動き出す歯車 2
「純!」
千晶とは違う、嫌悪と憤怒。
廊下から出てきた爽太が、遠目から不快げに純をにらみつけている。純は背負っていたリュックをおろし、緑色のイヤーマフを取り出した。
「ごめん。ちょっと行ってくる。集中できないだろうからこれつけてて」
「お?」
リュックはイスに置いたまま、器用に月子の頭と耳に装着し、爽太のもとへ向かう。
なにがあったのか聞く前に、廊下の影からこちらを見る古橋と田波の姿をとらえた。眉尻を下げて困惑している表情から、なにがあったのか大体のことを察する。
「あの仕事、もともと純のものだったんだって?」
爽太は声を荒らげないよう、きわめて冷静にふるまおうとしていた。
「あの仕事?」
「とぼけんなよ。今日話したロケ番組だっつの」
純は古橋を見る。
古橋は首を振り、田波はただただ戸惑っていた。二人ではない。だからといって会長もわざわざ爽太本人に伝えるとは思えない。
「誰から聞いた?」
「社長だよ」
「あー……」
それなら合点がいく。おおかた偶然社長と爽太が会い、世間話の流れでそのような話になったのだろう。会長とは違って社交的であり、口数も多い人だから。
「純が、俺に仕事、譲ったってことだよな?」
失望と、困惑でにじむ声色。
「なんでそんなことしてくんの?」
――なんで、純まで俺のこと見下してくんの?
落ち着きながらも、その内ではドロドロとした劣等感を膨らませている。
こうなるから伝えるべきではなかったのだ。
「会長からわざわざ指名されてたんだろ? 受けろよ、おまえが。断んなよ」
――純に仕事を譲られるほど。俺は落ちぶれちゃいないのに。
「俺は、爽太がいいと思ったんだ」
いつものはかない笑みを消し、琥珀色の瞳をまっすぐに向ける。悪びれもせず、謝るでもない純に、爽太はさらにムッとした表情を浮かべた。
「俺よりも、今の爽太に合ってる仕事だと思ったんだ。爽太だって自分でそう思うだろ。この仕事で、得るものは多いって」
「だからって、こんなおこぼれみたいなのは嫌なんだよっ」
「形はどうあれ、これは、爽太が望んでた仕事だよ。誰とも比べられない、坂口千晶のバーターでもない、イノギフの端っこでもない。イノギフの和田爽太としての仕事。爽太だけの実力で評価される仕事なんだ」
「でも……俺が求められた仕事じゃない!」
「そうだね。誰でもいい仕事だ。どうしても爽太がやりたくないんだったら俺がやるよ」
爽太の喉に言葉が詰まる。純と目を合わせることにも耐えられず、視線を落とした。
それをわかっていながら純はなお、まっすぐに見つめ続ける。
「俺は、やりたくないから譲るわけじゃない。自分の立場で売れてるなんて断言する気もない。調子に乗ってるわけでもない。でも爽太は今、こう思ってるんだろ? 星乃純ごときに、仕事を譲られたって」
「……違う」
「違わないよ。かつてセンターをやってたほどの自分に、星乃純程度が務まるような仕事を回されたって。星乃純ごときが断った仕事をあてがわれたと思うから、腹が立ってしょうがないんだろ?」
爽太は口を閉ざす。否定も肯定も返さない。
「別に、無理強いはしないよ。俺の代わりにやれなんて言ってない。……やるかやらないかは爽太が選べばいい。自分に回された仕事をつかむか。プライドを優先して仕事を蹴飛ばすか」
爽太はゆっくりと視線をあげ、おそるおそる、琥珀色の目を見つめる。
「違う。俺はそんな、最低な、やつじゃない」
唇をわなわなと震わせながら、必死に、声を出した。
「最初から、言ってくれれば、それで、よかったんだ。これじゃ俺だけ、なにも知らずに喜んで、バカみたいで」
「ほんとに? さっきみたいに感情任せになって俺を責めない自信はある?」
その言葉にこわばる爽太の全身は、さまざまな感情や思考でぐちゃぐちゃににじんでいた。
「なんなんだよ、おまえ。最初から、なにもかもお見通し、みたいな顔して……」
純は爽太の言葉にうなずくことも、反論もしない。言葉の裏にある、仕事を受け入れる、という返事は、しっかりと受け取った。
「そうだね。ごめん。俺は、この仕事で爽太が結果を残すってわかってるんだ。仕事を譲った俺を許すか許さないかも、爽太が今悩んでいることも、このロケが終わってから考えなよ。じっくりね」
純はいつものほほ笑みを浮かべて身をひるがえし、月子のもとへ戻っていく。
その後ろ姿を見ることができない爽太は、再び目を伏せた。見かねた古橋が近寄り、声をかける。
「和田さ」
「俺って、本当に嫌なヤツ。純が、嫌がらせでこんなことするようなやつじゃないって、わかってるのに。……こんなんだから、だめなんだな。俺」
悲痛な声に、古橋も田波も、それ以上かける言葉が見つからなかった。
テーブルに戻る純は、目を見開く。月子の耳に当てたはずのイヤーマフが外れ、首にかかっていた。
となりに腰を下ろすと、月子は箱からトリュフチョコレートを取り出し、口に入れる。
「純ちゃんにしては。珍しい物言いね」
「……聞かないでほしかったんだけどな」
「言ったそばから離れていった純ちゃんが悪い」
高慢にほほ笑む月子はイヤーマフを首から外し、まじまじと見つめる。
「いいね、これ。私も欲しい」
「結構カラバリあるよ。月子ちゃんの好きなラベンダー色も売ってるかも」
「純ちゃんが嫌じゃなきゃおそろいにしちゃおうかな」
「いいよ。月子ちゃんが気にしないなら」
純は穏やかな笑みで、差し出されたイヤーマフを受け取った。




