66話 黒刻レリアンス
「目が覚めたか。……それにしても、気絶するとは思いもしなかったが」
「ゆ、ゆ、幽霊さん!?」
「あくまで勝手な解釈だと言ったはずだが」
突然のカミングアウトを受け、衝撃のあまり意識を失ったナズナ。さざなみの音が耳に流れ込み、河辺にて目を覚ました彼女だったが……最初に映り込んだものは、自分を気絶させた(勝手に気を失っただけだが)張本人だった。
(…………)
強張った面持ちで、じっと男を見続けるナズナ。まるて、凶暴な魔獣と相対しているかのようである。
「そう警戒するな。こっちが落ち着かん」
「おば……お化け…………」
「危害を与える気はない。怖いならば今すぐ帰ることだ」
落ち着けと諭そうにも、彼女はまるで聞く耳を持たない様子だった。段々と蒼ざめてゆく顔色に、小刻みに振動する手足。見かねた剣士は適当な大きさの石に腰掛け、そのまま目を閉じる。
「い、い、いやいやいや。そんなわけな、ないですよ。そんなことじゃ私は帰らないですし! ど、どうして自分が幽霊さんだと思ってるんですか!?」
「……思い出したんだ。私は魔獣の討伐のためこの地に足を踏み入れたが、敢えなく敗れてしまった。奴の瘴気に当てられ、身体が朽ち果ててゆくような感覚。私は、本来であれば生きている筈がないのだ」
「………………」
「よく思い出してみろ。ここは、波の音と枯れた大地のみが虚しく広がる荒地。魔獣は今も、捕食を続けているに違いない。……この地には既に、集落など無いのだから」
冷えた男の声の中に、紅蓮の色が走る。だがナズナにとって、その内容は理解しかねるものだ。現に集落の中に居るのだから、この男は何をもってそのような発言をしたのだろうか。
幽霊は存在だけでなく、発する言葉も支離滅裂で、曖昧なのだろうか。彼女の頭の中には、恐怖と困惑が入り混じっていた。
「あれち? 魔獣? ……集落は無い? わけわかんないこと言わ……」
「ここの住人を見て、君はどう感じた? ……何も感じぬと言うならば、君が最初にここを訪れたときの景色を思い出してみろ。自ずと解は導き出される筈だ」
「…………あぁぁ、何が言いたいのか全然分かんないです! …………えっと、私いまからおとなしくなるので、もっと分かりやすく説明してもらっていいですか?」
幽霊を自称する男の言葉は、不可解なものを繋ぎ合わせたような羅列であった。集落の住人をどう感じるかと言われても、彼らは至って普通の人間とかわりない。今でこそ、繰り返しのなかで感じ取れた過激な思想や行動が目立つぶん良い印象はないが、それだけである。
集落を訪れた時の記憶は曖昧だ。ウィルやニケ達も同様、霧に包まれたように、思い返すことができないと言っていた。ナズナは当時おかしな容態にあったから、一層そのように感じてしまう。
よって、ナズナはもろもろを諦めることにし、傾聴、可能であれば受容を心がけることにしたのだ。
「私がいちいち説明してやる義理はないのだが……まぁそうしてくれると助かる。であれば、私もなるべく簡潔に話そう。入り組んだ問い掛けは不得手と見たからね」
「……ばかにされた気がしますが、良いでしょう。簡単に、はっきりとたのみます」
男は静かに息を吐くと、目を薄めながら視線を地に落とす。
「君たちは今、とある魔獣の罠に嵌っている。言い換えれば、既に魔獣の腹の中に居ると言ってもいい」
「…………つっこみませんよ。はやく続きを」
吹き抜けた風が肌を撫で、髪を靡かせる。
河の匂いは、確かに鼻腔へと運び込まれた。
「……奴の名は"夢喰い"。人間に夢を見せ、魔素を喰らう怪物だ。私が挑み、そして敗れた魔獣さ」
「……ゆめくい?」
「奴は人間の肉を好まぬから、睡眠効果のある瘴気を振り撒き、獲物の意識と体内魔素を"夢"に誘い……枯渇するまでそれを食す」
「つ、つまり、私たちはいま夢を見せられていて、現実のからだはお食事されてる最中ってことですかぁ!?」
血相を変えて、男から飛び退くように後ずさるナズナ。男の表情は思いのほか真剣で、冗談を言っているようには見えない。
魔獣の瘴気によって分離してしまった、現実の身体とこの体。これが真実ならば、一刻も早く夢から醒めなければならない。やがて現実の身体は魔素を吸い尽くされ、死を迎えてしまうのだ。
「大方その認識で構わん。だが、お前たち……いや、少なくともお前はまだ死んではいまい。集落の民や私と違い、確かな人間の魔素がその体から発されているからな」
「……?」
「対して、私の体を構成する魔素は、既に私のものではなくなっている。集落の民も同様、全てこの土地の魔素によるものと見ていい。最初の問いに答えるならば、いま私が発している魔素は偽り。故に現実の肉体は死滅していると考えられよう。今の私は大地の魔素が記録した情報体……即ち何ら亡霊と変わりがないということだ」
「………………」
「……あぁ、少々説明不足だったな。夢喰いの見せる夢は、厳密には睡眠中に見るような夢ではない。これは私の考察に過ぎんが、恐らくは土地に漂う魔素を用いて作られた……集合的夢意識とでも言うべきか。ここはそういった場所ではないかと考えている。……ここまでは理解できたかね?」
男の問いかけに、肩をビクリと動かすナズナ。その分かりやすい反応には、彼も思わず頭を軽く抑えてしまった。
「けっこう、喋るんですね。難しいこと、いっぱい。なんか、凄く、ウィルさんに似てるって思いました」
「……君ほど底の知れないオドを持つ人間ならば、簡単に理解できる話だと思ったのだが」
「…………幽霊さん。私は、何をすれば良いのでしょう」
彼女は、もはや男の話を理解することは諦めた。側にウィルが居てくれたならば……と、思わずにはいられない。
だが、この男が現状を最も理解しているのは明確。であれば、縋るしかない。幽霊であれなんであれ、この悪夢から脱出するためには間違いなく彼の知識が必要となるのだから。
「……夢喰いの魔力と土地の魔素で構成されたこの夢。脱出を望むならば、話は単純だ。夢喰いの認識していない土地に行けばよい」
「夢喰いの、認識して……いないばしょ?」
「因みに、夢喰いは陸上魔獣だ。ここまで言えば、さすがの君でも分かるだろう。……まぁ、それが可能かどうかは君の魔法次第だが」
「…………」
陸に巣食う魔獣が認識していない土地。
少女はゆっくりと、さざなみの鳴る方向……大河に目を向ける。
剣士の男、もとい幽霊の男の言葉を全て理解したわけではない。だか、自分がこの夢の世界で何をすべきか、何を指針として行動すべきかはなんとなく掴むことができた。
(……メナス河。どちらにせよ、渡らなければならないようです)
なぜ自分だけ繰り返しが発生するのか、夢の中の住人である姉妹らの目的は何なのか。依然として謎は残るものの、指針ははっきりと示された。
仮にここが夢の中であれ、現実であれ、河を渡らねば旅の目的地に辿り着くことはできない。やらねばならない事が明確になった反面、ナズナはその道の険しさに肩を落とす。
とうに陽が落ち、月が水面を照らす河辺。ナズナは男に別れを告げ、姉妹の家――仲間のもとへと帰ることにした。
ウィルは、上手く信用を勝ち取っただろうか。
……杞憂に感じるのは野暮だろう。ナズナが抱く印象からすれば彼は嘘を付けない部類の人間であり、素直な少年だ。少々堅物のきらいはあるものの、この場においてその生真面目さは寧ろ頼もしい。
対するはぶっきらぼうな船大工だが、今までの繰り返しを振り返るに、この二人は意外にも馬が合う様子であった。なんだかんだ、向こうも根はマジメなのだろう。
月の光を頼りに歩く彼女はかすかに微笑むと、若干歩幅を狭めるのであった。
※
「出発は明後日の早朝だってさ。"祝福の日"だかの前日になるらしいぜ」
「なるほど。で、ニケさん。ウィルさんは今どこに」
「そりゃ、夜通しで手伝うって言ってたからな。今も必死に身体動かしてるよ。僕? あぁ、とりあえずはまぁ、休憩というかね。ほら、夜更かしは明日の作業にひびくじゃない」
姉妹の家の居間には、ニケが居座っていた。
彼の話によると、ウィルと"姉"は船大工の小屋に籠り、船の完成を急ぐことにしたようだ。つまり、ウィルの説得は成功したということである。
(流石はウィルさんです!)と笑みを浮かべたナズナ。これは、夢からの脱出を目指す彼女にとっても都合の良い展開だ。イカれた儀式の前日の朝。前夜祭が開かれる前であれば、ミサや"妹"が長たちの手に渡ることはない。先手を打つという形で集落の住人たちを振り切ることが叶うのであれば、"姉"からしても乗らない手はないのだ。
(明後日、ミサちゃんも"妹"さんも一緒に、七人で河を渡る。幽霊さんの話によれば、"夢喰い"は泳げない魔獣なので……うん。いけます。きっと、今度こそ)
そーっと、深呼吸を一つ。重く脈打つ心臓の音を感じながら、彼女はこめかみに指を当て、強く押し込む。
悪夢からの解放は、近いと信じて。
「……ところで、ニケさんは休んでて良いのですか?」
「僕だって結構頑張ったのさ。でもほら、人間休みがなきゃダメになっちゃうからね。もちろん、許可はもらってるよ」
「…………気ままで羨ましいかぎりです」
ニケの緊張感の無さには、さすがのナズナも苦笑いを浮かべずにはいられなかった。
※
決行日の朝がやってきた。
前日の夜、「私も手伝います」と駆け付けたナズナの協力もあり、船は計画通り完成した。これには船大工や"姉"も喜びの表情を浮かべるのだった。
ウィル曰く、"姉"に悪意があるとはとても思えないのだそう。彼の言葉を信用していないわけではないが、対するナズナは曖昧な反応を返すことしかできなかった。
前々回の繰り返しの際、"姉"は実際にナズナ達に対して危害を加えている。
だが、ウィルの言葉も分からなくはない。そもそも本当に最初から嵌めるつもりであったならば、ニケに魔法を教えたり、わざわざ船大工の小屋まで案内する必要などないのだから。
数回にわたる繰り返しを経験しているナズナにとって、彼女の行動は実に不可解なのだ。
(…………)
だが、くどくど悩む時間もそろそろ終わりを迎える頃合いだ。
現在、ナズナは姉妹の家にいる。これからミサと"妹"を連れ、船大工の小屋に向かうのだ。他の四人は最終点検やらエンジン術式の動力テストが何やらで、既に現地へと向かった。
(やっと、やっと抜け出せます…………いや、最後まで油断はしないほうがいいですね。ここの長はぶきみな人だから、決して見つかってはいけません。じんそくにすばやく、ささっと小屋に向かわなければ)
「…………おーい」
窓から外を眺めていると、不意に背後から声が聞こえた。
「準備できたよ」
「……」
「さすがはミサちゃんと"妹"ちゃんです。手際がいいですね」
ナズナの目の前には二人の少女。
繰り返しの中で、"御嫁様"という役に強い関わりを持った二人だ。
「ふたりとも、私が守ってあげますから、なにも心配しないでくださいね」
「……守る?」
「とにかく私に付いてきて下さいね!」
「……」
何か言いたげな二人をよそに、ナズナは玄関の扉を開く。紺色の空のもと流れ込む風は未だひんやりとしていて、陽光が少しだけ恋しくなった。
であれば、尚更早く動かねばならない。真の陽を全身に浴びるためにも、はやく悪夢から覚めなければなるまい。念のため周囲に目を向けた後、どこか晴れない表情のふたりを連れ、金髪の少女は河畔林へと向かう。
※
早朝のすみれ色の光が、細い束となって地に降りる。あらゆる箇所に絡み付く蔦、朽ちかけた壁、こびり付く土の跡。どこか年季を感じる小屋を、三人の少女はじっと見つめていた。
船のある場所。目の前にある木製の扉を開け、早く中に入らなければならない。
ただ、ナズナは薄々と感じ取る。拒絶の果て、体に馴染んでしまいそうな香りが、今もまた目の前に漂っていることを。
(大丈夫……ですよね)
遠くから耳鳴りがする。
この感覚には覚えがあった。
恐る恐る扉を開け、小屋の中へと足を踏み入れる。出迎えはいない。皆、船の中で待機しているとの話だから、当然である。
扉を開けた直後、期待通りの光景が目に映り込む。人工物とは思えぬ威容を放つその船は、ナズナにとっては何度目にしようとも驚かされるものだった。永き時間を感じさせる造形と魔力。船は、間違いなく完成したのだ。
ナズナは背後にいるふたりに目を向け、声をかける。
「ミサちゃん、"妹"ちゃん。今からこの船に乗り込みますよ〜」
ふたりはそれに頷くと、前を歩く金髪の少女の背中を追った。
「…………」
甲板と岸壁を行き来するための板――船大工がタラップと呼んでいたそれを、ゆっくり、とてもゆっくりと、ミシミシ音を立てながら渡る。昨日手伝った際、最初は慣れなかったものの何度か渡った筈だから、ここまで警戒する必要はない。ただ、先ほどからねばり付くようなにおいが、彼女の心に不安の芽を植え付ける。
(…………まさか)
ナズナが甲板に出たとき、その不安は視界にて具現化した。
「…………っ!?」
決して広いとは言えない、木製の甲板。
黒く変色した床の上で、三人の男がぐったりと横たわっていた。
「…………うそ」
耳鳴りと共に眩暈が遅い、身体の自由が一瞬だけ奪われる。体勢を崩したナズナは狭い足場から落ちそうになるが、間一髪のところで免れた。
どこから出現したのか、ツル状の植物に身体を支えられることで、事なきを得たナズナ。それが可能な者は、一人しかいない。
「…………おねえ、ちゃん?」
"妹"が、咄嗟に声を上げる。
船の前方、操舵室からおぼつかない足取りで甲板へと歩く女性。
「……"姉"、さん? その、怪我は……」
彼女は身体中から血を流しながら、生気の抜けた目で三人の少女を見つめる。
「ごめんなさい……私のせいね。主落会は、ずっと私の行動を……」
甲板に上がった"妹"は、崩れ落ちた姉の身体を受け止め、支える。首と腰の後ろに手を回し、そっと下ろし、自身の膝の上に頭を乗せる。
全員が言葉を失う中、震えの混じった微かな嗚咽が、船上に生々しく響いた。
「……操舵室。中央の石に魔力を流しこんで。操縦のやり方だけど、魔法使いのあなたなら感覚で分かると思うわ」
そのような言葉を受けようとも、今のナズナにはとても理解し難い。
彼女の口ぶりから、集落の老人たち――主落会の仕業なのだろう。しかし、なぜ祭りの前日に襲われたのか。姉妹は本当に集落側の人間ではなかったのか。ウィルは、ニケは、なぜ死ななければならなかったのか。
――これは、繰り返しの一つ。魔物が見せる悪い夢に過ぎない。
剣士の口から明かされた言葉だが、ナズナはこの光景を機に不思議と、絡まった糸が解れたかのように、腑に落ちたのだった。なぜならば――
「こんなの、嘘に決まってます」
嗚咽を漏らす"妹"を、じっと亡骸を見つめるミサを、まだ何か言いたげな"姉"を置いて、操舵室へと向かう。
「…………」
部屋に散らばる肉片、恐らくは主落会の面々のものと思われるそれらがあちこちに転がり、壁にへばり付いていた。これが"姉"の魔法によるものであることは、想像に難くない。
彼女は先の言葉のとおり、中央に設置されている石のような魔法道具に手を添えて魔力を流し込む。
途端、船はゆるやかに身体を動かし、小屋の中から河へと発つのであった。
メナス河を渡る一行。
ナズナは、仲間の顔を見る気にはなれない。できることなら、全て忘れたい。そう願わずにはいられないから。
針路は今のところ問題ない。対岸は霧の向こうだが、真っ直ぐ進めばいずれ着く……即ち、夢喰いの認識する地の外へとたどり着くができるだろう。
順調だ。ウィルたちは犠牲となったが、これはあくまで夢の中。ナズナが夢から脱出し、現実でウィル達を起こせば良いだけの話である。
このまま魔力を止めずに進めば、必ず――
そう思った矢先である。
突如として傾く船体。
高波が甲板を襲い、室内は浸水する。
「……!? な、何がおこって……」
急いでその場から離れ、甲板に出たナズナは、絶句した。水面からそびえ立つ何か。ゆらりと不気味に動くそれが巨大な魔獣の首と気付くのに、さほど時間はかからなかった。
「……河の、悪魔」
"妹"は、掠れた声色で、確かにそう呟いた。
全長二十メートルほどの高さから船を見下ろすその魔獣は口を大きく開き、無数の牙を覗かせる。
「……あぁ、馬鹿ね。昔から、無駄だって……ずっと言い続けたのに」
「…………?」
「いまあいつが寝てて、本当に……よかったわ。本当、に」
息を漏らしながら、妹の膝の上で横たわる"姉"が呟く。以降、彼女が口を開くことはなかった。
※
「――っ!!」
ここまで来たのだから、諦める選択肢などありはしない。もう少しで、夢の終わりに手が届くのだ。
雷撃、火球、また雷撃。ナズナは自身の全力を絞りだし、魔獣へと仕掛ける。しかし、それらをもってしても、大した傷を与えることは叶わない。
そして遂に、魔獣が動き始めた。船ごと喰らう気なのか、巨大な口を開け、頭上から急接近してくる。
対するナズナは咄嗟に、空中に六つの魔法陣を描いた。
すると、そこから多数の蔓状の植物が飛び出し、魔獣の接近を妨害する。その様はまるで、植物で作られた網のよう。
これにより、一先ずは隙ができたかと思われた。だが、魔獣はナズナの想定を遥かに超える力をもって、絡みつく植物を噛みちぎってしまった。
あまりの暴力に、表情が歪む。
何か、何か手段はないのかと頭の中を回す。この状況下、考える気などとうに失せているのだが。
(もう、許して)
ひどく揺れる船上。
彼女は無意識のうちに空を見上げていた。
陽が昇り、これから朝が訪れる。
天から降り注ぐ輝きに、祈る。
(……許してください)
目を焼きつくさんとばかりに陽光を見つめる彼女。焦点が僅かにずれ、数秒後――黒く塗り潰された。




