34 後編 (拓真)
修学旅行二日目の夜。
昼間に斉藤に言われた言葉。その一言が今の俺の存在価値すら無いものなのだと思えてしまう。心に翳りがかかったように何も見えない。
俺は斉藤の依頼を本当に成しえる事ができると思っていたのだろうか。本当は一之瀬に拒絶された時からこの結果が見えていたのではないのか。
何度も何度も同じような思考を巡らせては大丈夫と言い聞かし自分を鼓舞してきたが、依頼主に間接的だが必要ないと言われてしまえば終りも同然。
自分の無力を噛み締めながら修学旅行を終える事になってしまうだろう。
そんな俺は今ホテルの部屋にいる。隣ではレイと崎本が騒いでいるが今の俺にはどうでもいい事だ。神沢は少し前に誰かに呼び出されたみたいで部屋を出ている。
きっと神沢ファンクラブの奴が告白でもするのだろう。修学旅行という親から離れた空間なら誰しもが浮かれてしまうものだ。
ファンクラブといえば昼間に会った反牧下勢力。あの時は自分の不甲斐なさと友人を傷つけられた痛みが混同し怒りをぶつけてしまったが、冷静になった今考えてみると男性として本当に最低な行動をしてしまったと反省している。
もう少し言い方があったのでないかと後悔の連続です。でも、あの女子たちは卑劣なやり方を使ってでも牧下を貶めようとしたんだ。少しくらい脅しておいても平気だろう。
窓際の椅子に座りながら俺は今日の出来事を振り返っている。だが
「おい崎本っ!! さっきからどうしてお前ばっかり勝っちまうんだよっ!!」
「なんだよ城鐘ー。さてはお前ポーカー弱いなー?」
楽しく遊ぶのは勝手なんですが、もう少し声のボリューム落とせないんですかねっ!? つかポーカーかよおおおおおおおおっ!! 表情に出るレイには難易度の高いゲームだよおおおおおおっ!!
ポーカーフェイスが出来るほどレイは器用じゃないんだよおおおおおおっ!!
二人に関わりたくないと思いながらも脳内ツッコミをしてしまうのは俺の弱さだと思います。表面上は冷静を装っていても内面はもうレッツパーリーですよ。
そして俺は一つ深い溜め息を吐く。そんな溜め息も二人には聞こえておらず俺は再び窓の外を眺める。まぁ室内が明るいから殆ど何も見えないんですけどね。
だが、ふと視線を落としてみると誰かが歩いているのが見えた。少し遅くなっている時間帯なのにいったい誰が外に行こうというのだろうか。
俺は目を凝らしその人物を確認しようとする。それが知らない人ならばそれで終わっていた話なのだが、そこに居たのは斉藤 一葉だった。
こんな時間にいったいどこに行こうって言うのだろうか。そんな疑問を浮かべていながらもどうせ自分には何もできないのだと思い思考を停止させようとした。
だが、一瞬何か脳内を駆け巡ったような気がする。斉藤がこの時間にどこかに行こうとしている理由。
そうだ。斉藤は俺に言ったんだ。『私は今夜、自分の罪を償う』この言葉の意味が分からなかった。それに俺はそんな言葉よりも斉藤にもう何もしなくて良いと言われた事がショックで斉藤の本心を見ようとしていなかったんじゃないのか?
だとすれば斉藤の罪、それは神沢ストーカー事件の真犯人という事。その罪を償うって事は神沢に全てを話すって事なのか……?
そして神沢は今ここに居ない。誰かに呼び出されたという誰かが斉藤だとすれば、俺の考えている事の辻褄が合う。今から神沢に全てを話そうって言うのか……?
それが斉藤が決めた答えだって言うのか……? 俺はこんな所で何もしなくていいのか……?
自問自答を繰り返しながらも行動を起こそうとはしない俺。その時
「なぁ拓真。お前は昔からやりたいようにやってる馬鹿だろ? 今更難しく考えんなよ」
「そうそう。小枝樹は少し難しく考えてるよな。何も出来なくても最後まで見届けるのが今の小枝樹のやるべき事なんじゃないの?」
トランプに夢中だと思っていた二人がゲームをしながら俺に言う。いったい俺の方は向いていない。むしろ普通にトランプをしている。なのにどうしてこの二人は……。
「あーもうめんどくせーなぁっ!! さっさと行って来いよ拓真。ここから先はお前にしか出来ないんだからよ」
ポーカーでまた負けたのか苛立ちながら言うレイ。だけどその言葉を聞いて俺は少し考える。
昔の俺、今の俺。それはきっと同じようで同じじゃない。でも今の俺がしたい事は、斉藤を追いかけたい。そして全てを知りたいし出来る事ならばどうにかだってしたい。なら、今の俺がやるべき事は……。
「ごめん二人とも、少し外に行ってくる」
そう言い俺は動き出す。部屋を出る瞬間に二人の方を一瞬だけ見たが、俺の方を向いて笑っているような気がした。
ホテルの外に出た俺は斉藤を探していた。
何が出来るのか分からないし、これが最善で正しい判断なのかも分からない。だけど、レイと崎本に言われたように俺は最後まで依頼を遂行する義務がある。
中途半端に終わらせる事なんて出来ない。だから今の俺は懸命に斉藤を探しているんだ。
きっと沢山考えた。もしかしたら足りなかったのかもしれない。どこで間違って、何が正しかったのかを探し続けた。でも、そんなものは初めから間違っていて初めから正しかったと言われればそれまでなんだ。
昔の俺は何を思って行動していた? それは自分の正しいを信じぬいて最後まで自分の信念を曲げなかった事だ。
なら、今の俺が抱いている信念ってなんなんだ? 誰かを救う事、皆の笑顔を守る事、依頼の成功、斉藤の願い、牧下の気持ち、神沢の想い……。
その全てだ。
がむしゃらになっても良いんだ。もうつまらない事は考えるな。俺が小枝樹拓真である為に……。
「司様っ!!」
自分が今いる場所から少し離れたひと気のない場所。その方向から聞き覚えのある……、というか斉藤の声が確かに聞こえた。
その声が聞こえたほうに俺は走る。そして斉藤と神沢が一緒にいる姿が視界に入る。俺はその光景を目の当たりにして二人にばれないように物影に隠れた。
「君が僕を呼び出した子かな?」
「はい……。夜に司様を呼び出すなんて申し訳ない事をしているのは分かっています。でも、私の話を聞いてもらいたかったから……」
やはり俺の推測通り、斉藤が神沢を呼び出していた。
向かい合って話をしている二人。距離が少しばかり遠いせいで表情までは見えない。でも、声だけはちゃんと聞こえてきた。
「話を聞いてもらいたいって、もしかして僕に告白? それなら悪いけど、今の僕には好きな人がいるんだ」
「はい、存じ上げております。牧下 優姫さんですよね?」
二人の会話を聞きながら俺はもう少し近くへと忍び寄る。数メートル先にいる二人の表情が見える場所まで接近する事ができた。
「それを知っているなら何を僕に話したいんだい?」
「きっと司様は忘れているかもしれませんが、私は前に司様に告白しているんですよ」
俯きながらも少し微笑む斉藤。そして斉藤は言葉を続ける。
「その告白の結果は司様も分かるようにフられてしまいました。でも、それだけじゃ治まらなかった私は大きな罪を犯してしまったのです」
斉藤から笑みが消えた。そしてここまで俺が予測していた事が現実になってしまって胸が苦しくなる。
「司様は小枝樹拓真にある依頼をしましたよね? それはストーカーをどうにかして欲しいという内容」
「どうして君が、それを知っているの……?」
不安げな表情を見れる神沢。それもそうだろう。誰も知らない裏の事情を殆ど関係を持っていない女子が知っているのだから。寧ろ全てを知っているのはきっと俺だけだ……。その真実を言えなかった俺にも落ち度はある。
「だって、そのストーカー事件の犯人は私なんですから」
風が一瞬強く吹いた。反射的に髪の毛を押さえてしまうほどの風。だが、自分の髪を押さえながら見た神沢と斉藤は微動だにせず、まるで二人の時間が風に攫われてしまったように感じた。
そして風が止む。大きく瞳を見開いている神沢は言葉を探しているようで口を小さく開けていた。だが、初めに静寂を破ったのは斉藤のほうだった。
「きっと私が犯人だと知っているのは小枝樹拓真だけでしょう……。彼が私を庇ってくれたから……」
「小枝樹くんが君を……?」
いっこうに神沢の動揺は収まらない。次々に出てくる自分の知らない真実を受け止めるだけで精一杯みたいだった。
「はい。小枝樹拓真は私が犯人だと知りながら公にはしなかった。それが何故なのかその時の私には分からなかったけど、今なら何となく分かります」
「も、もしも君の言っている事が真実なら小枝樹くんは全部僕に隠してたって事だよね……? 小枝樹くんはずっと嘘を付いてたって事だよね……?」
斉藤の話を聞いて神沢がどういう風に解釈するのかは自由だ。それに俺はずっと神沢にこの真実を隠してきたのも事実だし、嘘をついていたと言われればそれも否定は出来ない。
本当に何をやっても上手くいかないな。天才の俺はどうやって結果を残してきていたのだろう。凡人でいる時間のほうが短いのに、天才に戻る術を今の俺は完璧には理解していないんだ。
もう、神沢とは一緒にいられないのかもしれないな。別に斉藤を責めるつもりはない。全て本当にあった出来事なのだから……。だが
「それは違います司様っ!!」
目を背けてしまいそうになっていた俺は、斉藤の声で再び二人の方へと視線を戻した。
「小枝樹拓真はあの時に言っていました。これはストーキングを止めさせるっていう依頼であって犯人を捕まえるのが目的じゃないって……。だから、私の事を気味悪がっても、憎んでももらっても構いません。でも、小枝樹拓真の事だけは嫌いにならないでください」
私の事を嫌いになっても……? 斉藤は何を言っているんだ……? だって斉藤は神沢の事が好きで、だから牧下を守ろうとして……。なのに、どうして……。
「そんな事を今更言われたって信じられるわけないじゃないか。僕は小枝樹くんを信じていたよ? でも初めに裏切ったのは小枝樹くんじゃないか」
「小枝樹拓真は裏切ってなんかいませんっ!!」
「どうして君にそんな事が言えるんだっ!!」
もう止めろ斉藤。俺の事なんて庇い続けてたら本当に神沢に嫌われちまう……。だから、もう止めてくれ……。
「だって私達は今日まで笑ってこれたからっ!!」
斉藤の叫びで空気がピンと張り詰めた。それは自然に起こってしまった現象なのだろう。だが、斉藤の声を言葉をちゃんと伝えられるようになくなったみたいだった。
「私がこの話をしなければ、私も司様も普通に生活できていたっ!! あの時の真実を知って一番苦しむのは小枝樹拓真だけ……。彼はそうやって全ての罪が自分にいくような結果を作り出しているのですっ!! だから司様、彼だけは信じて……」
本当に俺は斉藤の言ったよう事まで考えて行動をしているのであろうか。結果的にそうなってしまっているだけであって、きっと俺はそんな深くまで考えてなんかいない。
ただ、その時々の目の前にある問題をクリアする為に付加として誰も傷つかないを入れているだけだ。それが先の事に関係するなんて微塵にも思っていない。
だからきっと斉藤の答えは俺を買い被り過ぎているだけだ。俺はそんなに良い奴なんかじゃない。
「今の私は何を話したいのか全然分かりません……!! 本当は自分の罪を償う為に真実を話したのに、結果を見てみれば私ではなく小枝樹拓真が悪者になっている……。本当に無様な姿……。ただ、大好きな司様が前に進んでもらいたいって思っているだけなのに……」
「僕が、前に……?」
少しだけ二人とも冷静になり始めている。
「私は小枝樹拓真に教えられたのです。誰かが背中を押してくれる事もある。誰かが隣で支えてくれる事もある。その言葉も行動もとても掛け替えの無いもの。でも、最後に一歩踏み出すのは自分じゃなきゃ意味がない。確かにその一歩はとても怖いものだと私も思います。今だって司様に嫌われてしまう恐怖と戦いながら言葉を紡いでいます」
震えていた。斉藤は恐怖と戦いながら自分の罪を償おうとしている。その姿は少し前までの自分と重なって、だけど斉藤は俺なんかよりも強くて……。一番正しい答えを導き出せているんだ。
「でも、私は司様が大好きだから……。大好きな人には大好きな人と笑っていて欲しいから……。だから私は今ここにいる。自分のワガママを伝える為に、ウジウジしている司様を激励する為に……!! どんなに私が小さくたって、私の気持ちが大きいのには変わらないっ!!」
斉藤は笑っていた。その笑顔が作っているものなのか本物なのかは俺には分からない。でも、その笑顔が本物だと信じたい自分は確かにここにいた。
「どうして君はそこまで出来るの……? どうして君は━━」
「さっきも言いましたよね。私は司様が大好きだからです」
神沢の言葉を遮りながら言う斉藤。その凛々しい姿に神沢も言葉を失っている。そして再び時が動き出す。
「か、か、神沢くんっ!!」
それは突然の出来事だった。俺は目の前の光景が信じられなくて、そしてタイミングがあまりにも悪すぎて、何がなんだか分からなくなってしまった。
二人はその声の方へと視線を向ける。
「牧下 優姫……」
「牧下さん……」
ほぼ同時に同じ人物の名前を呟く斉藤と神沢。そして呆然としているのは二人だけではなく俺も一緒だった。だがその時
「あれ? 小枝樹も覗き見してるの?」
俺の背後から女子の声が聞こえる。目の前に広がっている三人の光景を見ていなきゃいけないが、後ろの存在も気になった俺は振り向いた。そこにいたのは
「どうして佐々路がこんな所にいるんだよ……」
佐々路楓の姿がそこにあった。
「いやいや、あたしにだって行動の自由があるんだよ。というか小枝樹だって覗いてるんだからいいじゃん」
「覗いてるなんて言い方はやめろ。俺は最後まで見届けるって決めたからここに来てるんだ。それに今はお前の相手をしてる場合じゃない。牧下がいきなり来ちまったんだよ」
声量を押さえながら、それでも感情的に現状を説明しようと俺は試みた。だが、そんなものは上手くいかず口をパクパクと動かし後の言葉に詰まっている始末。
「もう別に無理に説明しなくていいよ。要するに神沢に何かを話そうとした斉藤一葉が神沢と二人で話している所にマッキーが来ちゃったって事でしょ?」
佐々路さん……。あんた天才か。いやいや、天才の俺が言うのもなんだけど、この状況を見て俺から意味不明な話を聞いただけでよくもまぁそこまで解釈できるよ。
「まぁマッキーを焚きつけたのはあたしだし。あ、焚きつけるって言っても嘘とか騙したりとか唆したりしたわけじゃないよ? 本当のあたしの気持ちを言ってマッキーはそれに応えてくれただけだから」
少し嬉しそうな表情の中にある悲しみ。それが何を意味しているのかは俺には分からない。でも、佐々路が本気で牧下を想っているって事だけは分かる。
「ほら小枝樹。話してないで三人の様子を見る」
俺は別に話してないんだけどな……。そう思いながらも俺は佐々路に言われるがまま視線を三人へと戻した。
「どうして牧下さんがここにいるの……?」
「はぁはぁはぁ……。か、神沢くんに話したい事が、あ、あったから……」
不安げな表情を見せる神沢。そして走り回ったのか息を切らしている牧下の額には汗が滲んでいた。
だけど、今ここに居るのは神沢と牧下のの二人だけではない。斉藤一葉もいるのだ。
「いまさら何をしに来た。牧下優姫」
牧下を睨みつける斉藤の言葉には棘があった。だが、おかしい。斉藤は自分の罪を全て神沢に話す事と、神沢が前に進めるようにする事を考えていたはずだ。その考えがある斉藤がどうして牧下を敵視するような言動をする。
斉藤の威圧に少しだけ恐怖を感じている牧下。だが、前にレイも言っていたように牧下優姫という小さな女の子はとても強い女の子なんだ。
「わ、私は自分の気持ちを神沢くんに伝えに来たの。だから、外してもらえないかな」
斉藤の威嚇に負けじと睨み返す牧下。だが、そんな牧下の姿が斉藤の逆鱗に触れた。
「なにが気持ちを伝えるだ……!! お前のせいで司様がどれ程苦しい気持ちになったのかを知っているのかっ!!」
もう止められないのだと理解した。感情の沸点が完全に超えてしまっていて、今の斉藤を止められるの存在はきっとどこにも居ないだろう。
「それだけではない。司様だけではなく、お前が大切だと思っている友人をも苦しめているのだぞっ!! いまさらどの面を下げて司様の前に来ているんだっ!!」
そう。今の牧下はきっとレイの時の俺と一緒なんだ。それは牧下だけではなく神沢も一緒だ。
自分が皆を苦しめたくないという理由なだけで俺は自分が苦しみ選択をした。それが結果的に皆を苦しめるという事実から目を晒して……。それが一番いい選択なのだと信じていた。
でも、その経験をしているから分かる。それは一番全ての人が苦しんでしまう選択なんだ。大切な人も大好きな人も、全てが苦しんで悲しんで後には負の感情しか残らない……。
それを理解しているのにも関わらず、どうして牧下や神沢は俺と同じ選択を選んでしまったのか。それはとても簡単だ。
二人は何も失った事がないから……。
神沢に言われて、それがこの二人の思考を作り上げている根本なのだと理解した。だからこそ、もう二人に俺はなにも出来ないんじゃないのかと疑問すら浮かべた。
でも俺には出来る。そう思っていた矢先に斉藤からの言葉。俺は何も分からなくなった。でもそれが答えだったのかもしれない。
俺には何も出来ない。でも斉藤なら二人をどうにかできる。結局最終的には他力本願な最低野郎。依頼も完遂できず、負け組みな俺。
そんな俺は沢山の思考を巡らせながら、結果を見届ける事しかできないんだ。
「小枝樹拓真は私に言った。友達だから助けると。だが、お前はどうなんだ牧下優姫っ!! 勝手に自分の中で答えを決めて、それが一番なのだと思い込み結果的に友人を苦しめた気持ちはどうなんだっ!! お前は他者の事を考えているようでまるで考えてなんかいないっ!!」
叫び散らす斉藤。その怒号は雲をも切り裂いてしまうくらいの勢いで、夜の帳を完全に壊してしまっていた。
「そ、そうだよ。わ、私は最低な女。自分が苦しみたくないから全てを他人のせいにして逃げた女だよ」
感情を止められていない斉藤とは正反対に牧下は冷静に返答をする。だが、その言葉には揺ぎ無い信念と自分の全てを理解しているといった感情が込められていた。
「私はね、ズルイ子なんだ。友達が苦しんでいたら力になりたいとか、大切な人が傷ついているなら癒したいとか、そんな事を思っているのに何もしない。自分に出切る事はその場で騒ぎ立てて納得がいくまで行動して……。それって貴女が言ったように他人の気持ちなんか考えていないんだよね……」
とても優しい声だった。少し吹く風に乗っかって牧下の声が耳に届く。だけど、その声音には苦しみが混ざっていた。
「自分のやりたい事だけをやって、それが駄目なら諦める。でも、友達がいなかったからどうしていいのかなんて私には分からなかった……。何が正しくて何が最善かなんて私には分からなかった……!!」
語尾が叫びに変わる牧下。そこまで聞いて俺には少しの疑問を抱いてしまった。
どうして今の牧下は吃っていないのだろう。前にもこんな出来事があったよな。だけどそれがいつなのか思い出せない。だけど思う。
今のこの牧下の姿が本物の牧下優姫なんだって。
「結局、全部何も知らない私のせい……。それもこれも私が何も得た事がなかったから……」
「何も、得た事がなかったから……?」
牧下の話を聞いて脱力している様子の斉藤。その口からは弱々しく牧下の言葉を繰り返すだけだった。
「そう。私は何も得た事がなかった。大切な人も大好きな人も……。だから私は━━」
「ふざけた事言わないでよっ!!!!」
再びの斉藤の叫び声で空気が震えたような気がした。
「何が得た事がないよ。なにも得た事がないだけで私から司様を奪わないでよっ!!」
「……っ!!」
斉藤の言葉を聞いた牧下の表情が変わった、それは、驚きと考えもしていなかった事実。そう、牧下優姫は得るとか傷つけるとかの前に他者から大切な存在を奪っているのだ。
それに今の斉藤の気持ちは俺にも分かる。
B棟三階右端の教室の鍵を一之瀬に取られた時の俺の気持ちと同じなんだ。大切で誰にも取られたくなくて、それが無いと今の自分を保つ事すら出来なくなる。
それくらい依存していて、それくら大切な存在。
「司様の気持ちを優先したい私もいる……。でも、アンタみたいな中途半端な奴に奪われるの嫌……。自分が他者から奪っているという事を理解してないアンタなんかに司様は渡せないっ!!」
強く言い放つ斉藤。その勢いに負けてしまったのか牧下は何も言わずに俯いてしまった。だが、その時
「もう止めてよっ!!」
神沢の叫び声が響いた。
「君はどうして牧下さんの事をそんなに傷つけるのっ!? 何で苦しめるような事を言うのっ!? そんなんだから君の好意的な感情が歪んでしまうんだっ!!」
神沢の言葉を聞いた斉藤は大きく目を見開きながら神沢を見つめた。そして驚いているという表情を崩さないまま、一粒の大きな涙を流した。
その光景を見た俺に芽生えた感情は怒りだった。
だってそうだろう。斉藤は嫌われる事を覚悟の上で神沢に自分の真実を言って、牧下にだって素直な自分の気持ちをぶつけているだけだ。その行動をする事がどれほど怖いことか神沢は分かってない。
「わ、私の感情は……、歪んで……。私は……、私は……!!」
震えながらその場で崩れ落ちる斉藤。半狂乱に近いのかもしれない。それくらい混乱してしまっていて、まともに話すことすら出来ない状況だった。
そんな斉藤の横を通り過ぎ、牧下は神沢の目の前まで足を運ぶ。そして
バチンッ
大きく響き渡る音。それは牧下が神沢の頬を叩いた音だった。
「そんな酷い事をどうして神沢くんは言うのっ!!」
「ま、牧下さん……?」
自分の頬を押さえながら現状を把握しようと試みている神沢。だが、そんなものは分からないままで、ただただ好きな人に叩かれたと言う現実だけが分かっているようだった。
「この子は神沢くんが好きなんだよっ!? ずっと憧れててじっと見てたんだよっ!? そんな大好きな人に自分の事を否定されたらどんな気持ちになるのかくらい神沢くんにも分かるでしょ!?」
斉藤を庇護するような牧下の態度。神沢を睨みながら牧下は続けて言葉を紡ぐ。
「私は神沢くんの事が好き、大好きだよ? この気持ちを神沢くんに言いたかった。でも、女の子を悲しませる神沢くんは嫌い」
そう言うと牧下は斉藤の所まで行き抱きしめる。
「大丈夫だよ。こんな私に言われても信じてもらえないって分かってる。でも、私も大好きな友達にこうしてもらったから……。大丈夫なんだって教えてもらったから……。だから貴女も大丈夫だよ」
「ま、牧下……、優姫……?」
今の斉藤は何が起こっているのか分からない状況だった。でも牧下に抱きしめられて優しい言葉を言われているのだけは分かっていたみたいだった。
「どうして……。どうして、こんな私に優しくするんだ……。牧下優姫……」
「だって、誰かを好きになって一生懸命になる女の子の気持ちが今の私には分かるから。神沢くんの気持ちを独り占めしちゃってる私を憎むのはしょうがない事も分かる。それに私が貴女を苦しめた事実だって消えない。でも、もう私は独りじゃないから、大切な人だと思える存在を自分で決められる。だから私は、ただ貴女に泣いて欲しくないだけ」
俺がいる方角から斉藤を抱きしめる牧下の表情は見えない。でも、今の牧下の言葉を聞いた斉藤が顔をクシャクシャにして涙を流している姿は見えた。
そんな斉藤の姿を見て、牧下の気持ちを聞いて、神沢の表情を見ていたらこの場所にいるのが辛くなってしまった。
本当はこのまま全てを見届けなくてはいけないと分かっている。でも
「悪い佐々路……。後の事はお前が見ていてくれ……」
「ちょ、小枝樹っ!?」
俺はその場から逃げ出してしまった。
何も無いと分かりながら、俺は何度も何度も逃げ続けるという選択をする。