壁もなく悪意もなく 2
しばらく階段をのぼり続け、スタジオが並ぶフロアに到着する。四号室のドアをノックし、中に入った。
「あ、来た? お疲れ」
そこではすでに、爽太が準備体操をしている。足を広げて座り、腕を前方にのばすよう上半身を倒していた。純に顔を向けながら、ゆっくりと体を起こす。
坂口千晶が完璧な顔立ちの中性的美人なら、和田爽太はさわやかな顔立ちの正統派イケメン、といったところだ。
純に続いて入ってくる古橋に、眉をひそめて立ち上がった。その反応に、純は首をかしげる。
「顔見知り?」
「え? いや、どっかで見た顔だなって思って」
「まあ、元レッスン生だから、顔を合わせたことくらいはあるよね」
ニコニコしながらも緊張している古橋に、手を向けた。
「古橋さん。今年度から俺たちのマネージャーになるんだって。自主練のようすが見たいって言うからつれてきた」
「あ……そう、なんだ」
純とは違い、爽太は古橋を警戒していた。しかし明確な嫌悪や拒絶は漂っていない。古橋をこのままとどまらせても問題はないようだ。
ほほ笑む純は、スタジオの奥に足を進める。
「うれしいよ。和田くんが、練習に誘ってくれて」
「三年も同じグループなのに他人行儀だな。爽太でいいよ。俺も純って呼ぶし」
隅にまで来ると背負っていたリュックをおろし、中からスマホを取りだした。
自主練するにあたって、振付師が踊る振付動画を流し始める。背中に突き刺さる視線を感じて振り向けば、しかめ面で腕を組む爽太と目が合った。
「今日も動画に頼るつもりか? 俺と一緒に練習するんだろ?」
「……そうだね。でも、そのまえに確認しておきたくて」
純は、アイドルになった当初からダンスができず、見放されてきた。今では苦肉の策で、全楽曲の振付を動画に収めてもらっている。ほとんどのダンスを、レッスンより動画で覚えている状況だ。
FMPに所属するアイドルでこのような処置をとっているのは、純だけだった。
「すぐに覚えてすぐ踊るっていうのがウチの基本だし、アイドルとして当たり前だと思うんだけど」
「ごめんね」
「即興で踊れるようになったほうが絶対に楽だぞ。それに、悔しくない? 二世の劣等生っていう評価のままで」
「……いや」
「俺は悔しいよ。同じグループとして、これからも一緒にい続けるのに。……俺がそう思われるのも、メンバーがそうやって蔑まれるのも嫌」
琥珀色の瞳が、爽太を映す。純の視線から逃れるよう顔をそらした爽太は、自身の二の腕を強く握りしめた。
「純が、毎日自主練してるのは知ってる。だから、今日も来るんじゃないかと思って待ってた。……渡辺月子とか、動画とは違って、俺が直接教えられることのほうが、多いと思って」
爽太の言動には、ウソも、悪意もない。なにか裏があるわけでもなかった。
黙ったままの純に、古橋が口を出す。
「そうそう、和田さんってすごいんですよ。昔センター張ってたくらいの実力者で、ダンスもうまくて」
「やめろよ!」
盛大に反響した声。
しんとした空気と、委縮する古橋。
我に返っていたたまれない爽太は、落ち着いた声量に戻す。
「今は、センターじゃない。……年下組の中では仕事が少ないし、時間はある。だから、純に、教えてあげられる。ただ、それだけ」
爽太は自身の中で渦巻く黒々とした感情を、態度や言動で悟られないよう必死に堪えていた。
純と目を合わせ、はっきりとした声で力強く続ける。
「とりあえず、今度生放送でのパフォーマンスがあるから、そのときの振りは完璧に仕上げておこう。目標はとりあえず、放送事故を起こさないようにすること!」
――強いなあ。
それが、爽太の姿を観察した純の感想だった。爽太は自身の感情を必死にコントロールしたうえで、劣等生と向き合おうとしている。
「……? 聞いてんの?」
反応を見せない純に、首をかしげた。
「聞いてるよ」
純は笑みを浮かべ、スマホを暗転し、リュックにしまう。
荷物を隅に置いたまま、鏡を前にして自主練を始めた。まずひととおり踊ってみせる純に、爽太は顔をしかめる。
「思ったより踊れてんじゃん。レッスンのときよりも、全然」
「そりゃあ、まあ……」
ダンスの振りは、一応、体に叩き込んでいる。レッスンのように、不穏な感情や思考が全身に刺さることもない。周囲の影響で体の動きが鈍くなることはなかった。
「じゃあ、もう一回やってみて。それが終わったら、俺と合わせよう」
純はうなずき、指示どおり一人で最初から通す。後ろに下がった爽太が、手拍子でリズムをとっていた。壁際に控える古橋は、二人のようすをメモ帳にがりがりと書き込んでいる。
純の耳に入る手拍子の間隔が、かすかにずれ始めた。ほとんどの人が気にならないほどの、わずかな乱れだ。
ターンのその一瞬、純の瞳は爽太の姿をとらえる。
手をたたき続ける爽太は、純を見ていない。鏡を向いて、自分の顔を見すえていた。
――どう頑張ったところで、俺はもう、坂口千晶には勝てないんだ……。――
純の動きが、止まった。それに気づいた爽太は手拍子を止める。
「どうした?」
「なりたいの? センターに」
その言葉は、爽太にまっすぐ突き刺さる。
固まる体。困惑と、図星、軽いパニック状態。
返事をすることも忘れ、瞬きだけが、何度も続く。
「あ……ごめん」
一方で、純も同じように戸惑っていた。
両親や月子相手ならともかく、グループのメンバーではっきりと思考を読みとれたのは、これが初めてだったから。
「気にしないで、爽太。変なこと、言っちゃったね。……ダンス、合わせよっか」




