78話 現灯ニルヴァーナⅣ
歯車が軋む。
終点への道は刻々と紡がれるも、彼らの魂は背後に目を向けない。
運命の針は、それでも正確に動き続けるだろうか。
崩落する世界が終末を記すまで。
※
メナス河、船上。
心まで侵食されるような夜闇の中では、三人の仲間の姿は目が眩むほどに眩しかった。
かの魔獣との戦闘において、信を置けるのは自身の腕のみだと考えていた。この日のために、念入りに準備をしてきた。……幾日にも渡る繰り返しを経験した少女にとって、最後に残された数日はあまりにも短く感じたゆえに。
自身の弱点を補い、無制限のオドといった強みを最大限に生かす、魔法武装を利用した戦術。この戦いに於いては最適解の一つであることは疑いようもない。それゆえ、まさか全力の戦術が通じなかった場合など想像すらしなかった。自身の魔法への過信による詰めの甘さと、失敗の可能性からの逃げが、先ほどまでの暗澹とした心境を引き起こす原因となったのである。
ナズナは河の悪魔に敗れた。
この事実は覆らない。
しかし、それはあくまでも個人としての勝敗。自分の側には数十人もの仲間が付いていることを、彼女は心の片隅に追いやっていた。だから――
「次の雷ブレスがチャンスだ。俺が最後の迎撃魔法を撃つから、そのタイミングで魔獣に急接近してくれ。全速力で頼む」
普段はてんで頼りにならないはずの少年が、まるで窮地に駆けつけて来た英雄に見えるのは、恐らく錯覚ではない。
ナズナは目を見開いて、少年の話に耳を傾ける。正直内容は入らない。ただ彼の声が、姿が、電流のように頭の中で駆け巡る。
(…………あぁ、そっか。なんとなくですけど)
思いを馳せるは、近いはずの記憶。
「その間、黒槍は足止めに使ってほしい。煙幕は魔獣に隣接する直前。そこから先は俺がなんとか……してみせる。船大工さん、メナスちゃん、どうかな?」
あの時、この少年のような人が居てくれたら。
大切なものが焼け落ちることはなかったのだろう。
(いま、そしてこの先も。……きっと、私にはあなたが必要なのかもしれません)
船大工とメナスちゃんが、何やら激しく頷いている。きっと、少年の策とやらに賛同しているのだろう。ナズナも柔らかく笑みを浮かべながら、その光景を見守った。
※
「持ってくれよ、オレ様の船……ッ!!」
船は加速する。
一時間にも渡る激戦。傷を負った体で、凍える闇を裂きながら。
河上を真っ直ぐ爆走するその衝撃は、船体の軋みを隠すかのように激しく荒れている。
「ちょっ、発進早すぎますって! ……あぁ、もう!」
少年の口から情けない声が漏れた。それもそのはず、自身の指示したタイミングとは全く異なる場面での急加速だ。このままでは、ブレスを迎撃しようにも狙いが定まらない。
――ゥゥゥゥゥ!!!
こちらを見据えた魔獣の口からは、溢れんばかりの青白い光がバリバリと迸る。
(……っ、いけるか!?)
魔獣と睨み合うウィルの頬には、大粒の汗が流れ落ちる。揺れる船体、足裏から伝わる振動。これでは狙いなど定まるはずもない。
魔獣のブレスの威力は強大で、直撃すれば船など木っ端微塵になってしまうだろう。だが強力な反面その反動は大きい故、やり過ごすことさえ出来ればこちらにとってはまたとない攻めの機となる。
その機を作るための迎撃魔法なのだが……
(ダメだ、揺れが強すぎる。しかもこの急加速、音にも視覚にも頼れない。勘で放つしかないのか……!?)
少年が思考を投げかけた、その時であった。
「ウィルさん、迎撃は私に任せてください」
突然、ずぶ濡れの金髪が視界に割り込んできた。少女は武装に向けて魔素を流し込みながら、話を続ける。
「狙うのが難しいなら、魔力弾を何倍も大きくすれば良いです。無限大のオドを持つ私にはそれができます。アイツを直接やっつける秘策があるなら、今はそれに集中してください」
「…………わ、わかった。じゃあ……任せる」
ナズナの強気な姿には、黙って頷かざるを得ない。武装の制作者は彼女本人であり、魔法の知識など無に等しいウィルよりは数段有効に活用できるからだ。
……寒風が止み、辺りは時が止まったかのように静まり返る。
二人は息を飲み、青白い光を見据え――
――――!!
耳を裂くような咆哮を合図に、ナズナは引き金を引いた。
断崖のような威圧感を放つ河の悪魔。最高地点から放たれる雷の放射光の勢いは、こちらが震え上がる間もなく甲板を撃ち抜かんとする程である。その迫力は、これまでの戦闘の中では最大規模。弱った外敵を一撃で粉砕せんとする意図が、優に見て取れた。
しかしコンマ数秒程度ではあるが、ブレスよりも先に魔法陣の光が視界の隅に差し込んだ。
――そして、着弾。
衝撃が大気を伝い、高波を引き起こし、船体を大きく跳ね上げる。
……迎撃魔法は、迫り来るブレスの中心を正確に捉えていた。
「っしゃぁ!! 今が最大の見せ場よォっ!! オレ様の相棒! 全身全霊で突き進めェェッ!!」
船大工の雄叫びは荒れ狂う波よりも高らかに、勇敢に轟いた。己が進路はすでに定まっている。船首の先は、夢を容易く喰らった憎き河の魔獣。
(そうだ。オレ様はこの時を、この瞬間を待ち侘びていたんだ)
自分が消えるなど、認められるはずもなかった。
集落の狭い世界から自分の船で外の世界へ渡るまでは、たとえ肉体が滅びようともこの地にしがみ付きたかった。
今になって、過去の情景が次々と蘇る。
自分は確実に死んだ。門出を祝福され出航したあの日、メナス河を縄張りにしていた魔獣に喰われたのだ。
だが自分は今、確かにこの場所にいる。亡霊にでもなったのかと思ったが……旅人の話を聞くにあながち間違いではないらしい。
夢喰い。土地の魔素を利用して集合体無意識を作り出し、獲物の魔素をそこに混ぜ、喰らう。この魔獣のおかげで、数百年前の執念は今もなお途切れずに河を渡ろうとしているのだ。
(よく考えたら、これはオレ様が招いた災厄なのかもしれねェ。夢に執着し過ぎた結果、その怨念が夢喰いをこの地に呼び出した。そんで、実際に何百年先の未来にまで迷惑をかけちまっている。本来はオレ様が決着をつけるべきなんだが、この"夢"はオレ様一人ではとっくに手に負えない規模に膨らんじまった。だから、オレ様は今を生きるコイツらのために全部を賭ける! オレ様の船で、コイツらを必ず現実まで運んでやるんだ!!)
迎撃用の魔法と雷ブレスとの衝突による影響は、思わぬ形で大河を巻き込む。
それ即ち、衝突の余波だ。
エネルギー衝突による衝撃波のことではない。寧ろ衝撃波など、余波全体からすれば小さな問題である。
強大な魔力同士のぶつかり合いにより、彼方此方に無数の魔力の残骸が飛び散る。それら一つ一つには"対象を撃破せん"などといった凶悪な意志が込められていたため、まるで小さな雷撃弾が無数に飛び散り、今まさに河が焼き尽くされるような光景へと変貌しようとしていた。
「おい、あれに当たるとヤバいんじゃないか!?」
「え、いや、わ、私も予想外なんですけど!? ……もう嫌だ! 結局なにやっても詰むじゃないですかっ!!」
甲板の二人は、哀れにも絶望的な破壊を前に嘆くしかない。ナズナの超速展開でさえ、頭上から降り注ぐ残骸を全て捌き切ることは本人の技量からして至難の業といえる。
(ケッ、最後までみっともなく騒ぎやがって。……安心しろ。打ち返せないなら、避ければ良い。船の操縦士は……オレ様だ!)
その時、船大工……否、かつて外の世界を夢見た少年は、自身の持つ体内魔素を余すことなく船に注ぎ込んだ。
「……!! な、何かしらー?」
素っ頓狂な声を上げたのは、船首付近に立っていたメナスちゃんだ。ウィルとナズナはそれを聞き、彼女のもとへと駆け寄った。
「……!」
「これは……」
船の進行方向。夜闇の降りたメナス河には、光の線路とでも形容すべき魔力の波が、まるで船を導くかのように敷かれていた。ナズナがそれを目にした途端、船は再び急発進し、線路を辿っていった。
大量の残骸が降り注ぐ中を突っ込むなど、論外だ。船は瞬く間に沈められてしまう。残酷な想像に駆られた三人は進路から目を逸らし、塞いだ。
――しかし、その想像が現実になることはない。
「オレ様の船を、舐めるんじゃねェよ!!」
船大工が吼える。
暴風を纏い、本来の最高速度を優に超過したスピードで水上を駆ける船。
外敵を弾き返す暴風の壁と、正確無比の航路。一同が残骸の下敷きとなることは終ぞなかった。
(…………)
ウィルは船大工の叫びを受け、再度前方に目を向ける。
気が付けば、河の悪魔とは目と鼻の先の距離まで接近していた。彼に続いて、ナズナとメナスちゃんが目を開く。
「……黒槍と、煙幕を頼む。ここから先は、俺の仕事だ」
ウィルは強大な河の悪魔を前に、覚悟の炎を燃やした。




