『信じるものは』
「今月、ちょっと足りない」
娘がそう言うと、母親はすぐに財布を開いた。
「いくら?」
「二万円くらい」
「貸すよ、お給料入るまでね」
娘は少し困った顔をした。
「でも、今はバイトできないし……」
「働いてから返してくれればいいから」
母親は笑った。
娘には毎月、父親からの養育費も振り込まれていた。
生活に必要なお金は、それなりに確保されている。
それでも娘が困ると、母親はお金を出した。
交通費。
洋服代。
美容代。
ちょっとした買い物。
「お母さんに言いなさい」
母親はいつもそう言った。
娘が何かを欲しがれば、
「いくら?」
と聞いた。
娘が困れば、
「貸すよ」
と言った。
娘が喜べば、母親も嬉しかった。
だから母親は、自分は良い母親だと思っていた。
けれど、娘が少しずつ母親から離れていくことには気づかなかった。
連絡が減った。
家に来る回数も減った。
電話をしても、
「今忙しい」
と言われることが増えた。
それでも母親は気にしなかった。
「大人になれば、そんなもの」
そう言って、通帳を確認した。
お金さえあれば、いつでも娘を助けられる。
お金さえあれば、娘との繋がりは切れない。
母親は、そう信じていた。
娘が就職すると、母親は少し期待した。
「これからは自分で稼げるんだから、少しは楽になるわね」
けれど、娘は自分の給料での生活を始めた。
母親にお金を渡すことはなかった。
「一人暮らしってお金かかるんだよ」
娘がそう言うと、
「でも、あなたにはお父さんから養育費も出てたでしょう?」
母親は言った。
娘は黙った。
母親には、その沈黙の意味が分からなかった。
「あなたに、いくら使ったと思ってるの?」
母親は、そう言った。
娘は小さく息を吐いた。
「……その話はもういいよ」
「何が?」
「お金の話」
母親は傷ついた。
けれど、反省はしなかった。
「心配してるのに」
そう思った。
娘が結婚したあとも、母親は何かあるたびにお金を出そうとした。
孫の誕生日。
入学祝い。
引っ越し祝い。
「これくらい受け取って」
娘が断っても、
「いいから」
と押しつけた。
そして帰宅すると、母親は通帳に金額を書き込んだ。
いくら渡したか。
いつ渡したか。
何のために渡したか。
忘れないように、きちんと記録していた。
それは母親にとって、愛情の記録だった。
年月が流れた。
母親は年を取り、娘との連絡はさらに減った。
娘から電話が来るのは、母親の誕生日や母の日くらいになった。
それでも母親は、
「忙しいんだから仕方ない」
と言った。
そして電話を切ったあと、独り言のように呟いた。
「まあ、困ったら私が助けてあげればいいんだから」
通帳には、まだ十分なお金があった。
だから大丈夫。
お金があれば、娘は自分を必要としてくれる。
そう思っていた。
ある日、母親は体調を崩した。
病院で検査を受けることになった。
受付を済ませ、待合室で一人座っていると、隣の老人たちが話していた。
「娘さん、今日は来ないの?」
「仕事があるからね。でも、明日は来てくれるって」
母親は何となく聞いていた。
そして、自分のiPhoneを見る。
娘からの連絡はない。
少し寂しくなった。
けれど、すぐに考え直した。
「まあ、仕方ないわよね」
そして思った。
――必要になったら、お金を出してあげればいい。
――そうすれば、きっと来てくれる。
母親は財布の中を確認した。
現金は十分にある。
銀行口座にもある。
だから大丈夫。
娘に何かあったら、いつでも助けられる。
娘もきっと、それを分かっている。
母親は安心した。
だから、
自分が寂しい理由も、
娘が距離を置いている理由も、
気づかない。
ただ、
「私は、ちゃんと娘を愛してきた」
そう思いながら、母親は通帳を引き出しにしまう。
そこには、娘に貸したお金と、渡したお金の記録が何十年分も残っている。
母親にとっては、
それが娘を愛した証拠だった。




