81話 幻想河の遺歌Ⅱ
――苦しい。
呼吸自体は普通に出来るが、体内に入ってくるのは汚染の酷い霧のみ。キノコ型の腫瘍から放出される鼠色の霧は、"僕"に残された意識を削り取ってゆく。
黒く侵食されゆく視界には、石の台の上に盛り付けられた馳走が……否、旅の仲間が寝かせられ、縛り付けられている。
(…………っ!? 僕はいま何を考えてた? さ、さっきから雄蕊がむずむずするのはなんで??)
"僕"は両手で顔を叩き、意識をはっきりさせようとした。しかし、どれだけ頬に強い刺激を与えようと、黒い視界が元に戻ることはない。それどころか、決して認めたくはない自身の現状を、より強く認識してしまう。
"僕"は人間だ。そんなの当たり前のことだ。
"僕"は人間だ。だから、同級生の女子を〇〇の対象に見るなんてあり得ない。
"僕"は人間だ。視界の両端に映った両手が、枯木のように醜く変わり果てるなんて事、ある筈がない。
「…………ミサ…………………………」
少年は掠れた声で呼びかける。
薄桜色の髪は煤に塗れ、ほっそりとした身体は余計にやつれて見えた。
「…………すぐ、助けて……やるから、な」
一歩ずつ、足を踏み出す。
一刻でも早く駆け寄り、彼女の身体を縛り付けている縄を解き、背負って地上に上がらなければ。
(あぁぁぁ、そうだ。疾くあり付き賜え。贄の体内に種を撒き、地中に引きずり込み、来たるべき発芽を待ち……)
充満している霧の所為だろうか、先程から幻聴がはっきりと反響している。
(こんな所にいたら、僕もミサもどうかなっちまう……!)と、少年は一歩、また一歩と歩みを進める。しかし、少女の身体に近づく度に、脳内の幻聴はより大きく、よりはっきりと膨らんでゆくのだ。
「……しつこいんだよ……さっきから……っ!」
やっとの思いで少女の側に近寄った少年は、脳内にこだまする雑音から意識を逸らしながら、少女の身体を揺する。
「ミサ、大丈夫か……? 僕の声が聞こえてるか?」
返事はない。
だが微弱ながら呼吸をしていることから、大事に至ってはいない様子だ。気を失っているだけだろう。
少年は無言で短剣を取り出すと、少女を縛り付けている縄にそれを当てる。
「……外に出よう。こんな場所にいたらおかしくなる。……ウィル達が化け物を倒すまでの辛抱だ。だからそれまでここから離れて……」
昏い地下室に充満する霧。
その源は、少年の身体に浮き出たキノコ型の腫瘍であることに間違いない。直感ではあるが、人体にとっては有害であると感じ取ったゆえ、少女を地上に連れ出し、自分は地下室に籠ることが最善であると判断した。
希望を託した仲間たちが河の怪物を撃ち倒し、現実世界へ戻る。
当然ながら、自分も化け物討伐に協力すべきだっただろう。しかし、それでもあの場で手を引き下げた理由は、ミサの容態に関して悪寒めいたものを感じ取ってしまったからに他ならない。
何しろ、この夢の世界に入る前から精神的に不安定だった彼女のことだ。もしも何かがあれば、心に致命的な傷を負ってしまう。
実際、少年の予感は当たっていた。
集落の闇。管理者層による最後の悪あがきだろうか。長の選択を快く思わなかった二名の老人は、ミサの身体を使って何かを引き起こそうとしていたのだ。
(僕が来なければ、取り返しが付かなくなってたかもしれない……っ!)
力を込め、少女の四肢を縛る縄を切りながら少年は思う。仲間が化け物を倒すまでの間、少女に苦しみを与える訳にはいかないのだ。
――にも関わらず、少年の口元からは次々と涎が溢れ出ていた。
「はぁ、はぁ……」
短剣が、右手から落ちる。感覚が麻痺し、身体が思うように動かない。
(くそっ、もうちょっとだってのに……!!)
すぐさま拾おうとするも、膠着に抗いながら全身を動かすのはあまりに困難だった。震えがとまらず、どれほど歯を食いしばろうとも身体が言うことを聞かない。
ふと、黒く滲む視界に少女の肌が映る。
瞬間、脳内に反響していた無数のノイズが一気に鳴き叫び始めた。
「――――あ、ぁああ、あぁぁあああぁ?」
まるで、頭のなかで無数の球が跳ね返り続けているようで、辛うじて保っていた意識は瞬く間に霧散してしまった。
少年の身体は醜く膨れ上がり、眼前に寝かされた萎え花へと覆い被さる。
「……………………誰か、助けてよ」
途切れかけた意識の向こう側で、少年は確かに耳にした。
※※※
――中等部では、幼馴染の友達。
あんまり会話もしたことないし、特別仲が良い訳でもなかった。
それでも、僕は彼女には感謝している。
ずっと周囲から避けられていた幼馴染に対して、初めて友人として接してくれたから。僕には埋められない"友達"という役割を、彼女は担ってくれたのだ。
一回だけ、二人っきりで話したことがある。
帰り道で偶然鉢合わせた、っていう些細なきっかけだ。その日はウィルが病気で学校を休んでいたから、僕もミサも帰りは一人だった。たまたま、帰る方向が一緒だっただけだ。
僕は、思わず彼女に告白した。
もちろん、恋愛的なやつじゃなくて、今までの感謝の気持ちを。
するとミサはこう返した。
「……私と彼は、似たもの同士だから。感謝したいのは私のほうだよ」
……好きになりそうだった。
暗いけど謙虚だし、顔もよく見れば可愛い。僕の直感が恋しろと告げていた。
でも結局やめといた。
彼女、あまりに元気がなかったから。
少なくとも、ミサに必要なのは僕じゃあないなってあの時思ったんだ。
「え、えっと、こ、ここ、これからもアイツの友達で居てくれよな! アイツ、寂しいやつなんだよ。友達なんて今まで出来たこともないし……い、今まで心から寄り添える奴がいなかったんだ」
だったら、僕のすることは単純だ。ミサにはウィルの友達でい続けてほしいし、願わくばこれからもずっと、側にいて支えてほしい。それは所詮ただの幼馴染である僕には出来ない、大切な役割だから。
「…………そんなことないよ。彼にはニケくんがいるから。ニケくんがこんなに想ってくれているなら、彼はじゅうぶん幸せだと思う」
「……い、いやいや、冗談はやめい。僕はあくまで幼馴染として最低限の気配りを…………」
ミサの突拍子もない言葉を遮ろうとしたけど、押し黙ってしまった。彼女の頬に、夕焼けが反射していたのだ。
「……私には家族も友人も、ニケくんみたいな幼馴染もいない。私のことをそこまで大切に想ってくれる人なんて、いないの。ウィルくんは確かに初めての友達かもしれないけど、でも、お互いそういうのじゃないんだ。依存しちゃうのを心のどこかで避けているんだ」
何も言えなくなってしまった。
ウィルに対しては、ただ不幸になってほしくないだけで、そこまでの感情があるわけでもない。そんなことすらも、彼女は羨んでいる。
僕は実感した。ミサは、今もずっと独りなのだ。
「………………心から寄り添うことも、添われることも……私にはきっと無理」
その呟きを最後に、会話は途絶えた。
中等部時代の、二人で交わした唯一の会話だった。
しかし高等部に入ってからは、彼女の風貌や言動は全くと言ってよいほど変わった。
今までの陰から一転。陽のものへと覚醒し、ギャハギャハ煩いパリピ軍団とつるむようになってしまったのだ。僕のような陰のものに向ける視線は非常に冷酷。虫を見るかのような目で見下されたのをよく覚えている。
案の定、ミサがウィルに構うことはなくなった。
でも、この世界に来て、色々なことを経験して、気付いたことがある。
ミサの心情は、あの時から何一つ変わっていない。
多少言動がキツくなっただけで、今もずっと独りだった。
――なんで素直になれないんだ? ミサが本音をぶち撒けないのは、僕たちが頼りないから?
ウィルも大バカ野郎だ。ミサが高等部で自分を変えたのに対して、アイツときたら昔からずっとうじうじ野郎のまま。もっと強引にミサの心を掴まなくてどうする。
「なにが、"人の感情が読める"だ。なにが"一緒に元の世界に帰る"だよ。……本当に仲間だと思ってるなら、こんな状態のミサを放っておくんじゃねえよ!!!」
霧散する意識は、苛烈な輝きを帯び始めた。
※※※
「これはどういう事か。説明してもらえるか、魔女娘」
「……その魔女むすめって言い方やめて下さい。そうだ、集落の支配欲はまだお有りで? この戦いが終わればそれが叶うので、どうか私に手をお貸しいただきたく」
「……魔女め。二度も貴様の言葉に惑わされると思ったら大間違いだ。それで、貴様はこの感情に関与しているのか、していないのか。はっきりさせてもらおうか」
船を降り、河沿いから集落の中央広場に向かって歩き、そこに至る。広場に着いたウィルとナズナは、集落の惨状を見て呆気に取られている剣士と長に再会した。
剣士はナズナに剣を向けながら訝しむも、別段殺意は感じ取れない。本心では、黒幕は別にいると見抜いているのだろう。
「私のせい……というか、してやられた感じです。夢喰いは、私の仲間に取り憑きました。どうやら長さんの家が起点になってるみたいなんですけど」
「…………もしや、あ奴らか? …………ふむ。とすれば、これはワシの身内がしでかしたことやもしれませぬ。剣士殿、どうか剣を納めていただきたい」
「……」
「えっと、長さん。詳しくお聞かせ願えませんか」
長の言葉通り、剣士は得物を鞘に納めた。やはりナズナへの疑いは、はなから偽りだったらしい。
とすれば、気になるのは長の言葉である。
その真意を問うべくウィルは長に訊くと、老人は快く答えた。
曰く、主落会の意見は分断していた。
多数は長の考えに賛同し、夢喰いの討伐に協力したものの、残りの二名はよそ者であるナズナの意見に従うことを拒んだのだ。そのため、二名の動向に気を遣っていたのだが……
「あ奴ら、さては御嫁様の儀を独断で行いおったな……!?」
「え、そ、そんな……じゃあやっぱり……」
「……ウィルさん。最悪なことですが、どうやらあなたの想像は当たっていたようです。ミサちゃんを贄にして、ニケさんが夢喰いの媒体となる。……私たちの命運はあの二人に預けられました…………」
ナズナはそう告げると、突如として現れた禍々しい大樹に目を向ける。
「あの大きな樹は恐らく夢喰いの外殻……今ではニケさんの身体の一部だと思います。そして、あの中にニケさんとミサちゃんの魔力を感じる。私たちはこれからあの樹を攻撃して、少しでも夢喰いの魔力を削ぎ落とします」
「…………ふむ」
「……………………続けたまえ」
「長さん、剣士さん。どうか、私たちに手を貸してくれませんか。私は……私はもう、仲間を見捨てたくない……………………っ」
言葉の終わりにナズナが詰まらせたのは、本人にとっても予想外であった。堰き止められぬ感情が、彼女の目尻に現れたのだ。
「ワシは元からそのつもりじゃ。身内の不始末は、この長が代表して片付けよう」
「………………思うことはあるが、魔女娘。貴様……いや、君は自分の信念と正義感を貫いていたようだ。悪事を助長する訳でもないし、私が断る理由はない。だが……君の方はどうなんだ、少年」
「………………っ」
それは、ウィルがナズナと再会する以前のこと。ウィルの立てた推論の穴を次々とこの剣士に突かれ、しまいにはナズナの安否が気になるあまり不満を撒き散らしてしまった。そんな苦い記憶だが、未だ剣士の頭には新しい。
剣士はそんなウィルの性格を読み取り……問うたのだ。
「……剣士さんたちに協力して頂けるならば、是非もありません。どうか、俺の仲間のためにもよろしくお願いします」
「…………それはいい。私は君の信念を問うているんだ。何を思い、何を成し遂げたいのか。今度は己の心から、聞かせてみせるがいい」
ウィルは、今一度剣士の顔に目を向ける。
どうやら、自分にはもっとも基本的な言葉が欠けていたようだ。
独りよがりだった数日前とは違う。自分の言葉で、自分の意志を表せなければ意味がないのだ。剣士は、それを改めて気付かせてくれた……のだと思う。
「俺は……」
ゆっくりと、口を開く。
「俺は、何も見えていなかった。違う、見えないふりをしていたんだ」
――言葉を噛み締める。
役に立ちたいというニケの声。
思い詰めていたミサの心情。
集落を導いたナズナの行動。
仲間の本心から、目を逸らしていた。
「けど、それは逃げだった。本心を隠すために壁を作って、わざと向き合わなかったんだ」
思わず力がこもる。
口に出したら、尚更自分を許せなくなりそうだった。
しかし、今は違う。
いい加減、変わらなければならない。
「…………俺は、仲間を助けたい。そして、今度はみんなに本音を言いたい。この世界が怖くて堪らないこと、元の世界に帰れる自信がないこと、全部、全部……!」
もしかしたら、すごい表情になっているかもしれない。とても、情けない事を言いながら。
それでも、笑わずに聞いてくれる剣士に感謝したい。目を潤ませながらも微笑むナズナにも、同様に感謝したい。
「……剣士さん。長さん。それから、ナズナ。みんなの力がなければ、俺は仲間を失うかもしれない。だからお願いです。俺たちを、助けてください」
感謝の灯が照らす言葉。
紛れもない、本心であった。
「………………良い顔になったな、少年」
剣士は得物を抜き、鋭い眼光と共にその切先を大樹へと向ける。
「オムニスのA級冒険者として、快く引き受けよう。暫しの間だが、よろしくな」




