トラウマのファンレター 2
純はあいかわらず封筒を見下ろすだけで、受け取ろうとはしない。古橋も持ったまま、押し付けることはなかった。
古橋のもとにまで来た田波が、息切れしながら封筒を取り上げる。
「ほら、困ってるじゃないの」
「え~、でも~……」
「でもじゃない!」
古橋をたしなめようとする田波だったが、純の視線に気づき、顔を向けた。
ようすをうかがう狐目が、じっと見上げている。不思議な力を感じさせる琥珀色の瞳。田波が委縮していると、その目が細くなった。
「田波マネージャー、今日はデスク作業だったんですか?」
「ああ、はい」
「いつも坂口くんたちに同行してるから、お話しするのは初めてですよね」
物腰の柔らかい雰囲気に、田波の顔は安堵の笑みが浮かぶ。
「古橋くんは、どうですか? マネージャーとして頼りになってます?」
「もちろん。古橋さんが担当になってくれてうれしいです」
「それはよかった」
「俺とまともにかかわろうとしてくれるの、古橋さんくらいですから。俺が殴られそうになったときも、間に立って守ってくれましたし」
「……え?」
田波が「どういうこと?」と怪訝な顔をとなりに向ける。その表情に怒られると思ったのか、古橋があわあわと返した。
「え、っとですね。実は、その、熊沢さんが殴ろうとして」
「はあ? 誰を?」
「え、と、星乃を、ですけど。でも今思うと僕がそう見えただけなのかな、というか」
「いや、そういうことはまず報告しないと! それ上にもちゃんと言った? とにかく、後で詳しく話を聞きますからね!」
部下を叱責する社員の声に、エントランスにいた者がちらちらと視線をよこす。その視線に当然気づいていた純は眉尻を下げ、古橋に続けようとする田波を遮った。
「古橋さんは、俺のことを思って言わないでいてくれたんです。俺も、熊沢さんに余計なこと言っちゃったし、上の人に怒られるのは俺だろうから」
古橋は微妙な表情を浮かべていた。
純の見立てでは、古橋はだれに報告するべきかわからなかっただけだ。このことを報告すべきなのかどうかもわかっていなかった。
しかしそれが今、純にとっては非常に都合がいい状況となっている。
「でも古橋さんが助けてくれてよかったです。あやうく本当に、殴られるところだったから。去年はそれで一回殴られちゃったから」
さあっと青ざめた田波は、同じく困惑している古橋と顔を見合わせる。
「あの、星乃さん、それって」
純はしまったとばかりに、二人に向けて両手を振った。
「あ、でも、そんな。大したことはないんですよ、ちょっと鼻血出ちゃっただけで。それに、俺、みんなが普通にできることでも、できないことのほうが多いし。去年は特に、大変な目に合ってる月子ちゃんを何とかしてあげたくて、事務所のいろんな人に余計なこと言っちゃって……イライラさせたのも、当然っていうか。それに今は、古橋さんが一緒にいていろいろ助けてくれるから、前よりも全然、つらくないんです」
柔らかく、穏やかな純の笑みに、二人はなにも返せなかった。二人を見返す純は、不安げに視線を下げる。
「すみません。俺、気を使わせるようなこと、話しちゃいましたよね。俺、本当に大丈夫ですから」
「ああ、いえ……」
微妙な空気に包まれる中、古橋はファンレターの件を思い出し、田波の手にあるそれを見て話題を変える。
「あの、話を戻しますけど。これ読んでみてください。男性ファンからみたいです。メンバーの中でも男性からもらうのは珍しいんじゃないですか?」
「男性……」
純は古橋と目を合わせ、田波とも目を合わせる。ゆっくりと瞬きをして、柔らかい笑みを浮かべた。
「そっか。俺宛てのファンレター……届いてたんだ? 全然知らなかった。実際目の前にするとうれしいですね」
腕を組む田波の、眉が寄る。
それを確認した純は、ほほ笑んだまま二人を手で制した。
「でも、すみません。ちょっと、まだ読めない、かも……」
「そんな……」
「俺、古橋さんのこと信じてますから。その中身が、ちゃんとしたファンレターだってことはわかるんです。でも、やっぱり、怖くて……」
前に出している手が、震え始めた。胸の動悸を、ほほ笑みで精いっぱいに隠す。
わかっている。古橋が熊沢のようなことは、しない。
それでも、頭の中ではあのときに読んだ手紙がフラッシュバックしていた。うかつに見てしまった、あの筆圧の濃い嫌悪。メンバーたちがファンレターに喜ぶ中で読まされ、破り捨てることすらできなかった。
「じゃあ、僕が代わりに声に出して読んであげますよ」
「いや、だいじょ」
「古橋くん」
田波が肘をつき、眉尻を下げながら首を振る。
「星乃さん。大体の事情はわかりました。無理に読め、とは言いません。でも、定期的に送ってくれるファンがいるってことは、絶対に忘れないでくださいね。その方たちは、星乃さんに読んでもらえることを信じて送り続けてるんですから」
田波の穏やかな笑みと、漂う強い意志に答えるよう、純はうなずく。
「あの、これまでの、俺のファンレターって、どこにあります?」
田波の眉がピクリと動く。
「え?」
「あ、すみません。俺宛てのファンレターなんて、そんなに届かないですよね」
田波は答えられず、古橋に顔を向けた。古橋も田波と同じ心境だったのか、困惑した顔で田波を見る。
二人の反応に、純は顔から表情を消していた。
――なるほど。渡せる状況にないんだな。でも……ここまでは、順調だ。
古橋が顔を向けてきたと同時に口角を上げる。田波が持っている封筒を、指さした。
「あ……じゃあ。このファンレター、古橋さんに持っててもらおうかな」
「え? 俺ですか?」
「古橋さんは一番俺の近くにいるし、こうみえてかなり、信頼してるんです。きっとしばらく異動もないですよね。俺が読みたくなるそのときまで、預かってもらってもいいですか?」
純粋な歓喜の笑みが、古橋の顔にぱあっと浮かぶ。
「も、もちろん! 大事にとっておきますから。ほかのファンレターも!」
「ありがとうございます」
純はリュックを背負いながら腰をあげる。
「じゃあ、俺、そろそろ自主練に行きますね。爽太を待たせてるし」
テーブルの上に積み上げられた雑誌に手を伸ばすと、古橋がそれを制した。
「あ、僕が片付けておきますから。それが終われば、僕もすぐに行きます!」
「いつもすみません。ありがとうございます」
古橋と田波に軽く会釈をして、純は廊下に向かう。その後ろ姿を見送る田波は、ぼそりとつぶやいた。
「いったい……どういうことなの?」




