08:酸っぱい楽園
「ところで奇妙なことがある。
この考えはそこまで専門的な知識が必要な想像でもない。
なぜ今日までこの案は生まれなかったのか……やはりなにか俺たちが見落としている問題点があるんじゃないか?」
「先ほど君が評価していた不確定性が最大の弱みでもあるよね。
この案はシンギュラリティという仮定を前提として、マインドアップロードという仮定とタイムマシンという仮定を組み合わせた案だ。
組み合わせる仮定の数とその実現性を掛け合わせて考えた場合、与太話と断じられても仕方がないだろう」
「仮定に仮定を重ねたアイデアを思い付いたところで、それを膨らませたり、他人に話したりはしないか。
もちろん、普通ならな。
お前の話した案は必ず訪れる死の虚無を回避できる可能性があり、その提示だけでも指針として計り知れない価値がある。
それも全ての時間の全ての人類を対象として、永遠の寿命と無限の自由が得られることを考えても……そうか、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』だ」
「名前は聞いたことあるね。何か思い付いたの?」
「ああ、しかしこれは長くなるだろうし考えもまとめたいのでまたの機会に。
ただ無限の自由ってのはあまり刺さる人は多くないのかもなとだけ言っておく」
「わかった。えっと、じゃあ話を戻して……与太話のような可能性でも君が信じられるようになったのは、近年急速にシンギュラリティの到来を予感させる技術の発展が起こっているからかもしれないよ」
「なるほど、今までは時期尚早だったってのは考えられるな。
でも逆にAIを神格化し過ぎという意見もよく目にするが」
「これには僕も同意だったけどAIエージェントの実用化が僕の想像より早そうなので完全に否定もできない」
「AIについて細かい予想は難しいみたいだな。
あと感情について賛否分かれるのは仕方ないってところか。他にあるか?」
「あとはこういう見返りが大きすぎる話を聴くとまず身構えるよね」
「うまい話には裏があるって警戒心が身に付いてしまっているのは現代人の悲しい性だな。
ふむ、ここまで聴いて思ったんだが、たしかにこの手法は誰かが思い付いていたけど発表までは至らなかったかもしれない。
ただタナトフォビアと虚無主義者には即効性の効能があるから与太話と言われても話す価値があるという発想まで至った者がほぼいなかったんじゃないか?」
「万が一そうだとしたら誇らしいんだろうけど、そこまで自惚れてはいないよ」
「謙虚なやつめ。他になにか思い当たるか?」
「まぁ、そもそもこういったポジティブな内容よりネガティブな内容のほうが耳目を集めやすいよね」
「ネガティビティバイアスか」
「ネガティブと言えば不老不死の存在や人造の死後の世界や理想郷を造るって設定の創作物ってありふれているけど、そのほとんどが引き立て役の悪者側というか、主役をアゲるためのサゲ要素として使われてるみたいに感じるね。
そもそも不老不死と楽園の肩身が狭いよね。君が言ってた酸っぱい葡萄かな」
「だな。それに作劇上の都合で悪玉側に落ち度が無いといけないからそういう時に提示される不老不死や理想郷ってかなり穴だらけなんだよな。
そういうのを見て育ってくると、どうしても先入観が築かれてしまうんだな。
負ける準備万端のワルモノをヒーローが『限られた命だからこそ美しい!』みたいに叫んで必殺技でぶっ飛ばして人間最高! 理想郷よりクソみたいな現状に価値を見出した俺たち最高! 大団円! みたいな」
「そんな風に馬鹿にするのはよくない。急にどうしたの?」
「すまん、昔書いた小説を思い出して取り乱した。白状すれば、昔は俺もそんな狐だった。
自分が哀れな存在だと思いたくなくて、本当は憧れているものを攻撃したり貶めたりして、プライドを守った気になっていたんだろうな。
だからそういう考えに共感もある。若気の至りと笑ってくれ」
「いや、今世界に存在するすべての生きるための強がりや、誰かを勇気づけようとした創作物はひとつ残らず尊いものだと思うよ。
君もそれが必要だったんでしょ?」
「そうだな。だが俺を本当の意味で救ってくれたのはお前の語った案だ。
『人間は生きたい』が『人間は必ず死ぬ』という認知的不協和を解決するために数々の思想が生まれてきたが、その中で最も具体的で希望に満ちている。
狐だって本当は葡萄が食べたかったんだ!」
「そうだね。僕だって心からこの案の実現を望んでるよ」
「そうか、となると造られた偽りの美からの堕落……坂口安吾の『堕落論』か。
これも『自由からの逃走』と併せて次の機会に話す。そっちは他になにかあるか?」
「ううん、取りあえず思い付くのはこのくらいかな」