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蜃気楼の岬から  作者: ピンギーノ
一・三章 幻想河の遺歌(下)
79/95

幕間 メナスの追想

※今回、かなり長いです!





 朝の淡い光。心地良い涼気が窓から流れ込み、部屋の中を満たしている。

 トントントン、と包丁が野菜を刻み、グツグツと鍋の中が沸騰している。ほのかな味噌の香りが、眠気の残る意識に優しく触れた。




 「目玉焼きか卵焼き。お姉ちゃんはどっちがいい?」


 テーブルの席に着き、うつらうつらとしていると、妹が声をかけてきた。姉は気怠げに顔を上げ、ダークブラウンの長い髪をいじりながら呟く。


 「……卵焼き」


 「ん。もーちょっとで出来るから、待っててね」


 妹の声は姉のそれとは対照的で、朗らかで快活。寝起きの倦怠の中に混じり込んでも、不思議と耳は痛くならなかった。

 なんでもない、いつもの朝。両親が他界した数年前から、朝の光景は変わらない。唯一変わったことがあるとすれば、妹の料理の腕が上達したことだろう。食欲を誘う良い香りが、胃袋を絶え間なく突っつくのだ。

 姉はテーブルの上に腕枕を作ると、顔をそこに埋める。


 (…………)


 幸せな朝だ。叶うならば、ずっとこの光景が続いて欲しいものだ。しかし一方で、絶対に変えなければならないと誓ったことが一つあり、数年前からずっと、それを悶々と引きずっている。


 (…………)


 両親が他界した日から、姉は一度として料理を作ったことがなかった。料理に限ったことではなく、掃除や洗濯といった基本的な家事は全て、しっかり者の妹に任せてしまっているのだ。


 変わらなければならない。

 集落の生贄の儀で妹が死ぬのは四日後。それまでに、料理を振る舞いたい。それが無理でもせめて、"お姉ちゃん"らしい姿を見せたいと、ずっと願っていた。



 自分の部屋は好きだ。

 寝心地の良いベッドに、窓から入る涼しい風。なによりも、幼少期から収集している魔導書の収納された本棚がお気に入りであり、ただコレクションを眺めるだけでも心に潤いを与えてくれる。

 魔導書との出会いは、両親に買ってもらった一冊だった。この集落には時おり旅の商団が立ち寄り、二週間前後滞在することがある。彼らの冒険譚を聞いた姉妹は外界への興味を膨らませてゆき、期待と空想に夢を描いた。姉は魔法の知識を、妹は化粧品やアクセなどの装いを、両親にせがんで買ってもらった。

 両親亡き後も、これだけは習慣として続けている。この本棚を埋める知識の数々は、集落で小遣いを稼ぎ、自力で集めたものが殆どなのだ。


 彼女は溜め息をつくと、薄い毛布に身を包み、寝台の上に寝転がる。


 (…………)


 最近は、こればかりであった。

 嬉々として収集していた魔導書も、半分以上が手付かずのまま眠っている。途中で飽きてしまったのか、自己嫌悪の果てにどうでもよくなったのか。

 幼少期から大切にしていた栞は何処かに行ってしまったので、今更開く気にはなれない。


 (……あと、四日。私は、私はあの子に…………)


 目を閉じ意識を鎮めようにも、ぐらぐら巡る負の思考が邪魔をする。何もできぬまま、あっという間に妹は死んでしまうぞ、と責め立てているかのように。


 昼が過ぎ、夕方を迎え、夜が包む。時間は刻々と過ぎ、緩やかに、そして確実に迫って来ている。







 「お姉ちゃん、朝ごはんだよー!」


 翌日も変わらず、妹に頼ってしまった。

 あまり、眠れない日々が続いているから……というのは言い訳にしかならないだろう。許される気は毛頭ないのだが、これは寧ろ自然ではないかと彼女は考える。大切な、ただ一人の家族のことを考えると、心が潰れそうになる。

 その痛みに耐えて、耐えて、耐え続ける。

 三日前ともなれば、まともな思考ができない。


 許される気はないのだが、叶うならば……


 「お姉ちゃん、大丈夫? あんまり寝れてないよね」


 「……」


 「あたしのこと考えてたんでしょ。それはそれで嬉しいけどー、うん」


 「…………」


 声のトーンを落とし、諭すように語りかける妹。返ってきた小さな反応――自身の姉の表情を見た彼女は、つい口篭ってしまった。


 「お姉ちゃんさ、大人になったら植物園作るんだよね。それで、外から来た旅人さんに喜んでもらうんだ」


 「……そんなの、昔の話で」


 「きっと、綺麗なんだろな。お空の上から見たら、なおさら! あたし、すっごく楽しみなんだ」


 「……やめて。これ以上そんな話、しないでよ」


 幼い頃に抱いた、今となっては恥ずべき理想。もともと、妹を喜ばせるために適当なことを言ったのが発端だったか。わざわざ覚えているとは思わなかったが……結局その夢を叶えようにも、植物の魔法を多少習得したのが関の山で、実質的には何一つ前進していない。

 例え理想を叶えようにも、妹にはそんな形で喜んでほしくはない。幼き日の理想は、心の端っこにでも捨て置くのが一番良いと感じていた。


 「そうかな。あたしは結構いい夢だと思うんだけどなぁ。お姉ちゃんらしくて」


 「私らしい……?」


 「そ。無口だけど、すごく優しい。お姉ちゃんが作る場所はそんな魔力に満ちていて、やって来たひとはみんな、すっごく癒されると思うから」


 言葉の終わり、妹は頬を緩ませると、姉をくるむ毛布に目線を落とす。


 「お姉ちゃんの考えてることはだいたいわかる。こちとら十五年間も妹やってるんだからね」


 「……」


 「もうすぐお別れだからしっかりしようとか、良いとこ見せようとか、そういうのマジでいらない。あたしはいつものお姉ちゃんが好き」


 「…………」


 「まぁ、夢の話は置いといて……あたしは最期まで、いつものお姉ちゃんと一緒に、いつもみたいに暮らしていたいってこと! いい?」


 妹は少しだけ顔を朱色に染めながら、強引に姉の手を掴んだ。照れ隠しなのか、若干語尾を強めながら。


 「……無理、だよ」


 妹の肌を感じながら、両手に目を向ける。

 この感触も、温もりも、いつかは宙へと消えてゆき、思い出せなくなってしまうのだろう。


 だが、妹の言うことも一理ある。特別な何かをしたり急に態度を変えたところで、その記憶もいずれは空へと消えてゆく。であれば、無駄に意識する必要はない。

 それを言ってしまえば、ゆくゆくは生きることの意味とは? などといった哲学的な問いへと帰結してしまうわけだが……ともかく妹が望む以上、あくまで普通を装わねばならなくなる。非常に難題だ。


 「私の気持ちも、考えて。家族を失うんだよ。一人に、なっちゃうんだよ? ……そんなの嫌だ。こわい。耐え切れる、わけない」


 姉は感情の高波を堰き止めながら、喉から絞り取るように声を上げた。どこか楽観的だった妹も、彼女の震えを聞いた途端、つい押し黙ってしまう。


 姉は知っている。平気でないのは自分だけではないと。妹もまた、恐怖と悲壮に心を塗り固められているのだ。




 不意に、心はホロホロと崩れ始める。

 実姉の顔を直視したら、堪えきれなくなったのだろう。掛け替えのない存在の前では、強がりを突き通すことなどできなかった。

 その日は昼過ぎまで、狭い部屋の中で過ごしていた。窓から差し込む晴天の光が、湿っぽい空気を乾かしてくれるまで。



 「シャオ。今日はのんびり散歩でもしようか」


 「お姉ちゃんにしては珍しくアウトドアだね」


 「子供のころはよくやった、でしょ?」


 「うーん、今日はじじぃ共に呼ばれてるから……そうだ、明日でも良いかな」


 折角の提案だったが、妹は呆れた表情で宙を見る。

 姉は返事を聞いた途端、目つきをギロリと変え、大きな溜め息をついた。


 「……ちっ。あのじじぃ共、どれだけ私のシャオを独占すれば気が済むの?」


 「お姉ちゃん口わるー! でも、あれだわ。やっぱりホンネ曝け出してる方が美人だわ」


 「……それはどういうこと、かな?」


 姉の冷やかな笑みを視界に入れた妹は、思わず背筋をピンと伸ばす。そうして二人は数秒間見つめ合ったのち……その場の空気は暖かく綻び始めた。

 心の底から、笑顔になる二人。まるで幼少の頃に戻ったようで、可笑しかったのだ。




 「そろそろ行ってくるね。ちょっと遅くなるかもしれないから、気長に待っててー」


 「うん。いってらっしゃい」


 アンティーク調のドアを開け、外へと踏み出す妹の背中を見守る姉、ミャオ・メイユエは、とある決意を胸に抱いていた。




 (決めた、今日こそは料理を作ろう。儀式の準備だかで疲れて帰ってきたシャオを、びっくりさせてやる)


 吹っ切れたかどうかは自分で判断し難いものだが、少なくとも今は精神的な足枷を感じない。こぢんまりとしたキッチンに目を向ける姉は、かつて無いほどの闘志を燃やしていた。







 「ダメだ。味が濃すぎるなこれ」


 時刻は七時を過ぎた頃。家の調理場に立つ姉は、慣れない料理に挑んだ挙げ句、一人苦戦を強いられていた。陽が傾き、涼風が吹く時間帯を見極め集落に赴き、新鮮な野菜を譲って貰ったのはほんの数刻前の出来事。

 気合を入れて調理台に向かったは良いものの、なにぶん料理をするのは数年ぶりときたものだ。当時必死になって覚えたレシピを思い起こそうとするも、調味料の匙加減がすっかり飛んでいる。


 にんにくを刻み、橄欖油(オリーブオイル)で炒める。そのままフライパンに水を入れ、コンソメを入れ、先ほど切った不揃いの野菜を突っ込み、火にかけ……


 失敗の原因はコンソメの量だろう。味見もせずに適当に混ぜ込んだから、こうなった。


 (作り直しかぁ。まあ、こんなの食べさせるわけにはいかないし、しょうがないよねぇ)


 スープがなみなみと入ったフライパンの前で肩を落としていると、不意に隣に気配を感じた。


 「……!? か、からっ! まさかこれ、お姉ちゃんが?」


 玉杓子を片手にスープを口に含んだ妹は、目を丸くしながら叫んでいた。


 「…………い、い、いつの間に」


 「さっき帰ってきたとこ。なんか良い匂いするなとは思ってたけど、お姉ちゃんが料理してるとは思わんかったわ」


 事に気付いた姉は、徐々に顔を赤く染めてゆく。サプライズで料理を振る舞おうとしたものの、失敗しただけでなく、妹にもバレてしまう。まさしく汗顔の至りであり、顔を合わせるのも躊躇われた。


 「ごめん。すぐ作り直すね」


 「えー、勿体ないよ。あたしは食べてみたいんだけど」


 「……ほんき?」


 「とーぜん」


 姉が羞恥に悶える間もなく、妹はスープをお椀に盛り付けてゆく。


 「…………」


 複雑な気持ちだ。

 描いていた光景を実現させたのに、悔いが残る。自分に失望しているはずなのに、温もりが全身を伝う。


 それでも、やっぱり自分が情けない。結局、お姉ちゃんらしく振る舞うことはできなかったのだから。


 「……」


 不意に朝の言葉を思い出す。妹は、いつもの姉が好きと言ってくれた。ならば、いま固めの野菜を口にしている彼女は無理をして微笑んでいるのではなく、きっと本心から……

 そう考えると、少しだけ楽になったような気がした。


 (いつもの私なりに、頑張れたかな)


 姉はスープをお椀に入れ、妹と同様、テーブルの席に着いた。







 次の朝は、雨だった。

 儀式を明後日に控えるこの日。明日は前夜祭があるため、実質的に今日が妹との最後の自由時間である。


 「あーあ、せっかくお姉ちゃんと散歩したかったのに。最後にしたの何年前だろ? 子供のときだよね」


 「家族四人で平原の方まで歩いて、布を敷いて……あ、手作りのお弁当? とか食べたっけ」


 「そそ。食事場で食べなきゃいけないんだけど、確か特別に許可もらったんよ。懐かしいわぁ」


 幼き日の情景に想いを馳せる二人。それは両親が存命だった頃の、幸せな思い出。あまり思い出さないようにはしてきたものの、今日くらいは良いだろうと、無意識に話を紡いでいった。

 生憎の天候に見舞われたのは残念だが、そんな日だからこそ、家で寛ぎながら思い出話に花を咲かせる。違う形で時間を大切にすれば良いのだ。しかしあまり湿っぽくなるのは避けたいため、両者とも頃合いを見て気を紛らすつもりではある。

 ……時間は思いのほか早く過ぎてゆく。姉妹の会話は、途切れることなく続いた。二人の心情は前向きで、悲観的になるどころか、むしろここで一生分話して、思い残すことがないようにしたい、という気持ちが強く表れていた。




 昼食を取ることすら忘れ、時刻はいつの間にやら"おやつどき"に差し掛かる。それに気付いたのは、小鳥の囀りを耳にしたからである。

 よーく耳を傾けると、朝の豪雨が嘘のように静まり返っていた。


 「雨、上がってるね」


 「これは……あたし達行けるのでは?」


 「……うん。ちょっと、許可貰ってくる……!」


 「いってらー。お姉ちゃん、こっちはしっかりにゅーねんに準備しとくから、急ぎすぎて転んだりしないでね」


 玄関のドアを開けた先は、雨上がりの空と、無数の雫できらめく平野が広がる。


 (ありがとう、集落の神さま。最後の思い出、大切にします)


 姉は集落の長に外出の許可を求めに行き、妹は秘蔵のお菓子を容器に詰め込む。姉妹は、突如訪れた僥倖に期待を膨らませてゆくのだった。







 「長の家は……ここだよね」


 集落に立ち並ぶ家屋の中でも、ひとまわり豪華で、威容を放つ建物があった。普段はあまりこの近くまで寄らないため自信がなかったが、さすがの姉でも一目見れば分かる。

 まさに、集落の管理者が住まうに相応しい場所であった。


 (…………)


 姉は入り口のドアを軽くノックする。


 (……?)


 しかし、反応は返ってこない。


 こんな時に限って留守かぁ、と落胆しかけたものの、このまま手ぶらで帰るのは癪だ。そのため、心の中では悪いと思いつつも、ドアに手の平を当て魔法陣を展開させた。

 家の内部、玄関側。ドアから生えた蔓が鍵を回し、開錠する。ガチャリと鳴った音を確認した後、姉はそっとドアノブに手をかけてみた。




 (…………開いた)


 ごくりと息を飲む。普通に考えて、前夜祭を翌日に控える今日に限って、長が家を開けている可能性は低い。現地の準備は集落の大人たちが行なっているのに対し、長と主落会の面々は、当日の段取り等に関する会議をしているはず。経験上、彼らの話は無駄に長く退屈なのだ。

 現地を手伝っている可能性も否定できないが、まずは家を見て回ろうと、姉は思ったのである。そして、喜ばしいことにその直感は正しかった。




 二階、ひときわ大きな部屋。

 老人たちのしゃがれた声が、響き渡っていた。


 (やっぱりなんか話し合ってるなー。ちょっと入りづらいわ)


 どうやら会議は滞りなく進んでいるようで、まるで談笑のようなペースで話し合いが行われていたのである。

 姉としては、珍しく活動的になっている彼らを妨げたくはない。そのため、会話の途切れる様子を見計うことにした。

 もちろん、その間は暇なので、悪いと反省しつつも聞き耳を立ててみるのであった。




 「避難した後の話ですが、西の地にて"商団"が仮拠点を用意しているんで、暫くはそこに住まうことになるでしょうな。商団とのコンタクトは前夜祭の最中。今のうちに荷を纏めて起きましょうや」


 「奴ら、というかあの手の連中は疑り深い上に平気でウソを吐くから嫌いじゃ! 不純物が土足で介入すること、我らが神が許す筈あるまい!」


 「長、我儘言わんで下さいや。連中はあくまで資金源。夢喰いのガスを餌にすりゃ、目の色を変えてすり寄ってくる欲深き獲物でさぁ。百年の安寧は、彼らのお陰で成り立っているんすから」


 「冗談じゃよ。不純物なんてとんでもない。むしろワシはよそ者を歓迎しとる。良質な葱を背負ってくるもの限定じゃが」


 避難、商団、夢喰い、資金源。

 一体何の話をしているのか、聞き耳を立てている姉にはさっぱりわからない。


 「......しかし此度の"御嫁様"は、かの男の次女か。集落に住まう女の中では一番若く、更には魔力の質も類を見ぬほど良質ときた」


 「因果なものじゃて。河の悪魔の怒りを買った船乗りの子孫が、決まって贄に……失敬。御嫁様に相応しい子を産んでしまう。これも、しきたりに背いた人間の末路。家系に刻み込まれた祟りじゃな。あぁ、恐ろしや」


 「じゃが、其れ即ち裏切り者ン家系が潰えんけりゃァ、集落ぁこの先何千年もの安寧が約束されることと同じ。なればこそ拠点にァわしらに加えて長女も連れて行き……ふふ、孕み袋として役立ってもらおうじゃねぇか」




 姉は唖然としていた。視点が定まらず、冷や汗が滲み出てくる。気付けば彼女は本来の目的などとうに忘れ、ただただ到底認められない現実に耳を傾け続けていた。


 衝撃で足が震える。


 妹の死は、集落のため。

 そう信じ続けて来たからギリギリ受け入れられたし、実際彼女の犠牲は集落を救うのだろう。


 だが、長は、集落の管理者たる彼らには、民には告げていない思惑を抱いていた。

 それは、己の保身。正確に述べるならば、己の一族の保身だ。百年に一度の周期でやって来る"夢喰い"なる魔獣は、良質な餌を食べながら、ガスを排出するらしい。用途は不明だがそのガスを欲しがる外の商団と、それを提供して莫大な金を得んとする主落会。


 (そして、私の一族は御嫁様を……いや、魔獣の餌を担うように定められていた?)


 なにが祝福の日か。なにが神への捧げ物か。

 全て、己の一族の繁栄と贅沢な暮らしを保証する為のこじ付けではないか。これが集落の、数千年に渡って行われてきた真実の歴史なのか。


 姉は正直なところ、後悔している。無理矢理に鍵をこじ開けた末に、決して聞いてはいけない話を聞いてしまったのだから。


 (それじゃあ妹は、私たちは何のために……?)


 この呪われた地を捨て、集落ごと別の場所に移り住むことも可能だった筈である。北へ行けば大国があるゆえ、移民として庇護してもらう選択肢もあったはずなのだ。

 だが、長はそれを選ばなかった。


 集落に住まう人々の命を魔獣に捧げ、己の利益を優先したのであった。






※※






 人の身体を貫く感触を、知った。

 大切な人を失う感覚を、思い出した。


 残念ながら、彼女の魔力は弱い。だから魔法ではなく包丁を握った。



 (気付くのが遅すぎた。私は、やっぱり何もできなかった)


 家に帰った後、妹に真実を告げず、散歩を諦め、一人で動いた。

 二階の書斎にて一族の手記を読み漁り、前夜祭の日。散々探し回った末に見つけた小船は、朽ちていた。少なくとも、自分の魔素量では動かせないことを知る。継続的な魔素の出力が、どうしても必要なのだ。


 絶望に苛まれるまま時は過ぎ、遂に祝福の日を迎える。もはや、儀式を止めるすべは無い。




 儀式が始まる直前、主落会の面々が姉を迎えに来た。

 妹の勇姿を見届けましょうぞ……などと綺麗な言葉を発しているが、それが心にも無い戯言であることはとうに知っている。


 集落から少しだけ歩いた、外の平野。緑の傾斜を登ったその場所は、数年前に家族と共に散歩をした……また、先日妹と散歩をしようとした場所である。


 「……」


 集落全体が見渡せるこの場所から眺める景色は、夕焼け空も相まって実に心を動かされるものであった。集落を襲う惨劇に目を瞑れば。


 「娘、よぉく見るがええ」


 一人の老人が、姉の両目に望遠の魔法をかけた。


 地面から生える幾つもの逆さ藤が巨大化し、人や家屋を吸い込んでゆく。花のように見えたそれは、この地の地下に潜んでいた魔獣の器官だったのかもしれない。


 祭壇の上では妹が身動きを取れない状態に置かれ……地面から現れた怪物の顔と思しきものと相対している。巨大な花弁が、吸い付くように四肢を拘束する。妹の目は焦点が合わず、ガスの催眠作用をもろに受けているように見えた。

 これから、彼女は少しずつ咀嚼されてゆくのだろう。そんな地獄を体験する事に比べたら、意識のない現状はせめてもの救いと言えるだろうか。


 ――あまりの残虐さに声も出ない。

 魔獣の生態も気味の悪いものだが、それ以上に、この光景を愉しげに観覧している老人達があまりに異常であった。




 「いやはや、これは愉快痛快ッ! 我らが神は、遂に地中深くから降臨なさったのじゃ。これで我が一族は莫大な資産を得ると同時に、百年の安寧が約束される。……御嫁様を全うしたシャオ嬢は、わしらの誇りじゃなぁ」


 長はそう呟くと、笑みを隠しきれないといった顔で姉を凝視した。

 一方で当の彼女は、煮えたぎる感情を抑えつけんとしている。怒りに任せて暴れたところで、相手は熟練の魔法使いが複数人。手痛い反撃を食らうのが目に見えている。


 「……ええ、本当に、姉として誇らしい……限りです」


 「優秀な妹に引け目を感じているならば、安心するがよい。お主もこれから集落の繁栄にとって欠かせない役割を担うんじゃからの」


 「……欠かせない、役割?」


 「わしら全員と、あとは大切な"お客人"がた。一人一人を相手に、集落の未来に向けて繁殖の役割を担って貰うのじゃ!」


 「…………」


 だから耐える。その時は必ず来るから。

 失うものなど、もはや残されてはいない。例えこの身体がどれほど穢されようとも、必ずここで断ち切ってみせる。

 呪われた因習を、汚れ切った歴史を、この手で終わらせるのだ。


 「……私には勿体ないほどの大役、喜ばしく思います」


 「…………つまらんのぉ。もっとこう、若娘の恐怖で引き攣った顔が見れると思ったんじゃが」


 「ははは、長ぁ相変わらず良い趣味しとるわ」


 「"喜ばしく思います"、ときたか。妹の劣化品である上、尻軽女とはな」


 「まあまあ、そう苛めるでない。この小娘も贄の娘も、わしらにとっちゃ大切な商売道具じゃ。与える負荷は最小限にした方がええ」


 老人たちは、各々が好き勝手に言葉を発し始める。

 姉は、黙してそれを浴び続けた。


 (……道具。この人たちは、私やシャオを人間として見ていない。シャオは彼らの欲望のままに使い潰された。あの子は、今日まで何をされ続けてきたのだろう。私の前では平気な顔で振る舞っていたけど、こんな異常な儀式の準備なんて、まともなわけがない)


 「さぁ、そろそろ見飽きたじゃろう。お客人を待たせる訳にはいかんから、向かうとするかのぉ」


 「……見飽きた?」


 ぽつりと発せられた姉の言葉を聞き流し、長は背を向けた。向かう先は西の地。一昨日盗み聞いた話によると、商団とやらの取引があるとのこと。


 他の老人達も、長に随行していった。




 ――


 姉は、長の背中を貫かんばかりに凝視した。そして、懐に忍ばせたものの柄を握りしめ、静かに、上半身を前に屈めながら、最低限の動作で彼の背後を歩く。


 右手で逆手持ち。左手は柄の先端に添える。

 足音を周囲から聞こえるそれに紛れ込ませ、尚且つ歩幅は広く。


 老人の背中に、じりじりと接近する。

 確実に仕留める事ができる、数寸の間合いまでじっと息を潜め……


 ――右足を踏み込む。




 一閃。月光が鈍く反射する、凶器の銀色。


 姉が取り出した包丁は、長の背中に突き立てられた。彼女の腕を、すぐさま生温い液体が伝う。

 その瞳に、もはや迷いの色など存在し得ない。そこにあるのは僅かな激情と、茫漠とした虚しさだけであった。


 人の身体を貫く感触を、知った。

 大切な人を失う感覚を、思い出した。


 (敵討ち……できたよ、私でも。シャオ、遠くへ行ってしまった私の大切な妹。すぐ、あなたの所へ行くからね。また、きっと四人で……)


 引き抜いた凶器を捨て、その場に座に込む。

 想定通り、周囲からは魔素が蠢き始めた。長を刺した曲者を目掛け、征伐の鉄槌(まほう)が一斉に放たれる。




 包丁を突き立てた瞬間に覚悟を決めていた姉は、ゆっくりと目を閉じた。……だが、身体に響く衝撃は、耳を殴らんばかりの轟音のみ。


 ――数秒経った後も、自分は生存していた。もちろん、意識ははっきりとしている。

 想定していたシナリオとは大きくズレた展開に、彼女は困惑していた。


 「わしが次代の長じゃ。富も土地も、全てわしが所有する」


 「儂が譲ると思うたか? この糞戯け共が!」


 「わしが長じゃ。わしに歯向かうものは、皆殺しじゃぁ!」




 見上げた先は、血みどろの諍い。

 そこで、姉はようやく気付いた。"自分が長に致命傷を与えるまでが、彼等の計画の内だった"ことに。


 (あぁ、私はどこまでも……)


 彼女は、眼前の殺し合いをぼんやりと眺める。

 覚悟も、怒りも、最初から決められていた舞台の筋書き。結局のところ、終始自分は集落の民であり、管理者の道具だったのだ。







 「言っておくが、わしを殺せるなどと思うなよ? 指の一つでも動きゃあお前などいつでも地獄送りにできらァ」


 「……」


 自害も不意打ちも逃走も封じられた姉は、この傷だらけの老人について行くしかなかった。主落会の醜い争いの結果、生き延びた男。これからは、この碌でもない男の言いなりになってしまうのだろう。


 (……)




 歩き続け、数十分ほどが経過したところ。

 夜の暗闇の中、何やら人工的な灯りが視界に入る。


 恐らくは、例の商団が居るという拠点だろう。集落を襲った魔獣が振り撒くガスと引き換えに、集落は莫大な資金を得る。もっとも、今となってはこの老人が一人勝ちしたようだが……依然、姉にとってはどうでも良いことであった。

 老人は獣のような笑みを浮かべながら、駆け足でそこに向かい始める。




 「……な、なんじゃあ? これは」


 ……何か想定外の事態が発生したのだろうか。老人は立ち止まり、これでもかと不満の込もった声を上げた。




 「…………お? 君はー、あ、言わんくていい。当ててやるよ。あー、うん、分かったわ。たぶんその顔を見るに、ガスの製造元の人だろ」


 「……なんじゃ貴様? この青二才が、ふざけおってからに……商団の連中は……コイツら死んどるンか? この惨状はいったい?」


 拠点の地面には、赤黒い染みが散開していた。横たわる無数の亡骸が、その意味を明確に示している。

 ただ一人、洒落た格好の好青年が、異様な存在感を纏ってこの場に居た。


 「クク、それにしてもおっさん、きったねぇ格好だな」


 青年が微笑んだほんの数秒後、彼の頭上に魔法陣が出現する。


 「糞ゴミが、舐めた口たたきおる。粉々に飛んでまえ」


 老人が怒気を放った瞬間、青年のいる場所に爆発的な魔力の渦が生じ――爆発した。


 「おいおい、この程度で怒るなよ口悪ぃなぁ。軽く揶揄っただけじゃんか」


 「………………な、ば、馬鹿な」


 老人の魔法は、早かった。恐らくは青年を一目見た瞬間、万が一に備えて魔法陣を描いていたのだろう。そして老人は確実に始末したと思い込んだ。姉でさえも、青年があまりに無防備であったから、殺されてしまったと思っていた。

 しかし、眼前には俄かに信じ難い状況が続く。老人が放った渾身の魔法が直撃したはずの青年は、何食わぬ顔でそこに立っていた。


 「残念ながら、君らの取引は()()()()だ。麻薬商人の皆さんは、このオレが全員粛清しちまいましたとさ。はい! めでたしめでたしー」


 「こ、この童めが……」


 「ははぁ、めっちゃ血ぃ上ってやんの。顔面火山岩かよまーじウケる」


 激昂する老人に対し、幼稚な挑発を繰り返す青年。怒りに任せた凶悪な魔法の数々が放たれるも、青年はそれら全てを飄々と受け流していった。




 「……糞餓鬼が、舐めくさりおって。わしは次代の長じゃぞ? この日よりこの地でわしに歯向かうことは誰にも許されんのじゃ!」


 「……確か、メナス河方面の集落って話だっけかな。はは、たかが()山の大将如きが威張ってんじゃねーよ。いいかよく聞けー? お前らの取引のせいで、うちの王サマたち超迷惑してんのよ。水面下でコソコソやるんは別にいいよ? よくないけど。でもさ、善良な国民に被害が出始めちゃぁ……黙ってられんよねって話」


 「…………国民? 貴様、もしや大国の……」


 老人の額に、汗が滲む。

 青年は笑いを堪えながら、歩み寄ってきた。


 「オムニス王国軍特務機関の……いちおう総司令をやってるオーディンだ。……その、なんだ。今なら見なかったことにしてやるから、ククク、とっととゴーホームしてもろて」


 「お、おのれ、魔女信仰の犬共めがァっ! 貴様らの愚かな王族の所為で、我が神は排斥され、一向に姿をお見せにならないのだ。終いには河の悪魔などというふざけた伝承まで語り継がれ……魔女も、それに隷属する貴様らも、みな地獄に……」


 眼球をこれでもかと血走らせながら、老人は青年に掴み掛かろうとする。しかし、手が青年の首に触れる寸前に、その動きは硬直した。

 老人の身体が崩れ落ち、地面に横たわる。


 青年は、右手を"デコピン"の形にしながら、哀れな男を見下ろしていた。


 「王サマがオリヴィアの犬だ? にわか野郎が暴走するとこんなに腹立つんだなぁ、初めて知ったぜ。それにうちは信教の自由を認めてる。てめぇの思い込みで難癖つけてんじゃねーよ」


 信じられない。この青年は、ただ指を弾いただけで人一人を殺してのけたのだ。魔力らしい気配すら感じない、無防備な人間。そんな男が、集落最強ともいえる術師を容易く――


 「んで、そこの君はあれか。もしかして、例の生贄的なやつ?」


 突然話しかけられ、姉はハッと顔を上げる。

 一応隠れているつもりだったが、案の定筒抜けであった。男の問い掛けに対し、彼女はぶるぶると首を横に振る。


 「あら違うの。……まーいいや。君、その目……真っ暗だね。なんか困ってることあるっしょ。一体どうしたの? 優しいお兄さんが話聞こうか?」


 じりじりと近寄ってくる青年。見た目は自分より少し年上の、清潔感のある美男子だ。状況が状況でなければ、きっと初めての恋に落ちていただろう……とさえ思うが、今は決して惚けている暇はない。

 青年からは明らかな圧を感じる。まるで獲物に牙を突き立てんとするような、恐ろしい圧だ。そこには下手に拒んだり嘘を吐いたところで、全て見透かされてしまうような恐ろしさが混じっていた。


 だから何一つ偽らずに、正直に伝えることにしたのである。


 「私は、生贄となってしまった妹のところに行きたいです」


 「……」


 それを聞いた青年は足を止めた。

 先ほどまで浮かべていたヘラヘラとしたニヤけ顔は、嘘のように消え去っている。


 「なるほど、ねぇ。うーん、なんとなく理解した。こりゃあ、うわ、なんつーか、ごめんな?」


 姉は、そんな彼の様子を気にも止めず、ただただ己の思いを吐き出す。


 「妹に会いたい。まだ、やれていないことが沢山ある。本当はこんな集落抜け出して、楽しい思い出を沢山……」


 「…………んー、諦めムードになんのはまだ早い。オレの予想だが、君の妹はギリ生きてると思うぜ」


 「……え」


 「ほら、コイツら怪しげなガス大事にしてたじゃん。ソレとある希少な魔獣の魔素なんだけど、ソイツは魔獣にしては珍しく、獲物の肉を喰わずに魔素だけを直接吸収するんだと。つまり、まあ獲物のオド次第だが、獲物が搾り取られるまでには何時間かの猶予があるんよ」


 「ほ、本当?」


 「ああ。オレは正直者だからな。……折角だし、助けに行こうぜ? 妹ちゃんを」


 青年は爽やかな笑みを浮かべながら、勝手に姉の手を取る。

 拒む気にはなれない。相手がどれだけ胡散臭くとも、希望の糸が目の前にあるならば掴まざるを得ないから。外の世界に出て、二人で自由に歩き回りたい。そんな幸せを描くことを許してほしい。

 姉にとってはそれが唯一の未来であり、今を進むための動力だった。







 青年と共に東に向かい、辿り着いた場所は集落があった土地の地下。人の気配が全く感じられない、ただの平野となった場所。

 青年は、「たぶんここじゃね?」と呟いた後、すぐに地下への道を探り当ててみせた。どのようにして探知したかは見当も付かないが、その位置は微かに記憶にある。


 (ここ、長の家があった場所……だよね)


 姉がぼうっと呆けていると、青年は地面に視線を下ろしながら言う。


 「んー、確かになんかいるな。いるんだが……」


 「……?」


 「まぁ、行ってみるとしますか。……ここ、ぶち破るが良いか?」


 「どうぞ。妹に当たらなければ」


 姉の言葉に頷くと、青年は右拳を強く握り締めた。

 そして――


 「よいしょ!」という掛け声を上げ、地面に叩き付けた。

 すると、ガラスが激しく割れるような音と共に、地面にヒビが入り……割れる。


 「今の、地下への……結界?」


 「そーそー。集落のお偉いさん、みんなに黙って何かを地下に隠してたってことだね。まあ、魔法で解くんじゃなくて物理的に壊しちまったけど……()()らずくで()()に入る。なんちって、ははは」


 「……」


 姉の冷めた視線に気付いた青年は少し寂しそうに肩を落としたが、すぐに真剣な表情に戻る。


 「えー……真面目な話するけど、この下は魔獣の巣になってるんよ。あ、例の魔獣はオレの気配にビビって逃げたから安心して。……そんで、巣穴は魔獣の催眠ガスに満ちてるから、オレは今から君に耐性上昇の魔法をかける。効果は大体十分前後だ。これまででなんか質問ある?」


 「……いえ、特には」


 「おーけー。んで問題はこっからだ。オレがここに来たのは、しょーみ気まぐれなんよ。だがオレには魔獣の巣に連れてかれた人たちを保護する義務がある。ここはうちの国の領土だからね、仲間に駆け付けてもらうさ。でも、魔素が尽きて衰弱してるような人は……正直助かるかは分からない。こっからオムニスまでは距離があるし、流石のオレでも複数人をまとめて転移させるような魔法は使えない」


 「……つまり、あなたが言いたいのは」


 「お、察したか。もしも妹ちゃんが衰弱してた場合、覚悟はしといてってこと。オレが二人を抱えて全力帰宅部すりゃどうにかなるけど、その場合は残った人々を見捨てなきゃならない。オレは忙しいし、またここに帰ってる暇なんかない、そもそもこれは任務外なんよ。集落の人々を選ぶか、妹一人を選ぶか。ああ、君はどちらを……」


 「迷うまでもありません。それより、シャオが……妹が手遅れになるといけないので早く」


 「……お、おん。そうね。そもそもそういう話だもんねー」


 集落の人間か、愛しい妹か。片方が助かり片方が棄てられる。まともな倫理観を持っている人間ならば、その選択は容易に出来るものではない。しかし今の姉にとっては、甚だ愚問であった。


 青年は姉を片手で抱え、地面に生じた亀裂の中へと飛び込む。

 恐らく、妹は衰弱状態にあるのだろう。御嫁様たる妹は、さながら魔獣にとってのメインディッシュ。最も美味な獲物であり、魔獣は妹を生かさず殺さず、執拗に咀嚼するに違いない。……無論根拠はない。推測というより、これは願望だ。


 ――だが、信じる他ない。妹は辛うじて生きており、この青年の手によって救われる、と。

 やがて二人で王国に住み、青年に恩を返しつつも、幸せに暮らす。そんな日常が、目の前にあった。







 「……………………」


 霧に包まれる洞穴。

 彼女は一人の少女の前でへたり込み、涙を流していた。


 濃霧の中、また小さく仄かな魔法の光を唯一の頼りとする中、最愛の家族を見つけることが出来たのは幸運だったのだろう。


 ――期待の反動は、大きかった。


 「…………大量の血痕、黒ずんだ傷跡。眠らされる直前に自死を選んだのか。……中途半端に喰われ続けるよりはマシ、と思ったんだね」


 「……………………」


 見紛うはずもない。いま膝の上で抱かれている少女は妹だ。しかし、彼女の肌は無機質のように冷たい。

 肩から胸の間には大きな穴が空いている。真っ黒な瞳は、光を通す余地もない。


 「…………」


 青年の心は、何一つ掴めない。傍で姉妹を見下ろす彼の表情は……色で例えるならば無色透明だ。

 ただ一つ確かなこととして、彼は静観を貫いていた。


 虚偽、戯け、達観、嘲笑。

 基本的に彼の他人に対する振る舞いは、およそ芯を持たないような、不真面目なものである。それは無関心というよりは、彼の立場やら経験やらで構築されたものが大半を占めている……つまりは、この不真面目こそが彼の精神性であり、たとえ相手が王だろうと民だろうと、彼が彼である限り、己を律することはまずあるまい。

 故に、彼がこうして己を抑えて見守ることは、非常に珍しい。


 逆に言えば、それ程までに眼前の少女の悲しみが深く、空気を伝って青年の心に響いたのだ。






 「……私、ここに残ります」


 不意に、姉はそう呟いた。


 「いいのかい? ガスで眠らされて……そのまま起きなかったら死ぬことになるけど」


 無論、承知の上だ。

 青年の言葉を聞いたからこそ、迷いなく頷ける。


 「そうか。……ごめんな、期待させちまって」


 「いいんです。最初からこうするつもりでしたから。生きてる人たちを、よろしくお願いしますね」


 そう告げると、少女は妹の手を取り横たわった。

 青年はそれを聞き届け、暫く何かを考えた後、二人から離れんと背を向ける。


 「最後に少し、お願いを聞いてくれますか」


 「……? 言ってみ」


 少女は目を薄めながら、亡骸となった妹の顔にそっと触れた。


 「私に魔力を分けてください。最後に、叶えたいことができました」


 「……」


 青年は何も言わずに手をかざし、少女の言う通りに魔力を渡す。少女のオドが破裂しない程度の、彼女が扱える限界の量を。


 途端、姉妹の横たわる地面に、大きな魔法陣が出現した。


 魔法陣は眩い輝きを放ちながら、洞穴中を暖かく照らしてゆく。


 (私の夢。シャオの願い。私たちは、ずっと……)


 魔法陣に魔力が流れ、魔法が起動する。

 その直後、姉妹の周囲に一面の花が咲き始めた。


 色とりどりに咲くそれらは、魔力によって作られた仮初の花々。あと数分もすれば魔素として分解され、空気中に散ってしまうだろうが、それでも、この瞬間だけ咲く彼女の"植物魔法"は二人の姿を何よりも明るく、暖かく照らしていた。







 「せめて、一秒でも早く妹ちゃんに会えるように。途中で悪夢に囚われることのないように。見送りは、オレが引き受けよう」


 幻想の花園が霧散した後も、青年はその場に立っていた。再び魔獣が寄り付かぬように、二人の最期を静かに見守っていた。


 それは、()から百年前の出来事。

 霧に満ちた静かな洞穴で、姉妹は息を引き取った。






※※※






 (……私は…………)


 ふわふわと、意識が宙に浮かんでいる。


 (そうか。きっとここは……)


 目の前には、いつの間にやら見慣れない生き物が膝を抱えていた。


 (なぜ、泣いているの?)


 生き物はこちらに目を向けるも、何かを答えるでもなく、涙を流し続けている。


 (……何となくだけど、分かる。あなたの目は妹と全く同じ。助けてほしい、終わらせてほしい。あなたはそう訴えているんだね)


 直感だが、この生き物の正体は〇〇〇なのだろう。集落に生きる人間ならば、分からないはずがない。


 (私に出来ることは、置き土産を残すことだけ。私の記憶、想い、使えるなら全部使ってほしい。あなたを想う未来の誰かに、繋いであげて。神様ならできるでしょ)


 そう言うと、今度こそ眠りにつかんと目を閉ざす。


 ――自分でも少々ドライ気味だったかと思うが、問題あるまい。知らず知らずのうちに、自分の中身が相手に流れてゆくような感覚があったからだ。


 眠りに就こうとするなか、流れる想いの中にある感情が引っかかっていることを感じ取った。


 やはり、この後悔は簡単には拭えない。

 最後の最後まで、叶わなかった唯一の望み。




 (お姉ちゃんらしいところ、見せたかったな)




 想いの奔流は、やがてその悔いごと押し流す。

 外から聞こえる、大河のせせらぎに乗って。

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