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蜃気楼の岬から  作者: ピンギーノ
一・三章 幻想河の遺歌(中)
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52話 枕元にて微睡む

 穏やかな温もりを含んだ空気が、身体中を柔らかく包み込む。有り余るほどの心地よさと、ふわふわとした肌触り。辛いことは考えず、今は楽になれ、と告げられている気さえした。彼はその感触に身を任せ、再び意識を深部に向ける。


 ざあざあと、水が蛇口から勢いよく流れ出る音。トントントン、と包丁が野菜を刻む音。ぐつぐつと何かを煮込む音。


 味噌のような香ばしいかおりが鼻に触れた瞬間、少年の目は薄らと開いた。

 突然、頭の奥がズキリと痛む。ひょっとして寝違えたのだろうかと憂鬱が頭を掠めるも、その不快感は腹の底から鳴り響く緩慢な低音によって掻き消された。


 (……腹、減ったなぁ)


 いま少年の胃の中で暴れ回っている不届き者は、耐え難き空腹感。この調子では、次に何かを口にするまで落ち着いてくれないだろう。しかし、此処は無慈悲な異世界だ。一時の空腹さえ耐え凌げぬようでは、この先を生き抜くことなど到底叶わない。

 少年はそう自らを戒めると、再び毛布を被り、微睡みを呼び寄せる。




 「――っ!?」


 眠りにつく体勢に移りかけた瞬間、頭の片隅が僅かな違和感を捉えた。少年はハッと目蓋を開け、飛び起きる。


 「ここは……?」


 少年は辺りを見回すも、彼の精神状態は徐々に慌ただしく脈打ち始める。というのも、自分を囲うこの光景には、全く見覚えが無いのであった。

 眩い光が窓から差し込み、部屋中を暖かく照らしている。見たところ何処かの寝室だろうか。木製の壁や床に目を向けていると、自身の呼吸の音を感じ取れる程度の落ち着きは取り戻せた。

 少年は深呼吸をし、冷静になった頭で、絡み付いた違和感の糸を一本ずつ解かんとする。




 (まず、ここは何処だ? 俺はなんでこの寝室で寝てたんだっけ。確か俺は皆んなと歩いてて、やっとメナス河らしきものを見つけたんだ。畔まではまだ距離があったけど……って、あれ?)


 ふと、彼は顔を(しか)めた。


 (まったく……思い出せない? まず、どうして俺はここに来れたんだ? メナス河を見つけたのは良いが、それ以降の記憶が無くなっている。そんなこと……あり得るのか!? そうだ、ナズナは何処にいる? ニケ、ミサ……皆んなは一体どこに)


 隣に居た筈の彼らの姿は見えず、孤独な時が一秒一秒と過ぎてゆく。魔獣による罠か、或いはローグリンで受けた幻術の影響が残っているのかと模索したものの、現状では判断がつかずキリが無い。

 有耶無耶な心境のまま立ち上がり、左手に見える引き戸に向かう。




※※※


 「目玉焼きか卵焼き。旅人さんはどっちが好き?」


 「……っ!?」


 突然話しかけられたものだから、思わず肩をビクッと弾ませてしまった。戸を開けた先は、先の寝室よりも広い空間だ。

 右手に見えるは玄関。アンティーク調の扉が、木を基調とした部屋の雰囲気とは良くも悪くも不釣り合いで、妙に目を引く。左手に見えるは二階へと続く階段。見たところ、こちらも壁や床と同じく木製だ。

 そして、正面。台所に立つその少女は料理に夢中になっていると見たが、どうやら甘かった様子。なるべく慎重に戸を開け、決して音を立てまいと努めたものの、ウィルの行動は筒抜けだった。


 (…………)


 多少慌てはしたものの、すぐさま冷静さを呼び戻し、瞬時に思考を切り替える。いま取るべき行動は二択。少女が魔獣である可能性を考慮して右の玄関に飛び込むか、少女が自分の身を助けた可能性を信じて言葉を返すか。


 「……ぷぷっ、さすがに驚きすぎだって。あとさ、急に顔をしかめるの面白すぎなんですけど! なんかこう、ふふ、じわじわ来るわ」


 「………………」


 片手で口元を隠し、堪えきれない様子でぷるぷると身体を震わせる少女。ウィルは決してふざけているのではなく、生死がかかった状況に必死で向き合っているつもりだ。そんな彼には、何がそこまで可笑しいのかが理解できない。少なくとも、面白おかしく笑いもの扱いされる筋合いはない。

 少年は無性に苛立ち始め、語調を強めて言葉を投げ返す。


 「……まず君は何者で、ここは一体どこなんだ?」


 「わ、ちょっとキレてる。それよりさ、あたし今からもっかいキミを驚かせるからさ、またさっきのヤツやってよ! 肩をビクッ! ってやってから、急にキリッ……とした表情になるやつ」


 「…………あのさ、初対面の人に向かってその態度は失礼じゃないか? 俺は今真面目に聞いてるんだ。だから、そっちもちゃんと答えてほしい」




 少女の第一印象は、最悪の一言に尽きる。彼女の態度には、元の世界の嫌な記憶を刺激するものを感じたからだ。

 だが対話を進めていく内に、彼女の性格は思いのほか素直で、少なくとも嫌悪の対象として見るのは間違いであることに気付いた。彼女の話によると、この場所はメナス河の畔であるとのこと。目的の場所にまた一歩近づいたことは事実だが、心は妙に晴れない。やはり、三人の姿が見当たらない現状が彼の精神を揺さぶるのだ。




 「で、結局どっちが好きなの?」


 「え、な、何の話だっけ」


 「目玉焼きか卵焼き」


 「え、あ、そうか。今は……目玉焼きがいいかな」


 「ん…………もーちょいで朝ごはんできるから、それまでテキトーにつくろいでて!」




 再び料理に取り掛かる少女の背中を横目に、ウィルは思考の波に意識を混ぜる。

 疑いを解くのはさすがに早計だろうか。しかし、彼女の振る舞いはあまりにも人間味に溢れている。


 本物の人間と認めるべきなのだろう。判断を遅らせれば、迷った分だけ無駄な時間として流れゆくことは理解している。その時間が伸びれば伸びるほど、判断を誤った際には取り返しのつかない事態が待っている。

 しかし、魔獣という未知の存在がどうしても決断を阻害する。ウィルは、自身の疑り深い性格を強く恨むのだった。


 少女が朝食を作り終えたと同時に、玄関から一組の男女の姿が見えた。




※※※




 ニケと少女の姉が加わり、賑やかな朝食の時間が訪れた。"姉"の人柄は妹のそれとは異なり、お淑やかで上品な女性である。ミサが二階に居ることを知り、また幼馴染のニケと再会し、ほっと胸を撫で下ろすウィル。だが、彼が料理を口にすることはなかった。ナズナの行方が不明であることを知ったからだ。

 彼は姉妹の家を飛び出し、彼女を探さんと集落の広場にて手当たり次第に聞き込みを開始する。が、しかし――






 「……ぐぅっ……………!? ……ぁ」


 「穢らわしいよそ者が。いや、これァ集落の仇者(アダモノ)じゃな。この地に土足で踏み入り、終いにゃ集落の人間を誑かすときたもんだ。あの忌まわしい剣士といい、どうして今になって湧くのかのォ?」


 叩き付けられ、踏み躙られ、土に塗れる。

 精神を形作る外殻が屈辱に歪み、今にも耐え切れずに押し潰されそうだ。


 集落の住人と思わしき老爺と老婆に、大男がひとり。彼らはウィルを"よそ者"と見做し、一方的な暴力をもって排斥せんとした。大男の脚部が少年の身体を球のように転がす。化け物じみた魔力とそれに相反するような無垢な眼差しには恐怖を覚え、抵抗する気力が奪われる。何度も何度も地面に叩き付けられ、ねじ込まれ、呼吸の自由すら許されない生き地獄。周囲の人だかりが少年に手を差し伸べることは、一度たりともなかった。

 暫く遊ばれた後、全身の激痛で視界が霞む中、さる老人の声が遠方から聞こえた。ウィルをよそ者と非難したものとは別の、"おさ"と呼ばれた老人の声である。

 今日から数えて四日後、その日は集落にて盛大な祭りが催される"祝福の日"。旅人である自分らも気兼ねなく参加すると良いとのことだが、今の自分の姿を見て何故平気な顔でそれを告げるのか。


 一片の疑念が降り立ったと同時に、ウィルはそのまま意識を手放すのであった。





※※※






 目覚めた少年の傍には、"妹"の姿があった。茶番のような短いやり取りを交わした後、少年は彼女に連れられ、ニケや"姉"の待つ食事場に通される。

 少年を見つめる二人の表情は、どこか優れない。


 自分は、一体何をしたいのだろうか。

 やる事なす事空回り。恩人である姉妹にはあろうことか礼を欠いた挙句、余計な心配をかけてしまった。ミサとはまともに会話することもままならず、ニケの優しさも無下にした。ナズナは未だ見つからない。

 ローグリンの騎士は言っていた。自らの意志を曲げてはならないと。あの状況下では、そのお陰で仲間の足を引っ張るという最大の屈辱に見舞われた。だが、今はどうか。


 (少なくとも意志は貫いている。俺は、皆んなとメナス河を越えるんだ。そのためだったら何でもする覚悟を決めた。昨日だって、今朝だって、意志を曲げずに動いた筈だ。…………でも、何も変わらない。それどころか、何故かこの間みたいに皆んなの足を引っ張ってる。どうして上手くいかないんだ? 自分が悪いのは分かってる。でも、今こそ俺が行動を起こさなきゃ駄目じゃないか。こうしている内にも彼女は……)


 目蓋を薄く開き、視線を泳がせる彼の意識は、自己への肯定と嫌悪の狭間にあった。

 この不明瞭で燻んだ感情は、折り悪く直ぐに見抜かれる事となる。というのも、そのテーブルにはニケと"姉"の他にもうひとり、彼らの向かいに座る旅の剣士が居たのだ。大国オムニスの依頼で、とある魔獣を討伐するべくこの地に訪れた彼だが、ウィルから見れば空っぽな人物という印象を漠然と抱く。しかし、そんな彼だからこそだろうか。剣士の言葉はまるでウィルの心情を見透かしたかのように次々と放たれた。

 悲観的で、希望など端から手放したと言わんばかりの目だ。この男の表情には、どこか自分の心象との重なりを覚えてならない。それがどうにも不愉快で、遣る瀬無くて、自分が惨めに思えて堪らなかった。

 堪え切れずに食事場を後にしたのは、剣士どうこうというよりも、今の自分を他人の目に晒すことに対する自衛であったのだろう。








 外に出てどうする。

 虚を求め、また空に縋るのか。


 自答の末の解は曖昧だった。心の中に答えがあるならば、彼はとうに迷いなど絶っている。


 家屋の群れから離れ、草花の傾斜をのぼる。

 生暖かい風が揺らす、緑の水面。


 ――見渡す限りの草原。想定通りの光景を前に少年は大きく息を吸い、そっと力を抜いた。




 「………………!?」


 想定外があるとすれば、ただ一つ。


 「ど、どういうことですかぁ!?」


 「……?? な、ナズナ?」




 視界の中心にて、見覚えのある金髪の少女が目を見開き、こちらをじっと覗いていた。

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