私の完璧な婚約者
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Gではないですが飛ぶ虫です。
「久しぶりだね、クロエ」
「お久しぶりです、リチャード様」
先週開店したばかりの新しいカフェのテラス席にて、私の婚約者、リチャード様が眩しい笑顔を見せた。私も口角を上げ彼に挨拶を返す。
今日は彼と私の“デート”の日である。
月に一度、私と彼は、デートという名目で衆人環視に晒されることとなる。
私たちはお互い縁の深い伯爵家の長男と次女で、物心ついたときには知り合いだった。婚約は十二歳の頃に決まったもの。
婚約が決まってからは、少なくとも月に一度ほどお互いのお屋敷でお茶会を開いていた。彼がおじさまに連れられてうちの屋敷に来て、暇を持て余した彼と話すこともしばしば。
十五歳で私と彼が学院に入学してからは、月に一度外出許可の出る日に街中で会うことにしている。
領地に戻ってお茶会を続けるには距離があるし、学院の中は男子生徒と女子生徒の校舎が分かれている。外出が一番現実的な選択肢なのだ。
入学する前に、私と同じ学校を卒業した姉から、婚約者と同じ学校に通っても前より顔を見る機会は減ると聞いていた。
だから、私も入学したらリチャード様と定期的な会話をする機会はなくなると思っていた。卒業するまでの三年間は手紙のやり取りや、長期休みで顔を合わせるだけになるだろうと。
だから、彼が月に一度の外出を提案してくれたときは嬉しかったけれど、今ではこの“デート”の時間が憂鬱だ。
理由は彼が目立ちすぎるから。
リチャード様の髪は、太陽の光を集めた麦畑のような黄金色だ。瞳の色は爽やかな青で、雲のない広い空を思わせる。
涼しげな顔立ちなのに、笑うと瞳がほわっと優しくなって、愛嬌がある。一度彼の笑顔を見た女子生徒はその落差に一瞬固まってしまう。その後、彼を視線で追うことになる。
さらにリチャード様は成績優秀で入学式で新入生代表を務め、定期試験では主席をキープしている。運動も得意で、クリケットのチームを優勝に導いたこともある。
王都から距離があるとはいえ、名家の伯爵家の長男で、見目麗しく、紳士的。さらに成績優秀、スポーツも得意となれば、年頃の女子生徒が彼に憧れるのは至極真っ当だろう。
私だって、彼と婚約していなければ、男女の校舎を分ける塀の隙間から彼の姿を探して、きゃあきゃあ楽しそうに悲鳴を上げる一員になっていたに違いない。
けれど、今の私の立場は、彼と一緒に見せ物になるほう。
彼が優雅にティーカップを持ち上げると、それをうっとり見つめる視線が目に入る。そのあと彼女たちの視線は私に移る。
見られている。
私は、田舎から出てきて、たまたま親同士の縁が深いというだけの理由でそれ以外特別な理由もなく彼の婚約者の座に座っている。彼女たちは私がその席に相応しいか採点しているのだ。
姿勢を正してゆっくりカップの背に手をつける。
万が一にでも音が出ないように、慎重に、とろとろにした玉ねぎみたいな飴色の紅茶を口にする。
周りの視線が気になりすぎて、味も香りも楽しめない。
銀のカトラリーに自分の顔が映っている。
灰がかった紫に近い茶色の髪は少しクセがあり、グリーンの瞳も彩度が低くて暗い印象だ。
領地にいたときは、母譲りの自分の外見は気に入っていたのに、今は華やかなリチャード様の隣に相応しくないんじゃないかという不安が心に浮かんでしまう。
会話の内容も周りの人に聞かれている。話した覚えもない自分と彼のことを、学友に知られていることがあると気づいてからは、リチャード様といるときは無難な発言しかできない。
「このアップルパイ、美味しいね」
リチャード様が、フォークでアップルパイを小さく切り、その口に運ぶ。
卵液で綺麗に色づいたパイ生地の中に、つやつやのりんごがぎっしり詰まっている。今すぐ溢れそうなほど密集していて、狭い狭いと叫ぶりんごの声が聞こえてきそうだ。
おいしさを濃縮したようなその様子に、私もアップルパイを頼んだらよかったという気持ちが湧き上がってくる。私はアップルパイを綺麗に食べるのが苦手なので注文できなかった。
(あとで一人で戻ってこようかしら)
そんなことをしたら、次の日に噂になりそうだけど。
「よかったですね」
「でも君が以前作ってくれたもののほうが美味しかったな」
これはお世辞である。
苦笑いするしかない。
私が昔作ったアップルパイなんて、今みたいに綺麗な色がついてなくて、りんごは煮足りなくてシャキシャキな上、滲み出た水分で生地が傘代わりに使われてびしょ濡れになった帽子のようになっていた。
シナモンを入れすぎて子供の舌には辛く、りんごの香りを殺していた。
あれはアップルパイを食べすぎて、家でアップルパイ禁止令を出されてしまったという彼のために作った失敗作。ちょっとだけぽっちゃりしてきた幼いリチャード様は可愛らしかったけれど、彼の母親が彼に甘いものを与えすぎる父親に烈火の如く怒っていた。
もう何年も前の話だ。
「そういえば、今度チャリティーバザーで、女子学部はお菓子を作ると聞いたけれど……」
「ええ、私のクラスはクッキーを作ることになりました」
「そうなんだ」
貴族の子女ばかりが通う学院で、手作りお菓子を作ってバザーに出すなんて、事故が起きる未来しか見えないだろう。それは先生たちも同じ意見。
女子学部の生徒が作るといっても、みんな実の所使用人頼りで、自宅で作らせたものを持ってくる。
クラスの時間はそれをラッピングしたり、一緒に並べるカードを作ったり、お菓子作り以外の時間に使うことになるのが暗黙の了解である。
私のように実家が遠い生徒は、市販のお菓子を買ってきて手作りということにして出すか、もしくは稀に、自作するもの好きな子も――
リチャード様の青い瞳が、物言いたげに私を見ている。
「どうしたんです?」
「え? ああ……その、もしよければなんだけど、また君が作ってくれたお菓子を食べたいな。当日買いに行ってもいいだろうか」
嘘でしょ。
迷惑なのでやめてください、とは言えなかった。
遠慮がちに言われたものを突っぱねるのはさすがに良心が痛む。
「そんなことをしなくても、リチャード様の分は別で作ります。来月は私たちの両親も王都に来てくれると言っていたから、叔父様のお屋敷で会えますよね? そのときに用意します。アップルパイにしましょうか」
彼はクッキーのような口の中の水分を持っていくお菓子は苦手なはずである。
でも多分私が用意すれば、まずいとは言わずに頑張って口にするはず。そして、美味しいと嘘をつく。
「いいの?」
「もちろんです」
「ありがとう。すごく嬉しい」
彼はふわりと柔らかく微笑んだ。
周りにいる女子生徒がざわめいたのが分かる。
リチャード様は、次の学年で監督生の座を狙っている。そのためには、先生からの評価はもちろん、生徒――特に、男子生徒からの人望が必要である。
外見や成績、家柄などを要因に女子に騒がれて、男子生徒から妬まれるとその座が危うい。なので彼は、こうして私という婚約者と仲良くやっていることを周りにアピールするときがある。
以前、わざわざ彼に”人の目があるところで、仲のいい婚約者であると示しておきたい”と直接言われたことがあるので、私もこうして協力している。
(いつまでやらないといけないのかしら)
領地にいたときみたいに、他愛のない話ができない。
私は、背筋を伸ばして味のしないケーキを食べるより、芝生の上でごろごろ昼寝して、お母様に見つからないように、こっそり持ち込んだスコーンを手で割って食べるほうが好き。
クロテッドクリームと季節のジャムをたっぷり乗せて、思いっきり大きく口を開けて。
私の手には大きく見えたスコーンが、リチャード様の手の上ではおもちゃみたいに小さく見えるのだ。彼がつけすぎたジャムを落とさないように、大きく口を開けるのを見るのが好きだった。
彼は昔からキラキラして見えてはいたけれど、元々は結構隙がある雰囲気の人だ。
領地ではそこまで女性に騒がれるタイプではなかった。ダンスの誘いもスマートじゃなかったし、ドレスを褒めるのを忘れていることもあった。私のことを放置して友人とおしゃべりに耽ってしまうことも。
それが、学院に入ってから人が変わったように完璧に振る舞っている。
まるで知らない人みたい。
監督生はすごく名誉ある役職だし、彼が望むなら応援するつもりはある。
でも、婚約者の私にまで周囲から彼に相応しいかどうかのジャッジが入って、それが彼の評価につながるかと思うと、私には荷が重い。私の相手はもっと普通の婚約者でいいと思ってしまう。
例えば昨日窓の外にいた大きな蛾が気になって寝れなかったから、その対策を真剣に話し合えるような人。
リチャード様もそろそろ私が自分のレベルに相応しくないと気付く頃じゃないだろうか。
彼から婚約解消を申し出てくれれば平和に解消できるけれど、律儀なのでそんなことはしないだろう。
愛のない婚約を強いられる人も多い中で、私とリチャード様の関係は良好である。彼は優しいし、喧嘩したこともない。
燃えるような恋をしているかというと、お互いそんなことはないけれど。
だからこのまま卒業して、順当に結婚する可能性が高い。
その日を頭に思い浮かべると、昔は胸が高鳴ったのに、今はため息が出そうになってしまうのだ。
*
「もうっ、どうしてちゃんと膨らまないのかしら!」
しばらくたって、休日。私は王都の親戚の屋敷を借りて、アップルパイを焼く練習をしていた。
リチャード様に雨が降った次の日の地面のようなパイを渡すわけにはいかないからだ。
「生地を強く押さえすぎなんですよ。せっかく作った層が全部潰れてしまっています」
「生地を畳んでいるときに言って」
「言いましたとも!」
私のお菓子作りに付き合ってくれているメイドのマリーが叫ぶ。
「そうだったかしら?」
「集中しすぎて耳に入っていなかったのでしょう。いつものことです」
私は作業台の上に並んだアップルパイ三号を苦い顔で見つめる。
食べられるレベルだけれど、美味しくはないだろう。
リチャード様は美味しくないものを渡しても、美味しいと嘘をついて食べるのが分かっている。
以前食事したレストランで頼んだシチューに、彼が大嫌いなマッシュルームが山ほど入っていたのに残さず食べていた。飲み物で流し込むのを見ていた。
だから心から美味しいと思うものを渡したい。「このアップルパイ、おいしいね」じゃなくて、昔一緒にアップルパイを食べたときみたいに、綺麗な感想を言うのも忘れて丸ごと全部食べるくらい美味しくなくちゃ。
「難しいのよ。もう一回やるわ」
「手を冷やしたほうがよろしいですよ。バターが溶けたら台無しです」
「分かってるわ」
そうして休日を使ってアップルパイの練習を繰り返し三十個を超えた頃、ようやく納得できる見た目のアップルパイを完成させることができた。
結局練習している間にバザーのクッキーも買いにきてくれて、たくさんの生徒の前で仲良し婚約者のふりをすることになった。そしてわざわざメッセージカードと花束が私の部屋に届いたので、私の学友がうっとりした顔をしていた。
花束なんて領地にいたときは一度ももらったことがないけれど。
王都に来てから花束ばかり贈ってくださるようになった。リチャード様らしくない。
入学前は、使い道がよく分からない外国の置物や、字も読めない本、綺麗で使いにくい文房具など、彼は田舎ではあまり見ることがない小物を見つけると私に送ってくれていた。メッセージカードにはいつも「これはなんだと思う?」と書かれていて、次に会うときまでに私は自分の人脈と知識を総動員して考えたものだ。
メッセージカードの筆跡は変わらない。
「おいしかった。ありがとう」という無難なメッセージは誰かに見られることを想定しているからだろうか。焼き時間を短めにして少ししっとりさせたけれど、結局クッキーだから口の中の水分を奪うもので好みじゃないはずなのに。
気遣いをする優しさは昔からあるけれど、前はもっと感情を隠すのが下手だった。
美味しいものを食べたときの目の輝きと、無理しているときは全然違うから、何が好きなのかすぐ分かるのだ。
*
「おいしいよ」
残暑の日差しを避けた庭で、リチャード様が綺麗に微笑んだ。
私の両親、彼の両親、そして叔父が集まり会食してから、私と彼は庭で二人いつものように話をして、アップルパイを食べてもらった。
綺麗にカットされたパイをフォークで掬い、小さなひとくちを上品に口にする。
ゆっくり会話を楽しみながら口に運ばれていくアップルパイ。
色や形は菓子職人と同じレベルとはいえない。でも綺麗にできた。
私もひと口食べてみて、甘さとシナモンの香りがちょうどよく、りんごのフィリングの歯ごたえやパイのサクッとした軽い食感の組み合わせは私が今まで作った中では最上級の出来だったと思う。
でもこれじゃダメだった。
リチャード様は、用意されたひと切れを食べ終え、それで満足そうだった。
おいしいよ、と他のものを食べたときと同じように微笑むだけだ。目がきらきら輝くことはない。
作ったものを美味しく食べてもらったのだからそれでいいはずなのに、なんだか鼻の頭がつんとする。ゆっくり息を吸って少し上を向いた。
「クロエ?」
「すみません、ちょっと、気分が悪いかも……」
「大丈夫? 陽がないと寒かったかな。中に戻ろうか」
「大丈夫です」
涙が出そうかも。
リチャード様は立ち上がって私にジャケットをかけてくれた。
寒いわけじゃないからいらないけれどそのまま受け取る。
彼は優しいし、律儀でいい人だ。それにすごく努力家。
王都の学院を一緒に見学して、憧れてこの学校に入ったのだ。せっかくリチャード様が監督生になるために努力しているのに、私は昔の彼を懐かしむばかりで、心から応援していない。
父の領地にいた頃みたいに気軽な関係に戻りたくて、このアップルパイが魔法を解くんじゃないかと期待していたのだ。
彼は悪い魔法で完璧な別人に作り替えられたのではなくて、自分で望んで、努力して変わっただけ。解くべき呪いなんてそこにはない。
「すみません、やっぱり、食べすぎたみたいでお腹が痛くて、今日はもう私は離席させてください」
頭を下げると涙が滲んでしまって、顔をあげられない。
目を合わせないように叔父の屋敷に駆け込んで、人に見られないように涙を拭った。
部屋の一つで休んでいると、しばらくして母が入ってきた。
「あなたが食べ過ぎるなんて珍しいわね。大丈夫? 消化にいいハーブティーをもらってきたわよ」
のんびりした母の声に苦笑いする。
「ありがとう。食事が美味しかったのにそのあとデザートも食べたせいよ」
「あなたの作ったアップルパイね。私も食べたかったわ」
「あとで食べて。ねぇお母様」
母が首を傾げる。私と同じ茶色い髪のグリーンの瞳。落ち着いた色合いは母みたいに年齢を重ねればよく似合って美しい印象になるのだろうか。私は同じような顔で同じ色の髪と瞳なのに、どうして地味な印象になるんだろう。
鏡を見て自分の容姿にうっとりするくらい美人だったら、私の考えも少し変わったのだろうか。
「……私たちの婚約って、見直しすることはない?」
「え?」
母は私の顔をまじまじと見つめる。
「リチャードとの婚約の話? なぁに、喧嘩したの?」
「喧嘩なんてしてないわ。ただ、その、私たちの婚約は、近くにいるっていうだけの理由で決まったのでしょう? ……ちょっと言ってみただけよ。忘れて」
母があまりに戸惑った顔をするので、慌てて首を横に振った。
母に先に話すのはだめだ。まず父に手紙で相談して、それからリチャード様のご両親との間で話をまとめてもらって、結論が出てから私が本人と会話するのがいい。
母は私の隣に座って手を握った。
「結婚前は色々不安になることもあるわよね。お母様も不安になったわ。でも大丈夫。ちゃんと家族になって、一緒に過ごせばその不安もなくなるの。マリッジブルーにはちょっと早すぎるけど、それだけ結婚が楽しみということでしょ?」
「ええ」
何度も頷くと、ようやく母は安心した顔をした。
慎重に話を進めないと、母が一番動揺するかも。とにかくまずは父に手紙を書いて、それを母の目に触れないように父に渡してもらう必要がある。
*
それから数日、私は毎日父への手紙の文章を考えているけれど、上手く言葉に出来ずにいた。
私が勝手に息苦しさを抱えていて、昔の彼を恋しく思っているというだけの話だ。
劣等感を刺激されて苦しいとか、幼馴染が年齢とともに変わっていくのが寂しいとか、そんな曖昧な理由。
父に対して文章にするのが難しい。
私たちはどうしても結婚しなければならない関係ではないから、理由さえあれば婚約を取り消しできると思うのだけど。
「うー……」
便箋の上にペンを留めていたらインクが垂れた。この便箋は下書き用に決定。
(そうだわ、誰か別の人を好きになったことにするのは?)
公開したらとんでもない醜聞になるけれど、父に書くだけなら問題ない。
保守的な父は、結婚前から不貞をするかもしれない私と彼の結婚を進めないはずだ。父はリチャード様を昔からよく知っていて、すでに息子のように気にかけている。
私の評価は取り返しがつかないことになりそうだ。ただ、田舎から王都に出てきて視野が広がったことを理由に人間関係が変わるのは珍しいことではない。親に決められた婚約者とは別の誰かに恋をしたという設定は自然である。
(私、どんな人が好きなのかしら)
異性を好き・嫌いという感情が育つ前にもう婚約していたから、誰が好きかと考えることもなかった。
親族以外の異性なんてリチャード様しか知らない。
小説に夢中になって夜更かしするのは許してほしいし、子供が生まれたら一緒に芝生の上で寝転がってくれるようなおおらかな人がいい。
私はかくれんぼが得意だから、子供たちはきっと私を見つけられなくて、父親になる人に泣きつくことになるだろう。
――お母様がいなくなっちゃった!
なんて言って大泣きしている子供達を慰めて、「大丈夫、僕はクロエを見つけるのがすごく得意だから」と笑ってくれるような人。
(そんな人リチャード様しか知らないわ)
私はもの音を立てずに隠れるのがすごく得意だ。誰にも見つからずにじっと黙っているのが苦じゃなくて、誘拐されたと大騒ぎになったことがある。
そのときに私を見つけてくれたのはリチャード様だった。全員であちこち探し回って、誘拐ではなくきっと隠れているだけだと信じていたのは彼だけだった。
過去を思い出しながら、つい口から笑いが漏れる。
(昔の思い出ばっかり)
私の頭に浮かぶ思い出は子供の頃のことばかり。人の目が気になって、入学してから一緒に過ごしてもリチャード様のことをちゃんと見てなかったから、今の彼のことが分からないのだ。
(二人きりで話がしたいと言ってみようかしら)
周りに見せるためのデートじゃなくて、二人で過ごすための時間を作ることができたらなにか変わるかもしれない。
変わらないかもしれないけど――
私の後ろで、もの音がした。
ルームメイトのユリアが戻ってきたのだ。
「ユリア、ずいぶん遅くまで図書館にいたの……」
振り向いたらユリアの黒髪ではなくて、男子生徒のネクタイが目に入ってきた。悲鳴をあげそうになって、少し目線を上げて、そこにいるのが自分の婚約者だと気付く。
「リチャード様⁉︎」
不法侵入の暴漢ではないと分かって安心したけれど、リチャード様も女子の宿舎に入る権利はないはずだ。
「寮長を交代したんですか? 男女関係なく入室できるのでしたっけ……?」
「まさか。それに寮長は男女別だよ」
「ですよね」
リチャード様が一歩踏み出した。私をじっと見つめる瞳から感情を読み取ることはできない。
「あの、なぜここに?」
「なぜだと思う?」
そんなにもったいぶることなのだろうか。彼の顔に答えはない。
「ユリアになにかあった、とか」
「彼女は図書館で婚約者と会ってる。ここに入るのに協力してもらったんだ」
「協力? ええと、なぜ、その、ユリアに協力してもらって、リチャード様がここに……?」
彼はもう一歩私に近づいて、テーブルに手をついた。座っている状態で背の高い彼を見上げると顔を見るのが難しい。
「君が婚約を取り消したいとか言うからだよ」
「えっ⁉︎ なんでそれを……!」
リチャード様が息を呑んだ。
「おばさまの早とちりかと思ったら、事実ってこと?」
まだ婚約解消するとは言ってない。それに、その考えを見直そうとしていたところだ。
どこまで話そうか迷って黙っていると、彼はまた距離を詰めた。
「母から手紙が来たんだ。君が僕との婚約を取り消したいみたいだけど、何をしたのか説明してほしいって言われてる。おばさまがそう言ってたって。それでクロエ、僕は君に何をしたの?」
「なにもしてません」
「じゃあ、なぜおばさまに婚約を取り消したいと言ったの?」
「言ってません」
「やっぱりおばさまの勘違い? それならさっきの君の反応が不可解だけれど、取り消したいとは思ってない?」
私は急いで頷いた。
いつもと違う雰囲気でなんだか怖いし、早くこの話を終わらせてほしい。
リチャード様は深く息を吐いた。
「嫌われたかと思った」
「えっ」
「最近会うたびに表情が暗くなってるから、僕とはもう会いたくないのかなって」
「それは……」
会うのが楽しくなかったのは事実だ。リチャード様のせいじゃなくて私の気持ちの問題だけど。
「暗い顔をしていた理由は教えてくれる?」
その理由を話したら、私が彼の目標を否定していることがバレてしまう。
なにか別の理由を探さないと。
「クロエ、誤魔化そうとしないでちゃんと答えて」
「えっ、なんで……」
「顔に出ているからだよ」
「言いたくないです」
「どうして?」
「言ったら嫌われてしまうかもしれないもの」
リチャード様は青い目をぱちぱち瞬かせた。
「僕に嫌われたくないの?」
「ええ」
彼が身を屈める。そのまま顔が近づいた。
ひそひそ話をするにしてもさすがに近すぎる距離まで。まつ毛の数まで数えられそうなくらい――
唇に柔らかいものが押し当てられる。
ほんの一瞬のことだ。
リチャード様の手が私の顔に添えられた。彼の親指が私の耳元を撫でる。
口付けされたと気づいて、カッと顔が熱くなった。
「なっ、なんてこと……!」
「何を言われても嫌いにならないし、君と結婚するつもりだと示しておきたくて。嫌だった?」
リチャード様は私の顔を固定したままだ。事後で聞くのは卑怯だと思う。
「嫌では、ないですが」
「よかった。それでクロエ、君の顔を曇らせていた原因は? 教えて」
しっかり目が合ってしまった。
「それは貴方が、ここに来てから別の人みたいだから……」
「別の人?」
「ええ、なんでもできるし、振る舞いも完璧でしょう。以前のように気軽な気持ちで話せないし、私も貴方の隣にふさわしい振る舞いをしなきゃいけないのかと思って、婚約者でいるのが息苦しくなってしまったんです」
心苦しくなってつい目を逸らす。
「監督生になるために貴方がすごく努力してきたと知っているのに……夢を否定するようなことを言ってごめんなさい」
「監督生になるのはやめる」
「えっ?」
予想外の言葉に思わず顔を上げた。
「君が学院の見学に来たときに、監督生のルーカス様をうっとり見てたから目指そうと思っただけで元々興味もないんだ。もっと早く理由を聞けばよかった」
入学前に次の新入生に学校を案内してくれる催しがあった。彼が言っているのはそのとき案内人を務めてくれた監督生のことだろう。
唖然として彼を見ていると、リチャード様は私の額にキスした。
「君が誰かにうっとり見惚れるところなんて見たことがなかったから、すごく羨ましかった。絶対ルーカス様を超えようと思って頑張ってたけど、意味がないならもう目指さないよ」
リチャード様は誤解しているようだ。
「私、あの人に見惚れた覚えはないですよ。多分貴方と同じ髪の色だったから、リチャード様が入学したあとの、貴方の未来を想像して見ていたのだと思います。きっと監督生のローブが似合うから、見てみたいなぁって……」
「絶対監督生になるから安心して。僕よりふさわしい生徒はいないと思う」
あまりの切り替えの速さについ笑ってしまう。
「女子生徒の宿舎に忍び込むような不良なのに」
「リーダーに必要な柔軟な対応力だよ。強い意志と行動力も示せただろう?」
リチャード様が私の顔を上に向かせた。顔を少し傾けて距離が近づく。口付けするのだと分かって、二回目は彼に合わせて目を瞑る。
先ほどよりゆっくり唇が重なると、彼の香りもよく分かる。心臓がどきどきうるさくて、恥ずかしくて目が見れない。
「全然嫌がらないね」
「嫌じゃないからです、けど……」
彼はもう一度キスした。触れて離れるだけだったものが、何度も角度を変えて、長くなり、唇の隙間からぬるりとしたものが侵入してくる。
「⁉︎」
驚いて身を引こうにも顔を固定されていてなにもできず、自分の舌が搦めとられる。甘い唾液が口の中に流れ込んできて、頭がぼんやりする。
全体をしごかれ、吸われて、そのたびに身体が跳ねる。反射だけで反応していたものが、だんだんいつまでも続いてほしいという気持ちになる。
(気持ちいい)
唇が離れてしまう。名残惜しくて彼の腕に手を添える。
リチャード様の呼吸は浅くなっていて、彼の視線は私を射抜くように強い。
「クロエ」
私の名前を呼ぶ声が甘い。
手を引かれて立ち上がり、そのまま部屋の中にあるベッドに仰向けになる。
「可愛い」
よくないことをしていると分かるのに、この先を知りたいという気持ちが抑えられない。
リチャード様がネクタイをゆるめた。胸元のボタンを一つ、二つと外して、領地にいたときよりずっと逞しくなった胸板がちらりと見える。
思わず目を逸らして窓のほうに目を向けた。
「ひっ!」
窓の外に、昨日もそこにいた薄茶色の巨大な蛾が見えた。
思わずベッドから起き上がる。
昔地面を覆い尽くすほどの蛾の大群に気づかず、手を入れてしまったことがあって、私は蛾が大嫌いだ。
「クロエ……? あ、クジャクノメだ」
「虫が嫌う鉢植えを置いてるのになぜか昨日も来たんです!」
「ちょっと待ってて。机の上の便箋をもらっていい?」
「ええ」
リチャード様は私の机にある書きかけの便箋で、窓についた蛾を追い払った。
その便箋を小さく畳み、もう一枚別の紙に包み込んで自分のポケットに入れる。
「ありがとうございます」
「いいけど……クロエ、今の便箋、おじさま宛だよね? ほかに好きな人ができた、って書いてなかった?」
「あ」
「どういうことかな」
私は慌てて今まで考えていたことを全部彼に話した。
完璧な彼の隣にいるのが息苦しくて婚約解消したいと思うようになったけれど、考え直した名残だということ。領地にいた頃のリチャード様が好きで、今までのように気軽にくだらない話をしたいのだと。
みっともないアップルパイに込めた思いも。
リチャード様は、実はアップルパイは残っていたものも全部一人で食べたのだと教えてくれた。
王都に来て、婚約者の前では周りの生徒が普段よりずっと大人っぽく格好つけて振る舞っているのを見て、自分が子供すぎたと反省したらしい。
でも私はいつものリチャード様が好きだから、また一緒に芝生でごろごろしながらスコーンに齧り付きたいのだと伝えておいた。
次の約束は、周りに人がいない緑のある場所へ。
少し風の冷たい秋の日に、たくさん練習したスコーンを持っていった。
このひと月で虫が寄ってこないハーブを二人で色々試して、一番効果のありそうなものを選んで匂い袋にして持ってきた。
私の部屋にももう蛾は寄ってこないから、今日もきっと大丈夫なはず。
「二口で食べてしまうなんて……! もっとたくさん持ってくればよかったですね」
「大丈夫」
リチャード様が私の唇を奪う。
「私は食べれませんけど……んっ」
二人で過ごすのは楽しいけれど、一つ困るとすれば彼が会話もそこそこにすぐ唇を塞ごうとすることだ。
「もう、そんなにキスばっかり……」
二人きりだと我慢が効かない、と正直に申告されて、今までのデートの場所選びの意味を知ることになった。