余計なお世話
廊下の突き当たりまで行くと、曲がって入れるスペースがある。その奥にある、非常口と書かれた扉を開けた。
瞬間、冷えた風が吹き込み、純の頬をなでる。そこは、ビルに外付けされた狭い非常階段だった。
下に続く階段の一段目に、千晶が腰を落とし、膝を抱えている。
悲痛。嫉妬。歓喜、恐怖。その全身から漂うのは、混ざりに混ざった不健全な感情だ。その中には純への敵意も間違いなく存在している。
足を踏み入れた純は、ドアをゆっくりと閉めた。
「大丈夫だよ。三日ぐらい休んだところで」
「おまえ、恥ずかしいと思わないの?」
純の声だと気づいた千晶は、ここぞとばかりにトゲのある言葉を並べ立てる。
「おまえなんて、親の名前で仕事もらってるようなもんじゃん。親の名前で愛されてるって惨めじゃねえ? なに当たり前のように名前出してんだよ気持ちわりいな」
「俺は、両親の名前を出したことなんて一度も」
「出してんだろ! なんでもかんでも! おまえなんてただ、両親が星乃恵と美浜妃だからみんな味方してくれてるだけだ! おまえがちやほやされるのは、優しくしてくれるのはあの両親だから! おまえだからじゃない!」
千晶の姿から、純の頭の中で映像が映し出される。前回見えたものと同じ内容だ。
美しく輝かしい姿でそこそこ成功し、何不自由ない富と評価を得る千晶の姿。しかし、愛情も友情も搾取されて残るのは――猜疑心と、孤独だけ。
「坂口千晶が一番、アイドルとしていろんなことを犠牲にしてるのは、わかってるよ」
千晶は振り向いて、純を見上げる。その目は黒々とした闇に覆われていた。
「きみは、そうやってずっとなにかを犠牲にしながら、仕事と名声を手に入れていくんだろうね。ファンのために、スタッフのために。メンバーのために。視聴率や売り上げのために。それでも、君が欲しいものだけは、絶対に手に入らない」
「知ったような口聞くなよ! いつもいつも!」
立ち上がった千晶は腕を伸ばし、純の胸ぐらをつかむ。その勢いで、踊り場の柵に背中を押し付けた。
肩甲骨の下あたりまで高さのある柵の、向こうは外。もし落とされれば駐車場に真っ逆さまだ。
(落とすつもりなら、階段のほうが確実なのに。……いや、そのつもりはないんだな)
「きみがなにも変わろうとしないなら、欲しいものが手に入らない人生でも幸せだと受け入れるしかないんだ。たとえ、お父さんと、月子ちゃんに、公私ともに受け入れられなかったとしても。たとえ、ファンが作り上げた理想の坂口千晶に、縛り付けられたとしてもね」
「黙れよ!」
再び、つかんでいる手を押し込めた。
千晶の美しい顔は、原形をとどめないほどにゆがみ切っている。王子と評されるアイドルらしい姿は、そこにはない。そんな千晶を、純は憐れんだ目で見るだけだ。
「そんな目で見てくんな、気持ちわりい。薄気味悪い目しやがって」
純に対する嫉妬や屈辱が、これでもかと漂ってくる。それらにひきずられないよう、純は深呼吸をした。
「……大丈夫だよ。三日くらい休んでも、きみの需要はなくならない。また、いつもどおりの忙しさに戻るよ」
「おまえが俺に同情してくんな! おまえはもっと危機感持つべきだろ! のうのうと、肉食いに行くんじゃなくてさ……」
千晶がため息をつくとともに、胸元から、するりと手が離れる。
「やっぱり、おまえのこと嫌いだわ」
純粋で、曇りけのないまっさらな嫌悪が、純を正面から突き刺した。
「俺はおまえとは違う。全部持ってるおまえに。俺より働いてないおまえに、俺の気持ちがわかってたまるか!」
千晶は背を向け、階段を駆け下りていく。純が追いかけることはない。
再び、肌を刺すような冷たい風が吹き、赤い髪が揺れる。
ひとまずは、月子と、会長のもとに、戻らなければ。




