57話 香華マーキング
「私は、なんてことを……」
月の光が、部屋の中に淡く満ちる。
少女は抜け殻となった黒髪の少年を背負い、自分の寝室へと運んだ。
数刻前のこと、少年の魔法の失敗を予感した少女は、発動を止めるべく咄嗟の判断を下した。その判断とは意識の強制遮断――即ち、"ぶん殴って気絶させる"ことである。焦燥が極まり、脳内がパニック状態に陥りかけた彼女には手段を選択する余裕などなく、魔法で巨大な植物の鞭を作り出し、彼の後頭部目掛けて打ち付けたのだ。
反射的な行動であり、当然ながら加減は出来なかったものの、そのお陰でどうにか魔法の中断は成功し、魂の乖離は阻止することが出来た。
――ように、見えた。
あれから数時間が経過したが、少年は未だ目を開かない。魂の乖離は本当に防げたのか。少年の意識は、何処を彷徨っているのか。確かめようのない現状に、少女の背筋はするすると冷えていった。
「…………」
花のように穏やかな彼女の心も、覆い被さった不安の大波に飲まれれば、ずるずると曝されてゆく。
平常な心が一片二片と散ってゆくたびに、張り裂けんほどの痛みが胸を抉った。半端な知識のもと教えを説くなど、愚行も甚だしい。ましてや、それが命に関わる事となれば、彼女の負った責任は計り知れない。
少女の目下すやすやと眠る旅人の少年には、大切な仲間がいる。彼らに対して、己が失態をどのように伝えれば良いのだろうか。
叶うならば一秒でも早く目覚めてほしい。そして、無事であってほしい。彼女はただ、そう祈るのみであった。
※
同時刻。
"妹"を探すべく集落の長の家を訪れたウィルとナズナは、未だそこに留まっていた。
「ナズナ、もうやめろって。お願いだから」
「いーえ。私は引きません。だって……」
眼光を鋭く走らせるナズナと、どうにか彼女を宥めんとするウィル。彼女の視線の先には、すっとぼけた様子を見せる老人――長の姿があった。ナズナは拳をぐっと握り締めると、彼女にしては珍しく、声を荒げ始める。
「お祭りはやってはいけません。中止しないと、とにかく大変なことになる…………気がするんです!」
「と言われましても……お嬢さん。これは古くから続く集落の素晴らしい伝統ですじゃ。それを中止せよと言われましても……せめてわけを教えてくれんかのぉ」
ナズナは必死に意を伝えんとするも、長は終始呆れており、まともに応対する態度を見せない。
また、かたやウィルにとっても、彼女が如何なる意図をもって声を荒げているのかは全く分からないゆえ、フォローしようにも出来かねる状況だ。
「だ、だから、えっと……あ、お告げ的な……? そういう夢を見た……みたいな?」
百年に一度の祭り。部外者が中止を望む理由など特段見当もつかない。例えそれが気に触ったとしても、他所の風習なのだから放っておけば良いのではないか。ウィルにはやはり、ナズナの心は読めなかった。
「ほほう、予知夢と来ましたか! その方、もしや何かしらの神聖な力をお持ちで?」
長が唐突にウィルへと目を向けたため、彼の脳内に緊張が走る。まるで飢えた烏のような鋭い眼力。どこか間の抜けた態度の中に、確かな狂気の色がじわりと映し出されていた。
そのような眼差しを向けられては、ウィルの冷静さにも揺らぎが生じるのは仕方のないこと。肩を僅かに竦ませた少年は首を横に振り、言葉を返す。
「い、いえ……俺はそんな話一度も聞いたことがな……」
「なんと。それでは、お嬢さんのおっしゃることは単なる妄言ということに…………」
「……? あの、よちむ……って何ですか?」
ウィルが口を開いた瞬間、長とナズナはそれぞれ個性的な反応を見せた。特に目をまんまるにしたナズナの表情には呆れたもので、少年は溜め息と共に問いに応じる。
「予知夢ってのは、簡単に言うと夢の中に未来の出来事が映し出されることだ。……ひょっとして、変な夢でも見たのか?」
「………………たぶん……それです!! これでスッキリしました。私、見たんですよ! 集落がとんでもないことになる夢!」
「ほ、本当ですかな、お嬢さん!?」
長がぐいっと目線をナズナに傾けると、彼女は間髪入れずに、首を縦に数回振った。正気を疑わざるを得ないほどの自信である。
「……まぁ、予知夢も量子学的に見ればただのオカルトってわけじゃないらしいけど、説得の根拠としてはあんまり……」
息を弾ませているナズナに対し、どうか落ち着くようにと促すウィル。だが、彼女の興奮状態はなかなか冷めず、その呼び掛けは結局のところ無意味に終わった。
過去の経験から基づいた潜在意識による予測演算か、第六感的なものなのか、或いは時間の概念を螺旋状とすれば、夢の中は覚醒時とは異なる時間の渦中にあると説く者もいる。ウィルとしては眇たる小石程度の理解度ではあるが、興味を持たぬと言えば嘘になる現象ゆえ一笑で片付けることはさすがに憚られる。ただ、勿論狙って拝めるような現象ではないため、正直なところ彼女の話は全く当てにできない。どうにか話を上手く逸らせないかと額に皺を寄せていると、唐突に長が口元を緩めた。
「ふむ、ではこういたしましょう。明日の朝、再び此処にお越しくださいな。その時、ワシはその日に起こる出来事についてお嬢さんに訊ねましょう。お嬢さんの予知夢が誠のものと示された時、ワシも真剣に考えてみるとしましょうぞ」
「いいですよー? 受けてたちます」
「ちょ、ちょっと待て。話がおかしな方向に展開してる! 俺たちの目的はあくまで対岸に渡ることで……」
制止の声を上げるも、それはあまりに遅かったようで、ナズナは少年の言葉に耳を貸す様子を見せない。
この地を訪れるにあたり、ウィル達の目的を果たすには集落の人々の協力は必要不可欠であろう。乗り物を用いて河を渡るとあれば、目の前に居る長の許可も得たい。そう考えれば、現状が望ましくない事態であることは間違いない。
祭りの中止にこだわるナズナの思惑など、ウィルにとっては知る由もない。一つだけ明確であるとすれば、ナズナが明日の出来事を正確に予知しなければ、集落の力を借りることが困難になるということだ。最悪の場合、対岸に渡る術は完全に失われる。
「…………」
冷や汗を流すウィルとは対照的に、ナズナは随分と余裕のある表情だ。彼女のその自信は何処から来るのか。ウィルはナズナの"全て"を理解しているわけではなく、彼女自身の目的や魔法など、寧ろ謎が多い存在であると認識している。であれば、彼女は本当に予知夢を見ることができるのか。
ナズナの力が長の信頼を得ることに繋がり、対岸へ渡ることが出来るならば願ってもないことである。しかし、この集落には他所から来た人間を忌み嫌う者も少なくないのだ。
ウィルは、笑みを浮かべる長に向かって鋭い目と共に問いかける。
「もしナズナが予知夢を外した場合、俺たちはどうなりますか」
その言葉を受けた長は指で顎を抑え、「ふむ……」と俯いた。
少年の呼吸は、僅かに早まっていた。
昨日今日訪れただけの部外者が長を誑かし大切な行事の中止を迫ったとあれば、この集落の人々に限らずとも、集団に属する者からすれば面白くない話だ。
ウィルが危惧しているのは、集落の民からの制裁だ。よそ者に寛容だとか、非難しているだとか、そういった感情を持ち出す以前に、ナズナの行動は集落の敵となり得るものだった。集落の民を敵に回した場合、追放で済むならば幾分かマシである。受け入れ難いが、昼間ウィルが受けたような理不尽な暴力が四人に振るわれ、苦しみのなか命を落とすことが最も自然な結末だろう。
彼の苦悩が伝わったのかは定かではないが、隣に座すナズナが先ほどから視線をキョロキョロと泳がせている。
(…………)
その様子をいち早く察してしまったウィルは、心情を表に出さないよう必死に堪える。意外にも掴みどころのない彼女だが、今はその限りではない。
彼女は、確実に焦り始めていた。
「ご安心なされ。もしお嬢さんの話が出鱈目であったとしても、ワシらはどーもしませんぞ。間違っても責め立てようなどとは思いませぬ。ただ、ワシらは祭りを仕来り通り行う。それだけの話でございますぞ」
「……それならあんしんです〜」
長の言葉を聞き、小さく呟くナズナ。
そんな間抜けを横目に、少年は疑り深い目で長を睨み、息もつかずに問い掛ける。
「何故ですか? 先の発言、あなた方にとっては看過出来ないはず。ふらっと訪れただけの旅人が、大切な行事を妨害しようとしているんですよ。本来であれば、そんな思想を持つ人間をこの地に留まらせる理由などないですよね」
老人に向けられた少年の目は、揺れていた。
旅人を受け入れる者も居れば、排他的な者もいる。この集落は、そんな彼らが共存する地だ。故に、長たる目の前の老人はその両方の思想を理解し、尊重している人物であると見ていた。寧ろ、そうでなければならない。
「お客人は大変聡いお方ですな。ワシは感心致しましたぞ! ふぉっふぉっふぉっ」
「…………答えになっていません」
長を名乗る老人は、あまりにも寛大であった。その様子が、表面を覆う姿勢とは相反して底知れぬ違和感を感じさせるのだ。
「やや、これは失敬。言い方を変えますと……お客人たちからは、まるで害意を感じませぬ。先ほどお嬢さんが集落の祭りについて意見すれど、その言葉には敵意の欠片もなかった。よそ者に寛容な者が居れば、疑問を持つ者もいる。人の数だけ沢山の思想があるのじゃ。じゃから、ワシはたかだか考えの違いで追い出すことなど決してしませぬ。人々と向き合ってこその長であり、集落という"こみにてぃー"なのじゃ」
「…………」
ウィルは、押し黙るほかなかった。長が静かに、されど熱く語った信念は、有無も言えぬほどに素晴らしいものと感じたからだ。長であるための、相応しい器。
もはや、疑念を抱くことすらも失礼にあたるのではないかと、彼は深く息をついたのだった。
※
「……ナズナ。一応聞くけど、自信のほどは?」
「な、な、何のことですー?」
「とぼけても無駄だ。……予知夢のことだよ」
「あ、あぁ〜。そ、そうですね! ひ、久々に本気出しちゃおっかな〜! なんて」
長の家を後にした二人。空は暗く染まり、所々に設置された行灯が道を仄かに照らしている。
夜の平原を駆ける涼しげな風。微かに耳に触れる河の音を感じながら、ふたりは姉妹の家を目指していた。
因みに長から貰った剣だが、家を出る直前、ウィルは丁重に返却した。収納の魔法で亜空間に仕舞える物体は一つのみ。ウィルの収納スペースは既に埋まっているため、重たい武器を貰ったところで持ち運ぶことができないのだ。
ならばせめてもの代わりにと、見るからに高級そうな茶菓子を渡されたため、二人は不承不承ながらもそれを頂いたのだった。
「……ほんとは予知夢なんて見れないんだろ」
「え? い、いや〜、狙って見るのは難しいかな……とは思いますけど…………でも、ここの夢をみたのは本当ですよ! なんか、すっごいリアルでよーく覚えてます」
「………………こりゃ全く期待出来ないな」
「あ、諦めるのはまだ早いですよ! きっと、気持ちよ〜くねれば、たぶんまた見れるはずです!」
「…………」
ウィルはわざとらしく肩を上げ、歩幅を広げる。
「そう、きっと見れます!」などと一人で意気込むナズナであったが、先を行く彼の呆れ果てた態度に気付くなり、慌てて駆け始めた。
「もー! 信じてくださいってば! 今日は全力で寝てみせますからー!」
少女の声は、星々煌めく夜空へと虚しく消えていった。




