05話 異邦人
ただひたすらに、走る。
冷たい風吹く夜の闇を。月の光が照らす草原を。
獣の呻きはいつの間にやら過ぎ去り、既に危機は脱したと見られた。
一行は安堵して、崩れるように座り込む。
ただ、危機を切り抜けたは良いが、一呼吸置ける間ができたからこそ、皆の心境は再び大きな不安に侵されてゆく。
周辺の景色に目が慣れ始めて寸刻、急激に怖れを膨らませたウィルは、掴み掛かるような勢いでナズナに詰め寄った。
「......俺たちは何を見た? このやたらと広い平野はなんだ? 学校や皆んなの家は何処にある!? 何でもいい。とにかく知ってることがあるなら教えてくれ。日も暮れているし、早く帰らなくちゃいけないんだ」
「......え、いや、実のところ私もよく......あの、少し落ち着きましょう! わけが分かんないのは私も同じですから!」
「いや、だってさっきまで皆んな学校にいたんだ。でも何故か急にこんなことになって......逆に落ち着けるヤツの気が......っ!?」
少女に向けてーー否、もはや誰に対して言葉を発しているという訳ではない。彼はただ、不満を吐き出したかったのだ。無理に気持ちを抑えて溜め続ければ、いずれ心が崩れ始める。そんな予感を意識の外で感じ取ったのである。
しかし、さすがに自暴自棄も度が過ぎていたのか、戸惑う少女を前に獣から与えられた傷がじりりと痛み出した。あたかも、罰が与えられたかのように。
「......ウィルさん、脱いでもらっても?」
突然何を思ったのか、少女はウィルの着用している服を掴み始めた。そして少しだけ申し訳なさそうに、その手を上下にぶらぶらと動かす。
「......」
限界まで熱された金属が冷水に投げ入れられた。少女の言葉を耳にした彼の心境は、そう形容せざるを得ない。その一言は、あらゆる不満を置き去りにするほどの衝撃を与えたのである。
彼女の指示内容そのものは概ね把握したが、その意図は依然として要領を得ない。しかし窮地からの脱出に大きく貢献した彼女は、実質命の恩人のようなもの。拒否をするのも憚られるゆえ、ウィルはやむなく、流されるままに上半身の衣服を脱いだ。
その光景を何となしに目にしたミサは思わず、顔を逸らす。
「......ミサさん。意外な反応ですなぁ。男の身体なんて、僕ぁてっきり見慣れているとばかり......」
「......きもっ。次に何か言ったら殺す」
彼女の初々しい反応をニケは面白がってからかうが、すぐさま凍りつくような目線を横目で向けられ、萎縮してしまった。
一方でナズナは、肩に掛けている汚れた鞄から野草のようなものと、石造りの小ぶりな道具をいくつか取り出した。そして、野草を擦り潰してウィルの傷口に塗る。
「いででででで!」
ひょっとして薬草の類いだろうか。野草の成分が傷口に染み込み、とてもしみる。その痛みから、ウィルは思わず悲痛な声を漏らした。
情けなく叫ぶ彼を横目に、金髪の少女はひたすら手を動かす。ポーチから包帯を取り出し、ウィルの傷口を塞ぐように、胴体に巻きつけた。その手際の良さには、ニケやミサも思わず目を丸くする。
「......助かった。あと、さっきは変なこと言ってごめん」
ウィルは、少女に感謝の意を示す。その心が伝わったのか、彼女は笑顔で左手をひらひらと左右に振った。その穏やかな振る舞いにより、三人は場の雰囲気が幾分か和やかになるのを感じ取る。
ふと、左手に違和感を感じた。
恐る恐る手を目の前にかざすと、どういう訳か、知らず知らずのうちに指輪らしき装身具が小指に着けられていたことに気付く。
「この指輪は......?」
「あのいせきの、私が最初にいたところに落ちていたものです。ウィルさん達が倒れたときに、ものは試しではめてみたところ......皆さんようやく落ち着いてくれたんですよ」
あの場で倒れ込んだのは自分だけではなかったのかと、ニケとミサの方向に目を向けるウィル。
「ぼ、僕たちも意識をうしなったんだよ。......こ、この指輪はナズナちゃんが填めてくれたんだね!」
視線を向けられて察したのか、ニケは右手を高々と掲げ、小指に填められた銀色の指輪を見せつけた。遠目ゆえに細かい模様などは確かめようもないが、ナズナの言葉通り、自分の指輪と同種のものと見受けられる。ミサの右手にも、よくよく見ればニケと同じく銀に光る指輪があった。
(まてよ? となると、ナズナは意識のない三人を平野まで運んだってことになるよな。常識的に考えておかしいけど......魔法なら可能なのか?)
「私も色々聞きたいこととか、確認したいことはありますけど.....ひとまず置いといて、とりあえず安全そうな場所を見つけてからにしませんか?」
だが、いつまでも悠長に休憩するわけにはいかない。次は、いつ獣が襲い掛かってこないとも限らないからだ。また、あの獣より恐ろしい存在と出会わないとも断言できず、その時こそ皆は命を散らすことになるだろう。それを理解した三人は、彼女の提案に賛同の意を示した。
一行は息を整え、再び歩き出すことを決意する。手足が妙に重く感じるが、恐らく疲労の蓄積によるものだ。心に生じる臆病を余さず振り払い、今はひたすらに歩みを進めるのであった。
幸いあれ以降大きな脅威に遭遇することはなかったが、夜も更け、辺りは更なる深い闇に覆われている。それゆえ一行は眠りにつける場所を探すことにした。
「お、おい。あれは......家じゃないか?」
それからややあって、炎の明かりと人工的な古めかしい建物群を発見したニケ。曇り、淀んだ貌も一変、彼は嬉々とした表情で三人の下へと向かい、それを知らせる。
一行は人が住む痕跡を発見したことに心を緩ませ、その集落に向かって歩き出した。
ーー見張りだろうか。長槍を持ち、民族衣装を纏った二人の男が立っている。ナズナ以外にも人が存在することを確認したウィルは、脇目も振らず駆け寄り、対話を図る。
「えっと......すみません」
「......!! 何者だ? こんな夜更けに現れるとは、さては只人ではあるまいな」
ガタイの良い男は、明らかに不審な目で四人を見下す。
「いえ、決して怪しい者ではありません。その、少し道に迷ってしまって、もしご迷惑でなければ一晩泊めていただきたいのですが......」
詳細は伏せつつ自らの置かれた状況を説明し、頭を下げて頼み込んだ。だが、男たちの表情に好意的な変化は見られない。それどころか、より訝しむような色が浮かぶ。
「これは、判断を仰ぐ必要があるな」
痩せた男が冷酷な眼差しをこちらに向けた次の瞬間、二人の男は手にした槍を構え始めた。
これ以上の発言は死に値するということだろうか。どうやら一行は招かれざる客とみなされたようで、誤解を解くべく口を動かそうとするも、男が放つ圧力によって声を発することが躊躇われる......のみならず、身動き一つさえ取れなくなってしまった。
沈黙が続くこと、およそ五分。すると集落の奥から、松明を手にした集団がやって来るのが見える。その数、およそ十名ほど。彼らが浮かべる表情は、どういう訳か生気が失われているように感じられた。彼らはウィルたちの目の前に立つと、無言で彼らに向かって詰め寄る。
「や......めろ......っ!」
固く綯われた縄でウィル達の両手を拘束し、布でその目を隠す。無論抵抗するも、この大人数の前ではまるで歯が立たず、容易く押さえ込まれてしまった。
そして、皆は流れるように集落の奥へと誘われてゆく。
暗闇の中を、進む。自分が何処にいるのか、何処へ向かっているのかは分からない。この状況で唯一把握できるのは、集落の民と思われる集団に連れられているということのみ。
集団の足が止まる。そしてガラガラと戸を開く音。どうやら、民家に案内されたらしい。この中で一体何をされるのか。何の為にここまで連れられてきたのか。尽きぬ疑問と多大な不安に駆られ、ウィルは吐き気を催した。
ーー気付けば、薄暗い部屋に放り込まれていた。目を覆う布は払拭されたものの、両手首を縛る縄は未だにその役割を果たし続けている。
部屋の中心には背の低い円型の机の上に淡い光を放つ三本の蝋燭。畳の床の上で、四人は正座を強制されていた。
暫くすると、四人の集落の民が部屋に入って来た。先頭に立つのは老婆。他の三人は面を着けており形相は不明だが、その振る舞いからして、どうやら付き添いのようである。
老婆が机の前に座り、ナズナを向かいに座らせるよう指示する。彼女は、緊張と不安の入り混じった面持ちで、それに従った。
「思っていたより遅かったじゃないか。魔獣の群れにでも襲われたかね? それとも......」
ナズナがそこに座るなり、老婆は一人一人に目線を送り、告げた。それは、まるで一行が此処へ来るのを知っていたような口ぶりである。
「いや、長話は明日にしよう。今は一刻を争うからね。着いて早々悪いが、あんたら三人にはこのまま眠ってもらうよ」
突然、会話の途切れたタイミングで老婆が右手の人差し指を振る。すると、面を着けた付き添いが一人、机の前に出た。そして、一本の蝋燭の炎を静かに吹き消す。
「ーーーー!!」
長い間正座をしていたニケが、突如として苦しみ出した。しかし暴れる間もなく、彼は抜け殻のようにドサっと崩れ落ちる。
部屋中に、一気に緊張が走る。
短い悲鳴を上げるミサと、立ち上がり、老婆に向かって何かを訴え続ける金髪の少女。彼女の必死の声は、どうしてか聞き取ることができなかった。
ウィルは倒れた幼なじみを見て激昂し、集落の民に体当たりを仕掛けようとするも、謎の力の働きにより、指の一本も動かすことができない。
呆れたように、老婆が再び右手の人差し指を振る。付き添いが前に出て、蝋燭の炎を一つ消した。
(ーー!?)
途端、息が詰まる。体中が熱くなり、強い目眩が引き起こされた。視界が気味の悪い青色に染まり、少女の悲痛な声が遠のいてゆく。
ウィルは、支えを失った人形のように倒れ込んだ。
その様子を目の当たりし、言葉を失うナズナ。
残る一本の蝋燭も吹き消され、部屋の中は完全なる暗闇に閉ざされる。