の言葉を受け入れて、この春より前の状況になればいいだけの事だ。


それは、一之瀬のいない日々。という事だ。


俺にとってはそれが当たり前で、失ったとしてもなにも変わりはしない毎日を送れるだろう。それは俺の気持ちというものを全て無視してでの話だ。


行動に自分の気持ちを入れてしまったら全てが正しい行動になってしまう。誰かの気持ちを優先するのであれば避けなくてはならない。俺は一之瀬の気持ちを優先したい。この気持ちは俺の私情なのかもしれないが、それでも俺は一之瀬の気持ちを優先したいんだ。


恋は盲目。とうのはきっと嘘なのかもしれないな。


自分の幸せなんかよりも俺は相手の幸せを考えてしまう。その幸せの中に俺がいないのであれば、俺は簡単に身を引くことが出来る。この先、一之瀬以上に好きになれる人が出来る可能性は分からない。だって今は一之瀬の事が好きだから……。


でも、もう俺等の関係に接点はなくなった。なら俺は一之瀬が幸せになれるように願いを飛ばすだけだ。


薬が効いてきたのか、それとも雪菜が来てくれた事による安心感なのか、先ほどよりも眠気が強くなってきた。重くなった瞼を開くことすら困難で、夢なのか現実なのかすら曖昧になっている。


「ねぇ拓真」


うっすらと雪菜の声が聞こえた。それはとても優しく俺の耳へと届く。きっとこれが母性愛というものなのかもしれない。男性にとってはとても心地の良い声音。


「今は何も考えないで良いんだよ。拓真はずっとがんばって来たんだから。だからさ、今くらいはゆっくり休んで?」


優しく温かい雪菜の声。俺は眠りに落ちそうな声で雪菜に伝える。


「ありがとな、雪菜。俺なんかの為に本当にありがとう」


意識が途絶えてしまう狭間で、俺は雪菜に伝える。もしかしたら起きた時、俺はこの言葉を覚えてはいないのかもしれない。でも、雪菜がずっと居てくれるから俺は強くなれるんだ。


そして俺は意識をなくす。それは悲観的になるものではなく、単純に薬の作用で眠くなっているだけだ。そんな曖昧な意識の中で最後に雪菜の声が聞こえたような気がした。


「当たり前でしょ。あたしにとって拓真は、大切な家族なんだから」






 風邪も治り、気が付けば休み明けには期末テストが始まる。


部活動はテスト期間と言う事で中止になり、当たり前のようにB棟三階右端の教室の鍵も貸し出されなくなる。それを惜しんでなのか、はたまたテストという現実から目を背けたいのか、俺等は普段通りB棟三階右端の教室に来ていた。


賑わっている教室内。それもそうだろう。新しいメンバーと言っていいのか分からないが、斉藤一葉も教室に来ている。


思い返せば本当にこの教室に来る奴が増えたものだ。初めは俺だけだったのに、気が付いてみれば狭い教室がパンパンになってしまっている。


明るい声が響いている事は嬉しい事だ。俺が一人だった頃、この教室はとても静かで忘れ去らせてしまっているかのようだった。でも今は違う。こんなに沢山の阿呆共が集う賑やかな場所へと姿を変えた。


俺は普段通り一番廊下に近い場所にいる。そこから見えるのは斉藤が神沢と牧下に絡んでいる姿。


風邪が治ってレイに話しを聞いてみれば、神沢はファンクラブの反牧下勢力の鎮圧はとても簡単なものだったらしい。要点だけを言えば、神沢には牧下という彼女が出来るが、周期的に神沢司がファンクラブへと訪れるという条件を出して、瞬殺したらしい。


ファンクラブの彼女達からしてみれば願ったり叶ったりだ。それは神沢スマイルで言われてしまえば了承するしかない。レイは暴力担当で行ったらしいが、そんな状況にはならず、ただただ神沢のイケメンっぷりを見せ付けられたらしい。後々愚痴られた。


それ以外にも雪菜は佐々路と楽しそうに話しているし、レイも翔悟と一緒に崎本を苛めている。この情景は俺がずっと見てきたものだ。


とても楽しくて、とても賑やかで、とても幸せな空間。


俺は廊下側から歩き出し、窓際へと場所を移動する。窓を開ければ冬間近な冷たい空気が教室内に入り込んでくる。だが、人口密度が高いこの空間ではその冷たい風が気持ちの良い風へと変換される。


窓を開けた事にも誰も気が付いてはいない。俺はそのまま皆に背を向け外の景色を眺めた。


一年生の頃にここに来た俺はこの景色を見て何かを感じた。それは何もないという事だ。だがこの景色は時間が経つにつれて俺にこう言ったんだ。


『何も無くて良い。何も無いが良い。それでも綺麗に見えるだろ?』


確かにそうかもしれない。何もないのに綺麗に見えてしまうこの景色は本当になんなのかと疑問を覚えてしまうくらいだ。それが本当に何か意味のあるものだと俺はずっと信じ続けてきた。


何も無くて良いんだ。何も無いが良いんだ。それでも俺等は人として感情があって日常を生きてきて、その全てが綺麗に見える。


天才とか凡人とかなんて関係なく、人は綺麗を自分で見つけ出せる。そしてそれは他者へと繋げる事が出来る。俺はそう思っていた。


窓の外は季節のせいですぐに夕日が落ちてしまい暗くなる。そんな外の世界を認識した皆は帰り支度を始める。特別何かを鞄から出しているわけではないので、その支度もすぐに終わってしまう。


そして皆が何事も無かったように教室から出て行く。


「おい。拓真はまだ帰らないのか? あー天才さんは休み明けのテストなんか気にしないって事なんですかね」


レイの冗談交じりな台詞。レイの表情は柔らかく微笑んでいて、俺をからかっているのだとすぐに分かる。でも俺はそんな風に楽しめなかった。


俺は窓際に居るままレイの言葉を聞いて俯き、そして顔を上げる。きっとその顔は顰めているだろう。俺の表情に気が付いたのか、レイは何も言わないでその場から立ち去った。


そして残される天凡な俺。


もう一度、夜の綺麗な星空を眺める為に窓の方へと身体を向ける。空を見上げれば煌く星々の輝き。ネットの画像で見た満天の星空と言うわけではないが、確実に星達は瞬いている。


静まり返ったB棟三階右端の教室。先程まで楽しげな声で溢れかえっていた教室。


俺は空から視線を変えB棟から見える校舎裏の地面を見つめた。そして思う。いつもと何も変わらない楽しいB棟右端の教室にはもう……。


一之瀬 夏蓮はいない。

 

 

 

 

  

 

はい。どうも、さかなです。

今回で第七部が終わりました。


書き終わって思う事は、初めに想像していた内容とは異なるという事です。

言い訳をしても良いのであれば、勝手にキャラが動いに限ります。


書きながらどうにか自分の想像へと導こうとしているのに、私の思いもよらない台詞を言ったりして、凄く私を困らせてくれました。


なのでもしかしたら話の内容的につまらないと思ってしまうかもしれません。

でも、キャラが勝手に動いたは筆者、すなわち私の責任です。

それでも面白いと思える話を書いたつもりです。


私のスキルが足りないばかりに迷惑をかけます。本当にすみません。


これで本当に良かったのかは分かりませんが、これからも『天才少女と凡人な俺。』をよろしくお願いします。


でわ、さかなでした。

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