感情が信号になって現れちゃうポンコツ幼馴染のお話。
大通りを、荷物搬入トラックや遠距離旅行の自家用車が駆け抜けていく。遅れて、風が追いかけていった。不用意に道路へ身を傾ければ、風圧で吸い込まれて行きそうだ。
諒太は、幼馴染の紗希と家路に着いていた。家が向かい合っている二人である、交流は幼い時期から盛んだ。
「……今日の授業内容、分かったか? はてなマークが頭上に浮かび上がってたけど……?」
「そんなことない! 日本語が分からないから問題の意味も分からないなんて、一言も行ってない!」
「自分で暴露してるんだよな……」
誘導に引っ張り出されて、自ら極秘情報をさらけ出していく主義だ。秘書に一番選んではいけない性格である。
高校で使う日本語は、日常生活で使われる範囲から逸脱しない。読めなければいけない単語ばかりだ。
ましてや、数学の課題となると、である。限られた語彙も理解できないようでは、単位の履修すら危ぶまれる。
紗希は、来年も諒太と共に通学できるのだろうか。赤い数字を通信簿に押し付けられて、退学してしまうのではないか……。常々、諒太の不安は絶えない。
「……あとで、教えてよ! ……えーっと、日本語のおべんきょうから……」
「……どうやって高校入試をパスしたんだよ、紗希は……」
試験を通過した以上、必要最低限の国語力は身に付いているはずなのだが。夏休みに羽目を外して全記憶を喪失でもしたのだろうか。
横断歩道の信号機が、点滅し始めた。青信号が長いから安心だと思っていると、こうである。
諒太一人で帰宅していたのなら、迷わずにエンジンをフルスロットルで横切っただろう。渡り切ったところでエネルギー切れを起こすが、足止めを食らうよりは前へ進める。
「ねえねえ、諒太あ……。置いて行かないでね……」
「心配しなくても、行かないよ。……頭も真っ白、体もよわよわで、どう生きていくつもりなんだ……」
「大丈夫、全部買収して乗り切れるから!」
「金に任せちゃいけない場面もあるんだよ……」
札束を積んでも、愛情や友情は買えない。人が寄って来たとしても、それは仮初めの関係。万札が尽きればあっという間に離れていく。
堪忍袋の緒が切れた信号は、諒太たちの到着を待たずして赤に変化してしまった。向かい側からやって来た自転車は、涼しい顔で道路交通法を無死していったが。
ルールを守れと口をそろえて教育してくるのに、自分たちは都合で破る。これでは、従う気も無くなると言うものだ。
「こういうの見てると、信号守る気無くなるよな……」
「法律は、守らなくちゃいけないものだよ? 幼馴染でも、友達でも、自転車で突っ切ろうとしてたら引き留める」
「紗希が加害者になっちゃうぞー、それ……」
後輪のフレームを掴む仕草をした紗希に、脊髄反射で突っ込んだ。交通事故は防げる代わりに、自転車に乗っていた人が大けがをしてしまう。
彼女の頭上を眺めてみると、真っ赤に輝く丸がある。後ろに並ぶ通行人には目視出来ないようで、誰も騒がない。
漫画の演出が、現実世界に出現している。太陽がたまたま被っているのではなく、紗希の頭上に赤い丸印が浮かび上がっているのだ。
「……いちいち、私の言うことに突っ込まないでくれるかな……? ベーリング海でお金を稼いできてもらうよ?」
「……幼馴染が死んでもいいんだな、紗希は?」
「そういうところ!」
紗希の赤信号が、点滅した。もうすぐ青に変わるサイン……だと嬉しいのだが、そうではない。噴火警報がマックスになった合図である。
記憶に残っている頃から、紗希の頭上には信号が灯っていた。通常時は光っていないのだが、彼女の感情が揺り動かされると輝くようになるのだ。
青い時はきまってご機嫌であり、観戦者までもに元気を溢れさせる。かたや、赤い時は隕石の大群が周辺に降り注ぐ。
信号に注意すれば、叱責を受けない……と言う万能指標ではない。紗希も一人の女子高生だ、いきなり変化することがある。
「……どうしたら、もっと覚えられるのかな……」
「なんだ、紗希らしくもない……。未来のこと気にするのは、来年になってからでも遅くないぞ?」
「でも、到底間に合う気がしなくて……」
威勢よく挑みかかってきていた紗希が、いきなりトーンダウンした。膨れ上がった将来への不安が、彼女にも重圧としてのしかかってきたようだ。
信号も感情の動きを察知したのか、やや青みがかっている。グレーと混ざっているのは、混沌とした思考の表れだ。
宙ぶらりんになっている紗希の手を、そっと握ってみる。
「気にすんな、そんなこと。……本気で勉強したいなら、俺が一日中傍に付きっ切りで教えてやるから」
「……なんだか、ストーカーみたいな言い方だね。……今の私に、取柄なんかあるのかな……」
何か、沈んでいる。滅多に発生しない下降気流の発作が、紗希を苦しめている。海底に引きずり込んで、希望を窒息させようとしている。
小学校、中学校、高校。全て同じ道を辿って来たのは、天文学的数字では語れない。数学で予期の出来ない、奇跡の山脈を乗り越えてここにいるのだ。
勉強は下位グループの常連でも、マラソンで途中棄権が普通でも、紗希には前向きさがある、確固たる意志がある。
ちゃぶ台をひっくり返して、毒料理を避けたとポジティブに捉える。花瓶を落として、無駄な花生を送らせなかった自分を褒める。極端なまでのポジティブシンキングには、幸福の神様も目が飛び出ることだろう。
だから、紗希に物思いに海溝にハマって欲しくない。学力の鎖に縛られて、明日の光を遮って欲しくない。
諒太は紗希と一緒に駆け上って来たのだから、この長い長い上り坂を。
「……バカ正直に前を見てた紗希は、何処に行ったんだよ。我武者羅にゴール目掛けてドリブルしていけば、それでいいんだよ」
紗希の手を、更にきつく握りしめた。彼女の体温が、血流を通して心臓へと伝わっていく。
コンクリートの地面に目線を落としていた紗希が、唇を緩ませた。
「……そうだよね。何事も、前向きに、前向きに。へへ、諒太の手をずっと離さないでおこうかな」
「流石に風呂まで付いてこられるのは、困るな……」
「もう、変なことしか考えない諒太のバカ……」
紗希が体勢を立て直せたようで、何よりである。
十数年も、苦楽を共にした仲。雨の日も、風の日も、二人で遊んでは服をびしょ濡れにしていた。当時の諒太に、透けた旨を狙うスケベな心は芽生えていなくて良かったと心から思う。
「……この関係が、ずっと続いたらいいのにな……」
「そうだね……。このまま、一緒になって溶けちゃいたい……」
紗希の頭上に灯った信号は、淡いピンク色を示していた。
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