「離婚する」から始まる、子持ち夫婦の健全な恋愛。
連載作品の合間に勢いで書いた短編です。
「セレア、君とは離婚する」
いつもと変わらいようすで部屋に入ってきた夫から告げられたのは、そんな宣告だった。
4つ年上の夫とは政略結婚で結ばれたが、仲は良好なはずだ。結婚してから恋をするなんておかしな話かもしれないけれど、私は事実夫に恋心さえも抱いているのだ。
夫は常に無表情であまり笑わない人だけど、私を思いやって妊娠中でも他の女性に入れ込む様子も無かった。それなのに今更何故、そんな気持ちが浮かぶ。
しかも、「離婚しようか」と言う提案ではなく「離婚する」と言う私の意志を無視した決定。結婚して2年、婚約機関を含めて3年、彼を見てきたけれど、こういうやり方は彼らしくない。
「……何故、ですか」
震える唇を噛みしめて出した言葉は、思いのほか頼りなさげに震えていた。
「離婚する」
夫は同じ言葉を繰り返すだけ。
「だから、何故ですか」
情けなくあふれ出した涙を雑に擦って、夫を見やる。
好きなのに、否。今は好きだからこそ夫が憎たらしい。
夫は涙が止まらない私と違って、何も感じていないような無表情だ。夫は表情に出にくい人だから、本当に何も感じていないとは限らないのだけれど。
「……」
「もう、良いですよ。旦那様は他に好いた方でもいらっしゃるのでしょうね……」
自分をあざ笑うかのように言葉を吐いた。
夫は平々凡々な見た目の私と違ってかっこいい。結婚して子供を作った今でも彼が女性から人気があることくらい私でも知っているのだ。
夫はそれに口を開きかけて、何を思ったのか結局何も言わなかった。
「離婚、でしたね。承りました。……ですが、息子は私が連れて行きますから」
あの子は、私と夫の繋がりの証だ。それに、もし本当に別の人と結婚するのだったら、愛してもいなかった私の子供より、愛している人との子供を優先するだろう。
「……駄目だ。息子は我が家で引き取る」
「嫌です。あの子は私の子です!」
私は反射的に叫んだ。
「私の子でもある」
血の繋がりで言えばそうなのだろう。
「私が、妊娠期間にどれだけつらい思いをしたと思っているのですか。跡継ぎなら、他の女性に産んでもらえばよいでしょう。旦那様は女性によくおモテになるのですから」
「私は、君との子を跡継ぎにしたい」
「じゃあっ」
なんで、と言おうとしてでも最後まで言葉が出ることは無かった。
「それに、君はまだ若い。私と離婚をしても他に結婚相手を探すことだって出来るはずだ。その時に、子供が居たら困るだろう」
尤もらしい、私のためを思ったような言葉だ。
「私は、旦那様と離婚したとして他の殿方と結婚する気はありません」
そもそも、もう女性の結婚適齢期からは外れているし、それでも良いと求められるような美人ではない。
「旦那様とは、違います……もう出て行ってください。とにかくあの子は私が引き取りますから。離婚の手続きはそちらでお願いしますね」
私は、夫の背を押して、部屋から追い出す。
鍵をかけ、念のために扉の前に手近にあった椅子を積んですわり込んだ。
「あぁ~」
さっきまでも泣いていたけど、声は出さないよにしていた。夫が居なくなった途端に気が緩んで、更に涙が溢れてきた。
涙は止まらなくて、仕方ないからそのままここを出る準備をしようと立ち上がる。でも、何を手に取っても夫との思いでがあって持っていく気になれない。アクセサリーもドレスもこれはいつ褒められただとかいつのデートで付けただとか考えてしまう。
いくつかの棚を漁って、やっと夫との思い出のなさそうな簡素なワンピース数枚とといくつかのアクセサリーを見つけた。
適当に出したトランクにそれを詰める。おそらく夫のことだから、手切れ金代わりにお金を渡してくるだろうから、それで息子の分の生活用品もそろえればいいだろう。
「はぁ~」
トランクを部屋の隅に追いやって、私はベットに突っ伏せた。
涙でだんだんとシーツが濡れていく。
それにしても、夫と離婚する日が来るなんて思いもしなかった。
でも考えてみれば、私は彼が好きだったけれど、彼が私を好きになるなんてあり得ないのだ。だって、彼は不器用なところはあるけど、完璧な人で、見た目だってよくて、軍の中での位だって高い。私とは大違いだ。
それに、そもそも政略結婚で私と彼が結ばれたこと自体がおかしかった。彼が何回も仮の婚約を繰り返したせいで公爵家の跡継ぎとの婚約の話がしがない子爵家の令嬢でしかない私の元にまで回ってきたのだ。普通なら有り得ない話だけれど。
ずるずると考えている間に眠たくなってきた私は、そのまま寝てしまった。
***
「離婚する」
そう告げたのは自分だと言うのに、胸の中がぽっかりと空いてしまったかのような感覚に襲われる。
そもそも、セレアは、彼女は喜んで離婚すると思っていた。
だから、あんな風に泣いて嫌だと言われることは全く想定していなかった。彼女は政略結婚でこんなにつまらない私と結婚しても、文句の一つも言わず付いてきてくれるような優しく、情が深い人なのだから、少し考えれば嫌がることはわかっただろうに。
私は一つため息を吐いた。
婚約が決まったばかりのときは、あまり裕福ではない子爵家の娘で、華奢と言うにもやせ過ぎた見た目をしていたが、三食きっちり取るうちに綺麗になった。彼女を外に出したくなくて、妊娠を急いたが、私の母親は彼女が気に入らないのかいつも彼女を目の敵にしていて、注意しても止めない。彼女に大丈夫かと問えば、笑って大丈夫だと答えるが、本当にそうなのだとは思えなかった。私は彼女に無理をして欲しくなかった。
きっと、私は彼女を愛していたのだ。いや、今も愛している。
彼女が望むものは全て与えたくて、彼女に笑顔でいて欲しかった。そして、ふと気が付いたのだ。彼女に暗い顔をさせているのは、私との結婚だ、と。
だから離婚を申し出た。決定を彼女に委ねることも考えたが、彼女は優しいからこのままで居ようと答えると思って、決定事項として伝えた。
「セレア」
やっと静かになった彼女の部屋に入り、居場所を探せばベットに突っ伏して寝ていた。シーツはじっとりと濡れ、大きなシミができている。
私は音を立てないようにベットの端に座り、彼女の頬を撫でた。頬には涙の跡ができていて、今も少なくはあるが、涙が溢れてきている。
改めて彼女の顔を見て、息子は完全に自分似だなと思う。彼女の髪は艶のある黒で、瞳は今は閉じて見えないが、髪と同じ黒曜石のような黒色をしている。対して自分と息子は淡い金の髪に、紫と青の中間のような色の瞳だ。彼女によく似た娘も欲しかったな、と今更ながらに思う。息子が可愛くないわけではないが、色々な面で自分と似すぎていて、微妙な気持ちになることは否めない。
「ん……」
髪を撫で始めると、唇は窄められ、手が空を彷徨う。
これ以上は起きてしまうと危惧し、手を離そうとしたとき、彼女の手が私の手を掴んだ。
「……」
どうしようか、と思うがどうにも出来ない。寝ているとは思えない程に強く握られていて、無理に剥がせば起きてしまい、本末転倒だ。そもそも、彼女は私が部屋に入ってくる事はないと思っているのだから、バレてはまずい。
「だんあ、しゃ」
彼女の口から、寝言が溢れる。時折眉が潜められ、あまりいい夢を見ているわけではなさそうだ。いい夢を見ているときの彼女は微笑んでいる。たまに面白いのは、食事を取る夢でも見ているのか私の服を噛んでいることだ。
「ん……ゆめ、か。あぁ!旦那様だぁ。旦那様ぁ」
目を覚ましてしまったらしい彼女は、けれどもこの空間を夢の中だと勘違いしているようで、私に微笑んだ。
口調は、寝起き特有の上手く呂律の回らない幼気な感じ。
彼女の微笑みは純真無垢で、私を好いているのでは無いかと勘違いしてしまいそうになることもある。
「旦那様ぁ、なんで座っているのですかぁ?一緒に寝ましょ」
良いことを思いついたと言うように私に飛びかかって来る。
「セレア、危ない」
私が言えば、なんてこと無いと言うように彼女は笑う。
「大丈夫ですよ。旦那様は、受け止めてくださいますもの」
私を強く掴んだまま、彼女は後傾する。
「っと、本当に危ない」
ベットに落ちる彼女を自分の体が彼女を潰さないようにどうにか手を付けば、何もわかっていないみたいに、彼女はくすくすと笑った。
―――君はやはり、そうしている方が良い。
こんなに楽しそうに笑う彼女は、随分と見ていない。私を離婚することが決まって、肩の力が抜けたのかもしれないと思った。
「ほーらぁ、旦那様は何をしているのです。早く寝ますよ」
私を横向きに転がそうと押すのに流され、彼女の横に寝転んだ。
「ふふっ」
「なんだ」
「隣に、旦那様がいます。なんて都合のいい夢でしょう。離婚する、と告げられたばかりだと言うのに」
幸せそうだった彼女の表情が一転、苦しげに歪む。
「……私の何が駄目だったのでしょうね。旦那様は本当は誰が好きなのでしょうか。何故!私ではっ」
セレアの手が私の腰に回され、ギュッと抱きしめられる。再び泣き出してしまったせいで、服が湿ってくる感覚があるが、それが全く嫌ではない。
「なんて、夢の中で言っても駄目ですね。でも、もう旦那様は私には愛想を尽かしたのでしょう。……そもそも、こんなにも平凡な私が旦那様の隣にいることが間違っていたのですね」
彼女は私との離婚を本気で嫌がっている。彼女の心の内を聞いて改めて理解した。でも、正直彼女にはここまで嫌がる理由がない。
私は何一つとして答えられず、ただ彼女の頭を撫でるばかり。
「好きですよ、愛してます。旦那様。現実で伝えたかったなぁ」
「……!」
初め、彼女が何を言っているのか理解出来なかった。
私を、なんと言った?
「旦那様、都合の良い夢なのはわかっています。もう、夢でもいいから、最後にお情けをください」
彼女は必死に私に縋り付く。腰に回った手はそのまま、足まで絡みついてきた。
「セレア」
私が名を呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「なぁ、私が好きか?」
「好き、ですよ。離婚なんてしたくない。離れたく、ない。今なら言えるのに……」
途方にくれたような、全てを諦めたような目が私を見る。
「本当は、もう一人でも二人でも旦那様の子が欲しい」
その言葉にやっと、彼女は本気で私が好きだったのだとわかった。私は何ということをしたのだろう。
それこそ、これが私の都合の良い夢でないのなら、私が何を犠牲にしてでも彼女を幸せにすべきだったのだ。離婚などと言って、諦めるべきでは無かった。
「私は、遅いな」
私の言葉に彼女は小首を傾げる。
結婚して2年でようやく、本当の意味で彼女を幸せにする決意を決めるなど。
「悪かったな、セレア。なぁ、もう離婚なんて言わないから、私のそばにいてくれ。絶対に君を幸せにするから、愛想をつかさないでくれ。私も君を愛している」
都合が良すぎることはわかっているが、今度は私が彼女に縋る番だった。ここで言っても、彼女は夢だと思っているから意味が無いのに、言葉にせずには居られなかった。
「旦那様」
セレアが感動したように呟く。そして、再び悲しげな表情をする。
「これが、現実なら良いのに」
「現実だ」
「えっ?」
驚く彼女の頬を摘む。
「痛いです!」
彼女は反射的に大きな声を出して、恨みがましく私を見る。
「な?」
「な?ってなんですか。人の頬を摘んでおいて」
言っても気づかない彼女が愛おしい。
「痛い、のだろう。夢では痛覚を感じぬのが相場だ。違うか?」
「…………………………!」
長い沈黙のあと、ようやく彼女は気づいたみたいだ。
「まさか、本当ですか?本当に夢ではない?」
慌てる彼女の肩を抑える。
「そのまさか、だ。そんなに疑うなら、今から子供を作るか?」
私が意地悪く彼女に言うと、彼女は顔を真っ赤に染め上げた。
「どうした?望んだのは君だろう」
「そうですけど……」
「まぁそれは良い。子を産むとき辛いのは君だからな」
「それは、……今朝はごめんなさい。本当は、貴方が私の事を心配してくれて力になろうとしてくれていたことも知っていたのに、酷いことを言いました」
彼女をうつむけて私に謝る。
「私は君に謝って欲しくてこの話をしたわけではない。……それに、君の言っている事は正しいんだ。私は力になりたくとも、結局何もしてやれなかった。男は無力だな」
「そんなことは、ありません。今朝は勢いであんなことを言ってしまいましたけど、妊娠中は旦那様がそばにいてくれるのが力になっていました。旦那様は、無力なんかじゃありません」
彼女の強い言葉に、私が慰められてしまった。
「……その、良いですよ。二人目。旦那様との子供が欲しいです」
「良いのか?」
「良いですよ。でも、もう離婚なんて言ったら許しません。……でも、なんで離婚なんて言ったのですか?」
「私と居ても君は幸せになれないと思ったから。私といる時に君はあまり笑わない」
「そんな事ありません。私は旦那様のそばに居られて、今までも幸せでして。そりゃ、嫌なこともありますよ。でも、旦那様のそばに居られないこと以上に悲しいことなんてありません」
彼女は強い瞳で私を見る。
「ありがとう、それは嬉しい」
改めて私が彼女に圧し掛かると、彼女はパッと顔を赤らめる。
「どうした?」
わざとらしく言えば、彼女は黙り込んでしまう。
「ふっ、いつまでも初心だな」
「っ……もう、揶揄わないでください」
「揶揄ってなどいないさ。これからは、何でも口に出して行こうと思ってな。君も、何かあったら直ぐに言ってくれ」
そう彼女の頬を撫でる。
「わ、わかりました。でも、本当に今するんですか?」
「嫌か?」
「嫌、と言うかそのまだ暗くないので」
「大丈夫だ。直にそんなことは考えられなくなるさ」
ふっと耳に息をかけると、体をピクリと跳ねさせる。
「ほら、君はこんなにも私に囚われている。もう、他なんて気にならないだろう?」
抱き寄せて、深く口付ければ、うっとりとした潤んだ瞳で私を見る。
「はい、旦那様」
そして、熱に浮かされたように、従順に答える。
「愛いな」
妻は、これほどまでに可愛かっただろうか。
これまでも愛していると思っていたが、今の彼女は全く違う。やけに美しく見えて仕方がない。
「旦那様っ」
「名で、呼んでくれ。ほら」
「あ、あ」
「何だ、私の名を忘れてしまったか?セレア」
彼女の耳元で低く囁く。
「あ、アレク様」
「あぁ。セレア」
「アレク様、もっとして」
「君の望むままに」
私たちは、更に深くベットに沈み込んだ。
その晩の妻は、私の胸の中で酷く乱れて、私の劣情を煽った。
「覚悟しろよ?」
どこを触っても子犬のように鳴いて。
「もう離さない」
そして、セレアが身ごもるのもそう遠くないことだと、思った。
***
あの離婚を言われた日から数か月後に私の妊娠が発覚。
3年経った今ではその後産んだ双子も含めて、女の子が1人と男の子が3人と言う合わせて4人の子供に恵まれた。それでも飽きずに私とアレクの行為は続いており、第五子が生まれるのもそう遠くない未来のことかもしれない。
あの時は、本当に辛かったけれど今になってはあの事があって良かったと思う。もし、あれが無かったら、夫とこれほどまでに思い会えなかった。きっと、お互いに片思いだと思っていただろう。
「アレク」
「どうした、セレア?」
あの日からアレクは更に優しくなって、笑顔も増えた。一つ文句があるとすれば、外でも何気なく笑うから、他の女性に余計にモテるようになってしまったことだ。彼が笑うと嬉しいから、結局言えないのだけど。
「何にもないですよ。ただ呼んでみただけです」
「そうか」
沈黙が全く気まずくない。
アレクはやはり今でも口数の多い方ではないけど、それでも思っていることは直ぐに言ってくれるようになった。一番口数が多いのはベットの中で、私は度々赤面する羽目になる。
「セレア」
「何ですか?」
「呼んでみただけだ」
以前の彼ならこんなことは絶対にしなかった。私も、彼相手に呼んだだけなんて出来なかったが。
「そうですか」
私はふと彼に抱き着く。
「どうした?」
「抱き着きたくなっただけです」
「そうか」
何か考えるような仕草をしたアレクに、彼の顔を覗けば、意地悪な顔をしている。
ロクなこと考えていないな、と視線を落とすと、彼の手が顎に回った。そして、私の唇に彼の唇が重なる。
「なっ、急に何をっ」
何度もしているはずなのに、口付けもそれ以上の行為も全くなれない。
「口づけたくなっただけだ」
「もうっ」
彼とこんなにも近い距離で在れることは幸せだが、少し意地悪になった彼には困ってしまう。
「まぁ、それも幸せだけど」
呟くと、彼が首を傾げる。
「幸せですね、アレク」
「あぁ」
これからも、彼と穏やかに笑い会える日々が続くことを私は願っている。
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