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星乃純は死んで消えたい  作者: 冷泉 伽夜
二年目
67/139

なんとかの威を借るなんとか 2



「は?」


 あとは、カバンを持って部屋を出るだけだ。支度を済ませた純は、熊沢に向き直る。いつもよりも落ち着いた、薄い笑みを浮かべて。


「ああ、すみません。途中でさえぎってしまって。次に同じようなことがあったら……なんですか? 続きをどうぞ?」


 このときばかりは、熊沢の感情的な怒りに負けなかった。負けるつもりもなかった。


 熊沢は鼻を鳴らし、純を指さす。


「そのときはおまえがグループを辞めさせられるかもしれないんだぞ? せっかくメンバーに残してもらってるってのにそれでいいのか?」


「はい。別にそれでもいいです。俺、アイドルに向いてないみたいですし」


 これまでにないほどの静けさで、空気が張り詰める。


 できるものならやってみればいい。願ったり叶ったりだ。


 純がアイドルになったのは社長の意向だ。熊沢ごときに、あの社長を納得させる力はない。純を干す権限が熊沢にあるとは、考えられなかった。


 鼻で笑って続けようとする純だったが、大きい破裂音に遮られる。


「いっ……」


 誰も、声を出さなかった。物音ひとつ聞こえない。メンバーもスタッフも、純と熊沢に青白い顔を向けていた。


 肩で息をするマネージャーの前で、純は頬に触れる。みるみるうちに赤く腫れていく頬は、熱を帯びていった。


「おまえ今年に入ってから生意気だぞ! まだデビューして一年しかたってないくせに! もう大物気取りのつもりか! 社長にもあんな口たたきやがってよ」


 純の鼻から血が流れ落ち、服を汚していく。着替えていてよかった。衣装だったら買取になる。


 そんなことをぼんやり考えている純に、空が近づいてティッシュの箱を差し出した。この空気の中、勇気を出して駆け付けてくれたのだが、純はそれを手で制す。


「良かったです。このくらいで済んで。もし、グーで殴られてたら、鼻を骨折したかもしれないですね」


 淡々と、無感情に、声を出す。


「そんなことになったら病院に行かなきゃいけないし、仕事を休むために診断書も出さなきゃいけないですからね。……それに、マネージャーがタレントを殴ったら、さすがに解雇されちゃうでしょ?」


 もし、純が千晶だったなら、こんなことにはならなかっただろう。ずきずきと痛む頬に触れながら、純は笑った。


「で、俺が叩かれた理由を簡潔に教えてくれますか?」


 おぞましいほどに冷静な声だった。止まらない鼻血も相まって、異様な空気を漂わせている。


 熊沢の顔色も、だんだん悪くなっていった。


「この顔どうした? って聞かれたら、ちゃんと理由を答えなきゃいけないでしょ? 先輩とか仕事先の人とか、もちろん社長や両親にも」


 熊沢よりも先に、となりにいる空が声をあげる。


「そんなこといいからはやく血、とめないと! たたかれたところも冷やさないと!」


 ほら、とティッシュ箱を押し付けるが、純は一瞥いちべつするだけだ。


「わかってます。怖いですよね? だって普通はたたいた時点でクビだから。俺に理由があったとしても、暴力沙汰を起こしたほうの負けですから」


 純のすべてが、冷ややかだった。顔も声も言葉も態度も、それまでに熊沢へみせる姿とは、全く異なっていた。


「気が気じゃないんでしょ? 俺と社長、仲がいいから言いつけられるんじゃないかって。こないだの会議、俺の話もちゃんと聞いてくれてましたもんね、社長」


 スタッフがざわつき始める。たくさんの焦燥感を肌で感じ取りながら、純は堂々と続けた。


「でもあのとき、俺は熊沢さんの悪口なんてひとつも言いませんでしたよね? 当たり障りのないことしか言いませんでした。それとも言ってほしかったですか? あのマネージャー、さっさとクビにしてくださいって」


 顔をゆがませる熊沢に、純は短く息をつく。はっきりと開いたキツネ目は圧を放ち、熊沢をとらえてはなさない。


「安心してください。この件は誰にも言いませんから。俺以外の誰かが言うことも、ないでしょうし」


 この場にいるスタッフたちは、居心地が悪そうに純から視線をそらしている。どうする? と、となり同士で顔を見合わせている者もいた。


 それは、メンバーも一緒だ。


「謝ってもらわなくても結構です。……ほんとうに、もう、どうでもよくなったので」


 空が持っているティッシュ箱から数枚引き抜き、鼻血をぬぐう。


 純はもう、視えていた。熊沢の未来が。


 たとえ今回の件を社長に伝えなくても、いずれ純の前から消える。それをわざわざ熊沢に教える義理はない。


 純は顔についた血をティッシュで拭きとりながら、ふらふらと歩いた。向かうのは、収録前にトイレに行くと告げた、あのスタッフのところだ。


「顔、洗いたいのでお手洗いに行きますね、スタイリストアシスタントの山本さん。ちゃんと、伝えましたからね」


 スタッフは目を見開く。


「三回目は、ありませんから」


 純は背を向け、ドアに向かっていく。


「あ……それくらいなら、こちらでやりますよ」


 ヘアメイク担当のスタッフが、鏡の前でそそくさと準備をする。


 純が社長と懇意なのを知り、変なことを言われてはたまらないと思っているようだ。


 純はにっこりと笑って返す。


「結構です。俺のためにわざわざ準備してもらうのは、心苦しいので」


 スタッフたちの反応も、熊沢の反応も、もうどうでもいい。


 興味がない。


 彼らのために何かしようとも思えない。


 純は静かに、楽屋を出ていった。 



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