星がひとつ、増えた夜
夜になると、私はベランダに出て、星を数える。
特別な理由があるわけじゃない。少なくとも、誰かに説明できるような理由は。
街の灯りは年々明るくなって、空は昔よりずっと賑やかだ。それでも、目を凝らせば星はいくつか見える。多くはないけれど、確かにそこにある数だけは、毎晩変わらない。私はそれを確かめるように、指でなぞりながら数える。
一つ、二つ、三つ。
途中で数を間違えても、やり直せばいい。星は逃げないし、急かすこともない。減っていなければ、それでいい。増えていなければ、なおさらだ。
どうして星を数えるようになったのか、いつからだったのか、正確には覚えていない。気づいたら、そうしていた。歯を磨く前に洗面台の鏡を見るみたいに、眠る前に空を見上げるのが、当たり前のことになっていた。
風が吹くと、洗濯物がかすかに揺れる。その音を聞きながら、私は星の数を胸の中にしまう。覚えておくためではない。忘れないためでもない。ただ、確認するためだ。
今夜も、いつもと同じ数だった。
そう思いながら、最後にもう一度だけ空を見上げて、私は小さく息を吐いた。
朝は、目覚ましより少し早く目が覚めた。カーテンの隙間から差し込む光は、昨日とほとんど同じ角度で、部屋の床に細長い線をつくっている。私はその線を踏まないように歩き、台所へ向かった。
コーヒーを淹れる。粉を計って、お湯を注ぐ。湯気が立ちのぼるあいだ、何も考えないようにするのが、最近の習慣だ。味はいつもと変わらない。少し苦くて、少しだけ酸味が残る。悪くない。
玄関を出ると、空気がひんやりしていた。季節は確実に進んでいるのに、私はまだ昨日の延長線上にいる気がする。駅までの道で、同じ犬を散歩させている人とすれ違い、同じ信号で足を止める。挨拶はしないけれど、存在だけは知っている関係だ。
電車の中では、窓に映る自分の顔を見る。少し疲れているようにも見えるし、そうでもないようにも見える。吊り革を握る力を、意識して弱める。強く握りすぎると、あとで手が痛くなる。
昼休み、机の上でコンビニのおにぎりを包み紙から出す。中身は昨日と同じ具だった。偶然なのに、わざわざ選んだみたいで、少しだけ可笑しい。誰にも言わず、心の中で笑う。
午後は、特に何も起こらない。書類に目を通し、必要な返事を返し、時間が過ぎるのを待つ。時計を見ないようにしていても、いつの間にか針は進んでいる。
帰り道、夕焼けがビルの隙間に挟まっていた。立ち止まるほどではないけれど、見逃すのも惜しくて、歩く速度を少しだけ落とす。ポケットの中で鍵が鳴った。
夜になって、部屋の灯りをつける。昼間よりも、ここにあるものがはっきり見える気がした。
それでも一日は、昨日と変わらず終わる。
そう思っていた、このときまでは。
夜、ベランダに出ると、昼間の気配がすっかり引いていた。遠くの車の音も、昼より少なく、街は息をひそめているようだった。私は手すりに肘をつき、いつものように空を見上げる。
一つ、二つ、三つ。
昨日と同じ順番で数える。指先でなぞる場所も、目を向ける角度も、ほとんど変わらない。変わらないはずだった。
四つ目を数えたところで、指が止まった。
そこに、昨日はいなかった光がある。強くも弱くもない、ただ静かに瞬いている星だ。目をこすって、もう一度見る。視線を外してから、また戻す。それでも消えない。
見間違いだと思おうとした。雲の切れ間か、飛行機の光かもしれない。そうやって理由を探すのは、簡単だった。でも、どれもぴたりとは当てはまらない。星は、そこに居続けていた。
数え直す。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。
確かに、ひとつ多い。
胸の奥で、小さく何かが動いた。驚きとも、不安ともつかない感覚だ。減っていないことを確かめるために数えていたはずなのに、増えているという事実は、想定していなかった。
しばらく、その星から目を離せずにいた。瞬きのたびに消えてしまいそうで、でも、目を開けるたびに、ちゃんとそこにある。逃げない。隠れない。
そのとき、下の階から子どもの声が聞こえた。窓が開いているらしく、はっきりと届く。
「ねえ、星、増えてない?」
答える声はなかったけれど、私は思わず息を止めた。私だけの錯覚ではない。そのことが、なぜだか胸に染みた。
もう一度、空を見る。
星は、まだそこにある。
消える気配は、なかった。
部屋に戻っても、すぐには明かりをつけなかった。窓越しに見える夜空は、室内の暗さと混じり合って、輪郭を失っている。それでも、さっき見た光の位置だけは、なぜかはっきりとわかった。
星が増えるなんて、そんなことがあるはずはない。頭ではそう思う。星の数は、私の気持ちとは関係なく、ずっと前から決まっている。だからこれは、偶然か、錯覚か、あるいは今まで気づかなかっただけなのだろう。
そう結論づけようとした、そのときだった。
棚の上に置いた写真立てに、ふと目が留まる。掃除の途中で出して、そのままになっていたものだ。写っているのは、少し前の私と、もう一人。どちらも今より少しだけ、無防備な顔をしている。
あの人は、星を見るのが好きだった。理由は知らない。ただ、夜になると空を見上げて、「今日はよく見えるね」とか、「雲が多いね」とか、どうでもいいことを言う。その声を聞くのが、私は嫌いじゃなかった。
思い出そうとしていたわけではない。星を見たから、連なって浮かんできただけだ。そういうことは、よくある。
——もし、星になったらさ。
不意に、声がよみがえる。冗談みたいな調子で言われた言葉だ。続きを思い出す前に、私は首を振った。意味を持たせすぎると、現実が遠のいてしまう気がした。
カーテンを少しだけ開く。夜空の一角に、あの星がある。特別な光り方はしていない。ただ、ほかの星と同じように、そこにあるだけだ。
それなのに、胸の奥が、静かにあたたかくなる。
名前を呼びそうになって、やめた。
代わりに、息を吸って、ゆっくりと吐く。
星は、何も語らない。
それでいいのだと、私は思った。
もう一度、ベランダに出た。
夜気は少し冷たく、昼間に残っていた熱を、ゆっくりと連れ去っていく。手すりに触れると、金属の感触が指先に伝わった。確かに、ここに私は立っている。
空を見上げる。
あの星は、変わらず同じ場所にあった。
呼ぶつもりはなかった。呼んでしまえば、何かが壊れる気がしていた。それでも、胸の奥に溜まっていたものが、静かに押し上げてくる。声にならない言葉が、喉の手前で止まる。
私は、息を整える。
そして、心の中で、名前を呼んだ。
音にはならない。唇も、ほとんど動いていない。それでも、確かに呼んだ。長いあいだ、呼ばないようにしてきた名前だった。
返事はない。
当然だ。
けれど、その瞬間、風が吹いた。洗濯物が、ふわりと揺れる。どこかで、かすかな布の擦れる音がした。
星が、一度だけ、強く瞬いたように見えた。
気のせいかもしれない。偶然が重なっただけかもしれない。そう言い聞かせることも、できた。でも私は、そうしなかった。
ただ、その光を見つめていた。
胸の奥にあった重さが、少しだけ形を変える。消えたわけではない。なくなったわけでもない。ただ、抱え方がわかった気がした。
私は、もう一度だけ、空を見上げる。
それで、十分だった。
それからも、夜は変わらず訪れた。
仕事を終え、部屋の灯りを落とし、眠る前にベランダへ出る。空を見上げる、その順番だけは、以前と同じだ。
けれど、星の数え方は変わった。
一つずつ確かめるように数えることは、しなくなった。減っていないか、不安になることもない。ただ、そこにある光を、ひとまとめに受け取る。夜空は、以前より少しだけ広く感じられた。
あの星は、今もある。
特別に探さなくても、自然と目に入る場所に。
名前を呼ぶことは、もうしない。呼ばなくても、失われる気がしなかった。代わりに、空を見上げながら、短く息を吸って吐く。そのたびに、胸の奥が静かに整っていく。
街の灯りは相変わらず明るく、星は多くない。それでも、足りないとは思わなかった。増えたものが、減らないと知っているからだ。
部屋に戻る前、最後にもう一度だけ空を見る。
あの夜、たしかに星はひとつ増えた。
そして、それは今も、減っていない。
私はそのことを、そっと胸にしまい、カーテンを閉めた。




