75話 現灯ニルヴァーナⅠ
歯車が軋む。
時を刻み、その音は旅路の終点を告げる。
運命の針は、それでも正確に動き続けるだろう。
崩落する世界が終末を記すまで。
※
夕陽の橙が集落を覆い、人々はじっと鳴りを潜める。
集落中央広場の祭壇にて、彼らの神は告げた。
「皆さんを信じています。だから、皆さんも私を信じて戦ってください。敵は、決して倒せない輪廻の怪物。でも、私がみんなを解き放つ。河の悪魔を討ち…………"この世界を、終わらせます"」
――最後の一言を発するつもりはなかった。
信仰する神が世界を終わらせるなどと宣おうものならば、信者は狂い始めるのではないかと、ナズナの脳裏には一瞬だけ不安と後悔が過る。が、しかし……
民は、誰一人として騒ぎ出さなかった。
皆がナズナに向ける視線は、ひたすらに真っ直ぐだったのだ。
(……? これは、まさか皆さん)
そこで、祭壇に立つ少女は気付かされる。彼らがいま自分に寄せているのは、信仰心とは全く異なる想いであることに。
直視することは叶わず、戸惑いの泥濘に嵌ったナズナは、つい一歩だけ後退ってしまう。
「……え、え?」
思わぬ民の反応にたじろいでいると、民の中でも一際豪勢な衣装に身を包む老人が祭壇を登り、ナズナの前に躍り出た。
こ、殺される?
そう感じるのも無理はない。
何故ならば、その老人――長の放った言葉こそ、
「旅人さん、其方は"神"じゃぁないね?」
ナズナが最も恐れていた言葉であったからだ。
(お、終わった。何でバレたのかは分かりませんけど、結果として私は彼らを騙し通せず……)
ナズナは、ちらりと剣士へ視線を移した。
祭壇の周囲に集う民衆から距離を置き、ひとり家屋に背中を預ける男は、じっとこちらに目線を送っている。
(あぁ、あの人の告げ口ですか)
二日目、河辺にて。計画の進行には剣士の力が必要と判断したため、ナズナは彼に協力を求めた。しかし剣士は想像以上の頑固者であり、頑なに首を縦に振らなかったのである。
焦りを覚えたナズナはその際、悪魔のような思考誘導で彼を精神的に追い詰めることにより、無理矢理従わせることにしたのだ。
自惚れていた。あれしきのことで、人の心を完全に掌握できたのだと思い込んでいた。相手は所詮魔素の塊。土地の記憶による情報再現体でしかないのだと。だが、それは生前のその人間の姿と意識を正確に反映している。まさに、以前の呼称である"幽霊"という表現は言い得て妙であった。
記憶の反映、情報の再現体。であれば、思考パターンはその人間のものと大して変わらない。本来であれば説得を諦めるか、拒否されてもなお根気よく対話を続けなければならない。しかし、今回ナズナが彼に齎したのは、意思や人格を無視した卑劣な手段。
彼女は、少々人間を舐め過ぎていた。
(私は、また間違えたんだ。酷くて強引なことをしたから? …………いやだ。諦めたくない。ここまでしたのに、こんなところで、リンチにされて終わる? いやだ、でも、私のせいで……)
もう、何を言われても、何をされても仕方ない。
もう二度と、優しい少女には戻れない。邪悪に堕ちてしまった魔女は、火に炙られ幕を閉じる。自分は結局、誰かを踏みにじることでしか生きられない悪魔のようなものでしか……
「それでも、ワシらは旅人さんを信じましょう」
「…………ぇっ?」
敢えて目線を下ろしていたナズナは、その言葉を受けて無意識に顔を上げる。集落の長の表情は、和やかであった。
「そんなに驚くことはないですぞ? 其方がただの人間ってことはワシらの殆どが気付いておったし、そもそも最初は集落全員で旅人を処分しようという話も出ておりました」
「……じゃあなぜ気が変わったのです? あなた達は、神を騙る不届き者の言うことを信じるようなお人好しではないでしょう」
「如何にも。何せワシらは代々、神を信仰する一族ですからな。じゃが、信仰することと盲目になることは全く違う。ここ数日の其方の貢献……必死に奔走する姿が、ワシに気付かせてくれたのじゃ」
「そんな、私はただ私の目的のために……や、やっぱりおかしいです。大切な集落の伝統なのでしょう? その程度の安い動機で、考え方が変わるはずありません!」
信じられなかった。ナズナは、この人間たちの素性は下手すれば彼ら自身よりも知っているつもりだ。ひたすらに神を信じ、よそ者のようなイレギュラーは決して許さず、残虐な行為を集落総出で行う恐ろしい者たちなのだ。
そんな人々の考えが、"よそ者の頑張っている姿"を見て変わる? 都合が良すぎて虫唾が走る。疑り深いウィルを真似るつもりはないが、流石に裏があると思わずにはいられない。
長は、困惑する少女を見て言葉の間を置く。彼女の息が整う様子を見計らい、声のトーンを落として再び続けた。まるで集落の民に聞こえないよう、密やかに。
「民の幸とは何か。外国の商人と取引し子孫に莫大な富を残すことか? 生贄を捧げてまで神に媚びへつらうことか? どれも違いますな。そのどれを行ったとしても、今のワシの家族は幸せにできん。長としてその考えを放棄していたから、生前のワシは失敗したのです」
「…………! あれ、生前って、もしかして」
「この記憶を思い出させてくれたのは、意外でしょうがそこの剣士殿なんです。『あの魔女は、ここで始末しなければならない』とワシらのもとを尋ね、手を貸すよう求められたのじゃ。剣士殿に詳しい話を聞いたところ、連鎖的にといいましょうか、全てを思い出すことができたのです。まー、彼にとっては皮肉な事でしょうがな」
長は民衆の端にて燻る剣士に目をやりながら、「ほっほっほっ」と愉快に笑う。剣士は面白くなさそうに、舌打ちをしながら顔を背けてしまった。
ウィルならばここはどう返すだろうか、と考えたが、きっとそれでも彼の場合は疑い続けるのだろう。よそ者を許容する理由、人々が抱く騙されたことへの私怨、そもそも、この状況と言葉こそが自分を油断させるための罠なのか否か。
疑いを持つのは大事なことだ。しかし、慎重さがチャンスを逃すこともある。また猶予の残されていないこの状況を見れば、今更彼らを疑ったところでどうにかなる話ではない。彼女が思うに、信じてあげられなかったと後悔するより、信じ抜いて騙された方が、死に際としては幾分かマシである。
「後悔、してるんですか? 生前のこと」
「ふむ、難しい質問ですな。ワシは民を救うことを第一としなかったが、いずれにせよ非道にならねば生き延びる手段はなかった。まー何をしてもワシは詰んでおったって事じゃし、悔いはあまり残っとりません」
「……人でなし」
「ほっほっ、あなたがそれを言いますかな? ……ですが、今は当時とは状況が大きく異なっておる。民の顔を見れば、どうする事が賢い選択かなんて、考えるまでもありますまい」
ナズナは長の言葉を受け、祭壇の周囲を眺めた。
数十人もの民の意志が、一人の少女へと向けられている。
それは、信仰ではなく信頼。
民のためと覚悟を決めた者に対する、激励の眼差しであった。
「まさに絶景、其方が僅か数日で築いたものでございます。いやはや、これに心動かされぬ指導者などおりますまい。其方なら、ワシに開けなかった可能性の先を見せてくれるやもしれない。それゆえ、ワシは其方に賭けると改めて決めましたのじゃ」
「…………」
自分はただ、打算的に行動しただけだ。民からの信用を得ることも、計画の一つに過ぎない。
なのに、これほど心が満たされるのは何故だろうか。長の声が、皆の視線が、全身を芯から震わせる。
(私は一人じゃない。この作戦で救われるのは、私たちだけじゃなかった)
その気付きこそ、彼女が自覚せぬまま手に入れていたものであった。それは大きな誤算であり、同時に明確な価値としてひしひしと頭に刻まれてゆく。
夕陽に照らされる祭壇。風を受け黄金色の髪を揺らしながら、輝く景色を前に悠然と佇む。
夢の中の偽物の景色。しかし、一度でも見てしまったが最後、あたかも視線を掴んで離さないような魔力が彼女を釘付けにする。現実では亡骸となってしまったが、この輝きは確かに瞳に焼き付いたのである。
「......どうか、ご武運を」
集落の長、剣士、そして大勢の民の視線を集める中、ナズナは一度だけ頬を緩めると、彼らに背中を向けメナス河へと駆け出した。
「本当に行かせて良いのか? あの場で仕留める魂胆だったろうに」
「ほっほっほっ、確かに神を騙る不届き者には罰を与えねばなりませんな。しかし、不届き者なら何もあの少女だけではありますまい」
「…………なるほど。あくまで優先順位か」
「言いたいことが分かったようですな。では、少し未来の勇敢なる冒険者殿。今一度ワシから依頼させていただきますぞ? ワシらと一緒に、神を騙る不届き者を血祭りにあげてほしい。何代にも渡って一族を嵌めてきた、あの下賎な魔獣。夢喰いという仇者を」
長は両眼をギラリと見開くと、憎悪の籠った気迫を激らせる。それは、最後の最後で集落を想った旅人の少女には決して見せなかった本性。まるで族長という器を通じ末代まで継承された、積年の怨嗟を体現したかのよう。
剣士は震えた。
温厚な老人が放ったとは俄かに信じられない闘気。そして、それに当てられて殺気立ち、続々と眼の色を変える民に。
「報酬は、ど派手な憂さ晴らし」
長は呟く。
剣士は溜め息を吐くと、外へと歩みを進める長の背に続いた。
「悪くない。請け負おうか」
※
岸辺の船は、既に出発の準備を終えていた。
どうやらメナスちゃんが武装の最終確認を済ませてくれたらしく、起動も問題ないとのことである。ただ、ここで重要な問題が一つ浮上した。
「ミサさんと"妹"さんが、いない!?」
ナズナは、苦い表情で叫ぶ。
「一緒に船に乗ってたはずなんだが……すまない、俺がもっと気を配っていれば」
「……探しに行ってきます。皆さんは、改めて戦闘の準備をお願いします。私が戻って来て、直ぐに船を動かしても良いように!」
変な汗が、衣服に張り付く。
何故、今になってあの二人が? 御嫁様に関わる彼女たちが、どうしてこの局面で姿を消すのだろうか。
掴みどころのない不安が徐々に積もってゆく。だが、惑う彼女に向かって声を掛けるものがいた。
「ぼ、僕が行くよ! 二人のことは任せて!」
「……ニケさん?」
ニケはナズナの前に躍り出ると、彼にしては珍しく堂々と宣言した。
「ナズナちゃんが外に出ればクリアなんだろ? だったら、このまま四人で河の悪魔を倒しに行った方がいいと思う。どうせ僕がいてもそんなに役に立てないし」
「待ってください。あなた達には魔力を込めるという大切な役割があります。一人でも欠けたら、魔法武装の意味が……」
「それは……たぶん大丈夫。メナス先生が僕とミサ、"妹"ちゃんの分を担ってくれるさ。だって、本気の先生ならそのくらい出来るはず!」
「わ、わたし!? さすがに三人分追加なんて無茶だよぉ」
(…………?)
ぐだぐたとした会話が広がる。長が率いる面々はとっくに作戦を開始したというのに、肝心の仲間たちは何たる体たらくか。
その一方で、ナズナの視界の隅で一瞬、ウィルが眉をピクリと動かした。
(いやいや、そんな事はどうでもいいです)
悩む時間は残されていない。長や剣士がどれほどの時間食い止めていられるかは、神のみぞ知る。そのため即断即決で行動しなければならないのだ。
想定し得なかった事態。しかし、結局はニケの言う通りナズナが夢の世界の端に辿り着くことが出来れば良い。
(魔素の同時操作。出来なくもないですが、河の悪魔との戦闘に集中出来るかは怪しい。…………でもやるしかないかぁ)
悩みに悩み、十数秒。
ナズナは小さく口を開き、皆へ急遽作戦を告げる。
「魔獣との戦闘は、私、ウィルさん、船大工さん、メナスちゃんの四人で行います。その間ニケさんはミサさんとシャオさんの二人を探し、見つけ次第安全な場所に連れてください」
四人はその声に賛同し、頷いた。
皆の意志を受け取ったナズナは、顔をニケの立つ方向に向け、しっかりと目を見つめながら続ける。
「どうか、お気を付けて。……なんだか嫌な予感がするんです。何かを見落としているような、そんな居心地の悪い感じが。あの二人が変なことになって、作戦に影響を及ぼす可能性はゼロじゃありません。だから、お願いします。私の代わりに」
「……ま、任せてよ! 僕だって少しは役に立ってみせるさ」
己の役割を見出し、腹を括ったニケ。
彼に別れを告げ、船は橙の水面を進み始める。
「出発進行! ヨーソローだぜぇぇぇ!!」
船頭に立つ船大工は、喉を張り裂かんばかりの大声で内なる闘志を燃え立たせた。その声は、同乗する仲間の元にも届く。
「……」
ウィルは配置に就き、接敵した際の行動を脳内で再現する。黙々と、数十秒後の地獄を見据えながら。
「……」
メナスちゃんもウィルと同じく、何か言葉を発することはない。ナズナと咄嗟に話し合ったことだが、やはり一人で四人分を担当するのは無理がある。そのため、ニケの分はナズナが担当し、他はメナスちゃんが請け負うことになった。
負担が軽減したとはいえ、それでも緻密な魔力操作が求められることには変わりない。彼女の無言は、プレッシャーによるものか、それとも……
「二十秒後に備えてください。魔獣が、姿を現します!」
声に気迫を込め、少女は魔力を全身に漲らせる。
繰り返しの最終日、異世界換算十七時五十分。
悪夢の輪廻からの脱出を賭けた戦いが、その火蓋を切った。




