71話 夢砕リベリオン
絶望への落下は案外浅いところで止まった。
彼女の失敗を予知していたかのように、さっと掬い上げてくれた者がいたからだ。
新品の壁紙のようにまっさらな、夢とも現実ともはっきりしないような空間で、彼女は再び目を覚ます。
「話の途中だったんだけど?」
この場にいる者は二人。目を覚ました少女と、彼女に対して何か言いたげな土地神もどき。
頬を膨らませた土地神もどきは一言だけ不満を溢すと、膝を地につけ少女に目線を合わせた。
「……あれ、どうにかなるんですよね」
「それはあなた次第。そして、次が正真正銘最後のチャンスなのは間違いないわね」
ナズナは相手に苦虫を噛むような表情を見せるも、土地神もどきは真剣な眼差しでその不安を受け止める。
「だから全てを賭ける。次の繰り返しは集落の形を完璧に維持できるし、あの子の体に夢喰いの魔素が介入する余地もない。あなたのお友達の命も……こっちの五日は現実だと五分くらいだしなんとか繋ぎ止められそう。だからこの状態で、どうにかやり遂げてほしい」
「…………一日が一分でしたか。なにげ初知りです。いやそんな事よりメナスちゃん、あなたまさか……」
「消えるわよ。貴女の勇姿を見届けた後にね?」
この土地神もどき、恐らくはこうなることを覚悟していたに違いない。表情や言葉から炙り出る迷いの無さが、眩しいほどにじりじりと伝わってくるのだ。
――つらい。
そんな表情をされては弱音の一つも吐けないじゃないですか、と心の中で愚痴をこぼす。
「土地の魔素であるあなたが消えれば、周囲の自然は枯れ果て……いやそれよりもまず、あなたには私の伝説を記録し、この先もずっと語り継いでもらいたいのですが」
「はいはーい、思ってもないこと言わないの」
目線を外しつらつらと言葉を並べるナズナに呆れ、大きなため息を吐く。
彼女との会話は心地良い。借り物の人格だが、波長が合うか否か、その人が善か悪かといった区別ははっきりと付く。
魔法使いの少女ナズナ。性格は歪んでしまったように見えたが、芯となる善良な心まではブレていないのかもしれない。できればこのまま"他愛のないやり取り"を続けたいものだが……やはり残された時間を無駄には出来ない。
「さ、そろそろ行くわよ? 大丈夫、今度の繰り返しは私も付いてるから」
告げると同時に腰を上げ、手を差し出した。
ナズナはそれを掴もうとするが、すんでのところで躊躇う。
「やります。やるしかないですからね。……でも、最後にヒントを下さい。夢喰い、この世界じゃなんでもありじゃないですか。そんな反則級の相手を、どうやったら出し抜けるんです?」
彼女の問いに対し、メナスちゃんはニヤリと微笑みながら手を握る。
「夢喰いが夢に介入するとき、実はあなた達と同じように意識は一つなの。つまり、現れた夢喰いの足をどうにか止めている間に河を渡れば……」
「……船を妨害出来なくなる?」
「ふふ、やり方はあなたに任せるわ。でもー、少なくとも一人だと難しいわね?」
「…………」
ナズナはそれ以上何も語らなかった。
それでも、蘇った瞳には確固たる意志の色が宿っている。
――なんて嬉しいことだろうと、不意にそう感じてしまった。
自分は幸せ者だ。
土地の魔素如きが神を自称するなんて恐れ多くて出来ないけれども、こうして人の感情を持って、普通に会話を楽しんでしまっている。
本物の神にだって、得たくても得れないような体験。そんな奇跡が、ある筈のない心を満たしてゆくのだ。
これは最後の夢。
夢のような邂逅を与えてくれた魔法使いの少女に、恩を返す時だ。
※※※
少年は家屋の群れから離れ、草花の傾斜をのぼる。
生暖かい風が揺らす、緑の水面。
――見渡す限りの草原。想定通りの光景を前に少年は大きく息を吸い、そっと力を抜いた。
――ただ、一箇所だけ。ありふれた光景のほんの一箇所が、少年の視線を凄まじい引力で引き寄せるのだ。
一面の草原。瑞々しさを含んだ柔らかい風が、草花を凪ぐ。
少女は艶やかな金色の髪を靡かせながら、静かな溜め息を一つ吐いたあと、少し照れくさそうに微笑んだ。深い碧色の瞳はまるで、どこまでも澄んだ空をそのまま映しているよう。
「お久しぶりです、ウィルさん」
普段抱く印象とは全く異なる、妙に大人びた雰囲気を醸し出すナズナ。対する少年の姿は、相変わらず予想通りのうじうじであった。
「…………ナズナ……なのか?」
少年が恐る恐る問うと、ナズナはゆっくりと頷いた。
その仕草を確かに目にした少年は目を逸らし、口を開きかけるも……どうやら言葉に詰まっているようで、なかなか切り出せないようだ。
「ナズナ、ごめん……俺は君に……」
「酷いことをしてしまった、でしょう?」
言葉を絞り出した少年を、真っ直ぐ見つめるナズナ。少年は驚いた様子で、パチリと開いた目を彼女に向ける。
「それで、どうせその後に自分を責めるんです。愚かだったとか、馬鹿だとか、一発叩き込んでやるだとか。そんな言葉を自分に向けるんでしょう」
少年は目線をあちこちに遣りながら、あたふたと彼女の言葉に反応を示す。
何か口出しをされそうになったが、ナズナは喋ることをやめない。どうしても彼に伝えなければならないことがあったから。
軽く息を吸い、心を落ち着かせる。
ずっと前から感じていた、少年に対する胸の突っ掛かり。それを今、この場をもってぶち撒けることにしたのだ。
「……ウィルさんは頼りなくてゆーじゅーふだんです。考え過ぎて、周りが見えてない時もあります。でも、つらくて、痛くて、悩んで、必死に頑張っていました。そんなあなたが自分の事を悪く言うなんて……絶対にやっちゃいけないんですよ?」
吐いて捨てるほど存在する澱み。彼はこの世界に来てからずっと、自分を責めてきた。数多の理不尽や喪失、後悔によって生じる負の感情を全て自分のせいにして、矛先を己に向け続けている。或いはこの世界に来る前からずっと、その癖は継続しているのかもしれない。
どうしようもなく哀れで、馬鹿馬鹿しいとさえ感じていた。
生真面目で論理的な性格は彼の長所といえる。だが、そんな人間こそ本当は危ういのだ。己を律しているように見えて、その実は自らを机上の期待と必要以上の責任感をもって押さえ付けているだけ。
だから伝えたかった。
何一つ助けられないと嘆く彼に。
(私よりも弱くて、頼りない。でも、私はそんなあなたに助けられたんです。私のために、力を尽くしてくれたから)
出会って数日程度の付き合いだ。情を抱くには些か短すぎる。それでも、彼らにとっても自分にとっても、お互いを友だと感じているならば……
「ウィルさん」
「…………な、なんだ?」
「これから私は、たぶん誰も理解できないような行為に走ります」
「え、えぇ……?」
「ですが、どうか私を信じて下さい。お願いします」
軽く頭を下げた後、ナズナはウィルの顔をじっと見つめる。戸惑いを隠せない彼の表情を見るのは、正直なところ少しだけ愉快である。
「……信じることが贖罪になるなら俺は…………いや、なんでもない。…………ナズナ、信じるかわりに一つだけ聞かせてほしい」
「なんでしょう?」
「……俺たちと一緒にいて、後悔してる?」
様々な繰り返しを経験したが、この問いは初めてだ。少々焦るが、返答は間を置かずに湧いてくる。
愚問ですよとでも言いたげな、自信に満ちた表情。
ナズナははっきりと、言葉を投げ返した。
「してません。……それはきっと、これからも。あなた達と一緒にいるかぎり」
意外とすんなり出てくるものだなと、驚いた。いまの自分が発したとは思えないセリフに、適当に目を泳がせて茶を濁すも……それを聞いたウィルの表情が少しだけ和らいだことに気付く。
(……まぁ、別に良いか)
後悔はしていない。これまでの旅路も、今の言葉も。
※
「長! 長ぁぁぁぁーっ!! 大変なことンなった!」
日に焼けた集落の男が一人、管理者たちの家に押しかけた。大粒の汗を滝のように流す男を見た老人たちは、ひとまず落ち着かせるよう彼を家に招き入れんとする。だが、男はそれに応じようとはしない。「そんな場合じゃぁねぇ」と、余計に焦りを増す始末であった。
「なんじゃア、喧しい。ワシらが忙しくしとるんは、お前さんにも分がっとろォが。先のよそ者ンじゃあるめぇし」
「まあまあ、民の声を聞くのもわしらの仕事じゃよ。して、何があった? 怪我か? 病か?」
そんな彼を煙たがる老人を宥めながら、長は急な客人に対応すべく顔を見せた。
長は想像もしていなかっただろう。この民の第一声が、自分たちの入念な計画を潰し、集落の歴史や常識を覆す言葉になるとは。
「神が……神が降臨なさった!! 祝福の日は、今日やったんか!?」
※
日焼けした男に連れられ、長を含む主落会の面々は総出で中央広場へと向かった。
様々な噂が飛び交う道中。民々が口を揃えて、「神が〜」だの「女神さまが〜」だの「堪りませんなぁ!」だのと口にしていることから、件の神は集落中の人間が目にしたのだろう。
到着した時には既に満員御礼。人だかりが広場を埋め尽くしており、同時にいつの間にか設置されていた祭壇の上に立つ、いやに眩いそれも目に映った。
「…………冗談じゃよな?」
生を受けてから、百年はとうに過ぎている。
自分は今、どんな表情をしているのか。生まれてこのかた、こんな感情を抱いたことは一度としてない。
これが、頭が真っ白になるという感覚らしい。
「すまんすまん、ちーっと通しておくれ」
民を掻き分け、自ら祭壇に上がる老人たち。
最後に見えた長は、突如として顕現した件の神をじっと見つめ、声をかける。
「……神よ、よくぞこの地に、この集落に御姿を顕したもうた。私どもにその可憐なお姿を拝謁する機会をお与えになる慈悲。有り難く頂戴し、しかと心に刻み付ける所存でごさいます。して、此度の祭りについて……」
長が膝をつき祈る仕草を見せた後、背後の者たちもそれを真似た。
件の神はそれを見下ろしたまま、腹の中を読み取らせないような声色で告げる。
「本来の祝福の日は四日後。商団にはどう説明すべきか。そもそも私が本当に神なのか。大方こんなところでしょうか〜?」
「……さ、さすがの慧眼、感服いたしますじゃ。わしの心の中までご賢覧あそばされるとは、いや、これぞまさしく泉の如き知恵の宝庫。あなた様を疑う事など金輪際致しませぬゆえ、何卒お許しを……」
感情が読み取れぬ、如何にも高位存在らしい声色。或いは、彼女に親しい者や疑念を持つ者が聞いたらひどい棒読みと罵るだろう。
長も当然ながら疑ってかかったのだが、神を名乗った見知らぬ少女は、あろうことか秘匿していた筈の"商団"といった単語まで発し始めた。これには彼も恐れをなし、たじろいでしまう。
「待てや。長は騙せてもワシを騙せると思ンなて。ワシらが儀式も何もせんと急に出てきおってからに、そのうえ神を名乗るなんざ……こらぁ大した愚か者じゃ。貴様はどう見てもよそ者、人間の小娘じゃろーが。どぉせ奴らと同じく、ワシらの儀式を掻き乱そうとしてるんじゃろ。ん?」
もちろん反発する者もいた。にも関わらず、神を名乗る少女は飄々と振る舞う。
「たしかに、いきなり現れて何の証拠も無しに名乗られちゃ、困惑する人もいますよねぇ。あらあら、ちょうどそこに神さまである私を愚弄した愚か者がいますわ。天罰でも与えれば、信じていただけるでしょうかー」
そう告げる少女――ナズナは、河の悪魔と対峙した時みたくすぐさま無数の魔法陣を上空に開放した。
この者たちに話が通じないことは知っている。よって他の方法で認識を植え付けるしかない。たとえば魔法使いの域を超越した秘奥を見せ、同時に恐れを抱かせれば……
「……ば、ば、馬鹿な。この陣の数、有り得ん」
「お、おお。流石は神……人智を超えし、至高の……」
「ま、魔法陣で空が……!?」
四方八方から浴びせられる賞賛と畏れに、彼女は次第に気分を高揚させていった。
(ふふ、何でしょう。心なしか今とっても気持ちがいいです。もっと褒められもっと恐怖してもらうには〜)
顔を朱色に染め、ニヤニヤと頬を吊り上げそうになる彼女は、目を瞑ってどうにか誤魔化そうとする。しかし高まる興奮は抑えようにも難しい。
(…………♡)
空に浮かぶ魔法陣群のうち僅か三つ。
それらが、なぜか勝手に起動し始めた。
瞬間、祭壇の上に雷撃が落ちる。
周囲の声は暴力的な霆の咆哮にかき消され、焼けるような光が一瞬の内に視覚を奪う。術者でさえも視認できなかった一秒にも満たぬ刹那、砕け散った石片と焼け焦げる主落会の者、おまけに側撃で倒れる数人の老人が、確かな異変を無情に示していた。
「こ、この力……天の怒り……」
「さ、さ、流石は我らが神。も、もはや疑うことなど……」
「おお、どうかその怒りを鎮めたまえ……!」
事が起きてから数秒後のこと。神の如き技を目の当たりにした集落の民たちは、畏れと興奮に沸き始めていた。
(とりあえず、姉妹やウィルさんに酷いことした罰は与えました。ほんとはコイツら全員に撃ち落としたいのですが……過度な恐怖はいけません。支配するならほどほどにしないとですから)
ナズナは祭壇の上から人々を見下ろすと、表情をにこやかに歪めながら、言葉を紡ぐ。
「ああ、愛しき信徒よ。先ほど言ったとおり、集落は四日後の夕方に滅びる運命にあります。これを食い止めるには、私と皆さんが力を合わせなければならないでしょう。私を神と崇め、うやまい、尊敬し、惚れてしまいなさい。さすれば、集落は百年のあんえ……あんねい? を得るでしょう」
誰が見ても裏がありそうな妖しい笑顔。そして欲望丸出しの御告げ。しかし同時に、先の魔法も相まって底知れない印象を与えるのも事実。彼女の姿を直に視る者はみな感じているだろう。
これが支配者のカリスマ。これこそが神であると。
ナズナの言葉が終わり、再び静寂が一拍。
張り詰めた空気は、嵐の前兆であった。
「うおおおおぉぉぉぁ!!!」
「神よ!! あなたこそが偉大なる神ぃ!!」
「ぶひいいぃっ! 好き好き大好きやっぱ好きーッ!!」
その日、集落は熱狂に包まれた。
民が求め続けた神の顕現。
その正体は偽りで、本当はみんなと同じただの魔法使いなのだけれど。
みんなが声高らかに叫んでいる"信仰"が魔獣に向かわないように、メナスちゃんに代わって彼らを導く。
――もうすぐ終わりを迎える世界。
――夢のおわりは四日後。その時は、私からの祝福をもって幕を下ろそう。
――そうすれば今度こそ、霧が晴れて青空を目指せるはずだから。
声援を浴び恍惚としながらも、ナズナは心に固く誓う。
(さあ、反撃開始です。人々の信仰を、そして私たちの意識を夢の世界で弄び、空腹を満たす悪の魔獣。ならば私が毒となり、その命を終わらせましょう)
可憐な風貌、凶悪な魔法、冷酷な微笑。
常識外れの妖しさを纏った少女の風格はまるで……




