73話 凍傷ノイズ
私は、何者にもなれない。
元の世界での記憶。周りと同じ服を着て、周りと同じように学校に通って、周りに合わせて会話をして、周りに合わせて部活を選んで得意でもないスポーツをして、周りに流されるままに恋愛をやって、そして……
うんうん、わかる〜とか言って共感と愛想笑いを繰り返し振り撒く自分がいて、勝つための練習とかいう名目で機械的に身体を酷使して、ついでに下らない人間関係に追い込まれてる自分がいて、雰囲気で付き合った好きでも無い男に時間を使って、初めてを棄てて。
でも、良かった。
この世界に来て、色んなしがらみから解放されて、おまけに私の悩みには明確な答えが返ってきたのだ。
私は何者か。
――私は、人殺しだった。
※
今日は決行日のニ日前。
曇天の中、ナズナはすたすたと川沿いに向かう。
初日の話し合いを終えた後、うじうじと理屈詰めするだろうと予想されていたウィルは、思いのほか静かであった。そのため、計画の変更はなし。
よってナズナ、ウィル、ニケ、メナスちゃんの四人は、大まかな段取りに従って各々が動いていた。
船大工の協力を得て、船の完成を手伝うウィルたち三人。ニケとメナスちゃんの二人は、合間を縫って魔法の修行を始めているようだった。さすがに数日では無理だろうとは思うが、そこは二人のやる気次第。ナズナとしても、一応気にかけておくことにした。
(そういえば、ミサちゃんは……)
もう一人の仲間、ミサ。
彼女の様子の変化は、最初に見た時は衝撃を受けたものだ。出会った時の少々棘のある印象とは打って変わって、今の彼女は完全に弱り切っている。
どうやらローグリンの地で酷い目に遭ったらしいが……ナズナはその場に居合わせなかったため、大雑把な状況しか分からない。
今は姉妹の家の二階に引きこもっており、メナスちゃんが食事などの面倒を見ている。前日は、"妹"――シャオがミサの話し相手になってくれている。
最も、その内容が必ずしも良いものだけではないことは知っているのだが。
(放っておいた方が彼女の気が安らぐの……ってそんなわけありませんよね。私は付き合いが短いしその場に居なかったから、彼女に寄り添うことは出来ないと決めつけていました。でもさすがにそれは……)
幾度の繰り返しの中では、彼女とは何だかんだ友達と呼べる関係を保つことができていた。しかし、比較的新しい記憶の中に彼女が発した本音が残されており、その声がどうにも離れずにいる。
ミサは自らの命を差し出し、集落のために捧げることに躊躇いがなかった。つまりは、ここで自分の命を終わらせようとしているのである。
(……やっぱり相当ヤバい状況ですよね。仮にも私の初めての友達なので、どうにか救う手立てを見つけたい。現実に戻ったら、まずはミサちゃんの回復を第一に考えるとしますか)
この集落には、ナズナという神が降臨した。つまり、生贄などというふざけた因習は意味を成さないため、彼女が夢の中で死を選ぶことはひとまず防げたと言ってよい。
複雑な心境を胸に残し、ナズナは息を整える。
(さあ、交渉の時間です。旅の剣士さん、枯れてしまったあなたの心に、私が火をつけてやりましょう。せめて最期は、輝きを放ちながら燃え尽きることが出来ますように)
※
「断る」
「え、なぜですか。リベンジのチャンスですよ?」
「無意味だからだ。現実の私の身体は既に屍となった。たとえ夢喰いを下したとして、死んでしまっていては報酬を受け取ることもできまい」
薄々予想はしていたが、この剣士は二つ返事で頷いてくれるような人間ではない。
分かってはいたのだが――
「神の啓示ですよー? あなたが協力してくだされば、この地は夢喰いの悪夢から解放されるでしょうー。さすれば、メナスの地を救った者としてあなたの記録は私が語り継ぎ」
「悪いが名声には興味ない。私は明日を生きるための食い扶持を稼ぐためにこの仕事を選んだ。英雄物語の主役は、君たちのような人間が勝手になれば良い」
「……よく私が人間って分かりましたね。というかあなた仮にもA級冒険者なんでしょう? 魔獣から私たちのような子供を守るのは、当然の責務では?」
「ランクなど飾りさ。私の実力など、精々一般的なB級冒険者の下位程度だ。……それと、君は冒険者という職業を勘違いしている。我々はヒーローではなく、ただの賞金稼ぎだ。市民からは大義の体現者などと持て囃されてはいるが、正義の名のもと進んで善行をする奴なんざごく少数。私のような一般的な冒険者なんて、実態は報奨金が無ければ動かない烏合の衆なんだ」
剣士の男はそう言いながら、眼前に広がる大河をじっと見つめる。
あまりに大人げ無く、腹立たしい。ナズナは呆れるあまり、踵を返して姉妹の家に戻ろうとした。
(どうしてそこまでご自身を卑下するのでしょう? ウィルさんに似てると思ってましたが、これはレベルが違いますね。どうせこんなのは戦力になりませんし、帰って策の練り直しです。……はぁ、ただでさえ時間ないのに)
集落の方面へ数歩行き、ふと彼女は立ち止まる。
時間がない。
明後日に迫る決行日。夢喰いを食い止められる時間。船の武装にかかる時間。メナスちゃんの魔素残存量。
今回の策は、その全てが今までの繰り返しでは経験し得なかった出来事だ。ナズナの策は、全てが時間通りにことが進む前提で立てられていることに、この瞬間ようやく気付いたのだ。
彼女の頬に、うっすらと冷や汗が伝う。
しつこいと感じるほどに、ウィルは何度も言っていた。その策に確実性はあるのかと。
彼は恐らく、策を聞いた直後からその危うさに気付いていた。だから頻繁に反論をし、考え直すよう何度も警告をしたのだ。
それでも、現在ウィルはナズナが命じた通りに動いている。よく考えれば、命の掛かった状況だ。失敗すればそのまま魔素に還り、魔獣の餌として延々と咀嚼されてしまうだろう。なのに、それを理解した上で彼は策に乗った。
命を賭け、真剣に向き合ってくれているのだ。
(……)
ニケも、そしてメナスちゃんも同様である。
それを無碍にできるほど、性根を腐らせたつもりはない。
(みんな、私と向き合ってくれている。そうすれば助かるはずだって信じている。だから、私も最低限の働きをしなければ……ですね)
ナズナは振り返り、大きく息を吸う。
そして剣士の丸まった背中を睨み付け、河の流れる音にそっと声を紛らせた。
「私は神さまです。あなたが望む程度のものが用意できないとでも?」
剣士は、確かにその音を聞いた。
空、河、砂利と雑草が広がる地面。それらの灰色に溶け込む自然な音として、脳が耳から受け入れたのだ。
「……面白いことを云う。たかがちっぽけな魔法使いが、私にどんな報酬をくれるというんだ」
「それを言う前に、あなたの事について知りたいなと思います。ほら、たとえば何を望んでるのか分からなければ、さすがの神さまでも対応できないでしょう」
「……残念ながら私に望みなど存在しない。先ほど言ったように、この身が意識体であり現実には還る場所が無いことは承知の事実だ。ならば、じっと消滅を待つほかあるまい」
突き放すような物言いを目の前の少女にぶつける剣士。しかし、少女は薄い微笑みを浮かべたまま微動だにしない。それどころか、相手に息をつかせる間もなく再び口を開き始めた。
「では、ご自害なさってはいかがでしょうか。現状を理解していて、それでもなお意味の無い時間を過ごすくらいなら、さっさと河に身を沈め、消えてしまうのが手取りばやいと思うのですが」
「…………」
ナズナの思わぬ切り返しと提案に、剣士は言葉を失った。その隙を突かんと、にこりと微笑を浮かべる彼女はすかさず言葉を続ける。
「論理的? 効率的……? には、さっさと退場した方が良いってことは、賢い剣士さんなら分かってるはず。それでもそれを選択しないということは、なにか……自分でも気付けないような理由があるのでしょう」
「……人は、生命とは、本能的に死を恐れるものだろう。そんなものは問う余地もない、理由以前の問題だ」
「でもさっきご自身で言っていたじゃないですか。自分はただの意識体だって。つまりあなたは生命じゃないってことですよね。そう考えると……えっと、お得意の理屈に当て嵌めてみると、生にしがみ付いている現状は少し歪じゃないですか? なら、消滅を拒む理由なんてありませんよねぇ」
ナズナはゆっくりと剣士のもとへと歩み、じりじりと身体を寄せていった。
前のめりに身体を傾け、数歩後ずさる剣士の両眼を上目遣いで凝視する。背後で組んだ両手の中に、魔法陣の展開を隠しながら。
「…………」
少女の顔に張り付いた笑みを間近で見た剣士は、その底知れない不安感に息を飲んだ。
「ほら、望みを言ってくださいよ。私なら、あなたを一瞬で楽にできますから。……恐れることはありませんよ。これは体験談なんですけどね、死ぬ間際って実は凄く気持ちよーくなれるんですよ? そうまとう……っていうのかな。頭の中がじゅわーってなって、身体がほわほわーってしてくるんです。ちょっと前の話ですけど、あぁ、私ってこのために生きてるんだな……って病みつきになってました」
「………………気でも触れたか? 何を言って……」
冷気のような、鋭い殺気に包まれる。
剣士は身の危険を感じ、反射的に腰に佩いた長剣に手をかけた。しかし――
「……!?」
手の感覚が無い。
もしやと思い、目線を少女の貌から下に降ろした。
――想像していた最悪の事態は、幸いなことに免れていた。切り落とされていたのではなく、何処からか湧いた冷気によって身体が凍え、神経の伝達が滞ってしまったのだ。
であれば、その異常な凍えを齎した冷気は何処からやってきたのか。
剣士は少女に対し、今一度畏怖の込もった視線を向ける。
「どうしました? まさか、怖いなんて感情を抱くはずもありませんよね。あなたはただの意識体。土地の魔素に記された情報でしかありません。だから、ろんりてきに考えれば、死にたくないなんて余計な言葉、頭に浮かぶはずないですもんねぇ。……さぁ、早く望みを言ってくださいよ。ただの魔素塊。あなたは人のかたちをした人形なんですよ?」
「…………………………っ」
無表情だった剣士の顔が、徐々に歪んでゆく。冷気が身体の芯へ染み渡ると同時に、思考能力も奪われてゆく。
彼女の言葉を否定する言葉が、思い付かない。
凍えによって心身の自由を奪われるなか投げ掛けられた言葉によって、意識が芽生えた当初から脳を掠めていた自己矛盾を直視せざるを得なくなったのだ。
自分とは何者か。
彼女の云う通りただの魔素塊ならば、こうして生前の記憶や意思を持つことすら不自然なのではないか。ましてや、死を恐れるなど……屍が抱くには滑稽であり、状況としては矛盾している。
さすれば、自分とはいったい。
〇〇という剣士の皮を被った…………
その時、剣士は現在の不可思議か思考をさらに深奥へと増長させるような、決定的な事柄に目を向けてしまった。即ち――
(私の、名前は…………)
「あなたは、死ねない。つまり、ここで消えることはあなたの役目からは逸脱してるのです」
「………………私の、役目」
「結論から言いましょう。あなたは、本当は英雄になりたいと願っている。……そして、最終的にはこの地の支配を目指しているのです」
――馬鹿な。ふざけている。それだけは絶対にあり得ない。
叫びたい情念に駆られた。
しかし、本当にそう言えるのか? と、薄く透明な思考の壁が立ち塞がる。
何故ならば、自分が生前の記憶として反映し出された〇〇という剣士である保証はなく、現に彼女の述べる通り、矛盾した意思がこの身に渦巻いていることは紛れもない事実。
――役目? 役目とは?
「私の役目は……英雄に……? そして、この地の支配……? あ、あ、あり得な」
「案外、間違ってないと思うんですよねぇ。何度か私に助言を残してくれましたし。というかそのおかげで私は現状を知ることができた。だから、私にとって貴方はすでに英雄です。救いの兆しをくれた、ヒーローなのですよ〜」
「……何の話だ……?」
「ですが、あなたは同時に強大な支配欲に駆られています。広場の祭壇……私が集落のみんなにかけた暗示が効かなかったのが良い証拠です」
ナズナはさらに距離を詰め、力を失い膝立ちとなった剣士の耳元で囁く。
無論、暗示をかけたなどと言ったが大嘘だ。
しかし剣士の脳内は今や錯綜で満ちている。故にナズナが何を言おうが、彼が少女の戯言をまともに処理する余裕はない。
「私は、私という人格……存在は、心の底では支配を……」
「その通り。さすがは賢い剣士さん、大した洞察力です。もうお分かりですね? いま一度はっきりと教えてあげましょう……あなたは、集落の支配を望んでいる。それがあなたの役目であり、存在意義なのです」
自然と、笑みが溢れてしまう。
こんなに楽しい時間は、いつ以来だろうか。渇望しているあの快楽とは似ても似つかないが、これはこれで堪らなく心地が良い。
(おっと、いけません。愉しむのは一旦ここまでにしておきましょう。早く最後の呪文を唱えなければ)
ナズナは口元に手を当て、告げる。
「あなたの望みを叶えましょう。しかし、とても厄介なことに、それを妨げる邪魔者が三匹います」
「…………」
「ご存知の通り、河の悪魔と、夢喰いと……神さまたるこの私です。あなたはこの全てを殺さねばなりません。特に二体の魔獣は……私ひとりの力では太刀打ちできませんので、協力して」
「ま、待て。貴様、私の望みを叶えるには、最終的に自分の身を……」
「いま、あなたはとても苦しいでしょう? 頭が痛くて痛くて、堪らない筈です。その原因を作り出したのは私なので、最後には私を殺して解放されちゃいましょう。あぁ、安心して下さい。私の目的はあくまで二体の魔獣を倒すこと。そうすれば、私の仲間が現実へ戻り、私を起こしてくれるはずなので」
「…………イカれてるのか? とても正気とは思えん……」
「正気ですよ。望みは叶えてあげるので、その代わりに絶対協力して下さいね?」
ナズナは剣士の正面に立ち、にこりと曇りなき笑顔を浮かべる。
※
(さてと、剣士さんへの説明は完了……今日の一番大きな仕事は片付きました。あとは、集落のみんなに作戦の共有をしたら終了です。明日は魔法武装を船に装着する日でしたっけ。結構しんどそうなので、帰ったらゆっくり休むとしましょう)
魔法は既に解き、あたりは正常な温度へと戻りつつある。
剣士はその後暫く、硬直の余韻に囚われていた。




