77話 現灯ニルヴァーナⅢ
夜の暗がりが降り、湿気を含んだ冷風が肌に当たる。深さを増した霧も相まって視界は良好とは言えず、船上から繰り出される魔法の光と着弾による轟音によって、辛うじて敵の姿を確認できるような状況だ。
「はぁ、はぁ」
乗船し、河の悪魔の巣たる戦場へと身を乗り出してから約四十分。休むことなく戦い続ける四人は、船に内蔵された武装共々、底に足がつき始めていた。
このような事態に陥った原因としては、幾つか心当たりがある。まず第一に、ナズナは自身の力を過信していた。無制限のオドを持つため、体内の魔素の残量を気にかける必要に駆られず無制限に魔法を連射できること。それこそが戦闘における彼女の最大の強みであり、超速装填なる展開術によってその強みを存分に押し上げた。
確かに戦い方としては申し分なく、格下の術師や魔獣程度では手も足も出ないほどに強力だ。しかし、魔力の弱さがどうにも足を引っ張ってしまう。熱された石を冷まそうにも幾ら水滴を垂らしたところで蒸発してしまうのと同様に、低出力の魔法では致命傷を与えることは難しい。よって、魔獣の鱗を完全に貫き得る攻撃手段は魔法道具を媒介とした武装のみであった。
次に魔獣の獰猛さと生命力だ。武装によってひっきりなしに深傷を与えている筈だが、魔獣は弱るばかりか血を流すたびに苛烈さを増してゆく。お陰で数十分に渡る戦闘の甲斐なく、未だ仕留めきれてはいない。
「…………」
もはや喋る気力も、余裕もない。船体には外傷が増え、魔獣の攻撃を躱すことすらままならないだろう。これ以上無理な急発進をしようものならば、確実に船の寿命は大きく削れてしまう。そんな状態で夢喰いの認識の外へと向かうのは難しい。
「チッ…………おい! 砲撃は残り幾つだ!? どれを何回撃てるんだよ!?」
操縦席から身を乗り出した船大工が、焦燥に刈られた様子で叫ぶ。しかし、ナズナは答える気になれない。口に出すことで、より現実を突き付けられる気がしたからだ。
「……氷弾、炎弾、雷撃弾がそれぞれ十前後。主砲の黒槍がニ、迎撃用の魔力弾が一つ、あと煙幕弾が一つです」
じっと河を見つめる彼女に代わって答えたのは、ウィルであった。
「……他は全部スクラップになっちまったってか。くそ、思ったより少ねェ。もう船を飛ばすことは出来ねぇし、奴の攻撃をいなせるのはあと一回……か」
「…………」
夜闇の河には、凍り付くような寒風が吹いている。皆はとっくに悟っていた。現状の戦力では、どれほど素晴らしい策略があろうとも魔獣を屠るには足りないことを。
各十発前後の小型弾は魔獣の鱗に弾かれるため、あくまで威嚇にしかならない。黒槍の攻撃力は凄まじいが、撃てる回数は残り僅か。あと五発もあれば、まだ希望はあっただろう。
魔獣の最も恐ろしい攻撃は雷ブレスだ。しかし、それを防ぐための迎撃魔法は残り一回きり。煙幕は意外にも効果があったが、それを十分に発揮するにはある程度接近しなければならない。
「だめ……なのかな」
ナズナの小さな呟きは、激しい波音によって掻き消される。誰にも知られてはならない。だって自分はこの作戦の発案者なのだから。自分が諦めてしまえば、本当に勝利の望みは潰えてしまう。
(そんなことはわかっている。でも仕方ないじゃないですか。こんなに敵が強いなんて思わなかった……! 私の力がこの程度だなんて…………知らなかった)
誰にも聞かれてはならない、心の叫び。
……これは咎なのだろうか。夢の中で多くの人間を犠牲にしてきた自分への……
「そんなの、今更だ。敵が強いことも、自分が弱いことも、嫌というほど思い知った。……ここは無慈悲な世界だから」
少年の声が甲板に響いた。ナズナはそっと顔を上げ、ポカンとした表情で彼の後ろ姿を見つめる。
(……え、もしかして、うっかり口に)
どうやら心の中に留めておいた筈の声を、知らぬ間に口にしていたらしい。絶対に聞かれてはならないと思っていた自分の本音。それでも、少年は自分を責める様子はない。
「……言っておくが、オレ様は諦める気はねぇ! オレ様の船はまだ動いてんだ。コイツが河を渡るまで、オレ様の魂も動き続けンだよッ!!」
「…………小型弾、これで残りそれぞれ四、五発。ふふ、まだ武装は残ってるわよ?」
操縦をしている船大工も、今もなお魔獣と競り合い続けるメナスちゃんも、皆がナズナに向かって声をかける。だが各々が見据えるのはナズナではなく、魔獣であった。
彼女はようやく気付く。焦燥の叫びが飛び交っていたものの、皆の向いている方向はただの一点のみだった。下を向いて現状を嘆いていたのは、寧ろ自分だけだったことに。
(みなさん……っ!)
死ぬことに……いや、失敗することに慣れ過ぎてしまったかな、と思う。そんな負け癖はさっさと取り払わねばならない。でなければ、真の意味でこの世界を生きているとは言えない。
だから、改めて言い聞かせる。
――自分は生きて、ここを出なければならないんだ。
※
「ナズナ、少しいいか?」
ナズナが自分を叱咤した直後、その瞬間を狙ったかのようにウィルが喋りかけてきた。
「へ、い、良いですけど……」
唐突だったもので、つい口篭ってしまった。ウィルは構わず続ける。
「残りの武装でこの状況を覆せる策はあるか?」
「……正直全く思い浮かばな……い、いえいえ。決して諦めてるわけじゃないです。何とかして今から考えますので、少々お待ちを」
「そうか。なら、今から俺の考えを聞いてほしい。そして、それを実行するかどうかの判断は……ナズナ、君に任せる」
ウィルはそう言うと、ナズナへとまっすぐ身体を向けた。その表情は今までになく真剣で、多少の恐れが見て取れる。
「な、何か……何か策を思いついたんですね!? あの魔獣を倒す、すごい策が!」
ナズナの目は、輝いていた。ウィルは戦力の観点からすれば非力な少年だが、それを補って余りあるような冴えを持っている。彼の奇策には、結果的に何度か命を救われてきた。
だから期待するなと言う方が無理な話だ。恐らく、この絶望的な戦況を覆すことができるのは彼しかいない。
「……策と呼べるようなものじゃない。成功する保証はないし……というか断言するけど、成功率は低い。でも……それでも良いなら、この俺を信じてほしい」
「もちろん! 早く聞かせてください!」
「…………話、ほんとに聞いてるのか?」
※
「ふむ……なかなかどうして……手強いものじゃて」
「下がっていろ。ここから先は私一人で凌ぐ」
集落外の平野にて、夢喰いと対峙する民たち。
多勢に無勢。殺意を剥き出しにした集団による暴力は、偽神たる夢喰いに反撃させる隙を与えなかった。だが厄介なことに、この場に於ける夢喰いは不死身であった。それはナズナ達が河の悪魔を倒し、夢の外へと脱出するまで永遠に蘇り続ける。
戦いが長引くにつれ、民々は一人、また一人とオドが尽き始め……次第に戦う力が削がれていった。
こちらの戦力が緩みを見せた途端、一切の動きがなかった夢喰いは一気に攻勢へと転じた。体力、魔素が尽きた民は避ける力もなく、魔獣の攻撃に巻き込まれ無惨な姿となった。
そして現在に至る。
残された民は二十人程度。いずれも燃料切れでギブアップしており、後方で戦況を見守っている。戦いに参加した主落会の面々は一人を残して退場。その一人は腰を抜かし、後方にて震えている。
主戦力二名のうち、長のオドは限界を迎えようとしている。よって、今まともな戦力として換算できるのは冒険者の剣士だけであった。
「……またまた冗談を。彼奴はお主一人の手には余りますて。ワシの殺意は、まだまだこんなものじゃありませんぞ……!」
「冗談を抜かしているのはどっちだ。あんたの体内魔素はもう殆ど残っちゃいない。確かに先の詠唱魔法は見事だったが、この様じゃ二、三句読み上げただけで意識が持っていかれるだろう」
「じゃが、ワシは……」
「…………! 風鳴剣ッ!!」
両者は言葉を交わすも、魔獣は暇を与えてはくれない。剣士の頭部へと襲来した巨大な鉤爪を、自身の誇る秘剣で打ち返した。風の魔力を剣に纏わせ、周囲に再び立ち込め始めた霧ごと押し流す。
その判断に関しては、まさに最善手と言えよう。霧の魔力は睡眠作用があり、吸い込むなど以てのほか。夢喰いの狙いは、剣士への攻撃ではなくその霧にあった。霧の正体は夢喰いの体内で生成される魔素だから、それを自在に操ることができるのは当然のこと。霧を剣士に吸わせ、微睡んだ隙を叩き潰そうと企んだのである。
魔獣の狡猾さは、剣士も警戒していた。風の魔力による攻撃はその上での選択である。
風の剣術を得手とする剣士にとって、霧を攻めの手段とする夢喰いは些か相性の良い相手と言える。しかし、度重なる魔法剣術の発動による消耗は今や無視できるようなものではない。負った傷は浅けれど、戦況は決して良くはなかった。
(持ってあと十分……いや、長の離脱を加味して五分程度か)
剣士は己の獲物を斜に持ち、構える。
その額には、薄らと汗が伝っていた。
(魔女の娘、早く己が務めを全うしろ。我々はもう、長くは持ちそうにない……!!)




