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星乃純は死んで消えたい  作者: 冷泉 伽夜
三年目
103/139

壁もなく悪意もなく 1


 土曜日の午前、純は事務所の管理窓口を訪ねていた。来客用のスタイリッシュな受付ではなく、エントランスの奥に備えられたベーシックな窓口だ。顔を出した事務員の男性に、スタジオの鍵を借りたいと伝える。


 ダンスが苦手な純は、放課後や休日を使い、事務所で自主練に励んでいた。空いている時間に練習しなければ、ほかのメンバーについていけない。


 練習着姿の純を見た事務員が、貸出票をカウンターに置く。純が記入しようとペンを持てば、首を振った。


「先に和田くんが借りてますよ」


「え?」


「一緒に練習するつもりだから、来るように伝えてくれって。……ほら、四号室ね」


 貸出票の氏名欄を指さす。下から数えて二つほど上の欄に、丁寧な文字で「和田爽太」と書かれていた。


 純は神妙な顔で事務員を見すえる。目を合わせて首をかしげる事務員の反応に、笑みを浮かべてペンを戻した。


「四号室、ですね。ありがとうございます」


 その場を離れ、窓口の横から抜ける廊下を進んでいく。


 エレベーターの前で止まり、上を見た。光る数字は上層階を示している。これなら階段をのぼったほうが早い。


 となりにある階段に、体を向けた。


「あ、星乃さん。星乃さん!」


 若くはつらつとした男性の声。


 振り返れば、事務所の社員が小走りで近づいてきた。ひときわ若いその社員は、シャツのボタンを一番上まで閉じ、ネクタイもきっちりと締めている。


「あの、はじめましてですよね」


 直線を引いたような目で、さわやかに笑っていた。全身から漂うその雰囲気を言い表すなら、純朴の二文字に尽きる。


「僕、古橋(ふるはし)(みつる)っていいます。今年度から、|innocence giftイノセンスギフトの配属になった……」


「新任のマネージャーさん?」


「そうです。よろしくお願いします」


 ぺこりと頭を下げた古橋の目を、穴が開くほどにじっと見つめる。


「配属早々(そうそう)、熊沢さんに俺専属を言い渡されるなんて難儀(なんぎ)ですね」


「え?」


 古橋の体がこわばった。なぜわかったのかという驚愕と、思考の一時停止。純に対する敵意や嫌悪、軽蔑の感情は漂っていない。


 純は柔らかく目を細め、口角を上げた。


「適当に言っただけですよ。でも当たったみたいですね。おおかた、二世の劣等生が下手なことしないよう見張っとけ、とか言われたんじゃないですか?」


「それは、その……」


 売れているメンバーの世話に集中したい主任の熊沢が、仕事の少ないメンバーを体よく古橋に押し付けたのだ。熊沢に部下を育てる意識がないのか、余裕がないだけか。


 こういったところでも感じ取るマネジメント能力の有無に、純は苦笑する。


「大変ですね、お互いに。これからよろしくお願いします。古橋さん」


「あ、ああ、いえ、こちらこそ」


 背を向けて階段をのぼり始める純に、古橋もついていく。


「あの、今日は今からなにを?」


「ダンスの自主練です」


「じゃあ、俺も一緒に行っていいですか? 自主練のようす、見ておきたいんで」


「いいですよ。和田くんも一緒でよければ」


「はい! ぜひ!」


 階段をのぼりながら、後ろにいる古橋に顔を向けた。先ほどの返事と今のにこやかな顔で、和田爽太の存在に不都合を感じてはいないようだ。


 爽太側に不都合があれば、そのときに対応を考えればいい。


「でも古橋さん。お仕事は大丈夫なんですか? デスクワークとか」


「あるにはあるんですが、熊沢さんや田波さんほどじゃないんですよ」


「田波さん?」


「あ、田波さんっていうのは、もう一人イノギフに配属された女性で、他のメンバーの方を担当されてるんです。だから、僕自身はわりと時間があって……」


「へえ、そうなんですね」


 純の頭に、ぼんやりと女性の姿が浮かんでくる。


 その際、思ったより足が上がっていなかったのか、階段にひっかかって体がよろけた。


「わっ! 大丈夫ですか? いいですよ、前向いて歩いてください、お気になさらず」


 古橋の声にほほ笑む純は、前を向いて階段を踏みしめていく。


「あ、そうだ、星乃さん。いろいろ質問してってもいいですか? 担当として、星乃さんのことちゃんと知っておきたくて」


 古橋はジャケットのポケットからメモ帳とペンを取り出す。「前を向いたままで結構なので」と付け加えた。


「熱心なのはいいですけど、そこまではりきらなくてもいいんじゃないですか。そういうのは、一緒にいるうちにわかってくるようになると思いますよ」


「いやいや、マネージャーはタレントを第一に考えて動くもの、ですし。趣味とか特技とか、そういうのを把握していれば仕事の営業にも使えるでしょ?」


 こういったところは熊沢の判断が正しかったかも、と純は息をつく。売れっ子の千晶に同じような行動をとれば、ひどく邪険に扱われたはずだ。


「僕、星乃さんのことひととおり調べたんです。でも、星乃さんって、なんていうか……あんまり出してませんよね、自分のこと」


 なにが言いたいのかすべてを察した純は、答えない。古橋の真剣な声を、背中で聞く。


「雑誌のインタビュー、ほかのメンバーに比べて露骨に話してないんですよ。せっかく自分をアピールする場なのに、星乃さん自身がそこに力を入れてない感じがするっていうか……」


 そのとおりだ。


 純はアイドルをやりたくてやっているわけではない。アイドルとして当然の、人気を得たいという欲求も持っていない。二世の劣等生という評判を覆したいとも思わなければ、当然、ファンを増やしたいとも思わなかった。


 グループをトップにのし上げたら辞めようとまで考えている。いつか「星乃純」が消えるそのとき、ファンを無駄に悲しませず怒らせず、「まあそうだよね」で静かに流されるのが一番いい。


 それが如実(にょじつ)に、仕事の節々で出てしまっていた。


「古橋さんって、元レッスン生なんですよね」


「え?」


 きょとんとした古橋だったが、すぐに人懐っこい笑みを浮かべ、うなずく。


「はい。デビューはできなかったんで、そのまま大学行って就職って感じなんですけどね」


「見た感じ、行動派な気がするな。家にこもって映画観るより、外で遊ぶタイプでしょ?」


「ですです! 昔からグランピングと釣りが趣味で」


「ふふっ。俺とは真逆だ」


「あ……」


 しまったとばかりに、古橋は顔を引きつらせる。


「いやいや、俺の話じゃなくて、星乃さんの」


「グランピングはソロで?」


「いや~、俺はやっぱり大人数がいいなって思うタチで」


「釣りは川? 海?」


「どっちもです。こう見えて魚の目利きには自信があるんですよ! ……って、違うでしょ! 俺が星乃さんの話を聞いてるんです」


「あははっ。参考になるなぁ」


「星乃さん!」


 踊り場で足を止めた純は、古橋に体を向ける。古橋も怪訝(けげん)な顔をして立ち止まった。


「いいじゃないですか。俺だって、いろいろ知りたいんですよ、古橋さんのこと」


 古橋を見下ろす純は、狐目を妖しく細めている。古橋には、琥珀色の瞳がきらりと光ったように見えた。言葉で言い表せない不可思議な空気を感じ取り、思わず息をのむ。


「俺、事務所の社員さんとこうやって話すの、実は初めてなんですよ」


 |innocence giftイノセンスギフトのスタッフは失望の目を向けるばかりで、純とまともにかかわろうとしない。


 しかし古橋は純に壁を作らず、敵意もなかった。あるのはマネージャーとしての熱意だけ。


 純の劣等生っぷりを耳にすることが、何度もあったはずなのに――。


「俺たち、うまくやれそうですね」


 それは予言ではなく、願望だった。

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