番外編・紅蓮の道場で魔女と女帝
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四月二十一日。
特にこの日に何があったわけでもないのだが、ようやく体が本調子に戻ってきたのは退院から一週間経ったこの日頃からだった。
てっきり僕は腕の筋が断裂しているとでも思っていたのだけど(なにせあの筋肉質な傭兵に思い切り抱き込まれた時は筋肉が切れたような音を感じたのだ)どうやら杞憂だったらしく、軽度ではないにしろ診断は肉離れと脱臼とのことだった。成る程、あの時に肩の骨が外れていたらしい。傭兵の力恐るべし、だ。
一週間程度で完治したのは僕の新陳代謝の賜だろうか。姉さんが毎日精のつく物を買ってきたということも無関係ではないのかもしれない。
由兎は結局見舞いには来てくれなかった。といっても入院期間は三日だけだったのだから当たり前かと思う。
花恋ともあの日以来顔を合わせていない。おっとり少女は相変わらず引きこもりらしい。
前述の通り、この日に何かが起こったわけでもない。だから、取り立てて説明すべきことはないのかもしれない。
だけど、この日。
四月二十一日。
火曜日。
大型連休目前の時。
魔女と女帝の戦争が起こったのは、この日だった。
授業も終えて、一旦家に帰ってから僕は直ぐに家を飛び出しある場所に向かっていた。
飛び出した理由は楽しみにで仕方がないとか、早くその場所に着きたいからではない。
だから僕は自転車を乗ってはいなかったし、駆け足で、体力向上の意味合いを強く意識して走っていた。
そんな過程もあり、大した時間をかけることなく待ち合わせ場所に着いたのだが、既にそこには見知った姿が動き易いジャージ姿で待機しているのを発見する。
どれだけ人がいようと埋もれそうにない、金髪中性の魔女、相羽由兎が既にいた。
彼女はどんな服を着ていようときっと着こなすのだろう。
スポーツ少女然としたその格好も長すぎない髪型も踏まえてよく似合っていて、滅多に見られそうにない彼女の姿に息を呑む。
あまり僕の心境は芳しくないのだけど。
「……早いね」
「レディを待たせる春空君の姿を見たくてね」
要するに僕に対する嫌がらせだろうか。
その割に汗一つかいていないようだけど。
まあ、冗談半分ということか。きっと、本気も半分だ。
「それはどうも申し訳がないですよ」
「嫌味にしか聞こえないわよ? その台詞」
「嫌味だからね」
「失礼ね」
そんなやり取りはご愛嬌だ。
しかし、芳しくないのは事実であり、僕は由兎に改めて聞いた。
「本当に付いてくるの?」
「ええ、そうよ」
私が付いて行くのが当たり前、と言わんばかりに凛と胸を張る由兎。
その堂々な姿に溜息を零す僕が妙に情けない。主導権が向こうにあるというよりは、選択権が僕にないという男として首を傾げたくもなる状況。まあ、それを気にする僕ではないのだけど。
「……それじゃあ、行こうか」
来るべき地獄をいつでも振り払えるように。
身に降りかかる火の粉を払う。
それは僕たちが今回痛感した最も考えておかなければならない事実だ。
あの少年。由兎に聞いた話だと直ぐに逃げたようだが、また、いつかは知らないが襲ってくるのだろう。
傭兵ザグナルのような猛者を連れて。
正直な話、前回の奇襲は小手調べと考えられる。こちらからすれば手を抜かれた、と言える。
あの雑魚達で僕と由兎を殺せるとは思っていなかったみたいだし、となると戦力になるのはザグナル一人だ。
結果論からすれば考える必要もない事実だが、僕と由兎が二人でかかればあの傭兵にも余裕で勝てた。
となると、向こう側は奇襲に対した力を入れていないということになる。
小手調べの様子見の牽制。現状の僕達の力を見極めるのが前回の大きな目的なら――次がある。
そして、次はもっと手ごわい戦力を連れて襲ってくるだろう。
その時、僕達は生き残れるのか。
……あの傭兵クラスが三人同時にかかってくるだけでも僕達は殺されるだろう。
そして、あの傭兵クラスはごろごろといる筈だ。あの少年が、またはその裏にいる誰かが、それだけの戦力を保持していると過程しておかなければならない。
でないと、痛い目を見る可能性はぐっと上がる。
だから僕は、久しぶりに真剣に特訓をしようと道場に行くことにした。
今でも自主練習は欠かさないけれど、中学三年生にもなり受験を控えているからこそ、僕は道場に顔を出すのを控えていた。否、控えようとし、そのまま辞めるつもりだった。
実際、由兎と会ったのはまだ二週間前だ。
この二週間、本当に濃密で、言い換えれば暇のない日々を過ごしていた。
だから、どうしようもなく道場に顔を出すことは出来なかった。
由兎に今日から道場に通うからあの世界にそんなに顔を出せそうにないと学校で伝えると、こともあろうに由兎が満面の笑みで「ついてくっ」と言い出したのだ。
……やはりこれは嫌がらせだろうか。
由兎と並走し道場に向かっている最中、数十分後の近い未来に愕然と心中が項垂れる。
小学二年生の頃から通い続けている道場だ。
道場生は学校の友達(といっても僕に友達はいなかったけれど)よりも親交の深い人が何人もいて、中でも道場主の師範と三つ年上のあいつだけはどうにも苦手――というよりは、頭の上がらない相手だ。
そこに由兎が行く、というのは自分で弱点を晒しているに近い。
といっても、由兎は言い出したら自由奔放に我道を貫く一本筋が百本は通った少女なので、僕の薄弱な意思で止めようとしたが無駄であり、こうして気を病ませるだけの結果となってしまっている。
本当に、憂鬱だ。
待ち合わせ場所から二十分。僕の家から三十分。
駆け足で走った先にその道場はある。
師範の名前を頭にした『紅練空手道場』と達筆な筆で、古風かつ歴史を感じさせる檜の看板に書かれて入り口の横に掛けられている。
外観は少々古びていて、若干の怪しさを放っているが、これは紅練師範の好みだ。風変わりなあの人は清潔さを外観には求めず、敢えてこのままの風体を外に保たせている。改築する金は充分にある筈なのだけど。
というのも、生徒数は約五十人。この道場の大きさに比べれば余る程の生徒数もいて、紅練師範は警察関係者だ。まあ、空手家が本業のようなもので、警察でも空手を教える講師として迎えられているらしい。
「へー。なんだか奥ゆかしい道場ね」
奥ゆかしいと表現するのはどうだろう? と首を傾げたが、由兎の感性と紅練師範の感性が重なっているのだろうか。
「それより、由兎ってなにか習い事ってしてた?」
そんな疑問。元々は抱いていた、というよりも確信していた疑問なのだけど、二十分間ペースも落とさない僕の速さに普通に付いてきた由兎を見て改めて僕は思った。
手を抜いて、否、足を抜いてか。
とにかく、急いで走ったわけではないにしろ、日々の鍛錬をしていなければ二十分間走り続けるのは結構、億劫なものだ。
汗もかいているし息切れも軽くしているようだけど、全く限界を感じさせない由兎の態度に、丁度良い、というのも含めて僕は聞いてみた。
「習い事? そうねえ……習字とか?」
「習字でマラソンが可能になるなら日本人はもっとオリンピックで活躍すべきだよ」
否、当然、中国も含めてだけど。
大体習字でマラソンが可能になるとはどんな化学反応だ。
「ああ、そっちか。私はこれでも一応、全くの素人よ」
「……嘘だろ?」
「嘘じゃないわよ。格闘技は全くの未経験。まあ、一応、我流で色々練習はしていたけどね。何もせずに天性の力で中学生があの世界でのし上れる程、あの世界は甘くないもの」
「……」
それはその通りなのだろう。
否、それにしても、だ。
我流ということはつまり、格闘教材本などを見て、どこかで一人、練習をしていた、という訳なのだろうけど。
その程度であそこまで強くなれるのだろうか?
確かに、ババロア兄弟戦で見せたあの摺足――移動術はかなり完成されていたようだけど。
それはつまり移動の練習なら一人で出来るから、だろうか。
講師も居らず一人で練習すれば大概妙な悪癖がついて正しく作用しないのが通説というものだけど……要するに由兎が天才肌なだけだ。
その辺は比べる者も指摘する者もいなかったからか、自覚していないらしい。
「だからね、一度見ておきたかったのよ。格闘技に打ち込んだ人間の強さをね」
「そっか。それなら良い舞台だと思うよ。なにせ、師範と草薙は滅茶苦茶に強い」
紅練師範。彼は三十七歳と空手家としては現役を引退してもいい歳な筈の彼は、化け物染みた強さを誇っている。
普通、師範ともなれば技に強し柔に秀でるのだが、彼は力に富んで業を奏でる、一種の生態学を無視した人間だ。
そして、草薙。草薙稔。
由兎を魔女と称するなら草薙は女帝だろうか。
傲慢、高慢、そして最強。
紅練師範の隠し子と空手界では噂されている程に、師範の対極を我が物顔で突き進む柔の化身。
正直、僕が空手を本気で打ち込めなかった最もたる理由の一つでもある。
あんな天性の天才を日々目の当たりにしては自信もなくす、というものだ。
それに……女帝は性格が悪すぎる。
今回、由兎を連れてきたくなかったのは先に述べた理由もあるが、由兎と草薙の間に火花が飛び散るのが確定的なのも十全な理由だった。
「さて、行こう」
引き戸のドアを開ける。
誰かが直したのか手を加えたのか、立てつけが悪い為、重く煩い音を発していた引き戸がすんなり開き、予想外に力を込めてしまったので道場破りみたいな音が道場に響いてしまった。
自然と注目が入り口に集まる。
「おうおうおーう! ひっさしぶりだなあ、香燈!」
道場内では既に練習が始まっていたようで、さほど広くない道場に三十人近くの生徒が二人一組となり開脚のストレッチを行っていた。
その様子を中央の前方部で腕を組み眺めていた紅練師範が、相変わらずの陽気で豪快な挨拶を僕に叫んだ。
うん、叫んだ。間違いなく叫んだ。
元気が有り余る子供よりも活発的な師範は年甲斐もなく大口を開けて笑って近づいてくる。
鍛えつくした体は空手着を纏っていても隠しようのない鋼鉄の体で、何より師範は袖を肩まで無理矢理捲っているから丸太のような腕が露になっている。
黒すぎる髪が――以前、草薙が「白髪染めだね」と意地の悪いことを言っていたが、多分それが正解だ――短いながらも上を向いていて、口の周りにはこれまた豪快な髭。身長は約百八十五センチぐらいの巨体。あの傭兵よりも明らかに背は小さいのだが、迫力も含んで師範のほうが大きく見える不思議。
僕も中に入って師範の元に歩いていった。由兎は後ろに付いている。
「お久しぶりです、師範」
「なんだよお前、辞めるって言ってたのによー!」
その言葉がぐさりと僕の胸を刺す。
「まあいいけどなあ」
がはははは、と。
全くいつも豪快が歩いているような人だ、と僕は嘆息を吐いた。
「なんだあ? そこの可愛い姉ちゃんは」
紅練師範が顎で僕の後ろにいる由兎を差す。
相変わらず組んだ腕を解かない人だ。
「この子は見学者みたいなもんです。空手に興味があるようでして――」
「はいっ!」
と、返事をした由兎の声がいつもの由兎の声ではなく、どちらかというとそれは懐かしい転校してきたばかりの時の声色で僕は嫌な予感がした。
冷水を被ったかのような悪感が走る。
「春空君の恋人の相羽由兎ですっ」
うわああ。
やりやがった。
やりやがったよこの女。
学校だけではなくこともあろうに空手道場でまで言いやがったよ。
僕の家族に言っていないだけまだマシだけど、これでは僕のプライベートがしっちゃかめっちゃかだ。
由兎の恋人宣言と共にストレッチをしていた生徒達(年齢は五歳程度から色々いる)が一気に群がってきた。
「春空に彼女が出来たのか、くそ。なんかむかつくぜ」
と、二つ年上の漱石が下唇を噛んでいる。
「まじで! まじで!? すっげー、綺麗ー、っぱねー」
と、若者言葉で驚きを表現しているのは一つ年上の諭吉だ。
「春兄ちゃんにもやっと春が来たんだね!」
と、少々お節介な言葉を発したのはまだ十歳の英世である。
「ふわー、春兄ちゃんには勿体無いわー」
と、明らかに失礼な発言をしたのは英世の妹の九歳の一葉だ。
まあ、この先に関わってくることはない連中ではあるけれど。
「お前等さっさと練習に戻れ!」
ストレッチだって立派な練習だ。
いや、僕が彼らにそう促したのはそんなことが理由ではないのだけど。
「あら、春空君って意外に人気者なのね。学校の皆に見せてあげたいわ」
「お願いだから僕が空手を習ってるのは隠しておいてくれよ」
僕は目立ちたくないんだ。
不要に目立つとろくなことがない。
学校で友達作りをしようとも思わないし。
「春空に彼女たー、晴天の霹靂だーなー!」
「師範、言いすぎです」
僕に恋人が出来るのは自然現象を覆す驚きなのだろうか。
「聞き捨てならないわね」
そいつは後ろにいた。
気配も音も感じさせずに、彼女は僕と由兎の後ろにいた。
「いつ私が許可したのかしらね」
近すぎる声に反応して僕と由兎は同時に振り返る。
案の定、近すぎる彼女は本当に近くにいて、僕の真後ろ――それも振り返れば体と体が当たってしまったほどに真後ろにいて、僕は息を詰まらせた。
物理的に。
彼女の育ちすぎな胸に顔を埋めた形で。
それは狙いだったはずだ。
つまり、僕を虐めるに相応しい理由を彼女は無理矢理作り上げたということだ。
彼女、女帝、草薙稔。
僕がそこに顔を埋めてしまう程に長身であり、鍛えられた肉体美は誰からも高評価であり、モデルのようにスリムな体型には誰もが眼を奪われる。彼女の風格から黒髪という言葉に漆黒のと付け加えなければならないような髪は後ろで一つに括られポニーテールとなっている。だが、重ねる言葉となるが彼女の風格が、その風体をポニーテールと表現するには相応しくなく、武士、とでも言い換えようか。
草薙が僕の頭を片手で掴み、ぐい、と引き離して顔を近づけてきた。
「誰の胸を枕にしてるのかしらね、この餓鬼は」
酷い言い草だ! 狙ったくせに!
僕の心の声など当然届きはせず、空も切らない。
そんなことを草薙に言おうものなら僕は拷問を受けるのだろう、きっと。
「ふん」
一つ鼻を鳴らしたかと思うと彼女は腕をぶんと振り、同時に僕の足を払う。当然、転んだ。
しかも、柔道家の足払いではない。空手家の足払いだ。かなり足が痛い。踝の辺りがずきずきと脈打っているのがわかる。
草薙稔。
彼女は昔からこうだった。
僕が入門した時、彼女は小学生ながら中学生と渡り合い、着実と最強の座を築いていた。
そして、僕はどうしてか彼女に目をつけられた。
当時は泪もいたのだが――なにせ僕はあいつに連れられ入門したのだから――彼女は僕だけに眼をつけた。
まあ、その際、泪は草薙に向かって行って中学生と渡り合う彼女と張り合い、辞める数日前にはとうとう草薙に勝ったのだけど。
因みに、僕は一度も彼女に勝てた試しがない。
というより、僕は彼女と闘いたくない。
勝ったとしても後が恐いのだし。
「それで、そこの小娘。聞き捨てならないと私は言ったわ」
高慢と傲慢と、魔女に対して女帝は見下す。
そんな態度を取ったら、と僕は内心はらはらしていた。
なにせ、絶対に由兎が被っていた猫の皮を剥ぐから。絶対に。
「年増が何を怒っているのかしらね。ああ、そう。若い私が羨ましいのね」
ああ、もう、ほら、くそ。
予想通りの展開過ぎて涙が出る。
僕は意地でも由兎を連れてくるべきではなかった。
想像通り、否、想像以上に心苦しい展開だ。
僕が悶えていると、師範が腰を落として僕の耳元で囁いた。
「なんで連れてきたんだ」
師範は思いっきり困惑していた。
女同士の喧嘩に男は手を出せない。
遺伝子にプログラミングされているかの如く僕と師範は火花を散らす二人を、固唾を呑んで見守った。
「ごめんなさい」
意志薄弱なのですよ、僕は。
僕と由兎の身長は殆ど同じだ。どんぐりの背比べレベルで変わらない。だから、草薙は由兎より頭二つ分は背が大きい。
物理的に見下ろしている。鋭い視線が由兎を突く。だが、由兎は下から見下している。凄い牽制である。
「貴女、この餓鬼が私の下僕だと知っているの?」
え、ええ……僕っていつの間に草薙の下僕になってしまっていたんだろう。
とても不名誉だ。失言だ。
「何を言っているの? 春空君は私の箒と呼ばれた男よ?」
い、言われてましたけども!
殺戮のアイドル心身の僕のことを確かに箒と言っていたけれど、それを引き合いに出すのはどうだろう。
それも、仮にも由兎は僕を恋人だと宣言したばかりなのだから、もう少しお手柔らかにお願いしたい。
僕の人権が丸っきり無いみたいじゃないか。
「箒? あはははは、馬鹿馬鹿しい。私が餓鬼の所有権を放棄もしていないというのに」
僕の人権はないらしい。
あはは、なんだか泣けてきた。
それにしても草薙、相変わらず僕を名前で呼ばないな。うん、虐めだ。
「……下品な洒落ね」
下品かどうかはさておき程度の低いだ洒落ではあった、確かに。
「ふん、ではこうしましょう。今から私と貴女が何かしらの勝負をして、勝った方が餓鬼の所有権を持つ。いいわね?」
「望むところよ!」
……望むなよ。
絶句した僕を置き去りに二人は白熱した牽制を未だ続けている。
ぽん、と僕の肩に手が置かれ、振り返ってみると師範が俯いていた。
師範、貴方も僕と同じ男。僕の気持ちを解ってくれるのですね。
そんなことを考えると心中で小波が立って胸に広がり、小さな感動が現れたようだった。
紅練師範は顔を上げる。
「もってもてだな」
笑いながらそう言った。
ぶっ飛ばすぞこの野朗!
可能ならばそうしたいと、僕は心の底から師範を軽蔑した。
番外。
といっても、本編にある程度は関わるかもしれない話かもしれないですが。
そんなに関わらないかもしれない。関わるかもしれない。
正直、僕には解りません。