闇の向こう
空腹を満たしすっかり満足した王子は、改めて部屋を見回す。埃ひとつ落ちていないこの部屋は、誰かが暮らしているようであった。それに、いつの間にか点いていたシャンデリアの蝋燭と、先程食べてしまった料理。やはり、誰かいるに違いなかった。
しかし、姿を現さないのも怪しい。もしかしたら、恐ろしい魔性の者のすみかに迷い込んでしまったのかもしれない。そんな考えから、彼は一瞬寒気がした。
ここから出るべきか。だが、もしこの塔の主が良心で自分に料理を用意してくれたのなら?
もう外は闇に染まっており、月さえ無い。森に出たところで、帰り道はきっと分からないだろう。
彼は思い直し、今晩はこの塔に留まることにした。今晩だけ――この選択が、後にどれだけ恐ろしいことになるかも知らずに。
吸い寄せられるようにして、王子はベッドに倒れ込んだ。肌触りの良いシーツに顔を埋め、今頃城で必死になって自分を捜しているであろう大臣達のことを思い浮かべる。 申し訳ない気持ちになったが、今更どうすることもできないのだ。布団から漂う良い芳香に誘われるように、彼は眠りに落ちた。はい上がることができない奈落の底に落ちてゆく。そんな、深い深い眠りに。
***
――闇。王子はいつの間にか、漆黒の空間にいた 。足が動かない。それどころか、体が動かない。首や指先などはかろうじて動かすことができた。
何だか、背中に違和感がある。どうやら、背中が固定されているようであった。
と、その時。闇の中に、赤い光が見えた。 一つでは無い。四つ、いや八つ。八つの赤い光が、同じ速さでこちらへ向かってくる。同時に、背中を固定しているらしきものが揺れる。彼の体も細かく揺れた。光は、始めは浮いているように見えたが、近付くにつれ、後ろに黒い大きな影があることが分かる。
あと1メートルというところまで光が来たとき、急に王子の胸が熱くなってきた。焼けるような炎の熱さではなく、春の陽射しのような、温もりのある、優しげな熱。
それは橙色の光となり、辺りを包みこむ。瞬間、赤い光の全貌があらわになった。
(あれは――…!)
王子の視界が、橙の光で眩む。
***
――闇。しかし先程とは違い、確かに彼はすべらかなシーツの上にいた。
「…夢か」
王子は、安堵のため息をついた。無意識に胸に遣った右の掌が、熱を持った物体に触れる。それは、ペンダントであった。 幼い頃に亡くなった母の形見である。ヘマタイトという黒い光沢のある石が丸く小さく削られたものがついている。そのヘマタイトが、体温で温まったとは思えない熱を持っていた。
(夢では無かったのか…?)
不思議に思っていると、何かの声が聞こえた。
「――…さま」
鈴を思わせる、可愛いらしい声。
「王子さま……」
「誰…だ?」
起き上がって声のした方へ振り向くと、そこには――
「お待ちしておりましたよ…」
金の糸で細やかな刺繍が施された、青のドレス。闇にぼんやりと浮かぶように、女が立っていた。
王子はどうなるのでしょう…