69話 魔女の淫眠Ⅲ
※専門用語が大量発生しておりますので、補足として書かせていただきます。
魔素 : 世界に漂う不思議な物質。魔法の源。
オド : MPのようなもの。
魔力 : 力や魔法攻撃力、守備力等を総括したステータスのようなもの。(オーラや気みたいな認識)
魔法 : 魔素と意志を用いて引き起こす現象。魂が魔素に語りかける......と術者の間で表現されるように、失敗すれば最悪の場合肉体と魂が切り離されてしまう。
淵起 : えんき。その人物特有の魔法。ユニークスキル的なもの。
夢喰い : 睡眠作用のある魔素を振り撒く、肉食じゃない魔獣。自身の魔素と土地の魔素を混ぜて仮想空間を作り出し、捕食対象の魔素と意識をそこに誘い、空間ごと食べる。それを獲物の魔素が尽きるまで繰り返す。
ナズナ : 繰り返される夢のなか、唯一記憶を引き継げる魔法使い。無尽蔵のオドを持ち、且つ淵起を除くあらゆる魔法を、一度見るだけで再現できる。魔力が低いことが欠点。延々と繰り返しを経験し、死によって分泌される脳内物質の虜になってしまった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
心地良い風が肌を撫でる。
穏やかな日差しと、草花のにおい。緑の平野の上に、少女は横たわっていた。
雲の流れは緩やかで、空は相変わらず綺麗な青色だ。遥か上空からは、この地はどのように見えているのだろう。
平野は一面の緑。河は透き通った青色。集落には、逆さ藤と呼ばれる薄紫の花が咲き溢れている。
違う。一面の緑も、透き通るような青も、素敵な花々も、全て偽りである。ここは灰色の荒野。魔獣が生み出した霧に包まれた、自然の亡骸なのだ。
(…………)
少女は無言で、横たわったまま空に片手をかざす。
(……)
途端、上空を覆い尽くすほどの、巨大な血色の魔法陣が浮かび上がった。青空を侵食せんと言わんばかりの不気味な紋様と文字の羅列は、ローグリンを一夜にして滅亡へ導いたという魔法と、特徴が類似している。
空に睨まれたと形容すべきか。この、あまりに現実味のない天穹の有様を見てしまえば、地上に住まう生命はみな、逃れようのない劫末の襲来を予感するに違いない。
……かの公国の人々きっと、絶望に囚われたまま最期を迎えたのだろう。
(……)
少女の身体から発せられた魔力が、巨大な魔法陣を脈動させる。
身に余る悦楽を幾度なく浴び、脳に刻み込んでしまった少女の精神は、恐らく人の領域には戻れない。躊躇いも罪悪も感じず、より深い悦びを得るためだけに手を掲げ……
(…………)
魔法が発動し、地上は光の柱に包まれた。
※※
目覚め。
また手を掲げ、空を血に染める。
無慈悲な魔法が、また作動する。
※※
目覚め。
再び手を動かし、目の前を赤く染める。
何も考えず、繰り返すだけ。
※※
目覚め。
目の前が、赤くそまる。
身も心も恍惚として、何もかもが分からなくなった。
※※
目覚め。
すべてが、赤くなる。
※※※
ふわりふわりと、流れている。
舵手のいない遊覧船? それとも吊るされた揺籠?
自分もその周囲も、何もわからない。包みこまれるような幸福感だけを、延々と認識し続けている。
不意に、何かがピリッと響いた。
吸い込まれるようにして意識を傾けると、何かが頭の中に入り込んでくるような感覚を得る。しかし、不思議と不快感はない。
――声?
耳鳴りが羽虫のように飛び交う中、聴覚が確かに反応した。何かが、意志の込もった音の信号を発している。信号は徐々に言語化されてゆき、段々と意味を持ち始めた。
「この地を……ずれし旅人。も……や残り時……僅かとな……した」
言葉の合間には虫に喰われたようにノイズが走り、はっきりとは聞こえない。だが、自分に訴えんとしている内容の推察はできる。
「しかし、まだ……性は潰え…………残された……を使い、貴女に……を託します。どうか……地の……を、終わら」
言葉はそこで途切れた。明らかに話の途中であり、強制的に遮断されたかのようにも思えるが……
それにしても、どうにもか細く、感情の読み取れない音であった。
音は安らぎを取り上げるアラームのように、揺蕩う少女の意識を再び呼び起こす。
※※
心地良い風が肌を撫でる。
穏やかな日差しと、草花のにおい。緑の平野の上に、少女は横たわっていた。
(……また、目覚めてしまいましたか。……あの変な声のせいですかね)
安眠を妨げられたようで、気分は最悪だ。
起床の際、直前に見た夢の記憶が残っていることがある。少女はそれに似通ったものを感じているのだが、眠りが心地良かっただけに、残念で仕方がない。
(何かを託す……でしたっけ? ……変な夢でした)
せっかく良い気分だったのに……と、苛立ちを募らせるなか、突然集落の方向から人の気配を感じ取った。
気配は一つ。敵意はなく魔力もさほど感じないため、取るに足らない相手であることは確かだ。少女は逆立つ感情を抑え、そこに虚な目線を送る。
「…………?」
平野の傾斜を上ってきたのは、見覚えのある少年だった。彼の栗色の髪も、腑抜けた面も、何処かで見たような気がするが……
ぼうっと呆けているうちに、例の少年と目が合った。少女は怪訝そうな表情で、彼を凝視し始める。
「……な、ナズナ? ナズナ…………なのか?」
彼は、そう恐る恐る尋ねてきた。
しかし、少女には彼の言葉の意味がわからない。
(ナズナ……? なんです、それは? 私は……)
彼の言葉に対する疑問を頭上に展開。そしてしばらく考え込む。
(そ、そうです。私はナズナ。ナズナ・ナハトという名前でした)
彼の言葉の意味が分かり、安堵したのも束の間。いま自分が行った一連の思考に、少女は背筋を冷やした。あろうことか、彼女は己の名を呼ばれても、それをすぐには認識できなかったのである。
(な、なんでですかね。自分の名前を忘れてた? そんなわけないんですけど)
きっと長い間快楽に溺れていた反動だろうかと一人納得する彼女であったが、また新たな疑問が湧き出たことに気付く。
(……では、彼はなんなんでしょう? なんか、凄く重要な人だった気がするんですが…………あれ、なんでだろう。本当に思い出せない……?)
少年に近寄り、顔をじっと見つめた。
それでも少女の脳内に変化はない。誰かはわからないが……何故だろう。わからないことが、胸にトゲが刺さるような痛みを植え付けるのだ。
(ど、どうしてしまったんでしょう私。なんか、何故だか、とても……)
少女は困惑していた。先ほどまで冷め切っていた双眸から、涙がとめどなく溢れてくる。喉がカラカラと渇いてゆく。理由はわからないが、奥底から悲しみが膨らんでゆくのだ。
心の部屋に残るのは、まるで大切なものが棄てられてしまったような、幼心と喪失感が作り出す空洞。弾け飛びそうな悲壮が、部屋の隙間を埋めるが如く膨張していった。
そんな哀れな少女を見つめる少年は、かける言葉を失ってしまったようであった。
※
「…………」
日差しが眩しいため、傾斜を下りて集落の方向に足を進める。その後はあまり動く気にもなれず、適当な日陰を見つけた後、腰を下ろして暫くじっとしていた。
"栗色髪の旅人"は何も言わず、少女の隣に座している。少女としても、嫌な気はしない。理由は不明だが、どこか気分が落ち着いてくるから。
「……」
「……ごめん。今まで、本当に」
「なんのことですか」
「たくさん無理をさせたし、怖い思いもたくさんさせた。終いには一人にさせて……こうなったのも全部、全部俺のせいだから」
少女は首を傾げる。やはり、全く心当たりがない。この少年は、あろうことか自分に対して非道いことをしてきたと言う。
だが、どうも腑に落ちない。本当に彼の言うような事をされてきたならば、多少なりとも本能的な嫌悪感は感じるはずで……少なくとも、側にいて落ち着くといった心情にはならないのではないかと、少女は考える。
「ごめんなさい、覚えてません。記憶を捨ててしまったようなので。どうせ私は"栗色髪の旅人"さんのことは何もおもいだせないので……あなたが気に病むことはありません」
「…………っ! そうか、ナズナも記憶が……」
少女の言葉を受けた少年は、沈んだ表情をより重くした。少女とて、慰めるつもりはなくとも責めた覚えもない。どうやらこの少年は、必要以上に自分を責め立てているようだ。彼がどこの誰とも分からぬ少女からすれば勝手に沈んでろと言いたいが、何故だか放っておくのは後味が悪いように感じてしまう。
「"栗色髪の旅人"さん、あなたと私はどんな関係だったんですか? 話していただければ、私も何か思い出すかもしれません」
「……あ、ああ。そう……かもな」
少女の提案に"栗色髪の旅人"は肯定の意思を示す。
彼は少女に促された通り、自身の旅の目的と少女との出会いを語ろうとした。しかし、間もなく彼の様子に異変が訪れる。
「な、何故だろう。メナス河を渡らなきゃいけないことは覚えてるのに……動機が全く思い出せない。俺はナズナと出会って、盗賊団にあって、ローグリン公国に行ってそれから…………そもそも、俺はどこでナズナと出会ったんだ。なぜ、俺たちは旅をしている?」
「え、あなたも記憶そーしつですかぁ?」
「い、いや、そんなはずはない。そんなはず……」
彼は眉を顰めると、片手で頭を抱え、目線を下げた。対する少女は憐憫の視線を送るが、内に抱くのは今までのような蔑みの感情だけではない。同病相憐れむという言葉があるように、この悩める少年に対して親近感を感じ始めたのだ。
それはきっと、自分と少年が何かしらの関わりを持っているから。
少女はふと、自身の内面――思考の変化に戸惑いを感じる。
(おかしいですね。私はただ、楽になれればそれでいいのに。今すぐにでも、あの魔法をぶっ放せば良いのに……なぜそうしたくないって思うのでしょう? この人は、いったい誰なんです?)
人通りの少ない場所。日差しが鬱陶しいから、集落の家屋を背中に、日陰の中で羽を休めることにした二人。だが吹き抜ける風は、想像したよりも冷たかった。
いつも通り魔法を発動すれば、いつものように楽になれるだろう。にも関わらず、今は失われた記憶への切望がそれを妨げる。
彼女は迷える旅人のように、あるいは心に空いた隙間を埋める何かを探しながら、思考の巡りの中でぐるぐると彷徨っていた。
※
"栗色髪の旅人"は少女に声をかけ、姉妹の家に行こうと提案した。彼の言う姉妹は、どうやら自分たちの恩人らしいから、一先ずはそこで考えを練りたいとのことだ。気休めだが、落ち着ける場所に行けば、ふと記憶が降りてくるかもしれない。少女としても、否定する理由は無かった。
「……お邪魔します」
生憎、家主は留守だった。"栗色髪の旅人"は若干腰を低くしながら居間へと進む。彼の話によれば、恩人である家主にさえも迷惑をかけてしまったようで、何をおいても先に謝罪したいのだそう。
「……人、居ますよ? 二階に」
肩を強張らせている彼に、少女はそっと声をかける。幾度も繰り返しを経験する中で魔力への感覚が研ぎ澄まされていったゆえ、微弱な魔素の流れを感じ取れば、人の気配程度であれば容易に察知できるのだ。
"栗色髪の旅人"はハッと息を飲むと、一瞬だけ天井に目を向けた。
「あぁ、ほら。彼女は一緒に旅をしてる……えっと」
「私たちの仲間ですか」
見るからに堅物で慎重派な彼だが、特定の事柄が絡むと途端にわかりやすくなる。
そんなに他人が大事なのだろうか。少女は素直に羨ましいとも、おめでたい人だとも感じる。それとも、仲間――親しい友人とは、考えるだけで表情が緩んでしまうような、かけがえのない存在なのだろうか。
(私は大切なことを、忘れている。あなた……あなた達は、私にとって"そういう存在"なのでしょうか?)
少女の瞳は、少年の傍に在りし日の空想を映し出す。彼らと過ごす自分はどんな表情をしているのだろうか。彼らと共に旅をすることで、何を手に入れ、学び、思い出として記すのだろう。
(取り戻さなければ、いけないような気がしてきました。彼らとの時間が死の心地よさに勝るとは思いませんが、それでも私の気持ちは……)
少年を置いて居間を出ると、少女は二階へと上がっていった。
※
――例えば、桜色髪の旅人。
彼女も、栗色髪の旅人と同じく少女の旅の仲間である。しかし、その姿からは生気が感じられず、まるで今にも消えてしまいそうであった。
カーテンの隙間から光が僅かに洩れる、薄暗い部屋。
布が張られた木製のベッドの上にて、彼女は上半身を起こし、少女の姿を見つめている。
「ナズナ、受け応えできるようになったんだね」
部屋に入るなり軽く挨拶をしたら、こんな言葉が返ってきた。どういう意味かと問うたら、
「怖い人たちと戦って、なんか意識不明になってた」
とのこと。
少女は首を傾げるが、数秒考えた後、今は置いておくことにした。自分のことよりも、桜色髪の彼女自身のことや、旅のことを聞きたいと思ったためである。
「もしかして記憶がないの? ……羨ましいな。ウチもできる事なら全部忘れて、楽になりたい」
だが彼女の語った内容は、少女の想像したものとは大きく乖離していた。
ローグリンという地の悲劇。幻覚に惑わされ、多くの人間を殺めてしまったこと。精神が苛まれるなか、唯一の支えであった人を失ったこと。そして、今も殺めてしまった人々の声や視線を感じること。
てっきり物見遊山が語られるかと思ったが、彼女の怯えた様子を間近で見るに、自分は少々楽観的になり過ぎていたらしい。悦楽の存在する余地すらない、無慈悲な旅。この様では、自分の仲間と謳う彼らの話を聞く価値は無いのでは、とすら考えてしまう。
――沈黙が重く、居心地が悪い。
さっさと魔法を放って再び心地良い眠りに就こうかと、少女は桜色髪の彼女に背を向け、すたすたと歩き始めた。
「…………っ」
だが、扉に手を掛けようとしたすんでの所で、思い止まる。
(なんででしょう、放ってはおけない。放っておいたら、彼女はきっと…………いや、彼女はおろか、私にとっても……)
説明の出来かねる、予感めいたもの。第六感というものだろうか。
栗色髪の旅人にも感じたことだが、やはりこの人達は自分にとって特別で、蔑ろにできない何かをひしひしと感じる。腐っても安直な判断で手放してはいけないと、心の奥底で警報が鳴るのだ。
よって手近な欲は一旦横に置き、今度はしっかり話を聞こうと心に決め、振り返った。
途端に、少女は驚愕に表情を歪める。
「…………ひっ」
ベッドに視線を向けた少女の口から、微かな悲鳴が溢れた。
眼前に広がる異常。
つい先ほどまで会話をしていた桜色髪の旅人の顔が、消失していたのだ。
何故かと冷静に考察する間もなく、理解の範疇を超えた一瞬の出来事を目撃した少女は、反射的に部屋を飛び出した。
※
――例えば、黒髪の旅人。
彼も旅の仲間らしいが、暫く観察した印象では、語ることはそう多くないように感じる。
少女が階段を降りたとき、彼は栗色髪の旅人と談笑していた。どうやら少女が二階に向かった際、入れ違いになってしまったようだ。
「な、ぬわずなちゃっ!? いつの間にっ!?」
「……悪い、説明が遅れた。俺が集落の外に出たときに会ったんだ。その後は……その、暫く日陰で休んでて」
「なんじゃそりゃ。僕ぁね、なかなか戻らない君のことが心配になって探し回ってたんだぞ。まぁ、ナズナちゃんを見つけられたのは良かったけどさ!」
「……ごめん。早く食事場に戻れば良かったよ」
少女は二人の会話を無言で聞く。黒髪の旅人からは、なぜか自分に対して気を遣っているような一面が見受けられた。少しうるさいが悪い人ではなさそうだと、少女は漠然と感じ取ったのである。
(…………)
やはり、違和感はどうしても目に留まる。
先の桜色髪の彼女の件を経て、より一層意識せざるを得ない。
黒髪の少年もまた、両手の指先が消えかかっていたのだ。
※
外の空気を吸いに行く……などと適当な理由を付け、少女は玄関の扉を開けた。
まるっきり嘘を吐いたわけではなく、気分転換が必要と考えたためだ。現状を整理するには、まずは環境を変えて冷静にならねばならない。家の壁に寄りかかり、深呼吸をひとつ。
(この場所は"夢喰い"という魔獣の魔素と、土地の魔素? が組み合わさって作られた場所です。この"夢"の中に私たちの魔力をまぜることにより、私たちはなぜか仮想の意識をもってここに現れている。……と繰り返しで得た知識は、都合良く覚えてるんですよね。ってことは私の仲間の記憶は、あくまで現実の存在だから忘れてしまっているってことなんでしょーか。よくわかりませんが)
意識の顕現においては謎だが、そこは魔獣の性質と言い切るしかあるまい。
未だ不明瞭な箇所が幾つかある一方で、少女は自身を取り巻く状況に対する推測を立て始める。その状況とは即ち、繰り返しの現象に関する事柄だ。
(繰り返しのなぞについては、だいたい分かってきました。"夢喰い"は夢のなかに獲物の魔力を混ぜますが、私のオド量はほぼ無限なので、吸いとられる魔素量は私にとって微々たる量。だから、魔素の回復に必死なかれらとは異なり、余裕を持てあました私だけが記憶の引き継ぎといった現象に見舞われるのでしょう)
――要するに、"体内魔素使役可能量"の違いという結論に至ったのだ。
魔力の摂取は、言うなれば魔獣の食事である。つまり、繰り返し自体は栗色髪の彼や、他の仲間たちの身にも起きているのだろう。少女だけが記憶を引き継げるのは、彼女の保有者する魔素量にとって、魔獣に摂取される魔素量は極々僅かな量でしかないから。
魔素がごっそり減れば、人間の体はそれを修復すべく空気中の魔素を取り込もうとする。少女はそれを行う必要がないので、夢喰いの生成する魔素(空気中に散りばめられた、睡眠作用を含むもの)すら微々たる量の摂取で済む。それが想定外の不具合となって、繰り返し現象を引き起こしているのだ。
(つまり、ですよ。いま彼らの身体の一部が消えかけているのは、現実の体の魔素量が残りわずかだということ。少ない魔素量では、きおくや身体のパーツを構成し切れないのでしょう)
桜色髪の旅人も、黒髪の旅人も、身体のどこかが透明化しているだけであり、生命活動は続けている状況だ。更には、彼らは己の異変に気付くことができないと見た。
少女は背後にチラリと目をやり、眉を寄せる。
(魔素が無くなれば、人間は死にます。万が一なくなっても供給を間に合わせればよいのですが、おそらく魔獣が近くにいて、眠らされている以上むりです)
したがって、彼女の取るべき行動は――
(たぶん、あと一、ニ回の繰り返しで私の仲間は死ぬでしょう。彼らを助けるにはなんとか繰り返しから脱出し、現実の"夢喰い"を倒さなければならない……ほんとに、やる価値はあるのでしょうか? 無限の快楽と引き換えに、彼らを助けて無慈悲なせかいを生きる……?)
少女に、選択の時が迫る。
運命の境目は、傍らに。
※
その日の夜。
家主の一人である"妹"が帰宅した。彼女は三人の旅人を一瞥するなり、無愛想な態度で言い放つ。
「夕飯作るけど、ぼーっとしてないで手伝ってよね。……はぁ、本当なら今日はお姉ちゃんが作る日なのになぁ」
"妹"は感情を前面に出し、ふらふらと台所に向かう。突然の指令に男ふたりが目を合わせるなか、少女は黙って重たい腰を上げた。
「あ、金髪の旅人さん? お姉ちゃんが、カハンリンの前で待ってるって言ってたよー。ここは三人でやるから、先に行っといでー」
「…………え、私たちまだ初対面ですよね。どうして?」
「……さあ?」
今回の繰り返しでは、少女はまだ"姉"と接触していない。では、どのようにして少女の存在を知り得たのだろうか。
(……考えても仕方ない。行ってみますか。万が一殺されそうになっても勝てますし、危険はないでしょう)
こうして少女は一人、家を出て河沿いを南に歩き、"姉"の待つ河畔林へと歩みを進めるのであった。
※
「来たのね。旅人さん」
「一人でこんなところに呼び出した理由はなんです? さすがの私でも見当もつきません」
「ふふ、確かに私から接触するのは後にも先にも今回限りですからね。今までになかったパターンで困惑しているのでしょう。驚いた?」
河畔林の入り口付近。眼前にて微笑む"姉"を睨む少女は、即座に疑問を吹っ掛けるが……少し遅れて違和感に気付くと、怪訝な表情を浮かべた。
「魔素が……いえ、あなたの体はいったい?」
「流石ね。鋭くて助かるわ。私は……あの子の姿を模してるけど、本質はまったく別。これが最後のチャンスになりそうだから、最期の力を振り絞って、助けを求めにやってきたわ」
"姉"を模したものは、どこか他人事のように語りかけた。口調や姿は少女の知る"姉"と同じだが、纏う雰囲気は全く異なる。意識しなければ存在を感じることが出来ないような、空っぽの器と形容すべき何かがそこにあった。
先刻に引き続き理解不能な状況が重なるも、眼前の存在の正体に関しては、少なくとも解けない謎ではないと感じた。魔素の流れを正確に捉える少女はゆっくりと、その解を口に出す。
「……もしかして、あなたはこの土地そのもの……夢の材料となった土地の魔素が、私に語りかけているのですか」
「ふふふ、ほぼ正解ね。私はこの地に残された魔素の集合体。土着神のようなものだと思っていいわ」
「どちゃくしん……え、かみさまですか!?」
「せっかくだからメナスちゃんって呼んでほしいわ。誰かと会話するのは数万年ぶりなの」
少女は開いた口が塞がらない。
確かに、信じざるを得ない。目の前に居る存在は、擬似的なものであれど、紛れもなく神に等しいものなのだ。
はっきりと言語化できるような根拠はない。しかし、彼女の本能が、魔素感知の神経が、相手を上位存在であると認めているのである。
魔素と対話できるという現象自体は、なんら突飛なことではない。何故ならば、魔法という現象がそもそも魔素との対話であり、日常的なものだからだ。だが、それは言葉を通す余地のない、意志による対話。本来であれば、魂と魔素の間でしか生じ得ない筈である。
しかし魔素によって創られたこの場所において、構成要素である土地の魔素がある程度の権能を所有しているのは自然だ。よって、人の姿を取って顕現し、会話の真似事をすることも、理論上は可能なのだ。
少女も、旅人も、集落の人々も、ここでは肉体を持たぬ魔素の塊でしかないのだから。
「め、メナスさま、ですか。……私に伝えたいことは何となく、わかります。夢喰いがこの地を汚染し、荒野へと変えた。なので、そいつをやっつけてほしいんでしょう」
「……"さま"じゃなくて"ちゃん"でよろしくね。端的に言えばその通りよ。夢喰いによって齎された悲劇を、もう終わりにしてほしい。いまのあなたならきっと可能だわ」
「そりゃ、元の自然ゆたかな大地を取り戻したいですよねぇ。いつまでもボロボロだったら嫌ですし」
少女はあえて、知ったような口を利いてみる。
この余裕ぶった偉大な神が、自分に対して感情を露わにする様を拝みたくなったのだ。
その一方で、此度の邂逅には、少女が夢の脱出を目指すか、若しくは中に留まるかどうかの決断を固める要素があると感じた。少女は土地の浮き沈みなどには微塵も興味がないゆえ、頼みを聞くことへの価値を見定めるべく揺さぶりをかけているのである。
「え、違うわ? 私はあなたと話すために、殆ど全ての魔素を使って夢喰いの領域にむりやり介入した。だからここ一帯はもう蘇らないし、腐って朽ち果てるだけなのよ。もちろん、私の中に住んでくれた人々の無念を晴らしてほしいのもあるけど……ここままだと、夢喰いはますます成長して、魔素の霧はどんどん広がっていくわ。放っておけばやがて、大陸全土で被害が多発するかもしれない。これは大陸からのお願いでもあるのよ」
「……そうですか。"たいりく"があぶない、つまり世界があぶないのですか。でも残念です。私にとって、現実がどうなろうが知ったことじゃありません。私の仲間だという女の子から聞きましたけど、この世界はとっても無慈悲なんです。そんな世界に売った恩を、また仇で返されでもしたら、私は確実に、とっても後悔します」
「今のあなたならそう言うと思ったわ。なので、とっておきを使うことにします。あなたの失った記憶を、ぜんぶ修復してあげましょう。ついでに、この土地で起こった悲劇も少しだけ伝えましょう。私という土地の魔素、全てを賭けてね」
土着神を名乗るものは悪戯っぽく微笑むと、少女に向けて手をかざす。
すると、周囲の景色が徐々に歪みはじめた。
(空間が歪むほどの魔力……? いえ、これは恐らく、夢喰いの世界に魔力を大量に流したことによる、瞬間的な崩壊ですか……?)
少女はじっと歪む景色に目を向けているが、彼女の体にも次第に変化が訪れ始める。
(……頭が痛い。あの女、本当に……? 私への嫌がらせじゃ……っ、ないですよねぇ!?)
突如襲い来た頭痛に悶えるも、それはほんの一瞬の苦痛。少女の身体は支えを失ったように崩れ落ち、意識も何処かへと飛んでいってしまった。
「邪淫に堕ちてしまった、とっても可哀想な子。そろそろ目覚めるときよ。溺れるように淫ってしまった眠りから――ね?」




