82話 幻想河の遺歌Ⅲ
――もっと、ずたずたに擦り潰してほしい。
夢の世界。幻想の河。
敢えて贄になる選択をしたミサの心象。
速やかな絶命を望んだ筈なのだが……案外心地良いので困惑している。苦悶からの解放を知覚したためか、或いは魔法に苦痛を軽減する作用があったのかは定かではない。
流し聞いたナズナの話が本当ならば、自分たちは夢の世界に囚われているという現状だ。であれば、この世界での死が現実の死と結び付いているか否かは曖昧である。
ならば、せめて心を壊したい。
痛みでも、記憶への烙印でも、なんでも構わない。何せ今から死を体験するのだ。精神的に劇的な負荷が掛かれば、例え現実世界に戻ったとて無事ではいられないに違いない。
――叶うならば、二度と目が覚めることのないように。
ウィルたちの旅の妨げにならぬよう、静かに壊れること。それが彼女の抱いた願いだった。
(この世界も、元の世界も、私にとってはどちらも同じ地獄。人を傷付けるか、人に傷付けられるかの違いでしかない。きっと生まれて来たのが間違いだったんだ。……だからはやく迎えに来てよ。私はもう、生きるのを辞めたいから)
ミサは心の中で瞳を閉ざす。
何も無い暗闇で、いずれ訪れる死に心を寄せていた。
――――!!
音が聞こえる。
恐らく人間の声だ。
――――ッ!!
言葉は判然としない。
だが、何かが自分を呼んでいることは判る。何となく。
――――!
まさか、本当に天からの遣いが来たのだろうか?
ぼんやりとした思考の海を漂いながら、ミサは目を開き、辺りを見回す。
……視界に飛び込んできたものは、暗闇の向こうから差し伸ばされた、純白の光を帯びる腕だった。察するに、この手を取れということだろう。
(この手を取ったら、私は逝けるのかな。…………これで、もう終わっちゃうのか)
ふと、そんな気持ちが過った。
何も躊躇うことはない。ずっと望んでいたことだから。
……分かりきっていることだ。今さら自問自答する必要などない。でも、その選択は本当に自分の意志なのだろうか。
暗い自分が嫌いで、そんな自分を変えようとした。
努力をした結果、初めは上手くいったように思えた。
でもその先に広がる景色はあまりに惨烈で、自分は目を覆うことしか出来なかった。
現実は無慈悲だ。
何処に行こうとも景色は変わらず、直視することを強要してくるのだから。
元の世界では宿した命を見殺しにし、この世界では実際に人を手にかけた。
――死にたいと願って何が悪い?
――私の選択は、間違ってなんかない。私は自分の意志でこの場所にいるのだから。
心の中から絞り出した声は、微かに揺れている。
自分の意志で辿り着いた望み。その事実は確かに偽りではないだろう。だが心の奥底には、何故かそれを拒み続ける自分がいたのだ。
根底にて問いかける。
自分を変えようと決意したあの日に描いたのは、こんな結末だっただろうか。
(本当の気持ちなんて、自分でも分からない。でも、私はただ…………独りになりたくなかったのかも。だから、友達がたくさんいれば良いと思った。……本当に、それだけだったと思う。……それだけ、だったんだよ)
周囲を覆う暗闇に、突如として亀裂が入る。
亀裂は幾つも生じ、ミサが独白を重ねる度に広がっていった。
(……死んでも同じなのかな。向こうでも私は独りになっちゃうのかな)
強烈な怯えが背を伝う。
息が荒くなると共に、心臓の音がはっきりと聞こえ始めた。
(独りはいやだ。でも、この世界は私を追い詰めてくる。…………もう、どうすれば良いの? わかんない。何でこんなに苦しいの…………?)
亀裂の間からは、次々と細い光が漏れ始める。
ミサはそれに気付く様子もなく、その場に蹲り、頭を抱え怯えていた。
「もう、嫌だ。…………誰か、助けてよ……」
「ミサーーーーっ!!!」
光を帯びた手がミサの細い腕を強引に掴み、引き寄せる。同時に、彼女の名を叫ぶ声が耳を貫いた。
ミサは反射的に目を見開き、前を向いた。
(………………)
そこに居たのは、冴えない黒髪の同級生。
友達とも思わなければ、事あるごとに邪険にしていた少年だ。しかしそんな彼が、あろうことか必死の形相で自分の腕を強引に引っぱっている。
少年はミサの唖然とした顔を数秒だけ見つめた後、今にも泣きそうな笑顔を見せてこう言った。
「生きてて、よかったぁ…………っ!」
「――――!?」
「って、喜んでる場合じゃないな。ほんとに、何でこんなに大変なことが続くのかねぇ! …………でも、僕もミサも一人じゃない。苦しいことなんて吹っ飛ぶくらい、これから僕が笑わせてやる……ッ!! だから安心してろよな。絶対に、僕が助けてやるからな!」
その瞬間、周囲の暗闇がガラスのように砕け散る。
弱虫だった少年ニケは、身体中から血を流しているにも関わらず、手を固く握りしめていた。弱々しく、頼りない手だ。剣すら持てないこの手で、一体何を助けられるのだろう。
……しかしこの時は、そのような言葉は欠片も浮かばなかった。
自分に向けられる少年の一言一言が、ただただ優しくて。
止めどなく込み上げる感情と共に嗚咽を漏らしながら、ミサは少年の手を見つめ、その光景を確かに心に刻んでいた。
※※※
「はあああぁぁぁぁっ!!!」
緋色の大剣が、炎を纏いながら大樹を焼く。
魔力も体力も、己の限界を超えていることはとうに知っている。それでも、燃え尽きる気はしなかった。
(止まる訳にはいかない。絶対に二人を助けなきゃならないんだ。みんなで、ここから脱出するために)
その傍ら、目にも止まらぬ剣捌きで邪枝を切り落とす者が一人。
「――風鳴穿閃剣ッ!!」
剣士は両刃剣に緑色の雷光を纏わせると、ギュイン、と鳴る突風を歪ませながら刀身を振った。
強風を帯び、大樹全体に渡って斬り刻み、枝を斬り落としてゆく様はまるで竜巻のよう。大樹を模した夢喰いの外殻は傷を塞ぐ間もなく、剣士の技に翻弄されていた。
(これがA級冒険者。大国オムニスの、一戦力……)
肩を並べ、敵を討つべく闘う最中。ウィルは強者の威を肌で感じる。魔獣と容易く渡り合える実力者はそれなりに見てきたつもりだが、共闘という形を取るのは初めての経験だった。
(……規格外だ。同じ人間の動きとは思えないくらいに。俺も、俺も魔素の使い方を覚えればこんな風に?)
「何処を見ている、少年。……魔力のコントロールが出来ないなら、せめて集中し、敵を観察しろ。例えば……」
その熱い視線を感じ取ったのか、剣士はすかさず注意をする。そしてウィルの側に降り立つと、標的たる大樹を指差した。
「枝を落とし続けているにも関わらず、外殻は未だ成長を続けているな。何故だか判るか?」
「…………た、確かに。これじゃあキリがないどころか、火に油を注いでるような気が………………傷口から魔素が漏れてるのは確かなのに、なぜこんなことに?」
その考え無しな返答には、剣士も肩を竦め呆れの色を示す。
だがクイズをする暇などないため、剣士はさっさと答えを口にする。
「こういう時は魔素の流れを見ろ。両目に魔力をやり目を凝らすんだ。……魔獣との戦闘の基本だから、覚えておけ」
「…………は、はい!」
「奴の魔素の流れは、地に張った根から枝葉にかけて体内を上昇している。それが示すことは……」
「……根から夢の世界の魔素を吸い上げている? …………あ、つまり世界の端が崩れているのは、根っこに魔素を吸われているからってことか!」
「その通りだ。では、やるべき事は分かるな?」
剣士は再び魔力を放つと、ウィルの顔に目を遣った。
「根を斬って補給ラインを断つ! ……すみません。こんな単純なことなのに、もっと早く気付けたら」
「いや、私が敢えて言わなかっただけだ。あの根は奴にとっての生命線――故にイヤに硬い。だから私は枝を落としつつ、根の表面を削り続けていたんだ。癖強魔法使い二名と共にな」
大樹の真下。
集落の長とナズナは、一本の太い根に向かって懸命に魔法を撃ち続けていた。剣士が付けた傷口にナズナが次々と黒槍を刺し、そこですかさず長が巨大ハンマーの魔法を用い、釘打ちの要領で槍を打ち付ける。
これにより、傷の修復を妨害しつつ確実に根を切り離すための準備が進んでいた。ほとんど初対面の筈だが、あまりに見事な連携である。魔素の扱いを熟知した面々の、個々の強みを活かした発想に、ウィルは感動さえ覚えていた。
「もう少しで下準備が出来上がる。あとは……一撃。爆発的な一撃を持って、あの根は完全に断たれるだろう。そんな攻撃を仕掛けられるのは……少年。我々の中では、君が最も相応しい」
「……え、俺、ですか!? ……いやいや、魔素の制御すらできない俺より、剣士さんの技の方が何倍も」
「……私の修めた剣術は、別段一振りの威力を売っているわけではない。それに、私は君のようなべらぼうな出力を真似ることなど出来んよ。なにぶん自殺行為のようなものだからな」
「…………じ、じさ……?」
「私からすれば、はっきり言って君は異質だ。体内魔素を制御せず、敢えて暴発した状態で戦っている。そんな事をすれば一瞬で魔素を消耗し、命の危機にさらされるだろう。…………ふつう本能が抑えつけるものだが、何故か君にはその枷が存在しない。加えて、君はその戦い方に身体を慣らしつつある。……狂戦士じみたその力、今一度見せてくれないか」
剣士の双眸には、言葉が無くとも感じ取れるような、強い感情が込められていた。内なるその意思は、弱気な少年への喝か、或いは後に続く未来の剣士への激励か。剣士は「君にしか出来ない事だ」と続けるとウィルに背を向け、大樹へと視線を移す。
(…………逃げる理由を探すのはもうやめだ。俺は、この現実を生き抜くために戦う)
少年が、魔力を解き放つ。全身から放出されし闘志の激流は、空気を伝い、震わせた。
そして暴発した魔力をそのままに、彼は上空へと跳んだ。束の間の滞空時間の中で、真下に見えし標的を確認する。
剣士のように、剣術に秀でているわけではない。シャヴィのように、剣に秘められた魔法の力を発揮できるわけでもない。ウィルが叶う戦法は、ただ一つのみ。
――上空から地へ、残る全ての魔力を込め、叩きつける。
瞬間、燦爛とした緋き流星が地に降った。
流星は尾を引きながら、緩やかな弧を描いて空を切る。
狙いは、幾つもの黒槍が打ち込まれた巨大な根。その軌道に狂いはなかった。
――そして、コンマ数秒の間もなく……烈震走る。
少年の握りし緋色の大剣は、大樹の根を両断。炎の魔力を持って、断面を激しく焼き尽くした。
一瞬の激情が鮮やかな光炎と化し、凍り付いた夜闇を砕いたのだ。
(…………)
ウィルが降り立ったすぐ隣で、息を飲む者が一人。
ナズナは、彼の姿を目に焼き付けていた。巨大な標的を斬り落とした強き仲間の姿を。
黄金色の光に包まれ、大剣を地に落とした彼の姿を。
「………………そうか」
大業を成した直後にも関わらず、少年は全てを察していた。
根を断った感触は、しっかりと手に残っている。
ただ、その両手はもう、光の粒と共に消えかけていたのだ。
「……ウィルさんっ」
黄金髪の少女が駆け寄って来る。
目を大きく開き、色の抜けた表情でこちらを見ていた。
「…………体内の魔素が消えた。つまり俺は……死ぬってことだな」
「やめてください。そんなこと、私の前では絶対に言わないで」
夢の中にて、ウィルという人間を構成していた魔素が消えてゆく。現実世界では、魔素が空になったとて急死することはないだろう。空気中の魔素を新たに取り入れれば、基本大事には至らない。
しかし河の悪魔との戦い以降、魔素がなくなりつつある夢の世界にて、ウィルは幾度となく体内魔素を浪費してきた。こうなれば、身体が耐えられない。
即ち彼が最後に取った選択は、船大工と同じく生命エネルギーをも犠牲にした特攻だったのである。
少年の手を取ろうとするも、透明な身体に触れることは叶わず、虚しく宙を掴むのみ。そんなナズナを前に、彼は口籠もりながらも柔らかく告げた。
「夢の中では消えるってだけだろ? どうせ現実で会えるんだ。そんなに気を落とす必要はないからな」
「……分かってます。でも、見たくないですよ」
「――――――」
少年が、ナズナの声を最後まで聞くことはなかった。淡い表情を浮かべながら、彼女は眼前の空虚に向かって語りかける。
「大事な人の死に際なんて」




