76話 現灯ニルヴァーナⅡ
焼け付くような夕陽の橙色を、巨大な影が黒く染め上げる。
その圧倒的な黒を、幾重にも重なった閃光が激烈な魔力を帯びて貫いた。
――ゥゥゥゥゥ!!!
途端、魔獣は咆哮を上げ、天を仰ぎ見る。
その口には、溢れんばかりの蒼き雷光。
「ブレスが来ます! 迎撃術式、お願いします!」
「……任せろっ!」
揺れる船上にて、ナズナは敵の挙動を注意深く観察し仲間に指示を出す。それを請け声を張り上げたのは、異世界の少年ウィルだ。
彼自身の戦闘能力は、魔獣には通用しない。
しかし、無力ではない。ナズナが船に取り付けた武装に魔力を流し込むことによって、予め組み込まれた魔法を発動する。彼女の指示に従い適切なタイミングでそれを行うことにより、一つ一つの危機に対して着実に対処することができるのだ。
――!!!
魔獣が唸り声を上げた瞬間、船をも容易く飲み込むようなその大口から、多量の雷を纏ったエネルギー弾が発射された。
船への到達時間は、僅か二秒。
だが、ナズナの武装はその速度を優に超える。
彼女の魔法が持つ特徴の一つが、恐るべき初速であった。何十回と繰り返された五日間。そして何百、何千、と幾度にも渡る自死を経たその経験が、ナズナの才と技量に明らかな開眼を齎したのだ。
――超速装填。
ローグリンにて、シャヴィが騎士団長へ魔法を放った際のそれを遥かに凌ぐ超高速魔法展開術。
ナズナ自身はその場に居合わせなかった上、そもそもこれは技術であって魔法ではないゆえコピーは不可能。よって、彼女は自力でこの展開術を会得するに至ったのだ。
ウィルが甲板に描かれた魔法陣に魔力を込めた瞬間、上空に向かって激しい雷撃が解き放たれた。
雷撃は重力に逆らいながら、迫り来る蒼い雷ブレスへと喰らい付く。
時間にして、僅か〇・五秒。多量のエネルギーを含む魔力同士の衝突が、魔獣の喉元で炸裂した。
――ゥゥゥゥゥァ!!?
魔獣は爆発の余波を間近で喰らい、後方へと大きくのけ反る。
「今です!」
ナズナはその隙を逃さず、喊声を張り上げた。
甲板にとどろいたその声に、メナスちゃんは大きく頷く。
船上、そして船脇付近に突如出現する魔法陣。
計四つからなるそれらは、同時に魔力を帯び回転を始める。
――直後、船底に激震走る。
何事かと、一同は顔を上げ互いに目配せをした。魔法の起動は未だ進行中。つまり武装による魔法が放たれた形跡はない。即ち――
「こ、攻撃されています! 水の中から……っ!!」
「ケッ、オレ様に任せろってんだ!」
ナズナの焦りから戦況をいち早く察知し、船大工は操縦室にて迷わず動いた。
元々用意していた操縦用の魔道具とは別に、旅人の魔法使いが描いた魔法陣。正直なところ操縦の席に描くのは辞めてほしかったものだが、その配置が海戦においてこれ以上なく最適であることに身をもって気付いた。
「お、りゃぁぁぁぁぁあ!!」
船大工は戦意を奮い立たせ、魔力を込めた拳をいけ好かない魔法陣に叩きつける。
その瞬間、船は大きく跳躍した。
「え、あっ、み、皆さん、何処かに掴まってっ……ひゃぁぁあっ!?」
……襲い来る危機を予感したナズナは呼び掛けようとするも、船大工の読みと行動力は想定の遥か上を行っていたようで。
運悪く甲板のど真ん中に立っていたナズナは、船の跳躍によって身体のバランスを崩し……そのまま空中へと放り投げられてしまった。
「……危ないっ」
そこで、メナスちゃんが機転を効かせる。
咄嗟に植物魔法を展開させ、魔力による丈夫な蔓を形成。自身の左手から伸びる蔓を船に、右手から伸びるそれをナズナの腰に、それぞれ巻き付けて結んだ。
結果、どうにか水面に打ち付けられることはなくなり、かつ魔獣の水中尻尾攻撃を避けることに成功したのであった。
「……味方が優秀過ぎるのも困りものですね…………」
蔓で空中に吊るされている状態のナズナは、冷や汗を流しながら呟いた。
「ふふ、楽しいわね」
メナスちゃんはナズナを甲板に下ろすと、ニコニコとそんなことを言い出した。
「うわぁ、さすが人外。この状況を楽しめるとかいったいどーいう神経してるんでしょう。……あと助けてくれてありがとうございます」
「いいのよいいのよ! お姉ちゃんに任せときなさい」
冷ややかな視線を向けられるも、メナスちゃんは興奮を抑えきれない様子であった。
頼もしいのやら、緊張感がないのやら。この無類の戦闘好きは、果たして"姉"の性格なのかメナスちゃん本人の性格なのか。
(まったく、船大工さんといいクセの強い人たちです。指示なんてとても聞いてくれそうにないですね)
激しい波が船体を大きく揺らす。
しゃがみ込むナズナが息を整えていると、ウィルが焦燥を隠せない顔で近寄ってきた。
「ナズナ、無事だったか」
「はい、なんとか。メナスちゃんのおかげで命拾いしました」
「…………そうか」
ほっとしたのかしてないのか、彼はそんなあやふやな表情で呟いた。
「……戦況は良くない。こっちは既に武装の一部を使ったけど、魔獣の身体には傷ひとつ付いてないみたいだ」
ウィルはそう言うと、沈みゆく夕陽が見える景色へと身体を向けた。一同、彼に続いてその方向へと視線を向ける。
橙の光に照らされながら、凶悪な眼光を放つ巨大な黒影。それは唸り声を上げながら、今もじわりじわりと船へと距離を詰めてきている。
「分かってます。でも、まだまだ弾数には余裕がありますし、しけっ面見せるほどではありませんよ。というか本当に怖いのはこの二人です。なんだか危なっかしくて、心臓に悪いのなんの」
彼女は嘆くとメナスちゃんと操縦席の方へチラチラ視線を送り、冗談めいた苦笑いを浮かべた。
「……まあ、そう……だな」
「……? さっきから歯切れが悪いですね。もしや何か懸念点でも? …………あ、わかった。きっと船酔いですね!」
「いや、何でもないよ。心配には及ばない。ナズナは引き続き戦闘に集中してくれ」
ウィルは背を向け、そそくさと持ち場へ戻る。
彼の背中をぼーっと見送るなか、ナズナは先の返答に含まれた少しの違和感に気付いた。
(歯切れが悪いことは、否定しないんですね)
仮に懸念点や船酔いでないとすれば、何をもって言葉が詰まるというのだろうか。
或いは自分が空中に飛ばされた際、たまたま下着でも見られてしまったのだろうか。いま身に付けている衣服は故郷に伝わる女性用のローブで、丈は膝上とあまり長くない。よって可能性は無くはない。
(まあ、そういうことにしておきましょう。彼、女性経験とか無さそうですし。こーいう刺激には慣れてないんでしょう)
ナズナはどうにかして自分を納得させると、魔法陣を右手の平に展開させ、再び魔獣との戦闘に臨む。
「皆さんは、武装を駆使して守りに専念してください。その間、私が攻めに出ます。あの大きなからだに、風穴を開けてみせます」
※
集落外の平原にて。
霧深い眺めだが、そこは既に戦場。見渡す限りの人影が、轟く叫喚が、殺意を孕んで濃霧を塗り潰す。
相対するは、元凶たる魔獣"夢喰い"。怪物は、その見上げるような体躯を駆使して迫り来る集落の民をバタバタと薙ぎ払う。
しかし、戦況は一方的ではない。
それどころか、怪物は必死であった。驚異と認識せざるを得ない、討伐隊の襲来を思わせる眼下の人間たち。仮想の世界とはいえ、土地の記憶によって呼び起こされた民の意志がこれ程までに己を脅かす存在になるとは、想像だにしなかったのだ。特に、前線にて飛び抜けた魔力を放つ二人。
「――風鳴剣」
大気中に、局所的な畝りが生じた。
空気の流動は周囲を覆う霧をも巻き添えにし、ある一点に集約される。その一点こそ、剣士が両手で柄を持ち、切先を上空へと構える得物。
溢れんばかりの魔力を滾らせる、両刃長剣であった。
自身の体内魔素を霧状に放出する、夢喰いという魔獣の性質。現実世界ではそれに睡眠作用が含まれているため、相応の対策を用意しなければ驚異である。
しかし此処は夢の中。睡眠作用自体は反映されているものの、剣士や集落の民のような意識体に対しては強力な効力を発揮できず、実質ただの視野妨害でしかない。
剣士は、それを予め感じ取っていた。
A級冒険者。上位に位置する階級が示すだけの戦闘経験とそれによって齎される勘が、剣士の背中を押したのだ。
剣士は跳び上がり、一瞬で夢喰いの頭上に到達。
魔力と風を纏いし剣が振り下ろされる様は、まさしく須臾の雷光。目にも止まらぬ疾さで魔獣の身体を裂き、数多に生じた切創部を風圧でバラバラに吹き飛ばした。
(フン、過剰な密度の魔素が霧に含まれているお陰で消費を抑えることができたか。これならば、あと十数発は剣技を放てるだろう…………さて)
剣士は魔獣を吹き飛ばした後、着地と同時に後方へと跳躍した。その人物に目配せをすると、一瞬だけ頷いてみせる。相手はニヤリと微笑みながら、頷き返した。
――昏き憎悪は重油へと沈む
剣士の合図を視認した老人――集落の長は、魔獣が体勢を崩したと同時に、全身に魔力を滲ませながら唱え始める。
――暗澹たる灯
――讐いの燻煙
――鋼鉄の行燈には呪詛を記す
途端に、夢喰いの巨躯を四本の柱が囲った。何処からともなく出現したそれらの間には金属風の鎖が、魔獣を逃すまいと言わんばかりに巻かれている。
周囲の気温が急激に上昇したのは、長が次の句を続けた直後であった。
――其の檻は異端狩りの獄
――我が憤炎にて架けらるる運命と知れ
魔獣が伏した地面から、影のような呪塊が焔立つ。
呪塊は燃え広がるが如く拡散してゆき、終いには四つの柱を溶かすほどの高熱を帯びた。渦中に居る夢喰いは抗う術もなく、悲痛に割れた叫びを上げる。
長は右手を突き出し、莫大な魔力で腕を覆った。そして、一息に唱える。
「――灰燼に帰すがよい。"閉ざす赫灼の霊廟"」
詠唱を用いた、秘術と呼ばれる階級にカテゴライズされる魔法。それは代々集落の長にのみ引き継がれた、異教を裁く炎と呪いの魔法であった。その威力は申し分なく、術者の憎しみに応じて破壊力が増す。相手が炎に耐えうる身体だろうが呪いによって内側から燃焼させるため、この魔法を防ぐ手段は限られるのだ。
夢喰いの身体は徐々に融解してゆき、四本の柱によって形成された檻の中で暴れ狂う。
剣士が外殻に傷を付け、長がじわじわと灼く。剣と魔法の役割を存分に活かした定石たる戦術が、即興の連携によって生み出されたのだった。
「ふぉっふぉっ、流石は王国お抱えのA級冒険者殿。いやはや、期待以上の腕をしておられる」
「世辞はよせ。私の戦闘能力はBの下位程度。あんたは本当のA級を知らないだけだ」
魔獣が悶え続ける傍ら、両者は互いに目を向けず短い言葉を交わしていた。
「まあ、事実そうなのかもしれませぬな。じゃが、其方と共に集落の怨敵を相手にする事にワシの心が踊っとるのもまた事実。それこそ魔法名を高らかに叫ぶほどにのぉ」
「……私も剣技の名を発するなど本来ならばあり得んから、心が躍っているのは否定せん。……戦いの腕なら、あんたの魔法も相当なものだよ」
「ふぉっふぉっふぉっ、嗚呼、愉快愉快」
「……現世の自分の仇を討つ、か。考えてみれば中々に面白い」
燃え盛る獲物を中心に、囲う人々は嗤い心を踊らせる。その様はまるで酒宴であった。それぞれが武器を手に、叫び、唄い、舞い、怒り、血肉を求める。
夕陽は沈み、誰かが魔獣に放った炎が辺り一面を燻んだ橙に照らす。
とうとう魔獣は鎮まり、指の一本すらも動かなくなった。民の怨嗟と執念が、彼らに勝利を齎したのだ。
しかし――
――ォォォォォォァ!!
生命が途絶えた筈の魔獣が、民の喜悦を吹き飛ばすかのような咆哮と共に再び息を吹き返した。
あり得ない状況。絶望的な現象だ。集落の民々による総攻撃、長と剣士による強襲によって漸く撃破したと思われたが、今や敵は蘇り、焼け跡の一つすら残っていない。
まさに集落の神が……否、旅人の少女が宣った通りである。この世界の夢喰いは不死身であり、決して倒せない敵。旅人の少女が世界を滅ぼすまで、足止めを続けなければならないのだ。
それでも、民は嗤う。
「ふぉっふぉっふぉっ、結構! 神を騙る魔獣よ、貴様はそうでなくてはならない」
長は魔獣を正面に見据え、声を高らかに叫んだ。
そして、集落の民全員に語りかける。
「我が民らよ、よぉく聞くが良い。皆も知る通り、百年に一度訪れるこの日は代々、祝福の日とされてきた。そして祝福の日には元来、御嫁様たる贄を捧げ盛大な祭りが執り行われるもの。……さて、愛する皆よ。一度周りを見回してみるとしよう」
長の言葉に呼応し、集落の住民はみな一斉に周囲へ目を向けた。
数秒間の沈黙が降り――そして次の瞬間。
民は皆、一斉に大笑いを始めた。
長の真意は確かに皆に伝わり、そしてそれがあまりにも可笑しかったのだろう。剣士でさえも長から目を逸らしながら苦笑し、あたり一面に轟く哄笑を心地良く聴いている。
「そう! 皆が感じた通りじゃ! 少女は、確かに我らへ祝福を授けたもうた!! 啓示は未だ記憶に新しく、踊り、騒ぎ、歌い、叫び、裸身を晒し、自我を捨て、狂い、喰らい、殺し、殺され、それを何度も何度も何度も、何度も、何度も…………ッこれを祭りと言わずして何と言う!? 我らは既に死する身。百年に一度の祭典を、奇跡を、ワシらは最高の形で与えられたのじゃ!!」
「うぉぉぉぉぉぉぉぉお!!」
「神よ! 更なる祝福を! 更なる血を!」
「殺戮を! 残虐なほどに愉快な殺戮を!!」
メナス河付近の集落。
ここには、世間一般には知られていない噂があった。
とある冒険者の手記曰く、一族はみな何らかの武器の扱いに長けており、家屋それぞれに拷問用の器具があった。
曰く、一族の信仰心は根強く過激だ。魔獣はおろか外界の人間はみな異教徒と見なしていたため、通りすがりの旅人や商隊を見つけては、無差別に攻撃を仕掛け、拉致した。
曰く、集落の民は管理者らと異なり一族の純粋な血を引いていない。また強靭な身体を作るとして子供同士を決闘させ、大人たちがそれを楽しむ文化があった。決闘は、子供の数が二人になるまで続けられた。
曰く、夜になると河から時折人間の声が聞こえる。その声はまるで歌のように美しく、また助けを訴えるような悲痛なものであった。
――あくまで噂であるため、真偽は定かではない。
「さぁ、我が民よ。思うがままに喰らい、欲望のままに暴れよ。百年の祝福は、偽神の血肉から奪い取ろうぞ」




